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こんにちは。

部下、同僚、後輩どんな場合でも構わないのですが、
こちらがあることに対してその人に注意をしたとします。
例えば「この場合は○○はしない方が良い」
「それはマナー違反だからやめたほうがいいよ」等。

で、相手もその事を受け入れて、その後も別にお互い普通の態度だとします。
でもなんだか注意した方の立場としては、心地悪いのです。全くこっちの言い分が正しかったとしても、なぜだか心地悪いのです。
これは一体どんな心理なのでしょう。
間違ったことは言ってないのに、なぜか気持ちが塞ぐという・・・。

自分で少し考えてみたのですが、その事柄への自信ではなく、根本的に自分に自信がないから、自分は人様に注意するような立場ではないと無意識に考えてるからなのでしょうか。

それとも世の常として注意されるのはムッとするけど、注意する方だって気持ちのいいものじゃないという人間共通の心理なのでしょうか。

それとも私が考えすぎ??

こういったことを考え出すと何が自分にとって正しいのかわからないくなります。
どなたかこういった心理を説明できる方、よろしくお願いします。

A 回答 (6件)

こんにちは。



>でもなんだか注意した方の立場としては、心地悪いのです。全くこっちの言い分が正しかったとしても、なぜだか心地悪いのです。
>これは一体どんな心理なのでしょう。

このようなものは、心理的には「不安状態」と言って良いのではないでしょうか。
他にも様々な要素はありますが、「不安」というのは原因や対処方法が見付からず、状況に対する判断が不明確な状態で発生します。「不快情動」に分類されるものですが、「喜び」や「悲しみ」といった原因のはっきりしたものとは違い、どっち付かずの中途半端な情動です。

他人にあることを注意したら、相手がそれを素直に認め、尚且つ自分に対して感謝をしてくれたとします。このような明確な「報酬」が得られたのであれば不安状態にはなりません。脳の中には直ちに「快情動」が発生しますので、やがてそれは「喜び」といった明確な感情に発展します。逆に相手がそれを拒否したり、反論されたりした場合は「不快情動」が発生し、「怒り」や「悲しみ」などに分岐してゆきます。
このように、原因がはっきりしているならば、それが快情動であれ不快情動であれ、方向の定まった特定の感情に発展してゆくわけなんですが、そうでない場合は不安状態が持続することになります。質問者さんが感じておられるのは、このような原因や対処方法の掴めない「不安という情動」ではないでしょうか。
もちろん、これは生物学的反応ですから誰にでもあることです。これといった報酬がないのですから喜ぶわけにはゆきませんし、だからと言って腹を立てる理由もありませんよね。このように、原因や対処方法がはっきりとせず、抜け道が見付からないのでもやもやとしてしまうのではないかと思います。そして、他人に注意したあとの「もやもやの正体」が「不安」であるとするならば、質問者さんの仰る通り、それは「自信の持ち方」というものに大きく関係してくるというわけですね。

自信と不安というのは、正反対に拮抗して作用するものですよね。不安状態では意思決定がままならず、中々行動の選択はできませんが、自信が発生すれば不安は解消され、それが可能になります。
ですが、私は自信があれば良いというものではないと思います。ご説明申し上げました通り、不安というのは状況が不明確な状態で発生するものです。このような、状況がはっきりしていない状態で無闇に行動に及ぶのは全ての動物にとってたいへん危険なことです。ですから、不安状態で行動選択ができないということは、逆にいえば、状況がはっきりとするまでの間は「行動抑制」が掛かっているということです。従いまして、我々人間や動物にとって「不安という情動」は、与えられた状況に応じて「より適切な行動を選択するためにある」ということになります。
実際に、不安状態になりますと、体内に分泌される神経伝達物質の働きによって中枢や末梢神経の覚醒レベルが上がり、注意力が高まります。これは、正確な情報を獲得することによって、より適切な状況判断を行なうためですね。

あるひとが他人の行ないに対して注意をしたとします。このひとは、自分の行動の全てに自信を持っています。元々自信家なのですから不安は感じませんし、相手が忠告を聞き入れたとするならば、「行動目標の達成」という報酬が得られますので快情動が発生します。
快情動が発生するのですから不安状態にはなりませんが、神経系の覚醒レベルが上がり、それによって注意力が高まるということもありません。従いまして、自分のやったことが本当に正しかったのか、とか、相手の自尊心を傷付けなかったかどうか、などといったことに興味が向けられたり反省されたりすることはほとんどありません。
同様に、相手が忠告を拒否した場合は目標達成が阻止されたことに対して強い不快情動が発生しますので、それが不安状態に留まることはありません。ふざけるな! 自分の主張は断じて正しい、ということになってしまいますので、このような状態で冷静な判断を要求するのは、ちょっと無理な話ということになりますよね。

自信があれば不安を感じることはないでしょう。ですから、自信家というのは意思決定が早く、目標達成能力に優れています。
ですが、こういうひとは往々にして無神経です。結果の良し悪しとか、他人の迷惑といったものにはあまり興味はありません。あれこれと細かいことを気にしているようでは素早い意思決定などできるわけがないからです。
逆にいえば、これは不安状態という、行動選択の準備段階や、後の反省といった機会が十分に与えられていないということを意味しています。ならば、不安が感じるられるということは、質問者さんは行動選択に対して冷静な状況判断を行なう共に、相手の立場を尊重するという心遣いもきちんと働かせているということになります。
不安という情動には、「状況に応じた正しい行動選択を行なう機能である」という生物学的意義があります。ですから、それが冷静な判断と共に、相手の立場を配慮するといった目的で使われるのであれば、私は、我々人間の社会では、それは極めて常識的な生体反応ではないかと思います。

>それとも世の常として注意されるのはムッとするけど、注意する方だって気持ちのいいものじゃないという人間共通の心理なのでしょうか。

他人に対して注意をするというのは誰にとっても勇気のいることだと思います。相手が気分を害したり、忠告を聞き入れないといった不本意な結果が予測されるからですね。
他人に注意をするという行為は、多くの場合「無報酬行動」ですから、発生する情動は「不快情動」に分類されます。
では、快情動に基づく「報酬行動」であるならばまだしも、どうして不快情動の発生によって他人に注意をするという「接近行動」が選択されるのかというならば、これは、不快情動に基づく「能動的な回避行動」であるからです。
他人が何か間違ったことをしているといった状況が知覚されますと、それに対して不快情動が発生します。この情動に就いて解決索がない場合は「受動的な回避行動」を選択する以外にありませんが、「能動的回避行動」というのは「攻撃行動」のように、積極的に不快情動の原因を排除しようとする問題解決のための行動です。
ならば、相手がこちらの忠告を聞き入れた場合は目標達成という報酬が得られても良いはずなのですが、それが不安状態として残るということは、快情動をもたらすほどの報酬刺激ではなかったということになります。他人の欠点を見付けて注意するのが楽しくて仕方がないというひとにとっては報酬行動であるかも知れませんが、こういうひとは稀ですよね。このようなことから、他人に注意をするという行為は、多くの場合が自己犠牲的な無報酬行動ということになってしまうのではないかと思います。

>こういったことを考え出すと何が自分にとって正しいのかわからないくなります。

そうですね、人間ですから、迷うのは仕方がありませんよね。この迷いが不安によってもたらされているというのは間違いのないことです。ですが、その不安という情動は人間や他の動物にとって「より正しい選択を行なうためのもの」であるとことをここでもう一度確認させて下さい。
不安状態になると神経系の覚醒レベルが上がり、注意力が高くなると申し上げましたが、脳内では記憶力も高まるといった興味深い事実が発見されています。これは情報収集を行なうと共にそれを記憶・学習し、次ぎに同様の事態と遭遇したときに迅速に対処するためですね。
質問者さんが誰かに注意したとします。そのときには結果が出なくとも、それが正しい行為であったとするならば、5年、10年先には、そのひとは質問者さんに感謝することになるはずです(尤も、忘れてしまうということもあるでしょうが)。もちろん、間違いを犯すこともあるでしょう。ですが、それは次ぎの機会の不安材料になります。このようにして、体験は「迷い・不安」と共に学習され、積み重ねられてゆきます。
他人に注意をするという行為は、生物学的には無報酬行動です。ですが、我々人間の社会では、長い目で見れば、それには他人の信頼や自分の自信といった、一朝一夕では得ることのできない、たいへん大きな報酬が用意されているのではないかと思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。とても興味深く、そして考えさせられました。そうですね、このもやもや状態は不安状態なのですね、明確な報酬もなければ憤りを感じるような不快な状態でもない。
そして私の感じた不安情動は確かに自信と関係すると。私は自信さえあれば常に心地よいと想像していましたが、ruehasさんのおっしゃる通り、自信家の方は無神経ですね(笑)実は私、相手がどう思おうが自分の言いたい事を言うという人が苦手だし、軽蔑しています。そして、相手の立場を尊重するという心遣いもきちんと働かせているということになりますとおっしゃって頂いてますが、まさに自分は相手のことも尊重しすぎて、でもそうしたら私の立場はどうなるの??などなどグルグル考えてしまうのです。でも常識的な生体反応とおっしゃって頂いてちょっとホッとしてます。そして5年10年先に注意された人が私に感謝することになるということ、これを望んでますね、確かに。その時点での行為は無報酬だとしても、この件に関して自分が考えたこと、学んだことを考えれば長い目で見て大きな報酬が用意されている、とてもこの言葉感銘を受けました。

本当に大変親切な回答ありがとうございました。
感謝しております。

お礼日時:2005/12/12 22:26

私、もあなたのような経験が良くありますから、お気持ちはわかります。



でもよく考えた結果、次のような結論に達します。

信ずべきものは、あなたの「瞬時の直感」です。
 
例えば 川で人がおぼれて流されていた場面 を想像してみてください。
あなたは 「何とか助けなければ、」 と思うはずです。
でも、そばでそれを傍観していた人がいたら  『馬鹿やろう。早く手を貸せ』 と言うと思います。

そう言ったことに対して、あなたは何の後悔も、反省もあるはずがありません。

それはあなたの心の奥底から出てくる 『真理』 だからです。

頭で考えた生半可な アドバイス はしないほうがいいと思います。

もしするとすれば、 『俺はそうは思わないけれど、決めるのはあなただから』 とやんわり言う程度にしたほうがいいと思います。

なぜならば、人はみな考え方が違うのだから、「何が正しい」 ということは簡単に決められません。

唯一正しいのは 「瞬時の直感」 です。

それがあなたの 「真理」 なのです。
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この回答へのお礼

はい、とてもおっしゃることわかります。
頭で考えて、注意しよう、注意しようと思ってすると、顔も引きつるし言葉も上手く出てこない気がします。気弱な人間なので(笑)
瞬時の直感、大切ですね。その直感を感情にまかせてじゃなく上手く表現できるようになることが、私の課題です。『俺はそうは思わないけれど、決めるのはあなただから』という言葉を見下すわけでもなく、下手に出るわけでもなくきちんと言えるようになりたいです。ありがとうございます。

お礼日時:2005/12/12 22:06

「人間五十歩百歩」大した違いは無い、ということです。


しかし、それを悩むのはあなたが誠実な証でしょう。

他人の欠点を注意することが何故可能かと言えば、それが悪いことだという認識が自分にもあるからです。
つまり「自分もそれを犯す(悪いことをする)」可能性を持っている人間だからこそ、他人の悪いところに気がつくのです。
マナーの違う国に行って、知らないマナーに対して注意することができないことを考えると判断し易いと思います。

「他人に注意する」のは『自分の中にも同じ要素がある』ということを認めたことに他ならないわけで、それゆえの「気分の悪さ」ということになるのでしょう。
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この回答へのお礼

もう、ものすごくBINGO!!って感じです(笑)
なぜなら、今回の件のみならずhakobuluさんのおっしゃってることを私もよく思うというか、そうなんだなと心から思っているからです。

>「他人に注意する」のは『自分の中にも同じ要素があ>る』ということを認めたことに他ならないわけで、そ>れゆえの「気分の悪さ」ということになるのでしょ>う。

もう、まさにそうですね。自分もそういう要素があり、自分はそうしないようにしている。なのに君はなぜ!!!みたいな。そんな心理状態です。しかもまざまざと目の前で見せ付けられた。それゆえの気分の悪さなのでしょう。

回答ありがとうございました。

お礼日時:2005/12/12 22:01

野暮、でしゃばり、えらそうなことをしたというのが自分の美意識とあわないのでしょう。



世の常ではなく、そのような意識を全く持たない人もいると思います。
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この回答へのお礼

はい!その理由もかなりあります!!
自分で美意識と言うとなんだか恥ずかしいのですが、
でしゃばりが人に対しても自分に対してもとっても嫌です。聞かれてもいないのに得意になって教えてたりする人を見ると、私が恥ずかしくなってしまうのです。なので、自分だけはそうあるまい!!っていつも思っているのです。
回答ありがとうございました。とても参考になりました。

お礼日時:2005/12/12 21:52

「マジメ」が揶揄される世の中であるからではないでしょうか?



いつからでしょうね、何かしらレールからやや外れたところがカッコ良く、きちっと規則どおりにすることがかっこ悪いと見られるようになったのって。
私(30代)の子供のころにはもうそんな風潮でしたね。
生真面目にルール通りのことを言ったりやったりすることが「バカみたい」とされて、からかわれたり、悪口を言われたりする対象になりがちです。

こういうことが刷り込まれているから、なんとなくモヤモヤが残るのではないでしょうか?
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この回答へのお礼

そうですね・・・それもあると思います。
正直者がバカを見るというか・・・。
私も30代ですが、そんな風潮でしたね、やっぱり。
刷り込み、怖いです。。。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2005/12/12 21:53

専門家でもなんでもないのですが・・・。



相手が、マナー違反と分かっていてやっているか、
それと知らずにやっているかで違うのではないでしょうか?

分かっていて違反している人に注意する時は
「分かっているならやめろよ・・・」と思うのでなんだかもやもやとして気持ちが悪いです。
逆に知らなかった事に対して知らせてあげるのは、そんなに気にならないです。
知らなかったのなら仕方ないな、と言う感じで。
この違いが大きいのかな、と個人的に思います。
ムッとされると分かっていて注意するのは気持ちのいいものじゃないですからね。

ご質問を拝見してふと思ったので回答してみました。
根拠は何もありません。
あしからず。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
そうですねえ・・・。
私は反対にわかって違反してる人には注意しやすいというか・・・知らなかったことだと逆に相手に「??」って反応をされてしまうので後味が悪いなーーと思ってしまいました。
分かっている人に対しては確かにもやもやするけど、どっちかっていうと怒りの方が強いかもしれません。

お礼日時:2005/12/12 21:49

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