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とても稚拙な理屈だと思うのですが(なんとなく)、でも、やられっぱなし、というのもなんか釈然としませんよね。
どうすることが、正しい選択なのでしょう?

やられたららりかえすなんて、子供じみたことはしたくないけど、ただだまっていれるほど、人間は強くないと思うし・・

いろんな意見待ってます。

A 回答 (12件中1~10件)

「目には目を」が稚拙な理屈かどうかは、


稚拙な俺には分からないけど、
「やられたらやりかえせ」とは明らかに性質が違うと思うのです。

もし、賠償制度や「個人的」復讐の風習が、
ハンムラビ王よりも先立って存在したのだとしたら、
「目には目を」の復讐法はその後の世界を決定付けた
新しい法体系なのかもしれないと思うのだ。

なんつっても市民のいざこざは当事者や当事者の部族が
あーだこーだ口を出す以前に、
国家権力様がよろしゅう裁かせていただきますわって。だから、
「目を失ったら、目を失わせてよい」ではなくて
「目を失ったら、目を失うことになる(失わなければならない)」という、それが「法」なのだ。

なるほど今日でもやっぱりあるし?
加害者よりも被害者のほうが何となく損しちゃうって話。
「目には目を」が目指すのは、どこまでも社会体制の維持であって、
やられちゃった被害者にとってはあとの祭りにちがいないのだ。

つまり、およそ男たるもの誰もが羨む、
黒色巨大男根を思わせるあのモニュメントは、
創世記のレメクをして七十七倍とまで言わしめた私刑の権利を、
個人の手からからお取り上げ、
権力者の手へと委譲しちゃった画期的新機軸と考えてみるのもありかなと。

わが国の最も権威ある時代資料であるところの
「水戸黄門」(TBS夜8時絶賛放送中)によれば、
日本にはちょっと前まで、権力が私刑を認める制度が存在したようだ。
悪役のベテラン俳優が名もない子役(おおむね姉弟)によって、
――そして何故か場外から助太刀に入る水戸黄門――切り殺される、
人殺しが涙とともにあっぱれ絶賛劇にまで高められる、そう仇討ちだ。

仇討ちと復讐法とは性質が違うという
マニアな批判の声はあるのだけれど、
被害者側の心情としてはひとまず筋が通り、
それでいて社会制度もまた2世紀半にわたり安泰となるのだから、
江戸の権力機構ってすごいんだなあと感心しちゃうのだ。
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目には目を、歯には歯を。


これがもっとも素直な感情だと思います。やられたら、同じ事をやり返す。世の中には殴られても、近親者が傷つけられても、「しょうがない」とニコニコ愛想笑いする聖人君子もいるでしょうが、ほとんどは凡人です。

生存権の侵害には強く抵抗しなければ、生存できません。しかし、社会生活をする上で、復讐の権利の行使を個人や団体に認めると、いろいろ問題がでてきたので、個人の復讐権を取り上げ、権力が代行して行使するのが、刑法と思います。権力がそれ相応の復讐をしなければ、クレームが付きます。

光市の事件では、目には目をの原則を大きく逸脱しているから、多くの国民がおかしいと感じていると思います。たまたま、日本の例を挙げましたが、世界の人々の共通の認識であり、感情だと思います。

世界規模で見ると、国連が個々の復讐権を取り上げることが出来ないので、復讐が復讐を呼び、泥沼化しているところもあります。もうどちらが悪いと言う世界ではなくなっています。
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ANo.9です。



>世界中に復讐した人を苦しめることは良いことだと主張しているので、もし、自分が同じように運悪く復讐される側になったとき過度に復讐される可能性も否めません。

を間違えました。

正しくは

「世界中に加害者を苦しめることは良いことだと主張しているので、もし、自分が同じように運悪く加害者側になったとき過度に復讐される可能性も否めません。」

です。すみません。
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 確かに美しい世界ではなく、苦しみの世界でありますから、憎しみや復讐心が止められないのはしょうがないでしょうね。

やり返すのも得策でしょう。
 ただ、そういう感情を抑えられたり、加害者が損害賠償をある程度支払ってもらっているのに、まだなおやり返すのは、犯罪行為と同じで狂気を感じます。
 世界中に復讐した人を苦しめることは良いことだと主張しているので、もし、自分が同じように運悪く復讐される側になったとき過度に復讐される可能性も否めません。
 だから、適当に復讐すればいいのではないでしょうか?
 やりすぎもいけないし、やらなすぎもいけないと言うような。
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<目には目を>は復讐を合法化しているように思えるのですが、それじゃあイタチごっこで解決しないですよね。




<目には目を>のもう一つの解釈。


「他人の目を傷つけたものは、同じ程度の痛みを後に経験する。
噛み付いて相手に痛みを与えたものは、後に同程度に痛みを味わう。
あなたが報復をするのであなく、天に審判を負かせ、あなたはその復讐の連鎖を断ち切り生きなさい」


復讐の連鎖を断ち切る。
被害の程度が大きいほどに、断ち切りの難易度は高くなる。

やられっぱなしだと、生存も危うくなるケースもあると思うので、、、、

あまりにも巨大なマイナスのエネルギーを持つ相手の場合、復讐するより、復讐しないで留まるより、逃げることでもっと大きな災いを回避できると思うんですね。


物理的に距離を取ることで、自分が生存し続けられる場合もある。
毎日嫌な相手の顔を見るのって、拷問のようなものですよね。
憎しみは増す一方。

だから生存して、今より憎しみを減らしたければ、環境を変える。
相手を思い出す時間がより少なくなるようにすることで、相手の魔から逃れられるんじゃないかと。


理屈はそうですが、相手の魔に心をつかまれた人は、距離を取ろうと一日中相手のことを思うんですよね。

呪われたってやつでしょうか。
お祓いして呪いを断ち切るのも一つの手段かもしれません。

相手を呪わば穴二つって言葉ありますよね。
この場合、相手を呪ったため自分も不幸になるって考えだと思います。


でも、相手に祟られていた場合も、憎しみは日ごとに増すばかり。
相手の呪いの威力がでかすぎる。

お祓いするしかないかと。
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「稚拙」と御質問者様自ら仰いますが私は、こうした問題は、なかなか一筋縄で行かない難しさを孕んでいると常々思っています。



放置しておいたのでは何らかの組織が社会が、どうにも回っていかないような、たとえば凶悪さ歴然としているような犯行である場合など、一応、法治国家のもとでは法の名において裁かれ刑に服することになります。しかし、なかには犯行者不明のまま、お蔵入りということも、ままありますし、精神を病んでいるがゆえのことであった等、個人の責任を問えず刑を免れることもある、それが現実です。

たとえ、ささやかな趣味の集まり程度の組織であっても、そこにそれなりの基本的ルールが明示されている場合は、それに反する行為があった場合、明示されているルールに則って指摘や糾弾が可能ですが我々が日常で頭を心を悩まされる問題は、明確に法やルールに問えるレベルに達してはいない、しかし確実に、普段の生活を営むうえで平穏な心情を乱されるような問題、そういうことが多いでしょう。

私自身が日常の、こうした問題に直面したとき、まず判断のために考えることは、その問題が自分一個の範囲に収まる事か、そうでないかということが真っ先に来ます。
そうでない、ということには、第一に自分が属している組織体に対する影響、それから問題を引き起こしている相手本人自身への影響といったことも含まれます。
どんな小さな組織体であっても、そこから世間全体への影響を波及させていくことはあり得ますし、問題を引き起こしている本人自身のことを考えるとき、子どもに対する、しつけ的な目線で捉えていることもあります。こうした判断が関わってくる場合には自分一個の範囲で収まるであろうようなことよりも断然、対処は厳しくなります。
このような視点でみた場合、自分さえガマンして泣き寝入りすれば、ことを荒立てずに済む、といった一見けっこうな処しかたは卑怯姑息とも言えるものだと思います。それは自分さえ得であれば、という自己中心的考えかたと根本で共通するものです。尤も消極的か積極的かという違いはありますが。
まず、このへんの判断力が当事者に問われてきます。


『ハムラビ法典』のことが挙げられているようですが例の有名な「目には目を歯には歯を」このあたりの公明正大な線引きが、なかなかに難しいこと、それは、いかに人間という者が往々、自らの損失というものを過大に評価しやすいかという心理を突いているところでもあると思います。
だからこそ第三者つまり司法の手に委ねようとするわけですが、それによって下された判断が被害当事者にとって不満を招く事態になりがちなことも、よく見かけることです。それは加害者側にとっても同様です。そのくらい人間は自分一個の損得に過剰なまでに敏感な人が多い。
法には問えず、さりとて傷つけられた自分の心情に報いる手段も持ち合わせない、こうしたことは生きているうえで、いくらもあることでしょうが、このようなときに思い起こすのが
「復讐するは我にあり」
という新約聖書に出てくるということばです。
これは私個人的にも実感することがないではないことなのですが、確かに自分の力で目にモノ言わすことを抑えたことが、後になって、実力行使以上の恐ろしい結果をもたらすことはあるようなのです。
要は「目には目を」以上に恐ろしい報いを期待するならば「復讐するは我にあり」に任せるほうが結果は、むしろ効果的なのである、ということです。
ただ自分の目で確認できるかどうか定かでない、どれほど時間がかかるか不明であることが残念なところですね。でも、それこそが効果を高めるための代償となるのかもしれません。
それが待てないからと実力行使に及ぼうとすれば公明正大を逸脱してしまう恐れが付きまとい、そのことのために今度は自分自身が報いを受ける破目になることもあり得る。
しかも元々損害を引き起こした相手本人に対して、こちらが受けた損害以上のことを「オマケにつけてやる」ことは決してできないわけです。なぜなら先述したように、その「オマケ」は、やがて、本来被害者である、こちらに帰ってくるということなのだそうですから。


結局、自分一個の範囲内のことなのかどうか、自分一個のことであれば、そのことに飽くまで拘るのかどうか、そこの判断力と、それに基いた対処力、実行力があるかどうかということになってきます。
選択力は即ち判断力と密着しています。

尚且つ他者の心情を蔑ろにするということが、いかに取り返しのつかないことであるか。一度傷つけられた心の傷は、何度傷つけ返しても気が済むとは限らない…恐ろしいことです。

…いかがですか、そうとう難しい問題ですね。
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やられた内容によっても異なりますが、基本的にはやられたらやり返すのが適切でしかも必要な対処です。


ただし、やり返す方法は多様です。
暴漢に襲われて正当防衛的に肉体的反撃を加える必要のある場合もありますが、いじめなどに対する(無論、毅然とした)完全無視だって、相手の存在そのものを認めない(否定する)わけですから立派な反撃です。
また、そういった相手に対する憾みや・憎しみを昇華して、建設的な創造や社会的に有益な事柄に対する活動エネルギーに変換した人も大勢いると思います。
長い目で見て立派な、しかも有益な反撃と呼べるでしょう。

基本的には、(相手がそのことを知ろうが知るまいが)相手を精神的に超越するということが最大の反撃になると思います。
弱者として一方的に引き下がることは好ましくありませんが、反撃法は多様です。
あまりに直接的な内容の反撃は、自らを相手と同等に貶めるものですから事後自己嫌悪に陥る可能性が高いものと思われます。
 
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ビジネスやスポーツなど、キチンとルールが決まっている場合はそれに従うことになり、そうでないと罰せられるのでわかりやすいですよね。

また社内でのセクハラや近所の騒音おばさんのような問題は民事・刑事事件として法がキチンと裁いてくれる場合は多いので、そちらに任せることになるかと思います。
問題はその範囲外のもの、つまり、ルールがなく、また法で裁くために必要な客観性に乏しいく、また「運悪く喧嘩をふっかけれた系」のものだと思います。eiennさんの質問は、その点を強調しているかと察します。

たとえば、(1)「同僚の〇〇氏の自分に対する態度や冗談には悪意があり、自分にいつも公の場で恥をかかせるものである。何とかしたい。」とか、(2)「ルームメイトとアパートに住んでいるが、その人がルールを守らない」とか、いろいろ例は転がっています。
上記の例のような場合、大概自分自身のコントロール範囲外でことが進行しており、法に裁いてもらえる範囲外、且つ、黙っていると状況は悪化する類のものです(黙って無視していると、相手がそのうち飽きて去って行ってくれる場合もありますが、それは通常期待しないほうがよいですし、時間もかかるでしょう)。

個人的な見解としては、大胆、明確、且つ紳士的に「反撃」するのが1つの方法かと思います。
(1)の場合であれば、公の場で軽く侮辱された時、なぜそうするのか、としつこく聞く、他の同僚にも意見を求め、自分が不快に感じていることを明確にアピールすると効果的かも。
(2)の場合であれば、「ルールを守らないんであれば一緒に住めない。このままだと、俺、出て行かざるを得ない」と、背水の陣を張る、などです。

「やられたら、やり返す」は、すごくわかりやすく、効果的だと個人的には思います。一方、その「やり返す」方法を、大胆、明確、且つ紳士的にやるのです。相手にされたとおりのことで反撃するのではなく、相手の弱点を見つけ、そこを「紳士的」に総攻撃し、コーナーに追い詰める、ってやつです。言うは安し・・・・ですが。
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>ただだまっていれるほど、人間は強くない


この前提がある限り先には進めないんじゃないでしょうか。

選択するのは迷っている人だけじゃないでしょうか。
迷っている人が何を選択したとしても、また別の迷宮に入り込んじゃいますよ。
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 前の回答者もお答えのように、これは『ハンムラビ法典』の一説で、目をえぐられたら目をえぐる以上の罰を与えてはいけないということです。

しかもその後に「お金や物で解決できるのであれば、できるだけそ示談で解決してください。」という文章が続いていたように思います。

 しかし、日本においてはそうではありませんね。人を殺したからといって死刑になるわけではありませんし、ささいなことで殺されてしまったり。しかもそういった殺人は、殺しても死刑にならないからという理由でおこなわれたりましているわけで、さてそうなると「ハンムラビ法典」の理論と現在の日本の法律と、どちらが暴力的な理論なのでしょうかね??
 私自身は死刑の問題に関しては、明確な答えを持ち合わせてはいません。ただ、私は仏教を信仰する身ではありますが大切な人が殺されてしまったら、その犯人を殺さずにいられる自信ははありませんし、死刑にならなくては不服に思い発狂するかもしれません。または、泣き崩れて何もできなくなるかもしれません。そうなると、「ハンムラビ法典」に言う「目には目を、歯には歯を」という理論のほうが納得できるような自分もいます。しかし、殺人者は私の心の中にもいて、何か些細なことで「殺してやりたい」「殴ってやりたい」そんな心を棚上げした他人を攻めることができるのでしょうか。
 質問者もそのような思いでいらっしゃるのではないでしょうか。私自身はこういった問題にふれるにつれ、非常に愚かで無力な自分を感じさせられます。

 あなたの思いに思わず共感し、だらだらとした駄文を連ねました申し訳ありません。
 合掌 南無阿弥陀佛
 
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