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はじめまして。
ずっと疑問になっていた事がありまして、質問させていただきます。

幼少の頃から、見る度に(もしくは行く度に)「月」「滝」「山」などがとても「懐かしい」という感覚に襲われます。
以前何か大きな思い入れがあったかというとそういう訳でもなく、何か漠然と「懐かしい」だとか、「泣きたい」という気分になるのです。

周りにいうと「オカルト」だとか「気のせい」という返事で返ってくるのですが、もし心理学など説明がつくようでしたら、是非回答をいただけると嬉しいなと思っております。

どうぞよろしくお願いいたします。

A 回答 (5件)

どうもこんばんわ


人間は昔自然の中で暮らしてきました、なので当然それに触れれば無意識的に懐かしさを感じてもおかしくはないでしょう。脳の中にそれが埋め込まれているのではないでしょうか。
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こんにちは。


特に主だった体験や記憶が思い当たらないにも拘わらず、それに対して情緒的な情動反応が発生し、「泣きたい」といった衝動に駆られるのは、これは恐らく「不安状態」というものに分類されるのではないかと思います。
「不安」という情動は、主に「情報不足」によって発生します。
「与えられた情報が不足しているために判断が下せない」
「未体験であるために判断が下せない」
「記憶があいまいであるために判断が下せない」
「あるいは解決策が見当たらない」
このような状況において我々は「不安状態」に陥ります。

「情動」といいますのは、生後の体験学習を規準に発生するものです。
「大脳辺縁系」には、そのひとの生後体験に基づく無数の反応規準が学習されており、入力された知覚情報に対し「快情動」か「不快情動」かの価値判断が下されます。そして、「快情動」には「報酬行動(接近行動)」が選択され、「不快情動」の場合は「回避行動」となるわけですが、情報が不足しているためにどちらの行動も選択されないというのが「不安状態」です。
このように、我々の「情動行動」といいますのは体験学習を元に選択されるものなのですが、この規準によって判定が下せない場合、情動反応は不安状態に留まり、「行動抑制」が掛かります。これは情報が不足した状態でむやみな行動を選択しないためなのですが、その間「満足・期待・回避」とった何の報酬も解決も得られない状態が継続するわけですから、当然、脳にとってはストレスとなります。

どんなに古い記憶でありましても、それが当人にとって忌まわしい体験であるならば「懐かしい」と感じることはありません。また、故郷の山や川を想い郷愁に浸るのは、これは明らかにそのひとの個人体験に基づく特有の情動反応です。ですが、このよう具体的な反応基準が獲得されていない、あるいは記憶が不鮮明であるために「情動の原因帰結」ができない、即ち理由を思い出せない場合などは、我々の脳は行動抑制のために不安状態を選択することになるはずです。
手放すことのできない思い出、あるいは忘れることのできない失敗、このような個人的なエピソードがない限り、月や山、滝といったようなものは多くのひとにとって特定の事象や人称を持たない漠然とした記憶情報であるはずです。もちろん、人それぞれに何らかの小さな体験というものがあるのかも知れませんが、あとになってしまえば中々思い出すことができません。このような、不意の情動における曖昧模糊とした「もどかしさ」、それが不安状態であり、掴みどころのない懐かしさの正体ではないでしょうか。

但し、見ていると心が安らぐといった、何らかの報酬が得られる場合は、理由が分からなくとも不安状態になるということはありません。我々はこのようなときにも懐かしさというものを感じることができますよね。
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 いわゆる「既視感」というやつじゃないでしょうか。


 既視感 とは、はじめての経験なのに、過去に見たり経験したりしたよう に感じる、不自然な感覚のことをいいます。
 通常人の70%が経験しているという話もありますが、私はハッキリと「これが既視感というものか!」と感じたことはありません。
 下のURLなどを足がかりに、お調べになったらいかがかと存じます。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A2%E8%A6%96% …
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現代社会は「変化」の社会です。

都市に住んでいると、10年と同じ風景を見る事はありません。こういうことに慣れてしまっていると、不動のものや自然物が、なにか特別な感覚を発揮してくるものです。「月」「海」「山」「滝」「夜空」江戸時代も原始時代も、人間は同じ風景を見ていました。そんな背景を無意識に感じている感動があるからでしょう。
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◆『月』◆


太陽が何らかの内的刺激によって分裂の危機にあった時、その一部を体外に放出したものがやがて地球と呼ばれるようになる天体です。
地球は公転によって、太陽からより遠ざかろうとすると共に、より近づこうとしながら太陽を周回する運動を始めることになります。

ところが、片面だけを太陽に向けているために、
太陽に近い面だけが太陽の求心力をより強く受け続け、逆に太陽から遠い側はより太陽から遠ざかろうとします(斥力)。
このため今度は地球に分裂の危機が訪れます。
これを回避するために、地球は自転を開始します。
これで一旦は分裂の危機を回避しますが、自転しているだけでは赤道部分に遠心力が集約され、地軸方面に求心力が集約されるため地球は次第に扁平になっていきます。
この状態が続くといずれ地球は分裂せざるを得ません。

そこで、地球は遺伝的に学んだ方法で(太陽が地球を放出したように)自分の体の一部を体外に放出します。
太陽と地球との関係と同様に、地球との間に公転を行ない自らも自転するこの天体が月です。

しかし、太陽との位置関係は変わらないわけですから、当然のこととして再び分裂の危機が地球に訪れます。
ところがその頃には地球は冷却期に入っており、2個目の月を放出することが不可能なほど硬化していました。
そこで、地球の考えたのが生物の放出です。
(「地球が考えた」という擬人化は論理的ではないように思われるかもしれませんが、地球が現状を保存するための宇宙の摂理としてこのような形態が現出した、ということです。)

前置きが長くなり恐縮ですが、つまり、
月も人間も地球の子供であって、兄妹関係、または姉弟関係にあります。
人類が月を慕い懐かしむのはむしろ自然な感情と言えるでしょう。

以上は、故大槻憲二という精神分析学者の「物理学的地球生命論」の一部を要約したものです。
彼は、地球は生物である(生物も同様である)と言っています。
ややロマンティシズムの傾向をお感じになるかもしれませんが、
これを明確に否定できる絶対的な根拠を持った生物学的、物理学的、何より論理的理論を私は未だ知りません。

◆『滝』◆
滝の真骨頂は、豊かな水を迸るように放出することでしょう。
精液の放出を象徴することによって、自らの遺伝子の来し方を無意識的に連想し懐かしく感じるという解釈も可能でしょう。
ただ、あまり深く考えず、
自らの内面深く抑圧されていた無意識的感情の噴出を代替してくれているもの、
つまり、自分の良き理解者であるという意味で懐かしく感じる、と素直に解釈するほうが良いのかもしれません。
また、滝の上げる水しぶきが、リラックス効果のあるマイナスイオンを大量に発散させていることは良く知られています。

◆『山』◆
山は、地球のエネルギーが内面に向かわず外部に突き出した形状です。
そして果てのない天に向かってどこまでも伸びゆこうとする意志の象徴と言うことが可能でしょう。
何らかの形で抑圧を抱えなければならない宿命を背負った人類にとって、限りない可能性を示唆してくれる不動の象徴として懐かしさを覚えるのだろうと思われます。

◆人間は覚えていることだけを記憶と思いがちです。
しかし、実際には、人は自らの体験全てを記憶として格納する脳を持っているのだろうと思います。
それを思い出すか出さないかの違いだけです。
胎児の時の自分を記憶している人もいます。
我々人類の遺伝子が、遥か昔の人類の体験を記憶していないほうがむしろ不思議と言うべきであろうと私は考えます。

感性が豊かということは言えても、「気のせい」などということは全くないでしょう。
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