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日本テーラワーダ仏教協会のスマナサーラ長老の著書に「般若心経は間違い」があります。特に「空即是色」この言葉の扱いについての指摘が印象に残りますが、般若心経肯定派は、この意見に対してどういう反論がありますか?

色即是空、これは上座部仏教でも言われることで経典にも根拠を求められるそうですが、空即是色、これが事実無根の創作だろうということです。

いろいろな角度からのご意見お待ちしてます。

返事は遅れると思いますが、どうぞ宜しく。

A 回答 (50件中21~30件)

中阿含経  四洲経第三



尊者阿難は静かなところで座禅をしてこのように考えた。「世の中で欲望に満足する者は少なく、欲望を嫌って終命する者は少ない。世の中で欲望に満足して、欲望を嫌って終命する者は得難い。」と。阿難は夕方になって仏の所へ行き、仏にいった。「世尊、私はこのように考えました。『世の中で欲望に満足する者は少なく、欲望を嫌って終命する者は少ない。世の中で欲望に満足して、欲望を嫌って終命する者は得難い。』と。」
仏は阿難に告げられた。「その通りだ。世の中で欲望に満足する者は少なく、欲望を嫌って終命する者は少ない。阿難、世の中で欲望に満足して、欲望を嫌って終命する者は得難い。阿難、しかし、欲望に満足せず、欲望を嫌悪せずに終命する者は非常に多い。

阿難、昔、頂生という名の王がいた、転輪王となって智慧があり聡明であった。四種の軍をもち、天下を治めていた。また、七つの宝をもっていた。その七つとは輪転、象、馬、宝珠、女、居士、兵隊この七つである。千人の王子がおり皆端正で勇敢でありよく民衆を統制していた。王は天下を統領するのに武力によってではなく、法をもって統治し、人々を安楽にさせた。

阿難、頂生王は後にこのような考えを起こした。『私はこの地上世界(閻浮提)のすべてを手に入れた。大富豪であり多くの人民をもっている。そして。千人の王子がいる。私のこの宮殿に七日間宝物の雨を降らし、宝が膝に至るまで集めよう。』と。

阿難、この頂生王は神通力をもっていたので、この心を起こして、七日間宮中に宝の雨を降らし、ついに膝に達した。阿難、頂生王はまた次のように考えた。『私は地上世界をもっている。大富豪で、七宝を備え、人民をもち、千人の王子がいる。宮中に宝の雨を七日間降らし、ついに膝に至った。

頂生王はいった『私は古人の言い伝えで西方に瞿陀尼(くだに)という世界があり、その世界は裕福な国で、多くの人民がいると聞いた。私は今から瞿陀尼洲へ行って統治しようと思う。』と。阿難、この頂生王は神通力があるので、空中を飛び、四種の軍隊とともに瞿陀尼洲に到着した。阿難、彼は数万年の間瞿陀尼洲に滞在し、瞿陀尼洲を統治した。

そしてまた次のように考えた。『私は今、閻浮洲を所有し瞿陀尼洲も所有することが出来た。私は古人の言い伝えに東方に弗婆碑陀提(ふつばびだだい)という世界があり、その世界は裕福な国で、多くの人民がいると聞いた。私は今から弗婆碑陀提へ行って統治しようと思う。』と。阿難、この頂生王は神通力があるので、空中を飛び、四種の軍隊とともに弗婆碑陀提に到着した。阿難、彼は数万年の間弗婆碑陀提に滞在し、弗婆碑陀提を統治した。

阿難、彼はまたこのように考えた。『私は今、閻浮洲を所有し瞿陀尼洲を所有し、弗婆碑陀提もすることが出来た。私は古人の言い伝えに北方に欝単曰(うつたんわつ)という世界があり、その世界は裕福な国で、多くの人民がいると聞いた。私は今から欝単曰へ行って統治しようと思う。』と。阿難、この頂生王は神通力があるので、空に乗じて四種の軍隊とともに欝単曰に到着した。

阿難、頂生王は遙か彼方の平地が白いのを見て、諸大臣にいった、真っ白な平地が見えるか。諸大臣は答えていった。見えます大王と。王はいった、お前たちは知っているかあれは欝単曰人の『自然の粳米』で、欝単曰の人の食物である。お前たちと一緒に食べてみよう。

阿難、また頂生王は美しい柵の裹に巨大な美しい樹が並んでいるのを見て、諸大臣に言った『お前たち、あの美しい樹が見えるか。』と。諸大臣はいった『見えます。大王』と。王はまたいった『この樹は衣樹といって、衣のなる樹である。欝単曰人はこの樹から衣を取り着ている。お前たちも衣を取って着てみなさい。』と。阿難、頂生王はこのようにして数万年の長い年月欝単曰に滞在し、欝単曰を統治した。

阿難、この頂生王は後にまたこのように考えた。私は閻浮提をもち、大富豪で多くの人民をもち、七宝と千人の王子がいる。宮中に七日間宝の雨を降らし宝は膝まで積もった。また、瞿陀尼洲、弗婆碑陀提洲、欝単日洲をもっている。
私は古人の言い伝えに三十三天という天界があると聞いた。私は今から行って、三十三天を見ようと思う。

阿難、この頂生王は神通力があるので、空中を飛び四種の軍隊とともに日光に向かって去っていった。阿難、この頂生王は三十三天中の須彌山の上に大雲のようなものを見て諸大臣に告げた『お前たち、あの大雲のようなものが見えるか。』諸大臣は答えていった『見えます。大王』と。王はまた言った『これは三十三天の晝度樹という樹である。三十三天の衆はこの樹下において、夏四月に娯楽を楽しんでいる。』と。

阿難、また、頂生王は遙かに三十三天の須彌山上の南側に大雲のようなものを見て、大臣たちに告げた『お前たち、あそこに大雲のようなものが見えるか。』と。諸大臣は答えて言った『見えます。大王』と。王はまた告げていった『あれは三十三天の正法の堂である。三十三天の衆はあの堂の中で、八日・十四日・十五日に天のため、人のために法を思考し、真理について思考している。』と。

阿難、こうして頂生王は三十三天に到着した。そしてその堂の中に入った。中には天帝釈がいて、頂生王に隣へ座るようにすすめた。頂生王はそこに座った。天帝釈と頂生王は光、色、形、礼節、衣服となんら変わることはなかったが、ただ目の輝きだけが違っていた。

阿難、この頂生王はまた次のように考えた。『私は閻浮提洲を支配下に置き、また瞿陀尼洲、弗鞍碑陀提洲、欝単白洲を支配下に置いた。そして、今三十三天の大集会を見ることが出来た。そして、法堂に入ることができ、天帝釈の隣に座ることができた。私と天帝釈とは少しも変わることなく、違っているのは目の輝きだけである。私は今、天帝釈を追い払いこの座を奪い取って天人の王となり、この世界を自在に統治しよう。』と。

阿難、頂生王がこの考えを起こした瞬間、神通力を失い、瞬時に閻浮提に移動し、瀕死の重病人になってしまった。そして、まさに命が終わろうとする時、大臣たちがいった『人民が大王が死ぬとき何か言い残しましたかと聞かれたら、何と答えるべきでしょうか』と。

そのとき頂生王はいった『もし人民に頂生王は何か言い残しましたかと聞かれたらこのように答えよ。頂生王は閻浮洲を得ても満足せずに命終り、頂生王は七寶を得ても満足せずに命終り、千の王子をいても満足せずに命終り、頂生王は七日間宝を降らしても満足せずに命終リ、頂生王は瞿陀尼洲を得ても満足せずに命終り、頂生王は弗鞍碑陀提洲を得ても満足せずに命終り、頂生王は欝単日洲を得ても満足せに命終り、頂生王は諸天の集會を見ても満足せずに命終り、頂生王は五欲の功徳(色聲香味触)を備えても満足せずして命終った。』と。

ここで世尊はうたにしていわれた。
『天の宝を降らしても欲望を持つ者は飽きることを知らない。欲望は苦であって楽ではない。智慧者はこのように知るべきである。金をこの大雪山のように積んだとしても足りるということはない。天の微妙なる五欲を得ても楽しまず、愛着を断じ、欲望に執着しなければ、等正覚の弟子である。』と。

また、世尊は告げられた『阿難、何を隠そう、この頂生王とは誰でもない過去世の私である。私はその時自分のため利益を求め、人のために利益を求め世間を憐れみ、天のため人のために義及び安楽を求めた。しかし、法を説いて究竟に至らず、清浄を究竟せず、梵行を究竟せずに終わった。その時には、生老病死・啼哭憂戚を離れず、一切の苦を離れることは出来なかった。

阿難、私は今如来になった。私は自ら利益し、また他を利益し、大勢の人を憐れみ利益し、天のため、人のために義と利益を求め安楽を求める。私は今法を説いて究竟に至り、清浄を究竟し、梵行を究竟するに至った。今私は生老病死・啼哭憂戚を離れ、一切の苦から脱することが出来た。』

これを聞いて、阿難と比丘たちは歓喜した。

仏陀の説いた「普遍的かつ客観的な事実」を記した経典より
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23、25、27のaoumigameです。



 仏教はブッダの教えです。ブッダの教えは正しく、あとから改良できるわけもないのだから、動かすべきではないというのがテーラワーダの立場です。誰が書いたかわからない後世のものを拠りどころにすべきではない、という立場です。
 空を語りすぎると、空でなくなります。空を哲学にしてしまう観念的な態度は、釈尊の説かれた仏教とかけ離れています。ですから初期仏教において、空は実践すべきものです。
 「空性=中道=不生不滅の縁起」は、どのように実践するのですか?
 般若心経の写経ですか? 詠唱ですか?
 それは仏説ではないでしょう。
 仏教を実践するには、八正道の実践が欠かせません。
 悟るには、ヴィパッサナーの実践しかありません。
 ですから「五蘊皆空」と見極めて悟りを開くというなら、次のように観るべきです。
 「肉体には実体がない」「感覚には実体がない」「概念には実体がない」「衝動には実体がない」「認識には実体がない」
 これで一切の執着を絶ち、「なんだ、無我じゃないか」とわかれば悟りです。そういう冥想の実践です。それが釈尊の教えです。
 ですから「色即是空」はよいのですが、「空即是色」はダメなのです。そのように冥想指導のプロ中のプロがおっしゃっているのです。
 釈尊が「このようにして悟りなさい」と残してくださったのが仏教です。それを見失って、「大乗仏教は、全知者たる釈尊の教えをさらに深めているのです」というのは、成り立ちません。
 悟りは難しいかもしれませんが不可能ではないし、八正道の過程において確実に幸福になります。それは誰でもすぐに実感できるのです。ぜんぜん難しくありません。その教えは、きちんと伝えるべきです。
 もっとも釈尊の教えに近いテーラワーダ仏教の長老が、釈尊の教えを、仏教を伝えてくださっているのです。仏教徒なら我見を捨てて、「なるほど、そうでしたか!」と楽しく聞けばよろしいのでは? 釈尊の教えに触れられるのは、もう二度とないほどの幸運なのですから。
 お幸せでありますように。
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Ano.15、Ano.18、Ano.25のbonbonniereです。



釈尊が説いた空の教え、および大乗経典についての大乗側からの位置付けについて誤解があるようなので説明させていただきます。

釈尊は『サンユッタ・ニカーヤ』12.15の中で、「「一切はある」というのは、カッチャーヤナよ、これは一つの極端である。「一切は無い」というのは、これは、もう一つの極端である。カッチャーヤナよ、これら二つの極端に近づくことなく、中道によって、如来は法を説くのである。」と、有無の二道を離れた中道の道を説き明かします。この釈尊の中道とは、両極端を離れた中庸という意味ではなく、有と無の分別を超えた、すなわち、有無、正邪、善悪、自他等の二元対立を生むところの言葉の機能が一切止滅するところの中道=空の境地こそ、如来の説く道であると明かしているのです。

釈尊は、『スッタニパータ』1072において、「無所有(何もないこと)をよりどころに、他のものを捨てて、最高の「想いからの解脱」において、解脱し、そこにとどまり、何ものにしたがっていくこともないだろう」と、『スッタニパータ』で説かれる「最初の清浄行」である、すべての煩悩を滅尽した弟子たちに対し、第二の清浄行として無所有処定という禅定の修行に導きます。『スッタニパータ』874には「色形が滅する」原因は「多様な言語世界の名称が起こらない」ことであると説いています。私たちが、りんごと皿を見て、それぞれを実体あるものとしてバラバラに見る先天的な識別作用が止滅する空の境地に弟子達を導くのです。それは当該本にも紹介されている『マッジマ・ニカーヤ』第121経に説かれてるとおりです。「このように、かれには、アーナンダよ、この、如実であって転倒なき清浄な空性が顕現し存在している。」と説かれますが、ここにおける清浄な空性の境地とは、不生不滅・不常不断・不一不異・不来不去の八不の中道の境地であることは明らかです。釈尊が四禅三明の悟りがあったことは、上座部、大乗仏教の双方一致した見解です。釈尊の悟りは言葉の識別作用が止滅した無所有処定という禅定よりさらに深い、非想非非想処定、無相心三昧定をも超えた三明の境地です。
http://homepage1.nifty.com/manikana/canon/sunna. …

ゆえに、釈尊が悟られた縁起は龍樹の『中論』において説かれる戯論寂滅の不生不滅の中道の縁起なのです。釈尊の第一義諦としての不生不滅、不常不断、不一不異、不来不去の八不の中道の空の境地を、世俗諦としての陽炎、蜃気楼のような術語と同一のものとして扱うのは、釈尊の空性の境地を貶めていることになるのです。この本の欠陥は釈尊が第一義諦の真理として使った空性の用語を世俗諦の真理としての無常と同じもととして捉えるという迷いに起因していることは前回申し述べた通りです。それは龍樹の空性という術語の無理解であると同時に、釈尊の空性の用語に対する無理解でもあるのです。

ゆえに第一義諦としての空性=八不中道という釈尊の説かれた空性という語に迷うゆえ、空=虚無という見解が生じることになります。あらゆる極端にとらわれない中道のあり方は、有無の二道の両極端を離れるものであり、したがって中道の境地が無という一つの極端にも染まらないのは当然のことなのです。

また、大乗経典について一言すれば、大乗経典は阿含部経典の注釈書でも、解釈書でもありません。大乗経典とは大乗修行者の覚体験から生まれたものあり、これこそが釈尊の真実の教えであると主張するものです。大乗経典が経の劈頭に「如是我聞」の語を置いたのは、無批判に阿含経を真似たというのではなく、彼等自身がその経の内容を仏陀から聞いたと信じていたからと考えるのである。それは大乗経典は、菩薩達が深い三昧に入って、その三昧の中で体験した宗教体験を三昧からで出てから記述したものと見られるからである。大乗経典が三昧の体験に基づいて説かれたものであることは多くの学者が認めているところである。そして三昧における「見仏」の体験が種々の経典に説かれている。例えば華厳経の「十地品」では、不動菩薩地の菩薩が三昧において、無辺の諸仏を見、これらの仏から教授を受けることが知られる。」(平川彰『法華学報・第四号』)というものです。

実際、般若心経の対告者である智慧第一といわれるシャーリプトラは、釈尊入滅の前に病没しましたので第一回経典結集のおりにはいようはずもありません。釈尊は対機説法として深遠な宗教的真理はシャーリプトラに対して行ったのであり、シャーリプトラ自身にしか理解できないとされた説法を、シャーリプトラが他の修行者に亡くなる前にすべて説いていたかははなはだ疑問の残るところです。増谷文雄先生のように阿含部経典に残る釈尊の教説よりシャーリプトラに語った教えの方がずっと多いはずだという見解もあります(角川ソフィア文庫 仏教の思想1 知恵と慈悲 <仏陀>)。

また、私たちに残された阿含部経典の内、漢訳の中阿含と雑阿含は説一切有部所伝、長阿含は法蔵部所伝、増一阿含は所伝部不明、論蔵はほとんど説一切有部のみなのであり、パーリの三蔵(経・律・論)は上座部所伝と、私たちに残された阿含部経典は、ある部派に偏っています。二十ある部派の中には、大乗仏教に近い部派もありその教えはまちまちです。勢力の小さい部派が保持していたであろう釈尊の教説も私たちにとっては大事なものであったはずです。したがって、般若心経に説かれたことが真実の教えであるかどうかの判断を、阿含部経典に求めても意味のないことなのです。したがって、般若の三昧における覚体験を信じる立場であるなら、その真理の正当性の根拠は、その教えの論理的整合性にこそ求められるべきであります。

釈尊は法を問うものに対しては諸法無我を説き、事象を問うものには諸行無常を説きました。原始仏典には「五蘊は無我であり、苦であり、無常である。」と繰り返えし説かれますが、般若心経はアートマン(=我)が存在しないことを説くための経ではありません。当時の仏教徒にとって無我とは自明の真理なのでありことさら無我を説く必要もないのです。

「色」には広義、狭義の両義があり、般若心経で説かれた「色蘊」とは身体と環境を含む一切のものです。それを自身の五体を構成する物質であるとのみ解釈するところに、「色即是空」を自身にアートマンが存在しないことを説いているものであると誤って捉え、「「色即是空」は「諸法無我=諸々の法(もの・こと)は、全てが自己ならざるものである」(ダンマパダ279偈)から導き出すことができ、仏典に根拠がある仏説です。異論ありません。 「空即是色」は、仏典に根拠がありません。」という誤った見解になってしまうのです。「三世実有法体恒有」が実在するとした存在を空である、すなわち無常=縁起的存在であると否定する目的がそこにあるのです。

したがって、仏典に根拠を求めるなら「滅する性質のものは諸々の事象である」に求めるべきであります。すでにお気づきのように、パーリ語原典からの忠実な翻訳によれば(石飛道子著『ブッダと龍樹の論理学』サンガ)通常の翻訳とは逆になります。したがって、「滅する性質のものは諸々の事象である」=「諸々の事象は滅する性質のものである」となり、したがって論理的な不整合性はまったくないことは明らかです。

したがって「空即是色」は論理的にまったく矛盾のない教説です。また、「色即是空」と「空即是色」を般若の修行者の時間の流れの観点から、「空即是色」を空を覚知した後の現象界を俯瞰する智、すなわち空を後得智として見る立場もあります。その場合は、「空即是色」とは、空であるから色が色として成立するという意味になります。第一義諦の真理として「空即是色」を解釈すれば、空は八不中道の戯論寂滅の涅槃の境地であるゆえ、すべての色は、本来的なあり方としての八不中道の涅槃の境地として存在している、生死即涅槃(無住処涅槃)となります。世俗諦の真理としては、すべての色は他の色の因縁に縁って性起する縁起的存在であり、したがってすべての色そのような縁起的存在として存在していることになります。論理的な不整合性は微塵もないというべきです。

このような「色即是空」の理解で「空即是色」が理解できようはずもありません。自らが信じる教えを自分では何も知らない他のものと比較しても、比較自体がまったく無意味になります。教えの素晴らしさを訴えたければ、無意味な比較など行なわずそのまま訴えればよいだけです。

また仏教の目的は釈尊が苦の根本原因が、私たちの意識をもってしては思議することすらできない「無明」という生命の奥深くに巣食う存在であると覚知したことに、仏教の出発点があります。「生きる苦しみを解決するための実践」とは「無明」といかに対峙するかの実践でもあります。ここをないがしろにして人格向上というような観点でのみ仏教を捉えるのは釈尊の真意ではありません。無論、釈尊の教えを自らの人生にどのように生かすかは、各個人の自由です。

大乗仏教の出発点は関係性(縁起)の目覚めにあるといわれます。他の存在に生かされ、また自分という存在が他の存在の幸福への因とも縁ともなっているということ。この自覚の上に自分の回りの人を尊重し、暖かく接するとき、次第次第に自らの生命の我執は失われ、そのことはまた自らの活動する日常空間をさらに広げ、やがてはすべての存在がひと続きであるという自覚にも達するものかと思います。無論、「色即是空」という聖者の世界にはほど遠いものでしょうが、真実の自己に出会うための般若心経であると思います。仏教学者の横山紘一先生は毎日こころの奥底に響けとばかりに、大声で般若心経を唱えているそうです。深層心に蓄積された仏の教えは三世という生命の中において、いつかまた仏の教えに出会える仏因となる、あるいはそこに説かれていることがいつの日か自らの命の中で芽をふくとの考えからだそうです。

結論として釈尊が説かれた空性の意味である空性=中道=不生不滅の縁起が理解されていないのなら、般若心経に対する著者の意見は全く無視してよいものであることは、確信をもっていえると思います。
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23、25のaoumigameです。


 『般若心経は間違い?』は、般若心経を手がかりにして、釈尊の教えを広く日本人に紹介する試みです。
 そこが理解されていないようです。
 「この本の著者は、大乗仏教の理解が浅い」といった批評は、「インドのカレーは、日本のカレーとここが違います」と言う著者に向かって、「あなたは日本のカレーについて、まるで知らない」と言うのに似ています。筆者は、創意工夫に富んだ日本のカレーを引き合いに出しつつ、あくまでオリジナルのインドカレーの素晴らしさについて語っているのです。著者はスリランカの方ですが。
 そもそも仏教は「生きる苦しみを解決するための実践」ではないでしょうか。ですからテーラワーダ仏教は、「人格向上のために実践すべきことを伝えないなら、それは無駄話だ」(P.134)という立場です。「釈尊の教えは正しいのだから、しっかり守り伝えなくてはならない」とも考えています。
 頻繁に取り上げられる点について、ごく簡単にテーラワーダの見解を述べると、次のようになろうかと思います。
 「色即是空」は「諸法無我=諸々の法(もの・こと)は、全てが自己ならざるものである」(ダンマパダ279偈)から導き出すことができ、仏典に根拠がある仏説です。異論ありません。
 「空即是色」は、仏典に根拠がありません。
 大乗仏教が構築した空論や、観自在菩薩の立場・役割については、大乗仏教のテキストを参照いただければよろしいかと存じます。
 お幸せでありますように。
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Ano.15、Ano.18のbonbonniereです。

「般若心経は間違い?」を入手しましたので、私の見解を述べます。
まず、最初からこの著者は大乗の教えを何も知らないと思ったのは、観自在菩薩の立場です。
観自在菩薩は願生(がんしょう)の菩薩といわれています。願生とは、わざわざ苦しみの多い世界に自ら赴いて、苦しんでいる人々の力になりたいという大慈悲心の命を実現している菩薩です。その願生の菩薩には、仏になろうという修行の途中で、苦海に降りていく方や、もう絶対仏とならずに、いつまでも苦しみの多い生死の世界にとどまりつづけようとする菩薩がいます。また、すでに仏となった方が、わざわざ仏国土を出て、菩薩の姿をとって、地獄・餓鬼・畜生の命が充満している娑婆世界に入っていく場合もあります。観自在菩薩はどのような願生の菩薩であるかと言いますと、仏から降下して私たちを救済している菩薩です。法華経の普門品では無尽意菩薩がさしあげた瓔珞を、観世音菩薩は一分を釈尊に、一分を多宝仏の塔にささげたとあります。仏教では古来、このような象徴的行為を考えあわせて、久遠実成の釈迦牟尼仏が大悲の心によってこの娑婆世界に現れたものと解されています。釈尊は開経宣言において、比丘たちよ、遍歴せよ。多くの人々の利益のため、多くの人々の安楽のため、世間に対する哀れみのために」と述べています。大乗仏教における仏菩薩は、釈尊とはひとり瞑想をして自らの解脱のみを求めるのではなく、その本性は一切衆生への慈悲心にこそあるのだという歴史的釈尊のこころの追及から生まれたものなのです。


龍樹は『中論』において「二つの真理に依拠して、諸々のブッダは教えを説いた。世間世俗の真理と勝義の真理としてのである。この二つの区別を知らない人々は、ブッダの教えにおける深い真実を知らないのである。言語習慣によらなえければ勝義は示されない。勝義に到達しないならば、涅槃は証得されない。」と説かれています。釈尊、龍樹の覚られた真理には、勝義諦の真理と世間世俗諦の真理の二つがあることを理解する必要があります。釈尊は覚られた後、現象界を観察して明らかにした縁起の教え、またこの縁起の教えから導かれた真理である諸行無常・諸法無我・涅槃寂静の真理は世俗諦の真理になります。世俗諦の真理とは勝義諦の真理に対して世俗諦なのであり、私たちの日常世界における世間的真理ではないことは申すまでもありません。

では勝義諦の真理とは何かといえば、『中論』の帰敬偈にある有名な不生不滅・不常不断・不一不異・不来不去の八不の中道の境地です。空とは勝義諦の真理においてはただの縁起ではなく不生不滅の縁起なのです。深い瞑想の中で龍樹が到達した境地としての一切の二元対立が死滅している世界とは、『中論』に「心の対境が滅したときには、言語で表されるものもなくなる。というのも法性は不生・不滅であり、涅槃の境地のようだからである。」とあるように、空性の覚知とはまさしく涅槃の境地であり、「諸々の戯論によって戯論されることなく、無分別で、異なったものではない」世界のありのままを覚知した真実の世界です。これは、釈尊が『聖求経』において説かれた不生・不病・不老・不死なる涅槃の境地でもあります。龍樹が釈尊の四禅三明の覚りにあるように、自らの過去世を遠くまで見通していたかはわかりませんが空性の覚知にあっては同じ覚であったわけです。般若心経に説く不生不滅・不垢不浄・不増不減の世界です。この本の解説には大乗の空の本義を知らず、空を現象世界における無常と短絡的(初期仏教的)に捉え、「人は現れたり消えたりするでしょう?赤ちゃんから大人になると、体重も体積も増えていくのはあたりまえでしょう?」などと批判していますが、大乗における空=中道が理解できなければ止む終えないことといえます。ゆえに、龍樹の『中論』を「他の人の教えを破るため」の書という見解しかもてないことになります。龍樹は『中論』のなかで、空=八不中道の教えを宣揚することにより、結果的に二元対立の価値観のすべての思想を打ち破っているのです。「言葉という不完全なものを駆使して「完全に語る」ことはありえないのです。」と著者のいうように、勝義諦の真理とは言葉の否定によるしか表現できないのです。しかし、勝義諦の真理は存在することを聖者は衆生に説かなければならないゆえ否定の言辞であえて指し示すのです。

したがって、『空』ということばを無常、無我と同じ内容を表す言葉として使うのは世俗諦の真理においてであります。大乗仏教における空の覚り、それは釈尊の空の覚りでもありますが、それを世俗諦の真理としてしか捉えることができないのなら、大乗の空=釈尊の覚にあまりにも暗いといわざるをえません。龍樹は空=無常の見解を持つ人を指して、「あらゆる見解を脱するために、勝者(仏)によって空性が説かれた。もしも空性の見解を抱くならば、その人々を治癒し得ない人と呼んだのである。」と説かれています。大乗仏教における勝義諦の真理における空とは縁起の世界=空の実相を離れた八不の中道の境地のことです。

また、この書においては「全部空っぽだといったら、人を殺したってそこに実体がないことでしょう?」などと空=虚無(ニヒリズム)が指摘されております。このような見解は大乗の唯識の論師達によって空を曲解して解釈した空邪見として罵られた見解です。唯識の誕生の背景もこのような空邪見に陥ってしまった人々に対して、あえていえば、勝義勝義諦から世俗勝義諦の立場にたって、空性の覚りにおける実践者のこころの問題に焦点をおき、空邪見の人々を救うために識というもはあると説いた教えなのです。無論、識とはアートマンのような何の変化もない常住の存在ではなく、五感による知覚作用、意識による認識・判断作用により一瞬も変化してやまない縁起の存在であり、空なる存在です。

この本の間違いの根本は勝義諦の真理としての空=中道の真理を世俗諦の真理としての空=無常と貶めていることにすべて起因しています。

空=八不中道の理解がないゆえ、「空と無は両立しない」ということになるのです。龍樹は『中論』と並び勝義諦の真理としての空=中道を説いた『六十頌如理論』の中で、愚者の執着と賢者の無所得について説き明かしています。戯論寂滅の中道の境地にあっては、すべての執着から離れるわけですから、自分の対象として捉えることのできるものは何も無く、一切の執着を離れるのです。釈尊の四聖諦等の真理を否定しているのではなく、空=中道の覚の境地におけるこころの実相を説き明かしているのです。また、一切皆空の知見にたてず、五薀、十ニ処、十八界という現象面における勝義諦の真理に対する世俗諦の真理に執着し、我空法有の立場に立ちゆえ、色を肉体という個としてしか捉えることができず、色をすべての現象界に現れたものという知見に立てないことになります。空即是色の誤った解釈も、その根本の原因はどこにあるのかを問えば、一切皆空=中道の知見に立てないことにあります。

今日の世界にあっては、究極的な物質と思われていた素粒子でさえ、瞬間瞬間、生成と消滅を繰り返している空なる存在です。一切皆空=中道の教えからすべての宗教が展開すべきことは、宗教と科学の両面から人類が明らかにした英知でもあるのです。
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kanjizagooさんが問題になさっている箇所を引用します。

お読みの方がご判断ください。
■真理の定義と、ブッダの能力について言及した箇所 P.5
 お釈迦さまは誰でも理解できる言葉で、真理、すなわち「普遍的で客観的な事実」を完全に語りました。
 ブッダ以外、完全に真理を語れる人はいません。完全たる悟りに達していない人々は、たとえ高度な知識があったとしても、たとえ高度な精神的境地に達していたとしても、言葉という不完全なものを駆使して「完全に語る」ことはありえないのです。正覚者でない限りは、真理は完全に語れないのです。どんなに頑張って深遠な教えを表現しようとしても、どうしても、欠点・欠陥が起きてしまうのです。
■真理と、無常、苦、無我、空について言及した箇所 P.60-61
 さらに問題になってくるのは、「空は、すべての現象の本来の姿を指す単語の一つにすぎない」ということです。現象の本来の姿について、「空」と言っても「無常」と言っても、「苦」と言っても「無我」と言ってもいいのです。空も無常も苦も無我も、真理を語る同義語ですが、ただし空としか観ないなら、それは足りないのです。
 パーリ経典では、「変わらぬ実体がないので空という。したがって色は空である」と言います。はっきりと「我もないし、我に属するものもないから空である」と言明するのです。そこで「我がないといっても、違うのではないか」と反論されたら、「でも無常でしょう。無常はあなたにも体験できるでしょう」ということで、しっかり立証した上で語ります。
 無常はなんとかして、経験、体験できるのです。だから現象の観察は、無常から始まるのです。無常であること、すなわち「常に変化する」ということは、「変わらないことはない、永遠ではない」ということでしょう。永遠でないのは「変化しない実体のようなものはない」ということですから、「無我」ということになります。無我だからこそ、その同義語として「実体がない、空っぽ、空である」と言えるのです。
 いきなり「色即是空」というのは、ちょっと気の利いたフレーズではありますが、うかつに言うべきではありません。だから初期仏教はその辺で遠慮して、同義語を沢山入れておくのです。
■空即是色の問題点を指摘した箇所 P.61-62
 「色即是空」、すなわち「肉体は空である」というのは仏教的に正しいのです。肉体には実体がなくて空なのです。
 しかし『般若心経』は、次に「空即是色」、すなわち「空は肉体である」と言ってしまうのです。これは間違いです。
 わかりやすい例をあげましょう。
 「リンゴは果物である」というのは正しいのですが、「したがって、果物はリンゴである」というのは間違いなのです。
 「人は死ぬべきものである」というのは正しいのですが、「したがって、死ぬべきものは皆人である」というのは間違いなのです。
 同様に「肉体は空である。実体がない」というのは正しいのですが、「したがって、空は肉体である」とは言えないのです。だから「色即是空」で止まるべきなのです。「空」を知っている人なら、空即是色とは言いません。
 「2+2=4」なら、ひっくりかえして「4=2+2」でも同じです。「A=B」なら「B=A」なのです。それはいいのですが、何にでもこの式を使うべきではありません。そのことを『般若心経』の作者は、わかっていないのですね。これは実践的な経験・能力のない人が犯す失敗です。
 そもそも空は、実践するものなのです。冥想して無常を発見して因果法則を発見して、現象が現れて消えることを発見してどんどん発見して実体がないということを発見すると、心が無執着状態になって、解脱涅槃に達するという実践なのです。実践論は哲学になりません。哲学というのは観念的なもので、哲学をやってもあまり役に立たないのです。
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 「反論」だけ読んで、著書のほうを読まないで論評するのもどうかとおもったので、『般若心経は間違い?』を買って読んでみました。


 書名は、『般若心経は間違い』ではなく『般若心経は間違い?』です。

「まえがき」を見ますと
 “お釈迦さまは誰でも理解できる言葉で、真理、すなわち「普遍的で客観的な事実」を完全に語りました。ブッダ以外、完全に真理を語れる人はいません。   正等覚者でない限りは真理は完全には語れないのです。”とあります。
  「普遍的で客観的な事実」というと「誰でも知っている当たり前の話」という意味でしょうか?
 「誰でも知っている当たり前の話」がブッダ以外完全に語れる人がいない、とはどういうことでしょうか?
 「事実」って裁判なんかで問題になるあの「事実」?
 国語辞書によると、「真理」とは、“いつどんなときにも変わることのない、正しい物事の筋道。真実の道理。”と、なっており、「事実」というのとは違うように思えるのですが。

 最初からつまづいてしまいましたが、気を取り直して、問題の「空即是色は間違い」という項目に進みます。

 すると、“「色即是空」、すなわち「肉体は空である」というのは仏教的に正しいのです。肉体には実体がなくて空なのです。”、“「A=B」なら「B=A」なのです。それはいいのですが、何にでもこの式を使うべきではありません”とのことです。
 つまり、「色即是空」は「A=B」で正しい。しかし、「空即是色」は「B=A」だから正しくないというのです。
 「色=肉体」、「空=実体がない」と当てはめると、「肉体=実体がない」では等式になりませんから、「色即是空、空即是色」というのは間違いとわかります。けれど、「色=空」は正しいけど、「空=色」は間違いとなると「禅問答」のようでよく分かりません。
 しかし、通常、「色」は「物理的現象」と訳されていますから、「物理的現象=実体がない」、「実体がない=物理的現象」ということになり、「A=B、B=A」が成り立つように見えます。つまり、「物理的以外の現象=実体がある」、「実体がある=物理的以外の現象」と、逆に考えれば良いわけです。これは「空論」としては少し変かも知れませんが、文章としては問題ありません。
 数学的に「A=B」という等式が成り立つためには、ただ「A」と「B」に、どのような式を当てはめるかだけの問題であり、「A=B」は正しいが「B=A」は正しくないといことはあり得ないはずです。
 「色=空」が間違いというなら、「色」と「空」それぞれに何があてはまるのか、定義が必要と思いますが、『般若心経』は、ただ「色=空」と言っているだけですから、それが間違いというのは、その人が「色」と「空」をどう定義したかだけの問題ではないでしょうか。
 ましてや、「色=空」は正しいが、「空=色」は正しくない、と言うのは、宗教的価値観としてはどうか分かりませんが、論理的にはどんなもんでしょうか。
 
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 仏陀は「真理」、すなわち「普遍的で客観的な事実」を発見しました。

その真理に基づいて、「このように生きるなら幸せになります」と説いたものが仏教です。仏教は、真理、事実に基づくから普遍的なのです。
 「真理」といっても、理解しがたい神秘的なものではありません。「一切は瞬時に変化している。無常である」という事実です。これを「苦」といっても、「無我」といってもよいのです。「無我だから実体はない」ということで、「空」といってもよいのです。
 これほどシンプルなことが、なぜ課題となるのか、出家して修行する人までいるのかというと、それは「私たちが事実を受け入れない」からです。事実から目をそらし、都合のよいことを妄想するからです。
 生命は「無明」です。本来、真理を理解しません。だから冥想によって現象を観察して、無常を体験的に理解しなければならないのです。
 般若心経に、事実が書いてあるなら立派です。
 しかしそうではないのです。事実誤認が多々あります。仏陀が親切に明かしてくれた真理を、わざわざ否定した記述もあります。
 これはとても残念なことです。事実を踏まえて語るから、生きるうえで役に立ち、意味があるのです。そうでなければ、現実に幸せになることはできません。意味不明な呪文を唱えて幸せになれるのは祈祷師だけです。
 「空即是色」は、一言でいうなら「事実でないから間違い」です。どんなに精緻な論理を組み立てても、誰もが体験的に確かめられる事実でなければ、役には立ちません。
 本書は、仏陀の教えをもっとも忠実に伝える上座部仏教の長老が、般若心経を手がかりにして仏陀の説いた真理にアクセスする道筋を示したものです。仏教を知らない我々のために、仏教経典でないものを詳細に解説してくださった長老に深く感謝いたします。
 仏陀の真理は、教わらなければわかりません。えらそうに書いている私も、少し前まで知りませんでした。「仏教って、何が言いたいのかわからない」。そう思っていました。
 般若心経にしても、我々は仏陀の直説と信じていたから、一生懸命理解に努めてきたのです。いろいろ変だなと思うこともあり、それでも「お釈迦さまが、おっしゃったことだから正しいのだ」と思い直して、いろいろこじつけてアクロバティックな解釈をしてきたのです。「空即是色」の解釈も、そうしたものの一つです。
 仏陀の説かれた真理は、誰かの専売特許というわけではありません。著作権はフリーです。仏教はそもそも中国経由の頂き物で、遅まきながら本物が届いたのだから、そちらを勉強すればよいのです。もろもろの祖師方が現代にいらっしゃれば、誰よりも喜んで耳を傾けたことでしょう。
 我々日本人は、いろんなものを貪欲に取り込んでアレンジするのが得意な民族です。一人の日本人として、現代の日本仏教が、上座部仏教が伝える仏陀の真理を貪欲に消化吸収して、再び衆生に有効に語りかける宗教として再生することを願います。殺伐とした世の中が、微笑みに満ちたものになることを願います。
 生きとし生けるものが幸せでありますように!
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 スマナサーラ氏は、「色即是空」は正しいが、「空即是色」は間違い、と言いますが、


 「色即是空」の意味は、「色=空」であり、「色は空に含まれる」ではありません。
 「色即是空、空即是色」と反復しているのは、「色=空」を強調、確認するためです。
 「色即是空」は、「りんごは果物である」と言っているのではなく、「フルーツは果物である」と言っているのです。
 「空即是色」が間違いなら「色即是空」も間違いというべきです。

 と、いう意味の反論ブログが出ていました。
 http://blog.nanka.biz/?eid=349721

 文章を書いてあるとおり、素直に読めばそうなる、ということだと思います。
 
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大乗仏教徒が上座部に持った不満は、


上座部仏教が、ヒンズー教(当時のバラモン教)のような現世利益(物、金、地位、権力、など)をほとんど説いていないことだったと思います。

ヒンズー教では、神々を信仰しお布施をすればご利益が得られます。

大乗仏教では、それにならって、多くの仏を創作し、仏を信仰してお布施をすれば、ご利益が得られることにしたのです(本当にそうかどうかは別にして)。

ですから、大乗仏教とは、ヒンズー教に最も近いです。ヒンズー教を信仰しても、大乗仏教を信仰しても、仏陀にはなれません。

結局、インドでは、ヒンズー教のほうが人気があって、大乗仏教さえ残りませんでした。
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