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満州国建国後、関東軍に北進論が存在しました。
国境紛争の頻発のためソ連極東軍の強化以前に先制攻撃しようとするものと理解しますが、北進策そのものの具体的な内容ははっきりしません。

シベリアは人口密度も低く、シベリア鉄道沿いの都市の他めぼしい補給拠点はなく日本軍の現地調達も困難と考えられます。

進出兵力、進出北限、占領地方などどのような計画だったのでしょう?

ご存じの方教えてください。

A 回答 (2件)

こんばんは


 まず南進論と北進論の定義づけですが、当時の日本陸軍の総本山である大本営陸軍部参謀本部第一部第二課いわゆる作戦課においては、南進論北進論という呼称は公式には存在していませんでした。とはいえ、対ソ戦を極東ソ連軍と対峙する満蒙国境における満州防衛という作戦計画が存在していたことは事実です。またその作戦計画自体も建前はあくまでも国境警備であって、侵攻を目的にしてはいませんでした。作戦課ではこれを「八号作戦計画」と名づけ、昭和14年春から昭和18年の計画立案終了を目指して対ソ戦回開戦計画を作成し関東軍に内示しました。つまりこれをもって北進論と呼ぶのであれば、その計画は関東軍のオリジナルの作戦計画ではなかったということです。
 
 その「八号作戦計画」も甲乙二つの案がありました。それは東の沿海州ウスリー江岸方面を緒戦で撃破することから始まる甲案と、開戦と同時にハイラルに手始めに西方のザバイカル州方面において敵を殲滅するという乙案の二つですが、甲案は当時の事情によりすぐに破棄され、二次計画的な存在であった乙案「対ソ西正面作戦」を採用するという結論に達していました。ご質問の占領地方はといえば、現在知られている資料からいえばここら辺が当てはまるかもしれません。ただこれも陸軍部と関東軍が当時のソ連軍の実力を調査協議した結果、実行不可能という結論を出しています。

 その主因としては彼我の戦力のあまりに大きな格差です。これもご質問の進出兵力に当てはまるかもしれませんが、昭和14年当時の日ソの戦力は、陸軍師団数において11対30、戦車2200両対200、作戦航空機2500対560という、5倍近くの戦力の差がありました。しかも日本軍はその時点で泥沼化した中国戦線を抱えていたことも大きな理由のひとつです。そしてあなたの言われる補給の問題です。膨大な量の物資の補給に欠かせない鉄道の確保や、概算で2万両が必要とされたトラックなどの調達が大きな壁となっていたのです。

 ということもあって、参謀本部は「侵されても侵さない」という作戦方針を関東軍に示達して、無謀な行動に出ないよう釘をさしています。ただ大本営としては昭和16年夏の独ソ戦の開始によって多少の迷いが生じています。つまり前年に締結した日独伊軍事同盟に基づいて対ソ戦を全面的に開始するか、または米英戦を想定しての南方資源確保のための南進を取るかという二者択一の問題です。これは当時の作戦課長服部大佐作戦課長の「北に対しては独軍の作戦が成功すればそれに乗じて北進を開始し、南方に対しては好機を求めた後攻撃を開始する。すなわち『好機南進、熟柿北進』の方針あるのみだ」という、およそ軍事のプロとは思えない発言によく表れています。余談ですが、まるで他人事のような発言には、軍事の長期展望や確固たるドクトリンが見られないことに驚くばかりですね。

 では関東軍は単に本国にある大本営陸軍部の支配下にあったかといえば、それも微妙な問題でして、関東軍司令部は現在ではよく知られているように、本国の意志を無視してまるで独立した組織のような言動を取ることが常識となっており、実際に関東軍司令部は参謀本部にたいして「満ソ国境紛争処理要綱」という計画案を突きつけています。これは聞こえはたしかに防備的な計画案のように聞こえますが、内容的にはソ連軍に対する挑発行為を認めよといった内容でした。

 つまり対ソ戦をしたくてたまらない関東軍を、軍中央が必死になだめ抑えていたという構図が見えてきます。とはいえ現実には張鼓峰事件やノモンハン事件が生起していますので、犬死を強いられた兵士たちは気の毒でしたが、ある意味「暴走関東軍」の面目は十分に保ったとはいえますね(-_-;)

 最後に対ソ戦が生起した場合の進出北限ですが、関東軍と大本営には確固たる進出北限の想定はなかったというのが私の意見です。これはことあるごとに「対ソ戦はソ連に対する鷹懲である」という軍首脳の言葉が聞かれることからも判断できます。つまり対ソ戦はたんなる威力偵察的な発想から出たからです。ソ蒙と満洲国境の小競り合いに苛立っていた関東軍は、ちょっと痛い目に遭わせればソ連など日本軍の強さに畏れひれ伏すだろうという思い上がった考えの上に立脚した、中途半端かつ机上の空論であったといえます。

 脱線しながら長々と余計なことばかり書いてしまいましたが、何かの参考になれば幸いです。
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この回答へのお礼

詳細、懇切なご回答本当に有り難うございました。
お陰で疑問が氷解いたしました。

暴走関東軍を抑えるのに苦労した大本営の苦悩が偲ばれます。
ただ関東軍が実際彼我の戦力差を認識していたかには些か疑問が残ります。  得意の精神主義でなんとかなる位の軽い気持ちを持ち続けたのがノモンハンでの敗戦ではなかったかと思えてなりません。
ソ連軍司令官から日本軍の兵士、下士官、下級将校は勇敢にたたかった。しかし高級将校は無能だったと批評された話をおもいだします。

進出の北限や補給についてはご指摘のとうり机上の空論だったのですね。

お礼日時:2007/12/25 11:27

南進論と北進論とに大きく分かれると思います。



南進論とは、西洋諸国の植民地化に脅威を覚え、第一次大戦で獲得した以上に南方を重視するものです。

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/ …

北進論とは、ロシアに脅威を覚え、拠点を確保する動きですね。
大戦前には目的(脅威の除去)は達成されたと思います。

開戦前はサイゴンに1式陸攻が集中配備されていたようです。
南方では、トラックに艦載機が軒並み配備されていたようです。

アメリカの脅威は、東南アジアへの日本軍の軍備増強にあり、
これが取り除けなかったのが開戦の一因であったようです。

大東亜共栄圏にはロシアは含まれません。
ノモンハン事変は、モンゴル人民共和国に仕掛けた(共栄しようとした)この付近が北進論と共栄圏の利害が一致すると思います。

が、ソ連軍の戦車軍団の前に陸軍が壊滅。
日本軍の戦闘機の性能の良さは先進国に通用すると大いに自信を深めた。

北進を断念。南方に狙いを定めた。
のではないでしょうか?
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この回答へのお礼

早速の回答有り難うございます。
南進論についてはある程度知っています。
質問は北進論に関するもので、その内容は良くわかりません。
関東軍参謀部が独断で設定したものとも思われず、途中で断念して埋没した可能性もあります。

北進論が関東軍の認識不足の産物なのか、真剣に検討していたものなのかを知りたかったのです。

お礼日時:2007/12/23 14:18

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