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 この前、私はある目上の人から、自分の論考について、ある箇所について指摘を受けました。それはたしかにある専門家たちからいえば、当たり前の常識的な内容なのですが、私はそこに「周知のように」をつけていないことで注意を受けました。その人いわく、「よくそんな当たり前のことを発見したかのように書けるな」と嫌みのように言われたのです。

 細かい話ですが、どうもこの表現は使い勝手が良いのですが、使いすぎるのはよくないと個人的に感じて、その注意された部分はあえてつけませんでした。考えようによっては、あらゆる箇所が「周知のように」になってしまうからです。

 これほど個人差のある表現もありません。経済学者ならクルーグマンは当たり前でも、哲学者にはあまりきちんとは分からないはずですし、ハイデガーはいくら有名な哲学者とはいっても社会学者や政治学者の多くはあまり詳しくはないはずです。

 読み手が専門家にかぎられていない場合、「周知のように」という表現は時に自己満足でしかないとさえ思えますし、かえって読み手に不親切な印象さえ私はもちます。

 どう思われるかみなさん教えてください。「周知のように」をなくそうということではないですが、細かいことではありますがこの表現がどこまで妥当なのかよく考えてみたいのです。

A 回答 (11件中1~10件)

周知のように。

。。
空気を読めよ。。。

似たか寄ったかという感じです
そういう状況はあることは事実ですよね。

それで済まさない場合もある
特に哲学のカテにおいては。
それをあえて質問するとすれば
言われたことに対するただの憂さ晴らし
ですね。
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誰にでもわかるように語るのが知者と言われる人だと思います。



「周知のように」などの「解っていて当然だろ?」といった態度はあまりほめられたものではありません。

「~で広く知られている~といった考え…」といった限定である程度良くなりそうな感じがします。

何かしらの参考になれば幸いですw
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この問題は、結局は「誰が読むことを想定して書いているのか」につきるように思います。

この点については質問者の方と同意見だと思います。

ここまでを整理すると、この「周知のように」の問題は、
1.読み手(聞き手)にとって本当に周知のことなのか
2.「周知のように」ととばしたところに重要性はないのか
の2点にまとめられると思います。この2つは、「周知のように」の使用を、どちらかといえば否定的に捉えているということが出来るでしょう。

さて、ここで見過ごされているのが第3のポイントです。
3.それを細々説明することが、そこで必要なのだろうか。
このポイントに近いことは#1の回答の中でプレゼンのテクニックとして書かれていますが、それとは別に、一つ一つを細かく説明することは確かに親切かも知れませんが、長く複雑になるために論文の重要なポイントがわかりにくくなったりぼやけたりする、ということが往々にして起こってしまいます。そのため、重要な事にポイントを絞って書くということが求められます。
この意味で、「周知のように」の使用は肯定的に受け止められるでしょう。


> 考えようによっては、あらゆる箇所が「周知のように」になってしまうからです。

質問者の方の分野が分からないのですが、少なくとも経済学ではそのような「あらゆる箇所が「周知のように」になってしまう」事はありません。逆に周知のものしかなければ、過去の業績をまとめただけ、ということですので、研究としての価値はあまり高くはありません。確かに自分にとっては当然のことでも、相手が当然の如くに知っていてはじめて周知のことになります。ポイント1で挙げた点は正にこの点をさしています。
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追伸。



・自分の意見と他人の知見の書き分けができていない
と書きましたが、これはcyototuさんの意見と同じでした。
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私も、mmkyさん同様、「周知のように」毛嫌い派(mmkyさんより過激?)です。



まず、「周知のとおり、クーグルマンはこの問題を………と捉えているが」の場合。
この場合、事実を述べているのがはっきりしているから、間違っても、「そんな当たり前のことを発見したかのように」という事態に陥らないので、つける必要性を感じません。

次に、何かの解釈や意見を表明する場合。たとえば、「炭酸ガスが増えると温暖化する。」
こちらの場合、「そんな当たり前のことを発見したかのように」と相手が思う可能性がありますが、そういう場合、
「一般的には○○と考えられている」「知見によれば○○である」
のような表現を使っています。
「周知のとおり」を使ってしまうと、実際には相手が知らなかった場合、
相手がバカにされたように感じてしまうというリスクがあるので使いたくないです。

別の観点から。
「そんな当たり前のことを...」と言われたのは、
 ・自分の意見と他人の知見の書き分けができていない
 という意味で言われたのであり、他人の意見のほうに「周知のように」をくっつけるのは、
 自分の意見と他人の知見の書き分ける方法  の1つという意味なのでは?
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一般大衆向けに書く文章で「周知の如く」という表現は、抵抗を覚える人がいると聞くことがありますね。

個人的には書かないようにしています。ただし、読み手として気になるものでもないので、別にいいかなーと思っています。

私は、
ハイデガーは知っていますが、
クルーグマンは知りません。

例えば経済系の哲学がらみの本を読んで、「周知のとおり、クーグルマンはこの問題を………と捉えているが」…というふうに書いてあったら、経済学において遍く知られている人なんだろう、ということがすぐに分かります。経済学に無知な人がはじめてその本を読むにあたり、遍く知れ渡っている学者としてクーグルマンという人を知ることが出来るので、有用な表現だと思います。

学者が新聞や雑誌(専門誌を除く)に投稿する文章としては、不適切な表現ということなのでしょう。他の回答者さんを見ていて勉強になりました。
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プレゼンでしょうかペーパーでしょうか。


ペーパーなら作成する際に、「・・・・である。」がそのペーパーの論拠や前提であるなら、自他を問わず「・・・・である。(23)」として、参照論文なり書籍なりを記載するのが基本だと思います。
教科書に載っていることはこの必要はないと思いますが、読み手にとっては、「周知のように」は、誰を対象として、その対象者のほぼ全員が周知であると誰が判断しているのかに違和感を残します。
私はペーパーで、そのペーパーの読み手ならば知っていて当然であると容易に推定できる根拠がある場合しか「周知のように」は使いません。
参照文献を載せておくだけで、前述の判断の曖昧さや、
>「よくそんな当たり前のことを発見したかのように書けるな」
と言われる余地を残さないですむし、たとえ基本事項であっても読み手には親切かと思います。

学会発表などのプレゼンなら、違和感はありません。対象はほぼ学会員ですし、いちいち前提に戻って説明していたら時間が足りないからです。また、プレゼンの場合「周知のように」は、使っても使わなくても周知なのですからどちらでも良いことになります。
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そこまで、ややこしい問題でもないように思うのですが。

。。
>読み手が専門家にかぎられていない場合、「周知のように」という表現は時に自己満足でしかないとさえ思えますし、かえって読み手に不親切な印象

「専門家でない」ということは特定分野の知識に疎いということで、つまり或る方面に関しての情報弱者ということですから、置き去りにしたり見切り発車のようなことをせずに、これこれのことはこうなっておりますがと説明や論拠を省かないのは、まことに親切で結構なことだと思います。そのうえで「周知のことではございますが」と付け加えれば済むことではないでしょうか。
「周知のこと」なのかどうかすら知らない者にとっては、その一言自体が一つの情報ですから。
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「周知のように」は使わないほうが良い派です。


「周知のように」は論拠があいまいすぎるからですね。「周知あるいは公知」とつける場合はその論拠を明確にするのが常識ですね。つまり「周知あるいは公知」の論拠になる参照をつけないのであれば「周知あるいは公知」を安易に使わないとする立場ですね。
また、質問者さんのご指摘のように「考えようによっては、あらゆる箇所が「周知のように」になってしまうからです。」が本当のところでしょうから、主張の部分に下線を引いたり、太字にしたりしておけばいいのではないかと思いますね。
多くの学者や技術者が「周知のように」の罠にはまり良き仕事を見逃しているように思いますので、「周知のように」は一度は疑っていいものですね。
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基本的には新しく書かれる文章にはどこか新しいことが書かれていなければならないと思います。

内容的に前提と結論のいずれかが自分のオリジナリティやプライオリティが欠けていると判断した場合には周知の如くと書いたほうが良いように思います。
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