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1.江戸時代は各藩の土地や住民が、いわば藩主の「所有物」であって税の徴収源であった。
だから自由に藩外への移転や移動を許さなかった

2.したがって藩外へ旅行などで移動するには、あらかじめ藩から「手形」という許可証を発行される必要があった。

3.また移動(旅行)には「信仰のため」とか「病気治療のため」のような大義名分が必要であり、そのため富士登山や大山参り、お伊勢参りなどの形での旅行が人気だった。
また温泉旅行はあくまで「湯治」という治療を名目とした。

《質問その1》
以上1~3が歴史素人の私の認識なのですが、まずこの1~3について間違いがあったら指摘していただくなど、関連することがあったらお教えください。

《質問その2》
もし1~3が基本的に大きな間違いではないとして、当時において
「湯治」などの名目ではなく、単なる娯楽としてのリゾート的滞在型の旅行と言うのは一般的ではなかったのでしょうか。
もちろん貧しい人が多かったので「一般的」とまでは言えないとしても、ある程度富裕な層においてもあまりリゾート滞在のような旅行はなかったのでしょうか。

A 回答 (4件)

移動と移転ではかなり意味が違う


富士講や伊勢講など、貯金して、当選者が富士参りや伊勢参りをしておりました。これは帰ってくるという前提で、かなり盛んだったようです。
逃散や移民はかなり厳しく制限されています。
しかし、これも逃げ道というか、移民を出す方は「生産財の損失」になりますが、移民を受ける方は「生産財の獲得」になりますので、実は積極的にやっていた。
江戸初期の黒田家と細川家は仲が悪かったのですが、一つには前の豊前の領主である黒田家が税収を取ってから筑前に移転し、後で豊前にやってきた細川家が怒ったというのがあります。もう一つにはお互いに農民の誘導をやっていたというのがあります。
また江戸中期以降でも、東北の諸藩では越後などから結構な数の農民が逃げています。
http://www.newcs.futaba.fukushima.jp/shofukuji/f …
上記の例では、お寺が仲介しているようです。
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この回答へのお礼

ああ、なるほど。
「損失」が逆の面では「獲得」になるわけですね。

建前としての規則とその裏面があるわけですね。
あらたな知識で、違った観点から見ることができました。

ありがとうございました

お礼日時:2007/11/20 11:02

#1です  状況の掌握がよろしくないですね



>1.それでは脱藩行為に死罪をもって望むほどの重罪をもってあたっていたのはどうしてなのでしょうか。

建前は、軍事組織です・臨戦態勢です
その戦闘員が勝手に離脱するのは、現在でも重罪です
公務員が、職務を放棄して、勝手に旅行に出かける/夜逃げをする のを 一般的な事の様に受け取ってはいけません

>2.かなり自由に旅行できていたってことなのですが、それは大山参りのような集団での「イベント」ではなく、個人でも可能なのでしょうか。

ですから、先の回答の様に、書籍をご覧ください
ものすごい先入観と偏見に満ちていたことが実感できるでしょう

この回答への補足

>状況の掌握がよろしくない

「掌握」という言葉をこういう文脈でも使用するのかどうかも疑問ですが、それはさておき、こんな「よろしくない」なんて上目線でお説教のように言われなくても、江戸時代の知識について、明治政府依頼の教育による偏見があることくらいは素人の私でも知ってます。

少なくとも私は、書籍を読んだりすることの代替行為・補足行為としてこのサイトを利用してるのです。
書籍を読めなんて回答では、そもそも質問に回答で答えることで、会員相互で知識を享有しあうというこのサイトに質問する意味がありません。

質問趣旨を把握して、端的に回答に答える意図が無い、もしくはその能力の無いのでしたら、恐縮ですが以後ご回答をご遠慮ください。

補足日時:2007/11/20 11:02
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1.それでは脱藩行為に死罪をもって望むほどの重罪をもってあたっていたのはどうしてなのでしょうか。



ちなみに藩という言葉は明治時代に出来た言葉です。大名や雇用主(家老など)から逃げるというのは武士・侍にあるまじき行為です。主君の所有物は領民ではありません侍です。所有物が逃げたとなると罰するだけのことです。

2.かなり自由に旅行できていたってことなのですが、それは大山参りのような集団での「イベント」ではなく、個人でも可能なのでしょうか。

江戸時代は延べ日数で数えると週休3日から4日です。長期働いて長期休暇を取り、旅に出かけます。伊勢参りとなると他の人もお札が欲しいので御餞別を渡して買ってきてもらうのです。日本人は旅好きだったそうです。

3.もし自由に行き来出来たなら、現代の海外移民のように貧困などを逃れるためなどに、他藩への移住が頻発したのではないでしょうか。

あまりありません。当時の人口は3千万人しかおらず、日本国内で自給しきれていました。また領主は隣の国の子供が新しい着物を着るような余裕があれば自国にも余裕を作ろうと努力しました。雇用主も同様で下人がみすぼらしい=情け無い主君であり評判を落としますから大事にしました。

江戸時代は宗門分別帳というものがあり、住民はそこで管理されたのです。これが現在の菩提寺です。そこには何人生まれ、何人が死に、誰が引っ越したのか、誰が転入したのかが記載されています。

通行手形は現在の海外旅券です。国を出るということは何処の人なのか判らねばならないので必要なのです。無いと密航者となって逮捕されます。これは現在でもそうです。藩とは国であり、その上に朝廷が治める日本があったのです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました

お礼日時:2007/11/20 10:58

江戸時代に関する書籍は、近年大量に発行されています


それをご覧になれば、明治から昭和にかけての歴史教育特に江戸時代に関する教育がいかに偏見に満ちていたかが確認できます
ぜひ、数種類の書籍をご覧になりますことを

全て質問者の勘違いです

かなり自由に旅行ができた様です
手形は 名主・庄屋・町年寄等の発行です
伊勢参り等の理由を付けたほうが、世間に通り易いだけ

それから 日本人は何でも見てやろう志向が強いですから、滞留形は現在でも主流にはなりません
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この回答へのお礼

さっそくの回答ありがとうございます。

出来ましたらいくつか補足の質問をさせてください。

1.それでは脱藩行為に死罪をもって望むほどの重罪をもってあたっていたのはどうしてなのでしょうか。

2.かなり自由に旅行できていたってことなのですが、それは大山参りのような集団での「イベント」ではなく、個人でも可能なのでしょうか。

3.もし自由に行き来出来たなら、現代の海外移民のように貧困などを逃れるためなどに、他藩への移住が頻発したのではないでしょうか。
また「所払い」としての刑罰の実効性を低くならないのでしょうか。

お礼日時:2007/11/19 15:23

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