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最近「K・Yさん」という言葉をよく耳にするので誰のことだろうと訊いたら「空気を読め」的な人に対する言葉だと知りました。つまり飲み会なんかで脱線や暴走している人が面と向かっていえないためにこのような記号で伝え合うのですね。
何かこう、とても日本人的な穏やかなやり方だと思いましたが決して穏やかでないものを感じました。

私自身そうなのかもしれませんが、面白い人や変わっている人が好きです。そして真剣にものごとを考えられる人も好きなのですが、どうも飲み会など不特定多数の知り合い程度の人間が集まるところでは楽しい話だけが歓迎され、個人のプライベートの悩みなどについては「空気を読まない人」として排除する傾向のようですね。

空気を読むことはそれほど大切なのでしょうか。個人の身の上話といっても、それまで知らない個人という文化のことを知るかもしれないし、好奇心からではないのなら皆で考えてあげることもできるのではないかと思うのです。もちろん酒の席なら「楽しければいい」というのも分かりますが、皆で楽しくしてても虚しいと感じる人もいるわけです。

「K・Yさん」に現れるものは現代日本の社会心理なのでしょうか?

A 回答 (17件中1~10件)

全員右ならえの思想がはびこっています。


本土の殆どは日本人でアジア人種で構成されているせいではないでしょうか。
会話で話が飛んでも面白いと思いますよ。尚更酒の席なら。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>会話で話が飛んでも面白いと思いますよ。

ですよね。
例えば趣味である音楽のコミュニティでの飲み会のことなのですが、音楽の話をしましょう。でなくとも楽しい話をしましょう。とのことでした。

お礼日時:2007/11/13 00:53

私は空気を読むのが下手なようで、いつも家内に嗜められています。



空気を読めない人とは、どうも自己中心的で自己顕示欲の強い方に多いようです。空気を読める人は、相手の身になって考えることが出来る人です。私は、良い意味で大人になるとは、人の痛みや喜びを理解出来る人間、言い換えると相手の気持ちを追体験出来るようになる人間だと思っております。

もし貴方が空気を読むのが上手な方だったら、貴方にとって面白いと思うことを話し始めた時、相手のボディー・ラングウィッジを通して来る信号をとらえて相手の気持ちになり、相手が面白がっているのか、それとも義理で聞いているのかが分かるはずです。すなわち、空気を読むとは必ずしも、皆のしらけた雰囲気を察すると言う消極的な意味合いや、全員右ならえ的な意味合いばかりではなく、興に乗り、皆と一緒に幸福観や充実感を共に味わうと言う積極的な意味合いもあります。ですから「空気を読め」ということは尤もな主張だと思います。

空気が読める方は、場違いであろうがなかろうが、皆さんの面白いと思うことや大切だと思う話題をどんどん出して、その場の雰囲気を高めて行けば良いと思います。

でも、私のように下手だったら、周りを眺めてしばらく黙っていることも大切だと思います。言うは易く行い難しですので、私は黙っていられず、失敗ばかりしています。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>空気を読める人は、相手の身になって考えることが出来る人です。

でも空気を読めという人こそが空気を読んでいないのですよね(笑)。自分の楽しい気分を大切にしたいからでしょう。いわゆる「個人的な暗い話」になると飛んできて話題を変えるように仕切る。こちらは愚痴っているわけではなくそれとなく示唆しただけなのですが、人の不幸な話が気になるらしく、今度はこちらが「空気を読んで」口をつぐむと突っ込み始める。あやうく酒の肴にされそうでした。彼は全体的な雰囲気を読むのはできるかもしれないけれど人の痛みに対しては読めない人なのだと思いました。

確かに積極的な意味合いもありますよね。しかし「K・Yさん」という記号はレッテル貼りであるとも思いました。
誰でも「K・Yさん」であるんですよね。ストレスや本音を言いたい衝動は誰でも秘めていますから。例えば上司に普段いえないことを酒の勢いで言う場合など。それを例えば「空気が読めない部下」として圧力をかけるのならちょっと怖いことです。

でも「空気を読める人」も「読めない人」にならないとは限らず、単にその場の雰囲気にそぐわないというだけで、このような記号が風潮にのって流用されると誰でも「レッド・カード」を掲げることができるわけで、負の共同意識といったらよいでしょうか。話題が収束されると人も限定する小さなコミュができあがってしまうような気がします。

お礼日時:2007/11/13 03:44

人には 他人の注目を浴びてこそその力を発揮するという性格の人がいます。



その昔 そういう性格の人とそうでない人との間に 出会い・協力・対立・確執などいろんな交通が繰り広げられました。前者の性格の人は けっきょくのところ 実力もあり 謙虚にもなり 社会に有用な人なのですが 自分が 親分でなければ どうしようもなく 生きていけないといった一面も持っています。

やがて 一般の人びとは そういう実力者の種族をアマテラスと呼び 自分たちスサノヲとは かれらを区別するようになり 確かに かれらアマテラス族を 敬いつつ遠ざけようともするようになりました(国譲り)。

敬遠の結果は かれらを 二階へ・また雲の上へ挙げ たてまつることでした。社会が 一般市民の生活の場としてのスサノヲ圏と そして指導層のアマテラス圏といった二階建てになったわけです。
(ただし おどろくなかれ アマテラスだろうが スサノヲだろうが 人は みな 万世一系として世代を継いで来ています。男系の一家系としてただちに明確なかたちを取ってはいないかも知れませんが。しかも アマテラスとスサノヲとは 実の姉と弟です)。

けれども悪いことに われらスサノヲは自分たちの自分たちによる共同自治を 放棄してしまいました。アマテラス族が やらせてくれ・全部まかせてくれと駄々をこねたからですが これ以後というものが いけません。

その後 歴史は移り スサノヲ主権という民主主義を社会が標榜するようになってからも みづからの自治能力も誇りもなにやかやも 失ってしまったままでいるからです。というよりも アマテラス政府と組んで 共犯者となってさえいるのかも分かりません。

一部の現実を全体であるかの如く誇張して表現しましたが 一つのしかし頑強な傾向として こういうことが もしあれば 問題として取り上げるべきだと考えます。からだに刷り込まれているのかとさえ思われますが その意識を変えることだけなら 直ちに 出来るわけですから そうしなければいけないのではないでしょうか。

だれも和を以って貴しと為すのでないならば 好き込んで波風を立てるわけがないはづです。和を以って貴しと為せとのたまう人に限って その権限を自分勝手に行使したいということでないでしょうか。《K.Y.》は その徹底化であるかも知れませんし 単なるあそびであるのかも知れません。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

話が「古事記」にまで及び驚きました。このような解釈の古事記もあるのですね。空気を読む、つまり協調性は民主主義を成立させる一つの要素でもあるわけですが、日本の民主主義の根源性を語る?エピソードと思いました。もしかしたら私たち日本人の民族性はここから承継されてきたのかもしれません。

民主主義は完全な平和の本質とは少々違う気がしますが、同様に空気を読まないと仲間ではないという風潮も、「和を持って尊し」という意識に過剰に反応している見えざる主張かもしれません。

お礼日時:2007/11/15 19:16

わたしも恐ろしいものを感じています。


血液型占いや、KYの考えに共通なのは「カテゴライズ」の悪意かと思われます。この風潮は中学高校にもはびこっています。わからないから質問したらKYだといわれた、という相談を最近うけました。新手のイジメかとも思いました。大人においては言論統制、でしょうか。少し飛躍しましたね。わたしもKYを自認しております、はい。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>新手のイジメかとも

私もそう思いました。そしていい大人連中も平気で使ってるんですよね。例えばお葬式で喪に伏してるときに大きな笑い声をあげたなら確かに「空気を読まない」ということになるでしょう。というよりマナー違反ですが、
会話がこの記号の強制力や暗黙の圧力のためにどんどん収束していく。すれば人間関係も同じように圧縮されてしまうのだと感じました。

「面白いから飲み会には来て♪」と言われてまして、私もつい調子に乗って過剰なサービスをしたところ今度は「空気が読めない」とレッテル貼りされまして(笑)。私はもうそのサークルには行きませんが、盛り上げ役がいなくなってちぃとは後悔させているのなら多少溜飲がおりますけれど。まぁ「空気を読め。皆引いたよ」というそいつも、暴走してましたけれどね。ついでにこの「皆」というのも気になったのですが、皆が皆引いてたとは思えず…逆に大ウケしてましたけれどね。「皆」ひとりづつにアンケートをとった結果なのでしょうか。その中のひとりは「楽しませてくれてありがとう」とメールをくれましたが…。でも「皆」とでもいえば「K・Y」と同様、プレッシャーを与えられるとでも思ったのでしょうね。恐ろしいです。

>わたしもKYを自認しております、はい。

私もです。「K・Y」上等!(笑)

お礼日時:2007/11/15 19:26

最近レノン研究の一環としてオノヨーコ研究をしてるんです


本気で空気の読めないことをするのって大変だと思えます

ヨーコのエッセイから引用させて頂きます、冒頭より

私は美人で、頭も悪くないし、身体もいいし、幼い時から周りに気を使って、随分気を尽くす性だし、今はその延長で世界のために、と自分のできるだけはしているのだから、自分では何のコンプレックスも感じていない。
それがこれだけ悪口を言われてきた、とはどういうことなんだろう?それがただ<何となく>なぞというものではなく、私を嫌う人間はパッショネートな嫌い方をする。

うーん、(び...びじん!?)......!さすがKY<空気読めない>日本代表.....!!
世界中からBeatlesを解散させジョンを狂わせた女と野次をとばされ、魔女の烙印をおされた日本人!
レノンもヨーコの影響か(一般論では)晩年はどんどんKY化して、皆ついてきてくれなくなっちゃいましたよね。
現代日本の社会心理というか、一線をこえると世界に理解を求めるのは難しいのではないでしょうか?
国際レベルでヨーコに深い理解がもたらされる世界になればKYも平和に生きていけるかと思います
厳しいことです
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

希代の天才を魅惑させた女傑!?はさすが芸術家らしく「主体性」にあふれてますよね。

芸術家も作品を売るために俗世界と仲良くする必要がありますよね。そんなとき謙虚さという客観性が必要になりますけれど、やっぱりそういう計算のないところに純粋な芸術家を感じさせられます。でも利害関係に対してではなく、それよりも前に皆孤独をもっとも恐れるじゃないですか。だから自己主張ってすごくエネルギーがいることですよね。でも芸術性は孤独に強くなければその資格はないと思うんですね。

いつも欧米の方々のインタビューなどを聞くたびに思うのですけれど、もう十代の少年少女達はっきりと自分の考え方を述べていることに驚きます。曖昧さではなく未熟さがないんですね。その中ではまた、自分を客観的に見つめる姿勢ももっていること。とかく日本人は自慢を嫌いますが、彼らは長所として主張というより性格の一部として淡々と述べているんですね。それは自信の表れなんです。というのも欧米圏では親の子へのしつけの方法が自立させる方向性をもつものであるからでしょう。しかし日本人は、自分の自己主張が他人から見た自慢である以上、不快にさせまいと「自慢するわけじゃないけれど」「自慢になっちゃうけれど」と前置詞をおく。でないとこれも「K・Y」になるから!?(笑)

>私は美人で、頭も悪くないし、身体もいいし、…
彼女も幼い頃から世間に認められている有名人のひとりなら耳に心地よい賛辞も確かに一般人よりも星の数ほど頂戴するでしょう。皆がひとりの人間について同じように言うのならそれは本人にとって真実なんですよね。彼女は自分にとって当たり前の事実を述べているに過ぎない。

>自分では何のコンプレックスも感じていない

ただ劣等感は成長する原動力なので、それは人としても芸術家としても致命的ですよね(笑)。でもそれは個人的内面的問題であり、劣等感がないということについて批判するいわれはないんですよね。オノさんについてはよく知らないのですが女傑という感じがしますね。

お礼日時:2007/11/19 16:59

これは山本七平が初めて「空気」のみを対象に本を書いたのが最初で


最後の徹底「空気」理論ではないかと思われます。
他にも「関係の空気、場の空気」などという本も出版されていますが
山本七平の「空気の研究」をベースに書かれているので応用編といったところでしょうか
この「空気」というのが自分も分からなくて今度質問してみようと
思っているんですがなぜか空気に対して『ためらい』がないのです
これが不思議でしょうがないです。
数式とか物理に『ためらい』がないのは分かるのですが
なぜこんなあやふやな物に『ためらい』がないのかが不思議です。
まあこの話はさておき「空気」ですがこの「空気」というのは
まず固定倫理観が状況的であるということです。
倫理というのが尺度のある立体図であるなら(xyz)これが伸び縮みするゴム状のものだと思ってください
この尺度が「空気」の場合状況倫理によって
形を変え固定倫理支点が状況によって常に変化していきます
それが「空気」です、ですからその状況が無くなれば一気にゴムは
歪み通常性へ戻っていくというわけです。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4167306034/re …
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

空気を読むことは曖昧さが好きな日本人らしさだと思うんです。
日本語が「間」をとったり読んだりする性質の一方で英語の明確性という性質上もあるのでしょうけれど、行間を読むことが主張を控え(させ)るものならば、空気を読めと指摘すること、それ自体が既に曖昧な主張かと思うんです。

まぁ「そういう話は辞めようよ」とはっきり言われたところで「何故なのか、100字詰め原稿用紙1枚に述べよ」と言われても書けないでしょうね(笑)。「K・Y否定派」の皆さんがこのように様々な文化の角度からアプローチしているように。

空気の理論については成る程!です。

お礼日時:2007/11/19 17:00

仰るとおりだと思います。

空気が読めない人を非難する大衆は、そこに表れた自分自身を恐れているのですよ。
もちろん、一々そんな大変なものと向き合っていては大変なので「空気読もようよ」というのも致し方ない面がありますが、そう言ってしゃぁしゃぁとしている態度は実に劣悪です。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

ブログ拝見しました。この方はプロの文筆家なのでしょうか?理論展開が非常に冴えてます。

>実は問題にしたいのは「空気が読めない人」というより、「空気が読めない人批判」の方です。

>「無い」ものを読めているか読めていないかは、当然ながら自分で判断することができません。では何をもって「読めている」とするのか。それは「読める人たち」の共同体に入っているか否か、です。

>いかにしてこの共同体は形成されるのか。「空気が読めない人」の排除によって、です。「空気が読める」とは「あの人空気読めないからねぇ」という陰口に参加しているかどうか、によって決定される

以上、まったく同感です。

>「読めてないよねぇ」と相槌を返す時の後ろ暗さというのは、つつがなく「読める」共同体に適応している人たちでも、いくらかは経験があるのではないでしょうか。

そうですよね、確かに私もわかったふうな口を利いているけれど、それはヤバイ空気を察知したとっさの防衛反応なんですよね。

この記号は一見「和」を尊んでいるように聞こえるのが怖いです。差別してはいけないというのは刷り込まれてますから、このような記号を用いるのでしょうね。差別よりは少し軽い罪の意識で自己弁護すること、その意識の共有を求めるときに同意しやすくさせる、それが「K・Y」という記号なのでしょうか。

という私も以前からそんな「空気」を感じてたのですが、直感のアンテナを無視してしまった私もその共同体の性格という「空気を読めなかった」ことになりましょうか(笑)。

お礼日時:2007/11/20 18:25

みんなで盛り上がっているところで、水を差す言葉をする人は「空気を読まない」とされてもしかたがない気がします。

社会的常識は疑う必要が時にありますが、場面場面の節度ある態度(マナー)というものも必要です。

プライベートのことはせいぜい気心知れた仲間と話せばよいと思います。だからこそプライベートでありパブリックではないのですから。話し合っても解決しない問題、つっこみようのない話、とどめようのない話、失礼な話、こういうところは大衆酒場で語らなくとも、友達同士で語らなくともいいでしょう。

文字という媒体で語られてもいいですし、アングラはアングラとして1ジャンルを築けばいいだけ。穏やかではない感じもまた大衆の持つ特性ってことで位置づけられませんか。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>場面場面の節度ある態度(マナー)というものも必要です。

そうですね。確かに不特定多数の、平均で割ると皆が知り合い程度の付き合いならば、個人的な濃い話をするのは、「薄い関係=空気」の目的を乱すことになりかねません。確かに他人の話なんぞ知らん、自分は楽しく飲みたいだけなんだと言う人が多数いたらその人の目的、時間、空間やお金が奪われたと思われるでしょうね。
確かにこのような社会心理が一般的なのだとしたら、「K・Yさん」は一種の主張者かもしれませんね。

でも私、敵か味方か分からない場所で自己開示する人って嫌いじゃないんですよね。彼、もしくは彼女が「K・Yさん」ならここではなく個人的に聞いてあげようか、という気持ちになります。それは「K・Yさん」になる前にかばうということでもあるんです。しかし皆が皆で解決のための道を考えてあげる、という展開があってもよいのかなと。酒を共有する嬉しい、楽しい、面白い場所では、ユートピアは望めないのですかね。一見オープンでも心は皆クローズドなのでしょうか。

お礼日時:2007/11/20 18:45

空気の読めない人を「K.Y」と呼ぶことがズルイと思います。


そう思うなら「空気が読めてない」と本人にいえばいいのに、と思います。いえないのであれば黙っていて欲しいです。
空気の読めない人を私は嫌いではありません。
むしろ、「あの人ってK.Yだよね」という人の方が嫌いです。
空気を読んで当たり前、みたいな世の中にはうんざりします。空気を読まないとどうして陰で「K.Y」などと呼ばれてしまうのか、嫌な奴と思われてしまうのか、疑問です。
空気ばかり読んで人の顔色を伺ったり場を盛り上げる人がいてもおかしくないように、空気が全く読めない人というのもいて当然と思います。
いろんな人がいるのだから、こっちのタイプの人間はよくてこっちのタイプの人間は悪い、という何でも白黒つけたがる姿勢はどうにかならないのかな?といつも思います。
でも、空気が読める人っていうのは世の中的には常識人というか、できてる人間って認識されますよね。
そういう常識に沿ったタイプの人にとっては、「K.Yさん」と空気の読めない人を馬鹿にするのは快感なのではないかと思ったりします。
いってる本人はきっと自分は空気読める側なのだと思います。自分は常識に沿っている、世の中からはみ出ていない、正しいんだ、という気持ちが、「K.Yさん」を見つけてそう呼ぶことで確認できるのではないかと。
でも、そもそも常識って何?と思ってしまうんですけど、きっと「K.Y」と発する人は、世の中の常識や正しいことについて疑問を持ったりすることなく、比較的ラクに生きていけるんだろうな、と思ってしまいます。

まとまりなくてすいません。
勝手に思ったことなので参考にはならないかもしれませんが・・・。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>いってる本人はきっと自分は空気読める側なのだと思います。

その場面では逆でした。面白いことに「空気を読め」なんか強迫観念的に仕切る人がこちらのプライバシーにズケズケと進入してくるんですね。私がお酒の勢いでうっかりしゃべってしまった自分の過去の古傷を皆の前で酒の肴にしようとうする(上手くかわそうとしてもしつこい)。彼は外の世界の空気を読めるけれど人の心の動きや背景は読めないという意味での「K・Y」さんですね。

いや、彼はそのような表面的つながりであるだけの集団に帰属してないと感じることすら怖いのでしょうね。つまりその恐れから私のような生贄が必要とされ、「K・Yさん」にならないように自らを制し、他人にはその役割を記号を用いて穏やかに強制する。…いやー人間てまったくもって素晴らしいものですね!(笑)

お礼日時:2007/11/27 06:01

●私も「決して(空気と言う名の)雰囲気を的確且つ精確に察し、絶対に乱さぬ!」のに長けていません。

そして個人的嗜好だけからするとKYで"空気を読めぬ"よりもKY下手云々と使いたい類だと諦めてはいます。

●ですけど、「(NO6さんが触れている如く)提唱者とされ、1991年12/11に69才で他界した山本七平氏の死後、16余年経過して尚延々と未来永劫に使い続けなければならぬ程の学術的価値があるとは一切考えぬ」立場です。何れハンサムがイケメンに変った様に他の語に取って代られてもその本質が失われぬなら、それも有、でしょう。

●(NO8さんが指摘されている通り)>みんなで盛り上がっているところで、水を差す(以下略)事がないよう留意するのは重要なのでしょうが、
私及びα、β、γの4人のグループがあった時、私が他の3人の話合に空気に読み切れぬなら、黙り込むのは許されて然るべきなのが当為と私は解します。何故なら"沈黙は金なり"との格言も厳然とある故だからです。
その場合(私以外の)α、β、γの3人が私に対して、「空気を読むのが下手云々と、言う(そして暗に可及的速やかな習得を期待する)のが、分岐点で「空気を読め」と強要するのは行き過ぎ!!なのが私の捉え方です。

最後に90代のa総理( http://www.kantei.go.jp/jp/rekidai/souri/90.html )の著しい不始末のお陰で、空気を読めなくても1年だけなら務まった職がこの日本に実在し(!?)又、単に空気なら(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%BA%E6%B0%97 )で、流石に山本氏の意味するそれの説明に至っていないのを付記して置きます。失礼致しました。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>何れハンサムがイケメンに変った様に他の語に取って代られてもその本質が失われぬなら、それも有、でしょう。

なるほどです。同調を強制するのは日本人の本質でしょうか。それを表現する言葉が代われど、いつでもどこででも、そういう自分らの民族性を客観的に、ユーモアに、いかにもな感じでオブラードとして示しているわけですね。

そういえばこの言葉は芸能人がよく使ってますよね。でも芸能界というフィールドが個性を商売にしているのなら、ブラウン管の範囲ではその個性のぶつかり合い、そこで創造されるエンターテイメントの空気があって自分達をさらに売り込むことができる営業の場となるわけです。逆に相手の個性を封する策略ともいえませんが…。

お礼日時:2007/11/27 06:07

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