出産前後の痔にはご注意!

日本テーラワーダ仏教協会のスマナサーラ長老の著書に「般若心経は間違い」があります。特に「空即是色」この言葉の扱いについての指摘が印象に残りますが、般若心経肯定派は、この意見に対してどういう反論がありますか?

色即是空、これは上座部仏教でも言われることで経典にも根拠を求められるそうですが、空即是色、これが事実無根の創作だろうということです。

いろいろな角度からのご意見お待ちしてます。

返事は遅れると思いますが、どうぞ宜しく。

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A 回答 (50件中1~10件)

色即是空



人間世界の事ですね

例えるならば現実に人間が作り出した(上塗りしてきた教え)が色々あるが即ちこの世に変わりはない、人間が作り出すもの妄想も一切が現実である、単純にこの世の事です。

事実無根であろうとも空即是色なのです。
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一番高いところの神や霊は人間界におけることは関心がないと思います。


すべての宗教は比較的高いレベルの神というか霊の働きから
人間が作ったものですので、限界はあります。
間違いといってしまうと宗教戦争になってしまいます。

とにかくいいところは参考にするという考えがいいような気がします。
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そもそも、お釈迦様から直接聞いた話しとして伝えられた言葉でなければ、


本物の経典ではないとの立場をとっておられるようですから、
その延長としてのご発言だと推察します。

しかし、正確な言い伝えだけを金科玉条のように取り扱う必要はないと考えます。
お釈迦様は、亡くなる前に、自燈明を説かれ、
これからは、各自、自分の道を照らすよう、言い残されていると聞きます。

如是我聞(私はこのように聞きました。私の心にはこのように響きました。)
で始まる経典が、次から次へと産み出されてきたからからこそ、
仏教の教えは、その時々の状況の問題に答えることができ、
活きた教えとして、現代まで続いてきたのだと考えます。

仏教だけでなく、世界的に広まり、今に伝えられている宗教は、
いずれも、一字一句、経典を金科玉条のように固定的に扱ってはおらず、
その時々の状況に答えられるよう、宗教指導者が解釈しなおしてきました。

経典については、間違っているかどうかではなく、
どう解釈するかを問題にすべきだと考えます。
創作であっても、お釈迦様の本意を解釈したものであれば、何の問題もないと思います。
ただ、それを「仏教=お釈迦様の教え」とする事に抵抗を感ずる方がいても仕方ありません。
私は、経典に精通した方が、「自燈明」の教えに基づいて創作されたのであれば、
それも、立派に仏教に連なるものだと考えます。

参考URL:http://web01.joetsu.ne.jp/~dimen/page040.html
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言葉が足りませんでした。


色と空の関係は、一対であり、かつ、表裏一体と言うことです。
それ故、「色即是空、空即是色」は、同じ事を強調しているにすぎません。
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 「色」と「空」が一対という意味に解釈すれば、どちらでも良い事です。


 アマチュアの宇宙論愛好者として、一つの解釈をご説明致します。同様の解釈をなさる方がいらっしゃるかどうかは分かりません。判断は、これをお読みになる方にお任せ致します。

 ご存知のように、2008年、南部陽一郎博士がノーベル物理学賞を受けました。博士が初めて提唱した理論の一つに「弦理論」があります。紆余曲折を経て、様々な研究者が修正を加えながら発展し、「超弦理論」となり、現在は「M理論」に発展しています。

弦理論 :http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A6%E7%90%86% …
超弦理論:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%85%E5%BC%A6% …
M理論 :http://ja.wikipedia.org/wiki/M%E7%90%86%E8%AB%96

 私たちがいる世界は、縦、横、高さの三つの次元からなる空間に、一つの時間が加わった四次元です。M理論では、この他に七つの次元があると言っています。

 そして、この四次元と七次元は、元々は一つの11次元世界でした。これが二つに分かれた時に起きたのが「ビッグバン」と言う宇宙創造です。(ここまでは、物理学の理論です。ここから先は、私が信じている一つの想像ですので、そのつもりで、お読みください。)

 この一対の関係は、ちょうど、「色即是空・空即是色」と同様です。
 私たちが認識でき、常に移り変わっている四次元が、「色」に相当します。
 直接は見る事も聞く事も嗅ぐ事もできないけれど、諸法則の根源が込められ、宇宙に普遍的に広がり、変わることがない七次元が、「空」に相当します。
 私達がいる宇宙全体の過去から未来まで無限とも思えるくらいの広がりを持っている四次元ですから、七次元は、それよりどんなに大きいかと思われるかもしれませんが、七次元には四次元的大きさはなく、極小の状態で四次元のあらゆる所に分散し、行き渡っています。

 この四次元と七次元の関係は、言葉だけでは説明しにくいので、参考までに下記のURLの図解説明もご覧ください。

表裏一体の色と空:http://web01.joetsu.ne.jp/~dimen/page014.html

 如何でしょう、現代物理学の先端理論と「色即是空」は、とても似通っていますね。
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まっておりました、この質問。


スマナサーラ長老は何回もお会いしたことがあり、
尊敬もしておりますが、この件に関しては間違っておられます。

実際には般若心経は、スマナサーラ長老が普及に努めておられる、
ヴィパッサナー瞑想の薦めです。

観自在菩薩とは、観すなわちヴィパッサナーが自在な修行者で、
般若波羅蜜行とはヴィパッサナー瞑想修行の意味です。
そして最後のマントラは、ヴィパッサナー瞑想を実践修行せよという、
強い指導です。
詳細はこちらをお読みください。
http://cyberbaba.blog57.fc2.com/blog-category-1. …

参考URL:http://cyberbaba.blog57.fc2.com/blog-category-1. …
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言語の限界を熟知し、言語を超越した悟りの境地にある者にとって、原典準拠に執着したり、幸福と不幸という二項対立表現にまだ囚われている一部の回答者を見ると、まだまだ修行が足りないなと思えますよ。



学者のような小乗側の理屈偏重姿勢が、批判されて、大乗に至ったことが、現在においても再現されたようです。衆生救済にとって、字句のどうのこうのは関係ありません。小乗支持者の方々、執着心から自由になってくださいね。
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#32、#34、#36です。



あれからしばらく経ちます。
私もスリランカから伝わるテーラワーダ仏教についての本を、
色々読んでおりますし、
この間『ブッダの道の歩き方』という本を購入しました。
スマナサーラ長老は人柄もよく母親想いで共感が持てました。
はっきり正しく伝えたいとされることは素晴らしいと感じる次第です。

ただ、この質問の回答については、
チベット仏教の代表者である
『ダライ・ラマが語る般若心経』などの書籍で、
十分のことであると思います。
ご自分で読まれて色々考えてみてください。

さて一般の人が命を殺生をしながら生きるその身でありながら、
何の真理を悟れるというのでしょう。
ただ八正道の心掛けで歩むべき人生です。
書籍において、この方がそう強く述べられているのには意味があると思います。
それを推測し仏教の教えに当てはめようとすることもまた邪を生みます。
本当に気になるならここではなく、
直接問われれば良いことです。
(わたしも一度お会いしたいところです。)

結構、何度もここで問題にされているのは
「空即是色」の境地についてですが、
これは「仏性」とか「涅槃」ということにも関わってきます。
仏教が生まれて現代に至るまで幾度となく論じられてきたことです。
真面目にやって来られた方にとって、
その価値観は人それぞれ譲れないものをお持ちだと思います。
文献だけに人の心を縛られるなかれということは、
またその通りだと思いますし、
過去の文献を読み、人の残した財産に触れることも大切なことだと思います。

質問は、既に質問者様にとって答えが出ています。
もう文献的な回答も十分されてきましたし、
これ以上の意見はするにあたわずです。
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仏教の経典は長い時間の中で変質してしまって、難しくなり過ぎていると思います。

仏陀の教えについても、「悟り」についても、書き写している人達の中にも分からないで書き写していた事もあったかと思います。お経の内容がもしも「正解」であったとしても、はたして「仏陀」の経験を「正しく伝える事が出来るのだろうか?」と感じます。

100年前の日本語で書かれたものを今の人でどれくらいの人が理解出来るでしようか?それを、その25倍も前でしかも外国から入った言葉を翻訳して。今の日本で正確に伝える事が出来る人が居たとしても、聞いている方でどれだけ正確に聞き取ってもらえるのかも疑問です。

そこで「禅」が説明するのに分かりやすいと思いまして、説明させて下さい。

人間がどうして悩み、苦しむのかを説いたと言う事ですので、「人間苦」と言う事から話を進めます。

人間が苦しむのは、「二元論」からきます。それは人間の脳の構造からきます。その悩み、苦しみは心の「矛盾、対立」からです。それは脳の構造が「二元論」そのものだからです。

過去の宗教家達を見てみますと、「無常」を感じて悩み始める、そして出家をする、それが大体いわゆる「思春期」頃かと思います。必ずしも全てとは言えませんが、その頃の人たちが、多いと思われます。
それは、左脳と右脳の機能分化が完成に近くなると言う事と関係します。

1,981年頃にアメリカの脳生理学者であるスペリー博士の研究で明らかになった事が、在ります。その当時、テンカン治療のために左右の脳をつないでいる脳梁を切断していた時期が有りました。
マイナス面もあって、今はやってないようですが。

その左右の脳の「分離脳」の研究で、博士はノーベル賞を授与されました。
その左脳と右脳をいろいろな実験をすることによって、導き出された結論があります。

Iーーー左右の脳はやっている事が違うと言う事です。専門分野がお互いに違うということです。

IIーーー左右の脳にはそれぞれ独立した「人格」が在る。他の言い方をすると、それぞれ独立した「意思」「意識」が在る。ということです。

その事が「二元論」を作り出しています。心が矛盾して対立して悩む、苦しむ、ということは、脳の構造上のことであるわけです。

では、悩みの無い人と、悩みの多い人と、多すぎて「神経症」或いは「ノイローゼ」「うつ」になる人がいます。この事を説明するのに「禅」がもっとも分かりやすいのです。

それでは「禅問答」が分かり難いのはどうしてですか?その答えが左脳と右脳の機能が違うと言う事で説明出来ます。この答えは「左脳」は論理的、分別的です、すなはち「知的」な脳なのです。その脳には自分の意識が感じられるのです。

それに対して右脳の機能は「喜怒哀楽、直感、無意識、仏性、芸術、感動、他人との連帯感、愛、永遠の命、仕事のコツまだ数えられないくらいあります。

その事で気付く事が有ります。悩みの多い人は「左脳」が主導権を持っている人。悩みの無い人は左右の脳が入ってきた問題に対して、うまく左脳か右脳か振り分ける事が出来る人と言えます。

それでは、「禅問答」の答えを見つける方法ですが、命掛けでその問題に取り組む事です、命を懸けてその問題に取り組む時に、計らって、計らって、もうどうしようもないくらいに計らって、左脳の今の意識を殺しきるのです、そうすると、右脳の意識「仏性」が出てきてその問題を解いてくれると言うわけです。

その時の事を「大死一番」といいます、「我」がいっぺん死ぬと言う事です。その時、死んだ「我」が永遠の命である「仏性」と出会う事になります。その事を「見性」自分の性を見る、と言います。すなわち「悟りが開いた」ということになります。

その時、対立していた矛盾が解消されるわけです。矛盾が「悩み、苦しみ」として感じられていたものですから。矛盾、対立が「解消」されます。
心が絶対の安心と自由を手に入れたということになります。その事を「涅槃」といいます。

お経、その他の文献を学習する事は良い事だと思いますが、それだけでは、かなり無理が有るように思います。「仏性」は無意識の中の、ものを言わない心だからです。それは行動している時の方が感じ取りやすいものです。それは皆に「愛、慈悲、寛容、命の尊さ」等で繋がって居る事を、教えていてくれます。

孤独な心で切ない想いで生きているときは、左脳です。感動して喜びに満ちている時は右脳です他の人達と繋がっています。右脳の意識は世界中の人達と繋がっています。右脳の意識は「愛です、永遠です、不生不滅です、」

その事が分かる時に、心の矛盾が解消されます。心の矛盾の無い静かな心その事を「涅槃」と言います。「絶対肯定」「神の思し召しのままに」という足場を得ることが出来ます。誰でも「神、仏」と共に居ます。ただそれに気が付かないだけなのです。

「一切衆生悉有仏性」
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 私は次のように聞きました。

ある時、仏は勝林給孤独園(しょうりんぎゅうこどくおん)に滞在しておられた。その時、仏は鉢を持って、舎衛国の摩納(まのう)という人の家に乞食に行かれた。しかし、その時、摩納は留守であった。
 摩納の家には一匹の白い犬がおり、床の上で金の器で餌を食べていた。その犬は仏が来るのを見てひどく吠えた。世尊は白犬に向かっていった「吠えるのをやめなさい。おまえは『叱る』から『吠える』に変わったのか」と。白犬はそれを聞いて大いに怒り、床から下に降りて茂みの中にかけ込み、すっかり元気をなくしてしまった。

 やがて、摩納が帰って来て、白犬が木の茂みの中で元気をなくしているのを見て、家族の者に聞いた。「誰か犬に何かしたのか。」家族の者は「今日、沙門(しゃもん)の瞿曇(くどん)(釈迦の名前)が乞食に来た時、この犬が瞿曇に吠えたので、瞿曇は犬に『吠えるのをやめなさい。お前は叱るから吠えるに変わったのか。』と言っていた。それを聞いて犬は大いに怒り、床から降り、茂みに入って、茂みの中で元気をなくしているのです。」といった。摩納は家族の者の話を聞いて大いに怒り、世尊に文句を言おうと思って、仏のいる勝林給孤独園へ向かった。

 その時、世尊は多くの弟子達に囲まれて法を説いていた。世尊は摩納の来るのを見て、弟子達にいった「お前たち、摩納の来るのが見えるかね」「見えます」世尊はいった「もし摩納が今、命が終わったら必ず悪い世界に至り、瞬時にして地獄の中に生まれるだろう。なぜなら今、彼は大いに怒っているからである。もし人が怒って命が終われば必ず悪い世界に行き、地獄の中に生まれる」

 そこで摩納は怒って世尊に向かっていった「瞿曇、今日、わが家に乞食に来たか。」世尊は答えていった「私はあなたの家に行って乞食をした。」「その時、白犬に何を言って怒らせたのだ。犬は床から降りて茂みの中に入り元気をなくしてしまったではないか。」世尊は答えていった「私はあなたの家に乞食に行ったが、その時、白犬が私の来るのを見て吠えた。そこで私は白犬に言った『吠えるのをやめなさい。お前は叱るから吠えるに変わったのか』と。その時、犬は大いに怒り、床から降りて茂みの中に入り、元気をなくした」と。

 摩納は世尊にいった「白犬の前世は何者だったのか。」世尊はいった「それを聞くのはやめなさい。もし、それを聞けば必ず私のいうことを信じなければならなくなるだろう。」それにもかかわらず、摩納は世尊に何度も尋ねた。世尊は摩納にいった「あなたは三度も私に尋ねて止めなかった。摩納、よく聞きなさい。あの白犬の前世はあなたの父親で、名前は都提(とだい)という」と。

 摩納はそれを聞いてますます怒り、世尊にいった「私の父都提は生前に大いに布施を行った大祭司であった。寿命が終われば必ず梵天界に生まれているはずだ。それが何の因縁でこの下賎な犬の中に生まれるものか」

 世尊はいった「あなたの父は増上慢の因縁によって、この下賎な犬に生まれたのである。増上慢の梵志(ぼんし)は命が終われば次の六つの中どれかに生まれる。鶏、犬、猪、山犬、ロバ及び地獄である。

 摩納、もし私の言葉を信じられないのなら、家に帰って犬にいいなさい。『もし、前世が私の父ならば、白犬よ、床の上に上がりなさい』そういえば白犬は必ず床の上に上がるだろう。次に『もし、前世が私の父ならば白犬よ、金の器で餌を食べなさい』と。白犬は必ず金の器で食べるだろう。そして次に『もし、前世が私の父ならば、白犬よ、父が以前に言っていた金、銀、水晶などの財宝の所在を示してくれ。私は知らないから』と。摩納、白犬は必ずあなたの父が以前に言っていた金、銀、水晶などの財宝の場所を示すだろう。これはあなたも知らないことである」と。

 仏の言葉を聞いた摩納は、早速家に帰り白犬にいった「もし前世で私の父ならば、白犬よ、床に上がりなさい」犬は床の上に上がった。「もし、前世が私の父ならば、白犬よ、また金の器で食べなさい」白犬は金の器で食べた。「もし、前世で私の父ならば、昔私に言っていた金、銀、水晶などの財宝の場所を示してほしい。私は知らないから」白犬は床から降り、前世にいた場所に行って、口や足で床の下を掘った。 摩納はそこから財宝を手に入れることが出来た。

 摩納は大いに歓喜し、地面に座って手を勝林給孤独園に向け、三度、世尊を賛嘆した。「沙門瞿曇(しゃもんくどん)のいうことは本当であった。沙門瞿曇のいうことは真実である。」そうして、勝林給孤独園に向かった。

 その時世尊は大勢の大衆に囲まれて法を説いていた。世尊は遥かに摩納の来るのを見て、弟子達に告げた「諸君、摩納が来るのが見えるかね。」「見えます。」世尊はいった「今、摩納の命が終わったら瞬時にして善い世界に至り、天中に生まれるだろう。なぜなら、彼は今極めて私に善意の心を持っている。もし人々がいて善心を持って命が終われば、必ず善い世界に至り、天中に生まれる」

 その時、摩納は仏にお伺いを立て近くに座った。
 世尊は摩納にいった「どうだね、摩納、私のいった通りになったかね」摩納はいった「瞿曇、実におっしゃった通りでした。そこで、もう少し伺いたいことがあります。答えて頂けるでしょうか」世尊はいった「何でも聞きなさい」

 「瞿曇、どういう因縁で衆生は人間に生まれて、上下や美醜があるのですか。世の中には長寿の人短命の人、器量の好い人悪い人、威厳や徳の高い人、威厳や徳の低い人、尊貴の人下賎の人、裕福な人貧乏な人、悪智慧のある人、善智の人がいますが。瞿曇、どうか私のために解りやすく説いて下さい」

 世尊は告げられた「摩納、よく聞いて、よく考えなさい。あなたのために解りやすく説明しよう。」「お願いします。教えをしっかり聞きます。」

 仏は言った「摩納、
1、短命の因縁は何か。
人がいて殺生し、極悪非道で、害意を持っており、人から昆虫に至るまでに対し、少しの慈悲心も持たない。こういう人は命が終わった時、必ず悪い世界に至り、地獄に生まれる。もし人間に生まれても非常に短命である。これが短命の業報である。

2、病気の因縁は何か。
人がいて拳(こぶし)、木、石あるいは刀や杖によって害する。こういう人は命が終われば必ず悪い世界に至り、地獄に生まれる。もし人間に生まれても病気が多い。これが病気の業報である。

3、人の美醜の因縁は何か。
性質が性急で悩みが多く、彼は人の話を少し聞いては大いに怒り、嫉妬して憂いを生じ、言い争いを生じる。こんな人の命が終われば、彼は必ず悪い世界に至り、地獄の中に生まれる。人間に生まれても醜い。これが美醜の業報である。

4、威厳や徳の因縁は何か。
内に嫉妬を懐き、他人が何かを得ると嫉妬を起こし、人の物を見れば自分の物にしたいと思う。こんな人の命が終われば必ず悪い世界に至り、地獄に生まれる。人間に生まれても、威厳や徳はない。これが威厳や徳のない業報である。

5、卑賎の族の因縁は何か。
高慢で敬うべき人を敬わず、重んずべき人を重んぜず、貴ぶべき人を貴ばず、仕えるべき人に仕えず、供養すべき人を供養せず、礼拝すべき人を礼拝せず。こういう人の命が終わった時、悪い世界に至り、地獄に生まれる。もし人間に生まれても、卑賎の族の中に生まれる。これが卑賎の業報である。

6、財産の因縁は何か。
施主とならず、人に施さず、沙門、梵志、貧乏人、孤独者、旅の者、乞食などに飲み物、食べ物、屋舎、床、灯明、給仕などを与えない。こういう人は命が終わる時、悪い世界に至り、地獄に生まれる。もし人間に生まれても財産を持つことが出来ない。

7、悪知識の因縁は何か。
妙徳の沙門や梵志がいても、彼らの所へ行って、真理を聞かないからである『何が善で、何が悪なのか、何に罪があって、何に罪がないのか、誰が善くて誰が悪いのか、どれが白でどれが黒か、白黒は何によって決まるのか。どういうことが現世の報いで、どういうことが後世の報いとなるのか。』と。これが悪知識の業報である。」

 これを聞いた摩納は「解りました。有り難うございます。私を在家の弟子にして下さい。一生涯奉仕します。」といって喜んだ。

 阿含経より(要約)
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Q般若心経を唱えてしまった!!

般若心経は一般の方が唱えることはお控えください。というのも、般若心経の霊力は亡くなった霊には無条件で大慈大悲を与える功徳があります。これはこの般若心経の言霊(ことたま=言葉そのものが霊力を持っている)が霊にとっては非常に暖かく明るい光明に見えるのでどんな霊も唱えている人のところへ集まってきます。どんな霊もくるので必ずしもいい霊ばかりとは限りません。般若心経は他の真言と合わせて使わないと無防備で非常に危険なのです

単に般若心経を唱えれば質問者さんにはまったく関係のないその辺にいる霊がどんどんやってきてしまいます。あまりいい死に方をせずに成仏しないで浮遊している霊達が「もっと唱えてくれ~」と次から次へとやってくるのです。唱えるのをやめても霊達はまた般若心経を聞きたくてその場にとどまってしまいます。

ですから一般の方が般若心経を唱えるのは本当は怖いことなのです。防御系に強い菩薩の真言を奏上してその後内観という心の内を澄み切った愛情で満たしたうえでかくなる方法にて般若心経を唱えなくては霊にとってはまったく意味がございません。逆に霊を迷わす原因となります。

上のような文章をみて、どうしたらいいかこまっています。
まったくの素人です。般若心経をとなえてしまいました。しかも実家は浄土真宗なのに。。きいているあいだ、なんだか体がぐらぐらしました。
パソコンから、お坊さんがとなえたものも、聞いました。どうしたらいいでしょうか。こわいです。心を落ち着かせるために、写経をしようとおもっていたのですが、やめたほうがいいでしょうか。。アドバイスください。般若心経は邪を払ってくれると聞いたのですが、悪い霊をよびよせないで、安全な唱え方などはないですか。

般若心経は一般の方が唱えることはお控えください。というのも、般若心経の霊力は亡くなった霊には無条件で大慈大悲を与える功徳があります。これはこの般若心経の言霊(ことたま=言葉そのものが霊力を持っている)が霊にとっては非常に暖かく明るい光明に見えるのでどんな霊も唱えている人のところへ集まってきます。どんな霊もくるので必ずしもいい霊ばかりとは限りません。般若心経は他の真言と合わせて使わないと無防備で非常に危険なのです

単に般若心経を唱えれば質問者さんにはまったく関係のないその...続きを読む

Aベストアンサー

悪い霊は、比較的に午前0時を過ぎて般若心教を唱えると出てくるような気がします。朝、太陽が昇ってから唱えるのが一番効果的に思えます。朝時間がなければ、風呂上りの体をきれいにして直ぐにやれば良いです。それから般若心教に宗派は余り関係ありません。仏教でも神道でも気にするような事はないです。仏教、神道、キリスト教等がどうしてできたとかを考えれば根本は同じです。それぞれの宗派に分かれて多少は、教えが違ってきてますが、根本が同じなので気にする必要はないです。

Q浄土真宗では、般若心経を唱えていけない理由

母方の宗旨が浄土真宗なのですが、般若心経は唱えてはいけないと聞いています。なぜダメなのでしょうか。

Aベストアンサー

jun95さん、今日は。

私が調べてみた所では、智慧と行に因って煩悩を断ち切ろう、と教え諭す般若心経に対して、浄土真宗の
教えは、一切の計らいを捨てて、阿弥陀如来の力に任せて、其れに因って救われる、という物だそうです。

従いまして、浄土真宗の人間が般若心経を上げる事は、却って、阿弥陀如来の
力を否定する事に為る為、浄土真宗で般若心経を上げる事は無い、との事です。

もう少し深いお話に為りますと、以下のサイトに詳しい説明が為されてい
ましたので、宜しければ、御覧下さい。2001年12月11日掲載分です。

参考URL:http://www2.big.or.jp/~yba/QandA/

Q家は浄土宗ですが、仏壇の前で般若心経を唱えても差し支えないでしょうか?

家は浄土宗ですが、仏壇の前で般若心経を唱えても差し支えないでしょうか?

Aベストアンサー

我が家も浄土宗です。
毎朝、父がお仏壇にお経をあげています(おかげで私まで殆どのお経を覚えてしまいました)。
『香偈』→『三宝礼』…と30分くらいあげていますが、『送佛偈』の後で、「南無阿弥陀佛、南無阿弥陀佛、南無阿弥陀佛」と言ってから、「般若心経」が始まります。
なお、私の父は僧侶ではありません。五重相伝を受けて、既に「譽号」を頂いておりますが。
お隣が檀那寺(幼稚園も経営されており、私はその幼稚園を卒園しました)ですが、般若心経を唱えていけないとは聞いたことがありませんし、読経本の中に、般若心経も書かれています。

Q観音さまとシャーリプトラは、どっちがエラいの?

『般若心経』に出てくる
《観音さま・観自在菩薩》と《舎利子(しゃりし)・シャーリプトラ》はどちらがエラいのでしょうか?

観音さまと、声聞の最高位である《阿羅漢》はどっちがお利口さんか、
すごいのか、エラいのか?

教えてください。
よろしくお願いします(ペコリ)。

皆さんのご意見、お考えを、
教えてください。


参考までに、
http://hannyashingyo.web.fc2.com/arekore/eraika.html

Aベストアンサー

小見を省みずお話させていただきます。

般若心経に説かれている観音様は、深い般若の智慧の象徴として描かれています。
深い般若の智慧とは、無分別智のことであり、直観の智慧を指しているようです。
シャーリプトラへの呼びかけとは、人の意志への呼びかけであり
それは
直観的に把握された真実が、意志に与えられ伝えられた事を示しているのだと思います。
シャーリプトラという一人の人間における悟りの内容なのでしょう。
般若心経は瞑想の体験の描写とされているようですが
そこには同時にシャーリプトラの内面が描かれているのだと思います。
繰り返される、意志と直観による深まりです。

この事は、仏の智慧に対する解釈として、悟性という意志の働きを重んじるか、或いは直観という意志以前の働きを重んじるかによって分けられてきたように思います。
その辺の事は、増谷文雄氏の「根本仏教と大乗仏教」に載っています。
戒律と理知を重んじる部派仏教と、瞑想による直観的智慧を重んじる大乗仏教の違いなのでしょう。
ご存じとは思いますが・・

ご質問に、カント的解釈を加えるならば、意志(悟性)と直観のいずれが優れているのか
といった事になるものと思います。
一人の人間に備わっている理性の一面を、それぞれに取り上げて優劣を付けられるものでしょうか・・
直観と悟性という、二にして一なるものを比べる事はできない
そんなふうに思います。

小見を省みずお話させていただきます。

般若心経に説かれている観音様は、深い般若の智慧の象徴として描かれています。
深い般若の智慧とは、無分別智のことであり、直観の智慧を指しているようです。
シャーリプトラへの呼びかけとは、人の意志への呼びかけであり
それは
直観的に把握された真実が、意志に与えられ伝えられた事を示しているのだと思います。
シャーリプトラという一人の人間における悟りの内容なのでしょう。
般若心経は瞑想の体験の描写とされているようですが
そこには同時にシャーリプトラの...続きを読む

Q般若心経は間違い?

スマナサーラさんの『般若心経は間違い?』という本を読みました。
彼が言うには、「色即是空、空即是色」という部分で、空は色の上位概念であり色即是空は正しいが、空即是色は正しくないというのです。例えば、「みかんは果物です。」は正しいけど、「果物はみかんです」は正しくないのと同じだと。もし、「色即是空、空即是色」が成り立つなら空=色となり、わざわざ別の単語を使う意味がないではないかと。
この経典の著者は空を正しく理解していないとのことです。

皆さんはどう思われますか?

それから、この本とははなれますが、こんな説があります。サンスクリット語で書かれたこの経典の世界最古のものは7世紀の法隆寺のものです。カナダ人の学者が、この経典は中国人が作った偽経をあとの時代になってサンスクリット語に逆翻訳したものではないかと言っています。

Aベストアンサー

 こんにちは。


 色受想行識の色について 

   色即是空、空即是色

 と言ったあと ほかにもさらに

   受即是空 空即是受
   想即是空 空即是想
   ・・・

 というふうに 五蘊のすべてについて同じ見方を述べています。

 仮りに《空》が 五蘊のそれぞれに対して上位概念であったとすれば 前半の認識のあと 《空即是・・・》というかたちで捉える後半の認識については 色受想行識が言わば現象であるのですから そういった現象としての下位概念にかかわると言っていると読めば 問題はないと考えます。

 《空》という上位概念に 下位概念としての五蘊のそれぞれが言わば認識の上で到達し 《空》は下位概念のそれぞれを言わばつつんでいるとすでに前半の句で言っていますから しかもそのひとつの認識の段階にはとどまらず 上位概念が 下位概念にも降りて来ると言ったことになる。これだけのことではないでしょうか。


 《即》という表現が 気に食わないということかも知れません。
 
 批判するときには 出来るだけ相手に不利にならないように・またときには有利に解釈した上で しかもなお残る根本的なマチガイを指摘するのが 筋だと考えます。



 また 思想の良さを捉えるときには その著者いかんや出自の如何を問う必要はありません。
 ぎゃくに著名な書物であっても その思想のマチガイは きちんと捉えて指摘せねばなりません。
 すべからく中身で勝負だと考えます。

 こんにちは。


 色受想行識の色について 

   色即是空、空即是色

 と言ったあと ほかにもさらに

   受即是空 空即是受
   想即是空 空即是想
   ・・・

 というふうに 五蘊のすべてについて同じ見方を述べています。

 仮りに《空》が 五蘊のそれぞれに対して上位概念であったとすれば 前半の認識のあと 《空即是・・・》というかたちで捉える後半の認識については 色受想行識が言わば現象であるのですから そういった現象としての下位概念にかかわると言っていると読めば 問題...続きを読む

Q般若心経はすべての宗派でもよいと思っていたのですが…

日蓮宗だけはちがうのでしょうか?
写経を納経したいのですが…

そして~
法華経を写経したいのですが、日蓮様が祭られている、〈例えば池上本門寺など〉でお経を購入できるのでしょうか?

Aベストアンサー

一般に写経といえば、般若心経といわれるように、京都の大覚寺などに書写のため訪れる人は年間に相当数に及びます。
般若心経を唱える宗派は、古くは奈良時代の南都仏教から、空海、最澄が伝えた密教(真言宗、天台宗)に加え、いわゆる禅宗三宗といわれる臨済宗、曹洞宗、黄蘗集などです。
しかし日蓮宗、浄土宗、浄土真宗といった鎌倉仏教諸派は、拠り所としている経典が違うため般若心経を唱えることはありません。
私は個人的に浄土真宗(門徒)ですが、同宗は浄土三部経といわれる阿弥陀経を中心とした経典を称えます。また日蓮宗は法華経を根本に据えるはずですね、
それらのお経の据え方の違いの大きくは、その時々の時代背景によるものとだけ申し上げておきます。
ただ、浄土真宗開祖の親鸞上人も日蓮宗開祖の日蓮上人も修行時代はどちらも比叡山(天台密教)に教えを請い、その遍歴の中から衆人の救済のために自らの解釈をお説きになったものと考えます。
お経とはそもそも、釈迦の言葉をお弟子さんたちが書き残したものです。
般若心経は数ある経典のなかでも、人々が生きるための知恵を纏めた大般若経600巻といわれる大経典のエッセンスといわれ、最も短く、もっともありがたいお経といわれています。
もちろん、上記の二大上人も勉強しているはずですし、称えているのは仏教に限らず神道の在家の方々も称えるそうです。
古くは、後奈良天皇の時代、世に疫病がはやったため同天皇が自ら般若心経を書写して諸国の神社に奉納したという話もあるくらいです。
生きるための心理を説いているので何物にも妨げられないということでしょうか・・・
日蓮宗の解釈を理解もせず軽軽には申せませんし、日蓮宗のお寺に納経するのはどうかと思いますが、日頃、般若心経を写経することは構わないのではと私は思います。
また、それぞれの宗派のお経のポピュラーなものはどこでも売っていますが、法華経や阿弥陀経などは大変な量となりますので、功徳を積むには達成感もあろうかと思いますが、よくお考えになってはどうでしょうか。
以上、私の解釈として自信ありでご回答させていただきます。

一般に写経といえば、般若心経といわれるように、京都の大覚寺などに書写のため訪れる人は年間に相当数に及びます。
般若心経を唱える宗派は、古くは奈良時代の南都仏教から、空海、最澄が伝えた密教(真言宗、天台宗)に加え、いわゆる禅宗三宗といわれる臨済宗、曹洞宗、黄蘗集などです。
しかし日蓮宗、浄土宗、浄土真宗といった鎌倉仏教諸派は、拠り所としている経典が違うため般若心経を唱えることはありません。
私は個人的に浄土真宗(門徒)ですが、同宗は浄土三部経といわれる阿弥陀経を中心とした経典...続きを読む

Q般若心経と法華経と先祖供養について

主人の実家が立正佼成会を信仰しております関係でお寺
さんと縁が切れてしまいました。
両家を祀るので私の親の位牌も入れてますが、全部自分達でお経から法事もするのですが、別居ですし信仰宗教自体に抵抗のあった私は一切活動をしてない状態です。
細木数子さんによると、嫁の実家の位牌も仏壇も持ち込んではいけないとありますが本当でしょうか?
般若心経がいいと聞きましたので、そのつもりでおりましたが
法華経の如来寿量品 第十六 
が、最大の功徳の品とされているそうで、唱題の
  南無妙法蓮華経   81画
厄を払い吉を積むと考えられているそうですが、実際の所
どちらがいいのか迷っております。
こじつけてしまえば般若心経はご先祖のために、法華経は
自身のためにいいような気が致します。
今の所どの宗派も関係ない自分だけの信仰ですので、いっそ両方唱えてもいいでしょうか?
今の所立正佼成会の総戒名が入っているだけでご本尊様が
ありません。
細木さんによると、仏壇には宗派は関係ないらしく、観音
様がいいという事ですが本当でしょうか?
私としましては、全宗派のご本尊さまがいらっっしゃる
曼荼羅がいいのではと思ったりしております。

市販のお経を吹き込んだテ-プ等がありますが、それを
流して練習しながらでも効果がありますでしょうか?

全くの無知で笑われるかもしれませんが、何とか自分なりに先祖供養がしたいと思っております。
仏さまに作法上失礼になりますでしょうか?
教えてください。宜しくお願いいたします。

主人の実家が立正佼成会を信仰しております関係でお寺
さんと縁が切れてしまいました。
両家を祀るので私の親の位牌も入れてますが、全部自分達でお経から法事もするのですが、別居ですし信仰宗教自体に抵抗のあった私は一切活動をしてない状態です。
細木数子さんによると、嫁の実家の位牌も仏壇も持ち込んではいけないとありますが本当でしょうか?
般若心経がいいと聞きましたので、そのつもりでおりましたが
法華経の如来寿量品 第十六 
が、最大の功徳の品とされているそうで、唱題の
  南無妙法...続きを読む

Aベストアンサー

曹洞宗の僧侶です。
基本的にお経は”まじない”でも祝詞でもありませんから、先祖供養用のお経ないしは先祖供養向けのお経というものはありません。お経を読むこと自体に功徳があるのですが、それは最初から「何々向けの」と決まっているわけではありません。お経を読んだ者が、先祖の菩提が円満であるようにと「回向」(振り向ける)ことによって、お経の功徳が先祖供養に向けられることになります。
ですから、般若心経でも法華経でもどちらでもかまいません。両方読んでもかまいません。

細木数子さんは、ある仏壇店とタイアップして相談者に仏壇を売る商売をされているので、その商売に都合の良いことを話されているようです。
細木さんが言うところのお墓や仏壇、位牌などに関するタブーには、なんらの根拠もありませんし、実際にそのようなことはありません。

ご本尊様さまについては、momochan0407さんがもう少しご自身の信仰を深められてから、その信仰に即したご本尊さまをお迎えされることをお勧めします。
曼荼羅には確かに数多くの仏様が描かれていますが、それが即「全宗派のご本尊さまがいらっしゃる」ということにはなりませんので、注意が必要かと思います。

お経を読むことは、それ自体がすでに功徳ですので、効果がある・ないという事とは無関係です。

曹洞宗の僧侶です。
基本的にお経は”まじない”でも祝詞でもありませんから、先祖供養用のお経ないしは先祖供養向けのお経というものはありません。お経を読むこと自体に功徳があるのですが、それは最初から「何々向けの」と決まっているわけではありません。お経を読んだ者が、先祖の菩提が円満であるようにと「回向」(振り向ける)ことによって、お経の功徳が先祖供養に向けられることになります。
ですから、般若心経でも法華経でもどちらでもかまいません。両方読んでもかまいません。

細木数子さんは、...続きを読む

Q般若心経の意味が、よく理解できません

こんにちは。よろしくお願いいたします。
般若心経を一日3回ほど唱えております。簡単な意味は理解し唱えておりますが、、よく理解できていません。ネットで調べるのですが、、、。
「色は空であり、空は色であり」、、、実体のあるものは本当はないのであり、苦しみがなくなることも、苦しみをなくす修行法もありません。などと、、、。

全体的にはイメージは出来来ているのですが、、、。この世のすべてのものは何もない空であるという意味なのでしょうか?苦しみをなくす修行法もありません。。。というのは、「考えて悩むこともない」といういみでしょうか?

最初は、仕事や人生で悩んだときに唱え始めて、2年ほどなります。
もっと理解したいので、よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

私は、仏教、日蓮宗系の宗派、日蓮正宗の者です。
経は、法華経、日蓮大聖人様の書文、帰依を三大秘法の久遠元初の仏。
根を三大秘法とし、それなくして、僧侶(お坊)も経も書文も無意味とされる宗派です。

私なりの「回答させて」いただきますが、絶対に正しいということ自信は持てません。

私が少ない期間ですが、修行して感じた「空」というのは、かなり深いものと感じます。感じることは、容易ではなく、体験を通し、感じるものだと思います。だから、感じることなくして、「空」という説明を聞いても決して悟ることは不可能ではないかと思います。
傲慢になっていますね。あくまで私が感じた空というものです。

空の説明に入る前に、余計と思われることを書かせてください。

仏教とは、成仏、つまり、仏様に成るということです。
法華経を初め、諸経では、釈尊が、普通の人からすぐに仏に成ったという訳ではなく、数多くの修行やその生まれた人物や人生において修行をし、数々の悟りや、上級の教えや修行に巡り成仏されたとされています。

成仏するということは、私が解釈する限りと実感を通す限りでは、内在する仏性を開花、強めるということだと感じています。

知識や技術等を身につけ、成仏に至るのではなく、自分に秘められた仏性を開き成仏する。
しかし、その開きも徐々にしか開かないものとだと感じています。

ここから、空についての説明です。
人は、感覚を持っています。その感覚には、3つがあると私は感じています。
1つが攻、2つ目が恐怖、3つ目が、禅定なる幸です。

人は、傷つけら時、怒ったり、、憎むことがあります。これが、攻撃なる感覚です。
また、傷つけたれた時に、絶望や、深い悲しみ、苦しみ、恐怖となることがあります。これが恐怖です。

この攻と恐怖では、決しては、救われることはないと私は感じます。
攻の行動をすれば、誰かが傷つき、攻か恐怖を感じます。
恐怖では、自分がどんどん生気を失い、苦しみ喘ぎます。

この攻と恐怖というのは、要は、傷つけたれたこと(感じたこと)に対する反応です。
この感じたことに反応するということは、簡単に変えることは無理かと思います。ただ、それに基づいて行動はしないという「制御・我慢」という行動はできると思いますが。

この傷つけらたこと、上記で()で感じたこと、いろいろな感覚器官を通して感じて、攻・恐怖は発する訳です。


冷静に考えると、感じて、自分の感性が通し、攻・恐怖、哀れみ、哀しみ、救いの念が生じるものです。

空の第一として、攻・恐怖といういった決して救われることの無い感覚を消滅させ、哀れみ、哀しみ、救いといった仏の感性を生じることです。

ここで言う、空とは中道です。つまり、攻でも、恐怖でもない。冷静であり落ち着きがあること「禅定」です。クールとかそういったものではありません。感情はあっても、激情ではない感覚といいましょうか。
感じたことが無い人には理解認識し難いものかと思います。

そうやって物事を禅定になり、見ていくと、なんとなく、色と空というのが分けられてきます。
色とは、目に見えることです。私は、色よりも、「仮(け)」と言う方がしっくりします。
色、つまり、目に見えるものは、因縁によって生じます。
仏性を開いていけば、仏性が徐々が現れるように、
愚行をすれば、どんどん心が荒れ果てていくように
行動(因縁)によって、色が生じきます。

とは、言え、人間が条件に応じて結果生じることを、絶対的な法則として捉えるには限界があります。すべてが法則として存在し、その法則を把握し、その法則に基づいて何でもこうなると言える人はいないでしょう。

なんで、日本に生まれ、貧しい国に生まれる人が存在するのか、それは「運」というしか答えを出せないのが人間です。「運」と答えを出す以外にできないのが人間で、それが上記に書いたすべてのことにおいて法則に基づいてこうなると言えないと書いたことの説明です。

物事を禅定を持って追求し、攻・恐怖、快・不快というものに囚われず、終わることの感情・感覚を逸脱し、捨て、生きる活気に生ずる捉え方をしていくと、この肉体さえも、色であると感じてきます。たぶん、私は、死んでも、空としての存在は残り続けると。

>実体のあるものは本当はないのであり、苦しみがなくなることも、苦しみをなくす修行法もありません

と言われるのは、かなりの功徳があり、禅定を持って悟る境地対して言われたことと存じます。
高い功徳を持った人は、仏教の話を聞いて、実感悟り得ることができると思います。私は、対して功徳を持っていなかったので、苦労を重ね、実感悟り得たことが多々あります。

このことについて日蓮正宗の宗派の解釈によりますと、釈尊時代は、正法と言い、今の時代は末法といいます。何が違えば言えば、仏教を聞く者の功徳の高さ・低さです。正法は、功徳が高く、末法は、功徳が低いとされています。功徳が高い=仏様に近いということを意味します。また、機根も同様にして、機根が低い=仏様に遠いということを意味します。

正法の者たちは、その前世及び過去世において功徳を得た者です。ですのえ、仏教にめぐり合えばこそ、その教えが知識ではなく、実感や道理として存在するという実感の元に悟り得ることができるものと思われす。

末法の者は、修行をせずに、功徳が低いく、禅定なる心がなく、攻・恐怖、快・不快、自尊心、卑下、得が好であって、嫌が排除となる感覚が強く、禅定なる心を持って、静かに考え、道理上に実感することは不可能とされています。

さらに、正法の時代に生まれ、(華厳)阿含、方等、般若というように、衆生の功徳に応じて得を積むように説かれています。
般若の教えを悟り得る衆生に対しては、
「実体のあるものは本当はないのであり、苦しみがなくなることも、苦しみをなくす修行法もありません」のが解ったのだと思います。

以後、蛇足です。
私の読んだ宗派の教書では、
小乗の空を、肉体は色、魂は空というもの。これによって輪廻を解脱できるとされるという考え
大乗の空、般若の空は、物事の攻・恐怖ということの拘り、執着を捨て、禅定を持って、落ち着きを持って、真実・実相を悟るというもの
法華経の空?というか、法華経では、三諦円融(さんたいえんゆう)と考えがあります。「一念三千」、「十界互具」という考えとかなり関係があります。

簡単に言うと、一人の人間(あるいは存在)の中に、仏性、菩薩、縁覚、声聞、天、人間、修羅、畜生、餓鬼、地獄という10の世界があるとあれています。世界という言い方が適切とは思いませんが、界では、伝わりにくいと思うのでそういった表現にしました。

上記に書いたように、仏性を開く修行をしていけば、仏様に近づき、餓鬼、畜生、地獄に落ちるようなことをしていけば、そうのようになるということです。

法華経では、提婆達多という者が出ており、過去において、釈尊(お釈迦様)に法華経を教えた者とされています。それが、釈尊が成仏して、長い時を得て、「事実であれば」今から3000年前に釈尊が仏教を説いた時でも、まだ、成仏しておらず、釈尊の邪魔をしたとされる者です。

話が逸れました。
空を悟り、因縁・徳と業によって色(仮)という目に見える世界、感じる世界が生じる。これは大乗の空と同じです。
法華経では、空も色(仮)としています。
法華経の三諦円融(さんたいえんゆう)とは、空、仮、中という3つ別れ、
中を成仏、
空は成仏によって悟り得る故に色(仮)として感じる者、
仮とは、空であり、中です。
つまり、
成仏することに、
空を感じ、
空を感じることは仮であり、
仮というのは、成仏の境地
それが、法華経の三諦円融(さんたいえんゆう)という私なりの解釈です。ここは実感してないところなので、解釈に過ぎません。

最後にもう2つ
人生は、悩み考えるものだと思います。悩み考え、それの本当の苦悩から救われる悟りを得た時に、1つ、人間性(仏性)が高まると感じます。
いくら、修行をしても、悩み考え、苦の因を見つけ、それを解消、救われたいと思わない人に、智慧というものは得られないものだと感じます。

仏性を開花、仏様に近づくことよって、
物事の実相、真理を悟り得る智慧
物事を正しく捉え、考える精神的落ち着きの禅定
物事の苦・救の繋がることを踏まえ、苦に繋がることをしない戒
が身につくとされています。

そして、最後の1つ。
私の宗派の教え上に書いているので、もしかしたら、私の宗派や法華経に興味を持たれるかもしれません。
私は、質問者さんの人生に肩代わりは決してできません。あくまで参考意見として述べただけであって、その正誤、幸・不幸、価値、無価値は質問さんが判断することです。誰かを信じることは裏切られる、騙される可能性があるからこそ、「信じる」という言葉を使うものだと私は思います。
自分の人生の責任を持って人の参考にしてください。
私は仏様ではなく、質問者さんを救える人間かも解りませんから。


長い回答で、誤字、脱字もあるかもしれませんが、
質問者の人生やそれ以上の広域において、何か参考や、ためになれば幸いです。
もし、最後までお読み頂いたのなら、ありがとうございます

私は、仏教、日蓮宗系の宗派、日蓮正宗の者です。
経は、法華経、日蓮大聖人様の書文、帰依を三大秘法の久遠元初の仏。
根を三大秘法とし、それなくして、僧侶(お坊)も経も書文も無意味とされる宗派です。

私なりの「回答させて」いただきますが、絶対に正しいということ自信は持てません。

私が少ない期間ですが、修行して感じた「空」というのは、かなり深いものと感じます。感じることは、容易ではなく、体験を通し、感じるものだと思います。だから、感じることなくして、「空」という説明を聞いて...続きを読む

Q龍樹が「中論」で説いている縁起とは、因果関係と相依相関関係のどちらなのでしょうか

私は仏教の縁起思想に興味を持ち、さまざまな書物を読んできました。
その中で私は、龍樹の「中論」で説かれている縁起思想というのは、相依相関関係を指していると理解してきました。
ところが、縁起とは因果関係のみを説いているという学説があるというではありませんか。
私が龍樹の「中論」を読んでいる限りでは、相依相関関係を説いているとしか思えない記述があり、とても因果関係に限定できるとは思えません。
いったいどういうことなのでしょうか。私はすっかり混乱してしまいました。
どなたか仏教哲学にお詳しい方がいらっしゃれば解説よろしくお願いします。

Aベストアンサー

龍樹の意図する『中論』の基本的なスタンスは、部派仏教の間で支配的な縁起観というものを否定して、お釈迦さんの本来の縁起観を取り戻そうとすることにありました。

部派仏教の縁起観を否定するというのは2つの意味があって、1つは、流転し輪廻する人間のあり方を説明するような理解、つまり「時間的な生起の関係」という説明を否定して、よく引き合いに出される「浄と不浄」の例のような、相依関係を表わすものとして縁起を捉えなおしたこと。そして2点目は、ものごとに自性を求める立場を明確に否定したところに縁起を位置づけたことです。

『中論』を読むためには、この2点目も必ず同時に押さえておく必要があります。そうでないと、ただでさえ宇井伯寿先生以降、縁起といえば「ものごとがお互い依存しながら成立している相互関係」とされているわが国では、縁起が単に空間論的なはなしに思われてしまって、後の中国の華厳で言う法界縁起の思想とあまり差がなくなってしまうからです。

龍樹の縁起理解はもちろん法界縁起と重なるところがあります。しかし、大事なことですが、彼の主眼はあくまでも、有部などのように実体に固執する立場では因果関係も論理的関係も成り立たない、ということの主張にありました。関係一般というのは本体を持たないものの間にしか成り立たない。つまりこの世の一切は無自性なのですが、その故にこそもろもろの現象が成り立つ、それが本来の縁起なのだ、と言っているわけです。

我を考察した章もありますが、運動や燃焼、認識を論じた章などは、このことを言いたいがためにくどくどと論を尽くしているわけです。ですから『中論』の内容を、空間的な問題に限ってはいけないのはもちろんのこと、単に相互依存関係を説く書物だ、と言って済ませてしまってはいけないと思います。

ところで、この質問自体が前の質問で名の挙がった松本史朗氏の主張に接して生まれたのではないか、という気がしますが、どうでしょうか。一応その前提で付言しておきますと、松本氏は確かに十二支因縁を挙げながら、縁起説を時間的因果関係で理解することの重要性を盛んに主張しています。ただ、氏は別に他のいろいろな縁起の理解を否定しているわけではありませんし、否定できるわけもありません。

氏の立論の根本にあるのは、仏教の成立時点に目を向けた時に仏教を仏教たらしめる根本的な思想の核は何だろうか、という問題意識ですから、根底に無明や渇愛をおくとなると、その縁起理解というものは時間的な因果関係を抜きにしてはたちゆかない、というところに力点がおかれるわけです。

『中論』は有名なだけに、内容を知らずに自分勝手な想像を書く人も大勢いて、げんなりさせられることが多々ありますね。回答しておきながらこう書くのもなんですが、あまりこういうところの回答を期待せずに、ちゃんとした書物をとにかく読み込んでみることです。

龍樹の意図する『中論』の基本的なスタンスは、部派仏教の間で支配的な縁起観というものを否定して、お釈迦さんの本来の縁起観を取り戻そうとすることにありました。

部派仏教の縁起観を否定するというのは2つの意味があって、1つは、流転し輪廻する人間のあり方を説明するような理解、つまり「時間的な生起の関係」という説明を否定して、よく引き合いに出される「浄と不浄」の例のような、相依関係を表わすものとして縁起を捉えなおしたこと。そして2点目は、ものごとに自性を求める立場を明確に否定した...続きを読む

Qお寺で住職に注意されたのですが

4年ほど前、京都の紅葉で有名なお寺に行った時の事。
お茶を飲みながら庭の紅葉を十分に堪能して帰ろうとした時、どういう流れかは忘れましたが真言の話を同行者とすることになりました。
(おそらく住職の話に出たか、寺の掛け軸にあったか)
で、軽い気持ちで「昔、猿飛佐助のアニメがあって、主人公のサスケが『オン キリキリバサラ ウンハッタ』と唱えて色々な術を使っていたよ」
という話をしました。
また「孔雀王という漫画で『アビラ ウンケン ソワカ』なんても言ってたな」とも。

すると遠くでそれを聞いていたご住職がとんできて
「そういう言葉をみだりに発してはいけない」
という話を15分ほどされました。

そのお寺は紅葉のライトアップなどをしていて、観光地のお金儲けという様相が強かったので、そういう寺の住職が説教するとはよほど重大なあやまちを犯したのかと怖くなってしまいました。

それらの言葉はどんな意味があるのでしょうか。

Aベストアンサー

真言は、正しい時に正しく発音すれば言葉が実体化すると信じられているものです。

で、発音した言葉は正しくは無いのですが、言葉の意味を知らないものがむやみにマントラの類の音を発音するのはよくないと言いたったんじゃないか と。
間違えて発音しちゃって、それが時が合致していたら、その間違えた発音のことが現実化すると信じられているからじゃないかと。


だから、天皇は公の場で、ゆっくり文字を読み上げるんです。
天皇が発する言葉は神が発する言葉とし、「国民の幸福を」のはずが、「国民の不幸を」なんて間違えてしまったら、その通りになってしまう という感じ?



表は観光地化していても、仕事上みんなの幸せを願う呪文を毎日お仕事として唱えてはいるんじゃないかと。



日本人は映画を観て「サノ〇ビッチとか」「アス〇ール」「ファ〇クユー」とかみだりに言いますが、それをもしアメリカ人に言ったら、ただじゃすまされない事態になってしまいます。
そういった禁句を、日本人がみだりに唱えているのを見て、アメリカ人は複雑な気持ちなんじゃないかと。
知らないからみだりに言えるわけで、時があっていたら、床に叩きのめされてしまうでしょう。

これが言葉の力の恐ろしいところ。


良い呪文であっても、厳かな言葉をみだりに使うってのは、価値を認めていないってことになり、、、、
例えば古代バビロニアあたりでは、神の名をみだりに唱えてはならなかったので、エルとかエールって神を代名詞で呼んでいたんですね。
意味は「我が主」。

ユダヤ人もそれにならって、エルと表記していたのですが、大贖罪をするときは大祭司は神を呼び出すために、神の真名を唱えていたらしいです。
7年に一度後継者に神の本当の名前を教えていたのだそうです。

一般人や他の聖職者にどうして教えなかったのかというと、その言葉をみだりに使われないためと、敵に名前を知られると、神が呪術で呪われてしまうから。



日本も昔<諱>というものがあったそうです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%B1

<これはある人物の本名はその人物の霊的な人格と強く結びついたものであり、その名を口にするとその霊的人格を支配することができると考えられたためである。>

遠山の金さんは、遠山金四郎景元が本名で、景元が諱。つまり景元が本人の本質を表した文字なので、親とか上司しか知らなかったってわけです。
敵に知られると、呪術で支配されてしまうと信じられていた。


ってことで、この文化の人たちが信じていることを部外者の人がみだりに使うって、よくないんじゃないかと。
例えば、日本人は子供をみて「かわいいなぁ」と左手でなでたりしても問題ないですが、インドでそれやったら、親は烈火のごとく起こる。
文化の違いで、あっちではとんでもないことになるわけです。

真言は、正しい時に正しく発音すれば言葉が実体化すると信じられているものです。

で、発音した言葉は正しくは無いのですが、言葉の意味を知らないものがむやみにマントラの類の音を発音するのはよくないと言いたったんじゃないか と。
間違えて発音しちゃって、それが時が合致していたら、その間違えた発音のことが現実化すると信じられているからじゃないかと。


だから、天皇は公の場で、ゆっくり文字を読み上げるんです。
天皇が発する言葉は神が発する言葉とし、「国民の幸福を」のはずが、「国民...続きを読む


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