生物史の本を読んでいて、ふと思ったことがあります。
「笑い」と抽象的思考=現生人類の思考法

直接的思考と「笑い」の貧相=ネアンデルタール人の思考
の差が、両者の運命を分けたのではないかと。

笑いというのはどうも現生人類に始めて許された感情的発露なんではないかと思いますね。つまり、抽象的思考が、人々を楽しませる土台を提供し、それが結束力にも現れる。終いにはCTスキャンなどを作るようになるということなんではないでしょうか?

やはり、絶滅した人類には抽象的思考や「笑い」がないのではないでしょうか?

あえて「泣き」は取り上げません。「笑い」よりも会の情動である気がします。

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A 回答 (7件)

「笑いとは緊張の緩和」というふうなことを言った落語家がいたように記憶しておりますが、それは或る面で「泣く」ことも同じだろうと思うのですが。

。。
笑い、と、ひと口に申しましても、いろんな種類のそれがありますね。
ネアンデルタール人の思考云々に関しては私に知識がございませんので、我々に、ごく一般的にみられる笑いには主に、どんなものがあるだろうかと考えてみました。

テレビで漫才タレント等が、おどけてやってみせることを観客が見て笑うとかいうのは、両者共に、その行為が本来的には合理的なものでないということが分かっている、その「お約束」があってこそ成り立つ笑いですね。つまり、先の御回答者様も仰るように「原典を知っていてはじめて笑える」ということになります。
ですから、ここの所を利用して、たとえば或る一つの集団内で、新しく入ってきた者には、その集団内で長らくまかり通ってきた習慣や暗黙の了解事等を敢えて伏せておくなどして、新入りを戸惑わせて優越感を味わったり笑い者にするということが割りに世間一般でも見られることのようです。
これは新入りの何を笑いの対象にしているかと言いますと、つまりは、(飽くまで)その集団内での、とるべき行動について新入りが適切な予測を立てられずに右往左往する姿を笑っているわけですね。ですから、予測を立てにくくするために、わざと判断材料を伏せておくといったイジワルをし易いわけです。
これが赤ちゃんを笑ったり笑わせたりでしたら、予測を立てる能力が発達していないことを慈しんでいるわけなのですが。

こうした面から推測しますと、笑いの対象になるものの主なものとして、合理的でない行動ひいては合理的であるかないかを判断する能力が欠けていることが笑いの対象になるという「お約束」があって、だからこそ、その合理性についての判断能力がないということを、わざと演出して笑いを誘う、という作戦が立てられることにもなるわけです。
そうしてみますと結局、知能の問題が関わってくるわけですね。

ところで、ここに、非合理であると判断する能力がなく非合理な行動をとってしまっている人を想定しますと、その人自身は決して笑いを誘うためでもなんでもなくして真剣な、或いは必死の面持ちで行動していることでしょう。
その行動が周囲に及ぼす影響の軽微であるうちは周囲は、これを笑って眺めていることができますが、これが非合理も甚だしい場合――極端には凶悪犯罪レベルの行動ともなりますと、これは笑うどころか青ざめることになるわけです。
ごくたまに凶悪犯罪の見聞に際して笑う人がいるそうですが、もちろん、これは本人に直接の影響が及ぶ心配のない余裕があってこその笑いです。ですが、そういう場面で笑いをもらす人を、今度は良識ある人が青ざめて眺めることになるわけです。
もちろん笑うことは免疫を高めるそうですから、それ自体は快の情動としてプラスの評価が与えられてしかるべきなのでしょう。
だからこそ凶悪犯罪等を見聞して笑ったりする人は、自分には影響を及ぼすことはないのだということを笑うことによって確認し、自分は守られている状態にあることを自身に言って聞かせずにいられない怯懦な人ということになるのかもしれません。

笑いとは、基本的に、非合理なものに際して起こるものであるが、その非合理性の度合いと、それが及ぼす影響によって笑いの種類が変動する、その変動のしかたにも心理的なものが出る、というまとめかたをしてみますと、笑いを誘う側、誘われる側双方共、いずれにせよ判断力また知性のセンスが問われることにかわりはないと思われます。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。そのとおりだと思いました。たいへん説得力があります。やはり、知的作業が介在している、「原典」や価値基準そういうものと不可分である一種の文学的行動が笑いだと思います。

お礼日時:2007/10/19 08:01

ネアンデルタール人とクロマニオン人の違いは、脳にあるのではなくて声帯にあると言う説を支持します。


人類が脳の進化を停止したのは、言語を獲得した時代と一致していて、ネアンデルタール発生のずいぶん前のことです。思考法と感情の形成を先天的な要素と後天的要素に分け、先天的にはネアンデルタール人に欠けていたのは声帯で発音できない音が多かったと言うことだけになると憶測しています。
後天的には親の影響を直接受けますから、声帯→発音できない音→コミュニケーション能力の不足→個体として思考能力の欠如となったのではないでしょうか。

つまり、ネアンデルタール人の脳は先天的には笑う能力を持っていたのではないかと思う訳です。結果としては、ご質問者様のご指摘の通りかもしれません。
ネアンデルタール人の子供を育てて確認してみたいものです。
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この回答へのお礼

肉体的条件から、知的発達を妨げられてしまったということは真実だと思います。われわれは幸運だったのか、その能力を伸ばせました。生物の可能性を最大限に生かしたんでしょう。その結果文学に到達した。

お礼日時:2007/10/19 07:55

こんにちは。



>「笑い」と抽象的思考=現生人類の思考法と直接的思考と「笑い」の貧相=ネアンデルタール人の思考の差が、両者の運命を分けたのではないかと。

ネアンデルタール人が何故絶滅したのかは分かっていません。ですが、彼らと我々ホモ・サピエンスは何万年にも渡って両存していたのですから、どちらかが生き残ったということは、そこには何らかの生態的地位の奪い合いがあったということです。
どのくらいの接触があったのかもまだはっきりとしていませんが、両者は食べ物と生息環境が同じなのですから、別に武器を持って奪い合いをしなくとも同種間生存競争は必然的に発生するわけですから、獲物を獲ったり身を守ったりすることの上手な方が生き残ります。
このように、我々人類の生存手段といいますのは唯一、この生き残りを有利にするための「高い知能」であるわけですから、その違いが両者の命運を分けたというのは極めて有力な考えだと思います。ですが、それが「笑い」であったと結び付けることはちょっとできません。何故ならば、我々ホモ・サピエンスの方に生存が許されたのは笑うことができたからではなく、飽くまでその知能が勝っていたからであり、「笑い」というものを理解し、それを使うことができるというのは知性が高いことの「結果の方」であるからです。
結果を原因にしてしまうわけにはゆきません。このような知能の高さといいますのは何らかの特定の能力をもたらすものではなく、与えられた情報に対する「処理水準の違い」としてありとあらゆる様々な結果に反映するものです。ですから、それが笑うことのできなかったネアンデルタール人の敗北の原因であったと限定するというのは少々乱暴な話だと思います。

>笑いというのはどうも現生人類に始めて許された感情的発露なんではないかと思いますね。つまり、抽象的思考が、人々を楽しませる土台を提供し、それが結束力にも現れる。終いにはCTスキャンなどを作るようになるということなんではないでしょうか?

果たしてそうでしょうか。
「笑い」といいますのは「情動性身体反応の表出パターン」が喜怒哀楽のひとつとして分類の可能となった状態を指すものであり、このような「感情分類」といいますのは大脳辺縁系という情動機能を発達させた我々哺乳類、及び鳥類などの高等動物には共通の特徴として存在するものです。ですから、情動といいますのは多くの高等動物が有する生得的な機能であり、そして、笑いとは「報酬刺激に対して発生する情動反応の結果」、それ以外の何物でもありません。従いまして、それは主人の帰宅を喜んで尾っぽを振るイヌの身体反応と構造的には全く同じものです。
このように、笑うというのは確かに人類に特有の行動ではありますが、それが報酬刺激に対する情動性身体反応であるという点では他の動物と何の違いもありません。では、質問者さんの仰る、これが人類のみに許された能力であるというのは、それは与えられた報酬刺激に対して笑うという反応を発生させるということではなく、「何を報酬刺激と判定して笑うことができるか」ということです。従いまして、これは先ほど申し上げました、与えられた情報に対する「処理水準の深さ」、即ち知性の問題であり、この知能の高さによって裏付けられているのが我々人間の卓越した「表象能力」であります。

「どつき漫才」などで漫才師が合い方を思い切り張り倒すのを見れば我々は「直感的な笑い」を得ることができます。これに対しまして、「知的な笑い」といいますのは漫才師のナンセンスなギャグや落語家の語りを追いながら知覚入力では獲得することのできない「思考結果に対する架空の報酬刺激」に対して発生するものを指します。ですから、イヌが尾っぽを振るというのは「直接的な笑い」と全く同じ単純な情動性身体反応です。では、ワンちゃんが時計を見て、そろそろ主人が帰宅する頃だといそいそと尾っぽを降り始めたとしますならば、それはたいへん高度な表象能力を持っていることになりますが、現時点では人間以外にそのような高い知能はまだ確認されていません。

さて、イヌやネコにも表象能力はあるのですから、ネアンデルタール人にそれがなかったとは考えられません。まして、彼らは我々ホモ・サピエンスとは最も近縁に当たり、その生態は他の哺乳動物とは別格です。では、もしネアンデルタール人が我々と同等の表象能力を持つならば、彼らが生き残っていたならば農耕文明を築くことができたはずですし、自然科学や運動力学を抽象化し、未知の結果を算出することができたかも知れません。
我々人類はこのようにして内燃機関を発明し、自動車を開発しました。これがどういうことかと申しますと、江崎玲於奈博士のように量子力学における半導体理論の天才的なブレイク・スルーがもたらされなければならかった事実は排除することはできませんが、CTスキャンが開発されたのは新人類に笑うことができたからではありません。「知的な笑い」といいますのは処理水準の深さによって裏付けられるものであり、それは飽くまでCTスキャンを開発することのできる人類の高度な知能の結果の方ということになります。
では、我々人間がその持てる表象能力を余すことなく発揮し、今日のような高度な文明を築くことができたのは、それは「言語の獲得」というものが圧倒的な容量を占めています。

果たしてネアンデルタール人にどの程度の言語能力があったのかは分かりません。ですが、これまでの考古学的発見と現在の脳科学の知見に基づき、我々の祖先と比べるならば彼らには思考能力と比例してコミュニケーション能力にもハンディがあったというのは間違いなさそうです。ならば、質問者さんがご指摘をなさいます通り、明らかにネアンデルタール人は「群れの結束」や「情報伝達能力」に劣っていたことになります。ですが、繰り返し申し上げますように、思考能力の差といいますのは特定の結果として現れるものではありません。従いまして、飽くまでそれは「総合力」においてホモ・サピエンスの方が勝っていたと考えるのが適切だと思います。

>やはり、絶滅した人類には抽象的思考や「笑い」がないのではないでしょうか?

ですから、「笑い」といいますのは報酬刺激に対する情動反応でありますから、このような情動表出はネアンデルタール人にも何らかの形であったはずです。違うのは、何を報酬刺激と判断するかという「学習結果の複雑さ」です。

>あえて「泣き」は取り上げません。「笑い」よりも会の情動である気がします。

実はこの解釈は逆さまでありまして、情動表出としては「泣き」の方が「笑い」よりも生理学的には構造が複雑です。何故ならば、「笑い」といいますのは報酬刺激に対してそのまま対応する情動反応であるのに対しまして、「泣く・諦める」という行動の選択が成されるためには、与えられた「嫌悪刺激」に対しまして、
「泣き:受動的回避行動」
「攻撃:能動的回避行動」
笑いとは違い、問題解決のための更なる判定が必要となるからです。
このメカニズムは極めて複雑であり、まだほとんど解明されてはいませんが、単純なモデルとしましても、「泣き」の方が「笑い」よりも構造的に1ランク複雑ということになります。
最後にもう一度申し上げますが、情動反応といいますのは判定結果に対して必然的に発生するものであり、飽くまで質問者さんがお考えになるその「高次性」といいますのは、「何に対してその判定を下すか」という個体独自の学習結果であることに留意する必要があります。この学習能力の高さが現在までの我々ホモ・サピエンスの存続を許しています。
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この回答へのお礼

たいへん長文かつ説得力のあるご回答ありがとうございます。たいへんわかりやすいです。
この質問は、知的作業のための条件、その程度を測るために「笑い」というのは一番よい尺度なのではないかという仮説から出発したのですが、どうも表現がわかりづらくてすみません。

お礼日時:2007/10/19 07:59

ネアンデルタール人が笑ったか否かがわからない以上検証できない仮説であるように思いますが,小林信彦氏の著書「日本人は笑わない」を思い出しました。



#2さんが述べられたように笑いにはさまざまなものがありますが,今の日本では原典を知っていてはじめて笑えるパロディーのような高尚な笑いが成立しにくいという指摘がありました。

歌舞伎や落語などに日頃から親しむ中で始めて理解できるユーモアがあるけれど,現在のテレビでは#2さんが「赤ん坊のほうがよくします」と言われたような幼稚な笑いが主であるようです。

ただ単に脳の機能の問題だけでなく,笑いを支える文化について論じなければならないと思います。脳の機能で論じるならば,他の動物を擬人化して比較しても無意味でしょうね。

質問者さんの説を実証するためには,少なくともサル程度に一般化して適応できる「笑い的抽象思考」の定量化が必要ではないかと考えます。
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この回答へのお礼

日本人に笑いはあまりポピュラーではないのかもしれません。一方ではよく笑うとの指摘もあり、捉え方次第なのでしょう。サルの実験程度の考察はいるのでしょうが、なかなかそのレヴェルでは深層に達しない気がします。文学が問題です。

お礼日時:2007/10/19 07:53

笑というのは動物にはないのではなくて笑うことが出来ないだけなのではないでしょうか?笑というのは感情ですからその感情が動物にないと考えるのはどうかと思います、逆に動物の方が豊かなのかも知れません。

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この回答へのお礼

そうかもしれないですね。もっと深いところに到達してかつ表現するかしないかの問題か。

お礼日時:2007/10/19 07:52

kaitara1ですが、笑いには冷笑とか嘲笑とか泣き笑いとか薄ら笑いとか照れ笑いなどの笑いもあります。

むしろ意外性から来る笑いなどは赤ん坊のほうがよくします。また忍び笑いというのもありますが、哄笑、高笑いなどには別の感情や意図を隠蔽する目的で行なわれるものもあります。これも貴説で説明できるものだと思いました。
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この回答へのお礼

笑いと一言で言ってもだいぶ幅のあるものです。

お礼日時:2007/10/19 07:51

笑いはいろいろな意味でのつじつまあわせだと思います。

つじつま合わせが必要のないような単純な思考にはつじつま合わせは必要とされないとすれば貴説は正しいと納得できます。
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この回答へのお礼

笑いの仕組み、理由など考えると難しいです。理論化したものがあるのでしょうか。一定の基準期待などがあるところから始まって、そこから外れたものがあったりする、その後の動き、統合するとかいろいろな動きに関して「おかしさ」というものが生まれてくるという例があります。これは、明らかに「抽象性」を要求しているわけですよね。
こういう「ああおかしい」という激烈な?感情は、実は高度な精神作用にしか生じません。

お礼日時:2007/09/25 07:14

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>疑問なのは、感情的思考者(特にある状況設定で後者の傾向に思考が傾いている人)が、理知的思考者のいうことを聞くと、どういう感覚を持つのかということです。

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感覚とか嫌悪感なら、自分で体験するしかないですよね。

人間には集団心理があるので、あなたの普段取らない思考過程を踏むグループに属してみるといいですよ。自分を無にして他人の価値観に自分をゆだねるのです。これが出来ないと、別の思考過程を踏む人を理解することは出来ません。

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Q理性行動/情動行動  文献を教えて下さい

理性行動について、
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上記の旨を論じた文献について、「どの本に載っていたか?」を思い出せず困っております。
(哲学系の文献だったかもしれません…。)

どなたか、ご教示頂けるとたいへん有難いです。
どうぞよろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

こんにちは。
#2です。
半信半疑、私も気になっておりましたので、早速のご返信ありがとうございます。

質問者さんのご事情は良く分かりました。レポート作成のための資料集めということですね。それでしたらこのようなものを題材になさるのは私としましても大賛成です。世の中にどんどん広めて下さい。但し、そのために質問者さんがお知りになりたかったのは、果たしてこれが「学術的な書籍からの出典であるかどうか」ということなんですね。
出典の所在には腑に落ちないところもおありかと思いますが、これに就きましてはどうぞご安心下さい。このような解釈は#1さんがご紹介して下さいました書籍「三つの脳の進化」の著者である「ポール・D・マックリーン」が論じました「脳の三位一体説」が根拠となっており、この仮説は現在「脳科学の主流」としてきちんと支持されています。
この「脳の三位一体説(三位一体モデル)」といいますのは近年の解剖学、及び生理学的知見を基に組み上げられたものでありますから、これ自体は学術的根拠としてそのままレポートに引用することが可能です。但し、これはきちんと申し上げておかなければなりませんが、「これ以降に展開された論説」といいますのはまだそれほど広く受け入れられているというわけではありません。
ですから、脳科学のレポートであるならば何の問題もないのですが、それが「哲学」もしくは「心理学」ということでありますならば、
「理性行動とは計画行動である」
いきなりこれでは読まされる方もびっくりしてしまうと思います。
もちろん、視点が「経験知」ということでありますからそのまま引用されると決まったわけではないのでしょうが、もしこのような解釈を持ち込むとしますならば、それにはやはり事前に根回しが必要です。ならば、私自身も堂々と公表しております以上それなりに責任もありますので、余計なお世話になるかも知れませんが、ここで二、三のアドバイスをさせて頂きたく思います。
済みません、ちょっと長くなるかも知れません。

何故「まだ広く受け入れられていない」とまで断言できるのか、これには理由があります。
これまで「理性行動」や「情動行動」といったものは単なる「概念」でしかありませんでした。ところが近年になり、従来の古典心理学と現在の脳科学の間に大きな「解釈の開き」が生まれてしまいました。これには磁気測定装置やコンピュータ解析技術など他にも様々な事情はありますが、その最大の原因と言いますならば、それはポール・D・マックリーン博士の「脳の三位一体説」なんです。そして、現在「脳科学者」と呼ばれる先生方のほとんどがこの学説を支持しています。
「脳の三位一体説(三位一体モデル)」といいますのは、
我々高等動物の脳はその進化の過程で、
「反応脳(生命中枢)」
「情動脳(大脳辺縁系)」
「理性脳(大脳皮質)」
この三系統に機能分化したというのが骨子です。
これまで「理性行動」や「情動行動」が概念であったのは、それは結果論的な「性質分類」であったということです。ところが、この「三位一体説」ではこれらを性質による分類ではなく、解剖学的事実に基づく「構造分類」として扱うことになります。
では、この最も顕著な例としましては、例えば「意識という概念」、これは我々の脳の生理学的構造と一致しませんので脳科学ではその存在が否定されることになります。もちろん、現在心理学ではこのような考え方は受け入れられていませんし、哲学であるならばそれを研究するのが本業です。
私はこの事態を相当の混乱と考えています。何故かと言いますと、これであの心理学者・フロイトがこけるんです。

以前このサイトで「フロイトの学説は現在では適用できない」と発言しましたら、やはりそれなりの反発がありました。かつて古典心理学を勉強しているために未だにそれを盲信している専門家さんもおられますし、フロイトの名前を出しただけで回答を鵜呑みにしてしまう質問者さんが後を絶ちません(もちろん、それを臨床治療に応用したフロイトの業績はたいへん偉大なものです)。
インター・ネットの意見交換であればこのようなことは日常茶飯事です。ですが、新しい考え方を取り入れるということは、質問者さんは提出レポートでこれをおやりになるということです。果たして、必要な準備は決して怠ってはなりません。
このためには、何故「理性」や「情動」といったものにそのような解釈が適切であるかを質問者さんご自信が理解をなさる必要があります。ところが、現在の心理学の教科書ではこの辺りがまだほとんど書き換えられてはいません。私が敢えて「古典心理学」という言い回しを用いるのはこのためです。そこで、まず書籍を探すならば「現代心理学」というのがひとつのキーワードになると思います。そして、ここならば少なからず三位一体説以降の解釈も取り入れられているはずです。
では、これを脳科学で探そうと致しますと、全体像・概論を纏めたものを入手するのが未だ極めて困難です。ならば、#1さんご推奨のマックリーン著「三つの脳の進化」は要チェックということになります。また、参考URL「回答No.7」で二冊ほど紹介してあります。たいした本ではありませんが、「最新の情報が手に入る」という点ではお勧めです。

「子供の成長は情動行動に対する理性行動の比率として現れる」
これは従来の心理学でも研究されていたことですから特に差し障りはありません。そして、国語辞典には「理性とは情動に捕らわれない判断である」と明記されています。
では、一般の認識といいますのは何処まで冷静なのでしょうか。
理性というのは即ち道徳だというイメージを持つひともいるでしょうし、かつて哲学には「それは人間に与えられた能力である」と解釈された時代もありました。因みに私は生物学の信望者でありますから、このような人間至上主義はあまり好みではないです。
このような事情から、いきなり理性行動ではなく、最初の頃は専ら「計画行動」という言葉を使っておりました。ですが、これは正直にお話ししておかなければなりませんが、それを「理性行動と同義」としましたのは私の「個人的な決断」であったと記憶しています。このため、そのような記述は恐らく他の文献にはないのではないかと判断をしたしだいであります。

それを「計画行動」と定義しましたのは、我々の脳の構造上「本能行動」と「情動行動」では未来の結果を予測することができないからです。ならば、三位一体説に基づくならば、それが可能であるのは「大脳皮質の理性行動」だけということになります。
では、哺乳動物であります以上、イヌやネコでも大脳皮質による計画行動が可能です。ならば、それは理性行動なのですから、果たしてイヌやネコにも情動と対峙する「理性」があるということになります。
何故ワンちゃんには「おあずけ」ができるのでしょうか。それは、主人の言うこと聞けばご飯がもらえという未来の結果を予測することができるからです。そして、それを「理性」とするのは、その生理学的構造が人間と変わらないからです。
こんなことを大声で言いましたら多くのひとが笑い出しますが、これは十分に展開の可能な解釈です。また、大脳辺縁系が発達していますので、そこでは情動反応が発生し、喜怒哀楽の判定が下されます。イヌやネコにも「我々人間と全く同じ構造の感情」があります。大半のひとが首を傾げますが、これが「脳の三位一体説」から導き出される結果であります。

このように、脳科学の知見を用いるということは、それは従来とは異なる解釈を扱うということです。
学術レポートなのですから、別に世の中の風潮に配慮する必要は何処にもありません。ですが、残念ながら現時点では笑われないという保証もないんです。根回しが必要です。参考URLをご覧頂いたと思いますが、私が何故あれほどまでくどくどと説明をしなければならないかが何となくお分かり頂けますでしょうか。「理性」「情動」「意識」、脳の勉強を始めて三年ほどになりますが、何れひとつを摂りましても、私の経験上、今現在に最も科学的かつ冷静な解釈を行っているのは脳科学です。そして、それが社会にとって著しく斬新なものとなるのは、現在がその発展途上における急速な過渡期であるからです。我々は遅れを摂るわけにはゆきません。
従来の心理学の知見を展開するだけでもレポートは通るでしょう。ですが、質問者さんがより深く探求をなさりたいということでありますならば、私はその姿勢に賛同します。レポート、がんばって下さい。

こんにちは。
#2です。
半信半疑、私も気になっておりましたので、早速のご返信ありがとうございます。

質問者さんのご事情は良く分かりました。レポート作成のための資料集めということですね。それでしたらこのようなものを題材になさるのは私としましても大賛成です。世の中にどんどん広めて下さい。但し、そのために質問者さんがお知りになりたかったのは、果たしてこれが「学術的な書籍からの出典であるかどうか」ということなんですね。
出典の所在には腑に落ちないところもおありかと思いますが、...続きを読む


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