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九州のことを「西海道」と読んでいたのは律令のころと聞きましたが、具体的に何年から何年まででしょう?
また、九州のことを九州と呼び出したのは、九州探題、から室町時代ごろなのでしょうか?

A 回答 (2件)

「九州」の名がいつ頃から使われたのか、よく分からないそうです。


私は、奈良時代には使われていたと推定しています。
根拠ですが、
阿倍仲麻呂が753年、やっと念願の帰国の願いがかない、帰国の途についたとき、唐の友人だった王維が送別の詩を贈っています。
その詩の一節に「九州何処遠」とあります。
この詩の「九州」は、ずばり日本の「九州」ではなく、世界でどこが一番遠いか(そんな遠い日本へ帰ってしまうのか)という意味ですが、他の解釈もあります。

http://www5a.biglobe.ne.jp/~shici/fusang02.htm

悲運にも仲麻呂は、船が遭難して帰国の夢はかないませんでした。
当時の大事件です。
この詩はやがて日本に伝わりますが、
「九州」という言葉のひびきには、当時の朝廷とそのまわりの人々には特別な思いがあったでしょう。

西海道が9カ国になったのは713年です。
大宝元年(701年)唐の制度を取り入れて道州制を敷きましたが、「州」は慣れ親しんだ「国」と呼ぶことが多く、「州」「国」の両方が使われていました。
そこで、誰言うとなく、西海道9カ国を「九州」と呼び始めたと想像しています。

身勝手な想像で回答してはだめですね。
「九州」の名は、鎌倉幕府の史書『吾妻鏡』に頻繁に出てきますが、それ以前の文献は調べていないので分かりません。
例えば、寿永3年(1184年)2月
「又欲攻九州之處。無乘船之間。不進戰之由云々。即御返事云。依無粮退長門之條。只今不相向敵者。有何事哉。攻九國事。當時不可然歟。先渡四國。与平家可遂合戰云々。」

ここでは、「九州」と「九国」が同じ意味で使われています。
また、『吾妻鏡』には「西海道」と記述されている箇所もあります。

さて、「西海道」です。
大宝律令で制定したのですが、廃止または改変したという法令の有無を私は知りません。
武家政権が成立したということは、律令制の終焉を意味しますから、鎌倉幕府成立と同時に
律令制での「西海道」は終わったと考えてよいのではないでしょうか。

http://www.city.dazaifu.fukuoka.jp/bunka_t/dazai …

しかし、「西海道」や「西海」の名は、道州制の行政区画としてではなく、「九州」という地域を表す意味で『吾妻鏡』や『玉葉』によく出てきますね。

地名としての西海道が、九州に取って代わられたのは「九州探題」からだと思います。
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「西海道」は大宝律令(701)で初めて使われたと考えられます。

   「続日本紀」大宝元年6月に「七道」の語が初めて使われ、正倉院にある大宝2年の文書と、「続紀」の大宝3年の記録に「西海道」の文字が書かれているそうです。
一方で天武14年(687)の記録には、「東海」、「東山」の文字はあるが「西海」はなしとの事です。
余り使われなくなったのは、鎌倉時代ではないでしょうか。
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