【大喜利】【投稿~9/7】 ロボットの住む世界で流行ってる罰ゲームとは?

縁覚界にいる人は具体的にどのような方ですか?

どのような方を指しますか?

A 回答 (5件)

危うい悟りの世界の住人かもしれませんね。


雨がふれば雨を感じ、風が吹けば風を感じる・・・といった
ありのままの出来事から、その本質の素晴らしさがあると思ってしまうような人です。
すべては真理からの知らせだと誤認してしまう。
見えるもの、聞こえるものに頼るという有相の世界の住人です。
有相に溺れて、そこに留まってしまっている。

雨がふれば雨に濡れてもいいと思い、風が吹けば風に吹かれてもいいと思う。
曇りの日には影のない静けさを感じ、晴れた日には光と影の競演を見る・・・といった
この世界が真理の顕れだと感じていながら、それ以上進もうとしない怠け者です。

この回答への補足

雨情、風雷…
ある意味詩人的で本質に目覚めさせる才能の持ち主なんでしょうか。
技術力は高いと思われます。
>それ以上進もうとしない怠け者。
始めがあって終わりがある。
ゼロからスタート。

補足日時:2012/04/19 07:22
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>>仏の声聞により縁によって悟るとは、どういった悟り方なのでしょうか?


>>必ず的中しているのでしょうか?

〇声聞、簡単に言えば聞いて知識的に悟ることですね。縁覚も同じです。知識的に悟ったことを、縁のもとで体験していくという悟りですね。 仏教的悟りは、仏陀のもとで学べば外すことはないということですね。例えば、二河白道のたとえを知っているでしょうかね。回り中が煩悩の嵐の中に一本の細い白い道があるという例えですが、一本の白い道とは仏陀が指し示す道のことですね。
仏陀が指し示す道が無いと、悟りの道など探しようがないということでもありますね。
声聞・縁覚以外の悟りの道は、一人悟りの道ですね。一人悟りの道で成功した人は釈尊入滅後2500年の歴史においても数えるほどしかいないということです。つまり、失敗の歴史なんですね。
例えば、天台智顗の経文のみで、仏教がわかりますか。空海の経文で仏教がわかりますか。あるいは山のような経文を読んで、何を言いたいのかわかりますか。なんですね。解釈本は山のようにありますが、当たっているのかどうかもわかりませんね。まあ、ほとんど間違っていますけどね。
そりゃ、ご本人に聞かない限り理解はできないでしょうね。仏陀本人から教われば、わかりますね。それでもわからなければ、そりゃ悟りなど得ようがないでしょう。
仏陀の時代に生まれ、声聞・縁覚にならない限り、悟りの道に入ることは無理ということですね。
歴史上の成功者は、過去世で、仏陀のもとで声聞・縁覚の経験を積んだ人なのですね。
まあ、そういうことです。

この回答への補足

仏と結縁するが故に一切の佛と相見みえ、一切聖衆に守護せられて白道行かん
願わくば縁者に幸あらんことを

補足日時:2012/04/16 05:33
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 こんにちは。



 ★ ~~~
 縁覚界にいる人は具体的にどのような方ですか?

 どのような方を指しますか?
 ~~~~~
 ☆ あなたであり わたしであり みなさんです。

 つまり すべての人です。言語習慣を身につけているなら 例外はありません。

 ただ そのハタラキが現われているかどうかは 別であるかも分かりません。


 問題は 特別なひとが 特殊に存在すると思うこと(思い込むこと)がいけません。そういうものです。さとりとは。

 だって 万人が仏性をその身と心に宿すと言うぢゃないですか。
 仏性なら 縁覚をもむろんふくみます。



 ちなみに 物言いを添えます。
 自分が縁覚界にいないと言い さとりを得ていないと言いながら そのブッダのさとりを説明する場合があります。これは 無免許運転でしょう。
 自分で自分に免許皆伝させれば それで OK なのです。そういうものです さとりとは。
 さもなければ 末法の時代には さとりが分かる人間はいないとはっきり言っていなければなりません。
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>縁覚界にいる人は具体的にどのような方ですか?



☆~~~
縁覚(独覚)とは、”縁起の理法”をみずから悟り、縁起の理法にしたがって瞑想、修行をする人のことです。縁覚に「縁」の字がついているのはこのためです。また、独覚に「独」の字がついているのは、自力で”縁起の理法"を悟ったため、また、その修行は自己救済のため、だからです。
したがって、縁覚は、いわゆる仏教の信者や仏教修行者ではありません。釈尊の教えを聞き、それに基づき修行を行う声聞とはまったく無関係な存在です。
(仏教では、声聞より縁覚を上位の存在ととらえます。そして、究極の悟りに到達するまでの時間も短い、という立場をとります)

また、縁覚界というのは、地獄や天界・神界のようにこの世・現世とは別な世界ではなく、この世・現世にあります。
と言うよりも、縁覚界は、縁覚の瞑想時の心的状態です。物質的な世界・色界(しきかい)を飛び越え、瞑想時の精神が純粋な精神世界(無色界)に入る、そんな感じの世界です。だから、瞑想が終われば、当然、この物質的な世界に戻ってきます。

☆~~~
こう言うと、仏教関係の人からクレームがきそうですけれども、
究極の悟り(成道)に到達する以前の、歴史的人間である、お釈迦様も縁覚の一種と考えることができます。成道以前のお釈迦様は、誰から教えられることもなく自力で”縁起の理法"に到達し、自己救済のためにひたすら努力したのですから。
なので、歴史的な釈迦があくまで人間であったように、縁覚も普通の人間です。人間を超えた特別な存在ではありません。

この回答への補足

回答ありがとうございましたm(_ _)m
我色界を万宝と見るですか?

補足日時:2012/04/16 09:17
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縁覚界にいる人は具体的にどのような方ですか?


どのような方を指しますか?

○縁覚というのは、声聞になりある程度自分づくりができた状態人のことですね。広義の意味で身の回りに入る立派だなあと思える人が、だいたいそのような人ですね。
仏教での厳密な意味での縁覚は菩薩界以下ですから、アラハン果、アラハン向ぐらいの境遇ですね。
仏陀に帰依し声聞となり死ぬまて修行して、目指すところがアラハン向、アラハン果ですから、その辺が縁覚界ですね。たくさんいますね。菩薩のように仏国土建設にいまだ名を残してませんから、無名ですね。
釈尊の時はアラハンが500名とありますので、仏陀再誕の時代に生まれない限り難しいですね。
仏陀がいない時は声聞になれませんから、縁覚もないですね。釈尊以降は、菩薩以上のものが過去に仏教の新宗派を起こしただけですね。声聞も縁覚も真似事だけですから成功例は稀有ということです。
絶望的かと言えば、ところがどっこい、仏陀は3000年に一度咲く優曇華のように再誕しますから、再誕を狙って生まれて声聞になる道はあるのですね。釈尊入滅から2500年以上経ちましたから。仏陀を探して3000年の転生ですね。仏教が死んだ末法の時代はチャンスの時代でもあるのですね。
チャンスをゲットすれば声聞になれるわけですね。それで、私は今聴聞ですから、あなたの質問にもなんなくスラスラと答えられtるのですよ。悟りたいのならまず仏陀を探して聴聞になることですね。あなたのすぐそばにいるはずですよ。このチャンスを逃せばまた、3000年の悔悟の転生ですよ。
気づくといいですね。

この回答への補足

回答ありがとうございます。
仏の声聞により縁によって悟るとは、どういった悟り方なのでしょうか?

必ず的中しているのでしょうか?

補足日時:2012/04/12 21:01
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