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私はクリスチャンです。
しかし、このごろものすごい性欲で我慢するのが辛いです。

信仰歴は半年ですし、人間である以上
しようがないかもしれません。

普通の男と思うのですが本当のクリスチャンらしく性欲
が抑制できるようになりたいです。

聖書は姦淫を非常に駄目なことだと記されていますね。
そんなこともあり出来る限り女性をそんな目で見たくないのですが
神とのかわりがより一層欲しいです。

A 回答 (13件中1~10件)

人間ですから欲求に従ってください。

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過剰な禁欲によって得られるものは何もありません。

キリスト教も多種多様な流派があり、聖職者の結婚を認めている例も珍しくありません。宗教改革を成し遂げたルターは結婚していました。

フロイトが指摘したとおり、抑圧された性欲は、誤った形で別の方向に向けられヒステリー等の原因になります。ヒステリーならまだよいですが、社会的逸脱行為の原因にもなりかねません(麻薬の利用など)。
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「青年よ大志を抱け」という言葉があります。


性欲を抑制しうるから清らかな穏やかな聖者に近づくのではなく、夢や希望、目標に向かって充実した時間を持たそうとするのが信仰の導きであり、精神的な安定をもたらすものと思います。

肉体の保存機能が肉欲で、精神の保存機能が自己顕示欲ですから、本能の抑制には代理で「学習向上欲」と仲間と知識を共有させるべく集い有意義を確信する「群れの欲求」を活用するもいいと思います。

無理のない範囲で可能なことで使命感や向上心が強まれば、そんな自分を疑うや裏切る余地さえなくせるならば、虚構(自分だけの幸せを願う、自身の役にしかならないこと)の波に飲まれ捕らわれることもないはず?? 
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キリスト自身も、確か偽典か外典で、布教か何かの際に「マグダラのマリア」と言う名の娼婦を連れており、一筋縄ではいかない人物だった様です。

15世紀には、修道女が接神体験したと言う記録も残っていますし、真言宗の経典の「理趣経」には、「欲望と悟りは一体である」と言う「煩悩即菩提」と言う教えもあるので、一概に「性欲は悪である。」とは言え無いと思います。一神教でも多神教でもこの問題は、共通の問題の内のひとつです。※「理趣教」はあくまで仏の視点から説かれているものです。最澄は空海にこの経典の解説書である「理趣釈経」の借用を断られ絶縁に至っています。
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ご自分のことをさしてクリスチャンというということは、あなたはエホバの証人ですか? この回答はエホバの証人であるということを念頭に書いていますので、違ったらごめんなさい。




確かに聖書中、十戒というもっとも基本的な部分に「姦淫してはならない」とあり、イエスの言葉にも「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです」とあります。

しかしながら、イエスはこうも言っています。「(娼婦をさして)『この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。』」。
欲望だけで女性を抱くのは好ましくないかも知れませんが、それ以上の気持ちであれば問題はないのかも知れません。

もっとも、エホバの証人というコミュニティの中での受けは、また別の話です。
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聖書を読むと神の祝福とは、子沢山のことであるとわかります。



神は何度も人間と契約を交わしていますが、祝福した対象の者は沢山の子供に恵まれ、家系が繁栄したとなっています。

子供が多いほど、稼ぎ手は多く、それだけその家系の人数が大きくなるので、勢力が大きくなるわけですよね。

「生めよ増やせよ地の果てまでも」これが神の祝福なわけです。


でも、十戒に「私の愛する子供達が姦淫などしようか するはずがない」と書かれていますよね。
(古代ヘブライ語には否定+禁止が無かったそうなので、○○してはならない という現代の訳は正しくないそうです。)

十戒を授かったが、それがどういう意味なのか、このケースの場合も駄目なのか いいのか ということで、律法学者はあれこれ論争したそうです。

例えば古代女性に相続権がありました。
女性に代々財産が引き継がれていってたわけです。

その女性が夫と離縁すると、夫はすってんてんになってしまう。
この男から神の祝福は遠ざかってしまうわけです。

また、夫を捨て、他の男と妻が再婚し、後にその妻が死亡した場合、前夫の財産は亡き妻のものであると、死亡した妻が再婚していた男から要求されたりしたわけです。


そうなっては困るので、夫が生きている間、妻は離縁して別の男と再婚することは姦淫である とした。

そういうことになる可能性を持つ、例えば、夫が死んだ妻がその一族以外の男と再婚しそうになるのも、姦淫だとして、再婚をさせないようにしていた。

さらに神経質になり、夫が死んだ妻が、一族以外の男と口を利いただけでも、チラっと見ただけでも、「姦淫をした!!」として石打の形にするまでになってしまった。

律法学者 つまり方の番人たちは、こうやって民族の戒律を十戒を基本に詳細に規定していったわけです。

確かヨハネはヘロデ大王だったと思いますが、姦淫をしたとして非難し、ヘロデに殺されていますよね。
ヘロデの姦淫とはなにか、弟だったと思いますが、その妻を自分の妻に横取りした。
弟が生きている間に、その妻を自分の嫁にしたためそれが<姦淫をした>ことになったわけです。

レビレート婚ってありますよね。
兄が死亡した場合、未亡人となった妻は、夫の兄弟 あるいは 一族の誰かと再婚をしなければならない という法律。
妻の財産が他の一族に流出するのを防止する、すなわち一族の繁栄を守るために、妻が他の一族と結婚することを防止する法律。


イエスが姦淫をしたとされた女を救出したエピソードがありますよね。
これを読んだ現代の読者は、独身女性が誰かとセックスをしたため、淫乱として人々から石打の処されそうになったのだろう あるいは 売春婦だったから、姦淫したとして処刑されそうになったのだろう と推測しています。

そうも取れますが、姦淫とは、みだりにセックスをすることではなく、未亡人が他の一族と口を利いただけでも、チラと見ただけでも、「もしかして この女は一族以外の男と再婚をしてしまうかもしれない。財産の流出を阻止するためには、再婚される前に殺すしかない」 ということで、律法を乱用して殺そうとしていたとしたら。


イエスは律法重視だった。
しかし、イエスは律法を完成させるようとしていた。
律法学者は姦淫とはなにか についてあれこれ議論していた時代、イエスは姦淫とは、未亡人が他の一族の男と口を利いただけでは姦淫にならない としたかったのではないかと。

前の夫が生きているうちに、別の男と再婚をしたら、神により与えられた結婚という祝福を、人間側が拒んだことになり、背信になりますが、それを拡大解釈する律法学者たちの解釈は正しくない としたんじゃないかと。

姦淫をした女を、マグダラのマリアと同一視された時代がありましたが、1960年代だったと思いますが、教会は同一人物ではないようだ と発表しています。
にもかかわらず、現代でも<罪深い姦淫した女 マグダラのマリア と思われてしまっています。
しかも汚らわしい娼婦マグダラのマリアすらイエス様は救ってくださったのです と一番のキリスト教の布教の広告に悪用してしまっている。
律法学者たちの拡大解釈と変わらない解釈をして イエスの真意を伝えていないのではないかと。。。。。


トマスの福音書には、何度もイエスはマリアと口づけを交わしており、それにペトロが嫉妬し、マリアはペトロの憎悪を怖がっていたとあります。

これは比喩で、イエスが口伝で伝えた内容を、マリアが一番に理解していたということだと思えます。
ペトロは同じ内容を聞いてもマリアほど理解できず、それでイエスはマリアばかり愛する と嫉妬したのであって、自分もイエスと口づけを交わして、イエスと愛を交わしたかったわけじゃあない。

「何故マリアばかり愛するのですか」と問うペトロに、イエスは「何故私はマリアほどにあなたを愛せないのでしょうか」と逆に理解しないペトロに問いを投げ返している。


カトリックの場合は、マスタベーションも禁止です。
カトリック信者にどうやって性欲を抑ええているのか聞いてみてはどうでしょうか?

性欲を覚えるということは、神の祝福が下りてきたということで、セックスを神が要求していると考えてはどうでしょうか。
ただし、独身なら神から祝福があれば、女性とめぐり合うでしょうから、その方と性欲が起こるたびに神の祝福であるセックスをすればいいと思うんですね。

カトリックだと避妊具は禁止ですが、避妊具を使用するということは、神の祝福である子沢山を拒む行為になるので、それで避妊具も禁止になっているのだと思います。


古代、性欲が無い人、子供ができない人は、神から呪われているとされました。
イエスの両親も、子供ができず、神殿に神に祝福が欲しいとお願いに行ったところ、子供のいない夫婦は神から祝福されていないとして、お参りを拒否されたんですね。

それで、夫は荒れ野で40日ほど修行をして、(インポテンツの治療?
)、妻は自宅で「もし 子供が授かりましたら、初子を神に捧げます」と約束した。

そしてめでたく夫婦に子供ができ、マリアとなずけられ、約束通り初子であるマリアが神殿に捧げられた と。
これがイエスの母マリアの出生の秘密となっています。

私は前マリアは神殿娼婦だったんじゃないかと言って、かなりバッシングされましたが、娼婦と利いただけで、キリスト教徒はおぞましいものをイメージするようなんですね。
マグダラのマリアは誰とでも寝る売春婦だったとキリスト教徒は言うし、神殿娼婦とは神殿におまいりに来る観光客目当てに体を売る娼婦だとキリスト教徒は思っており、それでイエスの母マリアを売春婦呼ばわりするなんて と激怒したようです。

私に言う神殿娼婦とは、観光客相手に春を売る女のことじゃあない。
古代の神殿娼婦はそういう概念じゃあない。
神の地上の体現者 神の化身が神殿娼婦。
王に権力を与え、霊的な導きをするものが神殿娼婦。

で、マリアは夫選びの時、ヨセフの杖だけが反応したので、ヨセフを夫として聖別したとある。
その聖別されたヨセフが、イエスの義理の父親となるわけです。
マリアとヨセフの間には沢山の子供ができた。
初子であるイエスは神に捧げられた子供になるので、ヨセフの子供じゃないとなり、ヨセフは義父だとされるようになった。


というわけで、夫婦であれば、自然な行為なので、早く神からの引き合わせがあり、結婚すればいいのではないかと・・・・。

結婚相手とまだめぐり合っていないのであれば、神からまだ祝福されていないということですが、こればかりは一方的に祝福は下りてくるので、人間が「神よ早く嫁さんください」と祈るのは筋違い。


いつも思うんですけど、どうして各宗教の信者は、信者ではない人と結婚をしたがるのでしょう?
宗教教団内に結婚紹介所とかどうして設置しないのでしょう?
どうして外部の人から嫁をもらいたがるのでしょう?
宗教の拡大のため、信者ではない人と結婚をして、その人も信者にしなければならないという暗黙の了解があるのでしょうか?

信者ではない人と結婚しても、価値観が違うので、無理があると思うんですね。
教団内に信者同士の結婚相談所を設置するよう、教団に要請してみてはどうでしょう?

もし、信者が魅力的ではなく、外部の女性が魅力的なら、どうして信者の女性は魅力が無いのか、どうして外部の女性は魅力的なのか、考えてみてはどうでしょうか。

何故自由意志を持っている女性が輝いているのか。
生き生きとしているのか。
何故信者の女性は自由意志を持たないのか。

信仰の核に迫るものなので、回避したいことでしょうけど。
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No6です。



訂正です。

>イエスの両親も、子供ができず、神殿に神に祝福が欲しいとお願いに行ったところ、

イエスの両親じゃなく、イエスの母マリアの両親でした。
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キリスト・イエスに 掟は ありません。



神を愛せ そして 人を愛せ つまり これら二つは同じことで 自分と同じように人を愛す これ以外にありません。このようにするから クリスチャンになったのではありませんか。

姦淫は 両者ともが それぞれ 人を裏切っており 人を愛すに反します。

聖書が あなたの神ではありません。(《文字は殺し 霊は生かす》です)。あなたの神に聞いてみては いかがですか。誰も神と対話できるとは思いませんが その努力のなかで 答えが見つかることもあるでしょう。

(神を愛すとは 人を愛すと同じことであるように 人に尋ねることが 神に聞いてみることと同じであると見ることも出来ます。見方によるとも考えられますが)。

《本当のクリスチャンらしく性欲が抑制できる》というのは 《性欲については 人を愛すこととしてそれを満たすことのみを行なおうとする》という意味だと思います。なお 《性欲のない生殖に至る》とも観想されています。パウロの文章も参考になると思いますが。
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主は己の姿に似せて人間を造ったと言うでは有りませんか、何を恥らう事がありましょう。



あなたがそのような状態と言う事は主も同様だと言うことですから堂々とそれを認め何ら恥らう必要は無いのです。
主は人間をこの大地に増やそうと様々な特性を与えましたが中でも性欲は最も有効な特性でしょう。これが無ければ人間はここまで発達しなかったし途中で滅んでいたかも知れません。

しかし現実社会には法律が有りますので社会の決まり事も守らなければいけません。法律を守り良き社会人となりつつ主から戴いた性欲を有効利用してください。これこそが主のご意思です。
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私は中学で洗礼を受けたカトリックです。


確かに十戒では「姦淫するなかれ」と書かれています。
これは非常に難しい問題だと思います。今でも婚姻後以外の性交は原則として禁止しています。が、性欲もまたヒトとしての神から与えられた正常な生理です。
本来なら、人は性欲の盛んになる頃には、既に生活の糧を自立して得なければなりません。昔は15歳で成人になり、20歳までには自立できました。しかし、現実ではいまや25歳くらいまでは自立できない社会になっています。
私は、頭の中だけで創り上げた宗教の縛りは本当に合っているのか、長い間考えました。性に対して後ろ向きでしかない人達が未だに縛っている戒律が正しいのだろうかと。

結論だけ言えば、吐き出すべきものを吐き出さなければ、女性を性欲以外で見るのは難しいと思います。身体に溜まる物がなければ、余裕を持って見る事ができるようになります。
その状態で、自分が相手に求めるものと相手に出来る事を良く考えていきましょう。

私は、女性を長く共にするパートナーとして付き合えば、姦淫の罪はないと考えています。単なる付き合うだけの恋人ではなく、将来を見据えた人として選べば、罪とは思いません。
姦淫とは欲情だけ、快楽を求めるだけの交際だと解釈します。
確かに、自分で処理する為にもある程度の「相手」が必要かもしれません。しかし、キリストもその(神が人に与えた)生理上の罪を知っていたから、娼婦を赦したのではないでしょうか?だから石打つ人に「罪がないのなら打て」と言ったのではないでしょうか?
自分が大きな間違いを犯さないための行動を責める事など、誰にも出来ません。妄想などは自然に湧いてくるものです。そんなものを罪だとされても困ります。ただ、それだけに捉われては本当の罪になります。
だからその程度なら、素直に犯した罪を告戒所で告げて、赦しを得ればよいと思います。

そして、女性とは、お互いに理解しあう姿勢を持って、真剣に付き合いましょう。そして性に対しても真正面から向き合い、二人で考えて行動して下さい。またその様な人を見つけて下さい。
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