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仏教カテゴリーの質問を見ていて疑問に思いました。
実際のところどうなんでしょうか。
というのも、仏教のカテゴリーにおける質問の多くは↓

たとえば、悟りとは何か?輪廻転生は何か?中道とは何か?
仏とは何か?我はあるのかないのか?空とは何か?

このように、何か?という質問が多いような気がします。
シッダッタに聞いたら毒矢のたとえで一蹴されそうな気もしますが、

仏陀になったという存在と、法という智慧の内容と
どっちが重要なのでしょうか?

もし、回答してくださるのであれば、申し訳ないですが
「厚く三宝を敬え。三宝とは仏法僧なり」
これは禁じ手とさせてもらいます。

A 回答 (16件中1~10件)

>仏陀になったという存在と、法という智慧の内容と


どっちが重要なのでしょうか?

私なりの考えですが。

仏陀になった「お釈迦様」は、もう2500~2600年くらいも前に、お亡くなりになっています。
でも、その教え(法・智慧)は、今でも健在、に、近いです。

その考えでは、法(智慧)の方が重要かもしれません。

しかし、補足すれば、「智慧」は万物に備わっていると言う様な考えもあります。
「密教的」になりますが・・・。
その考えでは、上の二つは「どちらも重要」。
そうも考えられますね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
どちらか、というと智慧派ですか。
もちろん「どちらも重要」なことは
確かですよね。

お礼日時:2007/12/30 22:12

仏は彼岸、法は渡し舟でしょうか。


向こう岸に渡れば、もう舟は不必要で
忘れていいものでしょう。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
どちらか、というと
仏陀重視派という感じでしょうか。
もちろん両方大事だとは思います。

お礼日時:2007/12/30 22:13

>どっちが重要なのでしょうか?



法なくして仏陀になった者がいるのでしょうか?
答えは明白だと思いますが。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
法重視派ですね。
もちろん、法なくして仏陀になった人がいないのは
その通りです。

お礼日時:2007/12/30 22:16

仏法と彼岸は異なるものではなく、彼岸と仏法は同じものである。



菩薩も、教えが無ければ、如来には至れなかったでしょう。
法を得、彼岸に至る。法なくして彼岸への道は無し。
彼方に到達したとたんに、法を捨てれば奈落に落ちるでしょう。

どちらが ではなく どちらも大事。
他の3大宗教は絶対神制なので、「どちらが?」というものがあるかもしれませんが、仏教において「法と仏どちらが大事か?」という考えはないでしょう。


ですが、個人的には、法が仏に先んずるものであるのかとも思います。まあ、無理矢理な序列付けですが。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
もちろん、どちらも大事だと思います。
それでも、どちかといえば法でしたか。

お礼日時:2007/12/30 22:21

ブッダって、今風にいうと「覚めた奴」なんですよね。

空気を読んでクールに立ち回る人間・・・なのかな~
つまり、ブッダ(覚者)と法(ダルマ)は一緒なんだす。覚めた奴は空気のようで、空気とガッタイしたものと考えていいのじゃないかな。
法を説くことは、法の上ッ面をなでるだけで、本当の法を理解出来はしません。法を体現することが、覚りです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
もちろん、どちらも大事だと思います。
でも、それだと答えが見えてしまっているので
こんな「どちらか?」の質問にしてみました。

お礼日時:2007/12/30 22:25

あくまで個人的な考えですが。



法(真理)は、極端に言えば、仏がいなくても(悟りを開いた人が誰もいなくても)、厳然として存在するものだと思います。
仏は、悟りを開いて、我々に法(真理)を言葉にして伝えてくれた方。
僧は、仏に続いて悟りを開こうとされている方。そして我々に仏の悟られた法(真理)を伝えようとしてくれる方。

「篤く三宝を敬え」の中の、「仏」や「僧」を敬えというのは、「仏」「僧」とは、「法」を悟り、あるいは悟ろうとし、伝えようとした人(真理の体現者)である、だから敬えという意味だと思います。

つまるところ、「篤く三宝を敬え」は、「法」を敬えということだと思います。
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順序はくらませないんですね。

つまり因果の理法はくらませないと同じですね。
「釈迦牟尼仏=釈迦大如来」がいなければ「仏法」はないし、「仏法」がなければ「仏教僧または仏教僧団」もないんですね。これが段階的順序ですね。段階的であって並列的ではありません。
従って「釈迦牟尼仏に帰依する」ことが正しい仏教徒の姿ですね。
例えば、「釈迦牟尼仏」の教え以外を信じて学んで行じても仏教を学んで行じるとはいわない。ということですね。
信仰の対象が違えば、教えは何でもありですから、つまり「法=教え」はいかようにも解釈も追加もできますから「法に帰依」のみでは「仏教」とはなりえないということですね。これが基本ですね。
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ちょっと、yukiyama20さんの質問自体がいろいろ意味深(いみしん)で、この「質問を見ていて疑問に思いました」点から(笑)書いてみますね。



(1)まず「法と仏どちらが大事か?」という質問自体、書かれているところの「仏とは何か?」ともうひとつの「法とは何か」「(仏教)」という点が「?」のままだと成り立たない質問だと思うのですが?

これを言ってしまうと、そちらの文の前半が全部おかしくなってしまうわけですが、

書かれてる言葉から そちらの意図とかの深さがいろいろ推理され、その推理される深さから考えれば、そんなことはどうでもいい部類の疑問となってしまうところ、

(2)その推理に関するこちらの疑問は、かなり大きいです(笑)。

>シッダッタに聞いたら毒矢のたとえで人蹴りされそうな気もしますが、

と言われていますが、その対象は>例えば、悟りとは何か?輪廻転生とは何か?中道とは何か?仏とは何か?我はあるのか無いのか?空とは何か?

と書かれておられるそのすべての「?」やその仏教カテでの回答とかの事を暗に意味しておられるのでしょうか?

とすれば、yukiyama20さん御自身は、法派なのですか?

厳しい雪山を20も潜り抜け生き抜くようなそんなときには楽しくも命がけの人生にて、リーダーには迷いがあってはならないでしょうし、時には間違ってるかもしれなくても進んでいってみることを強引に意思決定しなければならないでしょうし、かといって弱い人を助けたり背負ったり助け合いを促したりすることも必要でしょうし、 そんなふうな人間的な生きる厳しさの前には、 具体的な生きる道の法がまずすべてだという 感じでしょうか?

最後の禁じ手も かなり意味深ですね(笑)

信仰という事の中には、頼るとい形の面が 一神教でなくてもあったりして、[敬う」というのが、真の意味での存在や人や命へのリスペクトの何がしかをも意味してない時もありますからね。

わざと、真実を言わないで、オブラートの優しく包んだような(笑)言い方なのかもしれませんね。

Yukiyama20さんは、たぶんでかい度量のリーダーの素養のある方なので笑。

私自身はこんなふうに思います。
自分が幸せだったら、美味しい味噌汁のダシの味に天国にでも上ったような感じがしたら、 そしてその時にどこかの風の吹く野に住処もそのあてもなくおびえつつ40度の熱にふらふらになりながらさまようおばあさんが、もし一生懸命大正昭和平成と生き抜いてこれたのにも関わらずそうなってしまったことを想像できたとしたら、 誰だって、そのおばあさんの手とか背中とかをさすってあげ、これを一緒に飲んで欲しいと思うでしょう。  でも同じそんな人間も もしあの南京の大虐殺の現場にて恐怖に神経がすでにおかしくなっている時には、おばあさんもなにも子供何も あの恐ろしい見方よりも大勢の捕虜のうなり声を聞いた時、威嚇的に大声をあげ、   いや、もっと身近にも、ただ仕事が超忙しければそれだけで、公園でびっこひいてひっくりかえりそうなおばあさんがいてもすこしも気にもならないのが、私たちの人間の心理の通常の場合の限界なのではないですか? そこをキリスト教ならば、十字架に架かることですべてを理解している神の遍在がどんな[愛」なのかを示したのでしょうし(贖罪というのは罪の意識、道徳意識から解釈したキリスト教会の独時の深みや伝統もある解釈の世界ですが、厳密に考えれば、神の知性の質で私たちがわかることのうちにも、神は最初からすべてを許してるということは自明のことです。)だから道徳的愛の世界が 時には無理をもともないながら生まれたのでしょうし、 仏教では、自然のな無理のない思いやりがいつも仏の悟りの入り口として説かれつづけてきたのだと思うのです。 その「おばあさん」が罪多き人だったとしても、自然にその手をさすりおいしい味噌汁をいっしょに食べる心になれるように、   最後は至福がゆるぎなく生身の人間なりに悟れるように、そんな感性を完成しなさい。 その模範がここにあるのだから、  これが仏とは、ということであり、そして、本来そのことへの謙虚さこそが信仰なのだと思う。

完成された自然な法、その中でほんとうは生身の人間でも[平和時」には実践できる文化や道徳や[和」の世界のそれなりの完成のための[法]方法と私は言い換えてもいいとおもうのですが、 たしかにそれならば、[法」がすべて、しかして、嘘は駄目、常に仏には謙虚に、 これしかないとおもう。

詳しいことはほんとに知らないただの肉体労働者ですが、60歳になってほんとにそうおもうんですので、

もうやるっきゃないです。あなたのような人が(神とちがって人間の知性での推理ですのでおかしなこと言ってるかもしれませんが)リーダーとなって この地元(日本)も改革していってください。

なんでこんなこと書きたくなるのかも不思議ですが、ご活躍をお祈りしています。(自分の書いたことへも「疑問」が出てきそうな文となってしまいましたが、一生懸命書きましたので、このままを投稿させていただきます。)
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ANo.7さんのおっしゃるように、ブッダが説かなければそれは仏教ではないから、仏教で最重要視すべきは「ブッダ」であるという解釈も成り立つでしょう。



けれど、「仏」か「法」かのどちらかを敢えて選べというならば、やはり「法」の方になるでしょう。
ブッダ自身の言葉として、「自灯明、法灯明」というものがあります。
これは、「私(ブッダ自身)や他者に依拠することなく、自分を拠り所とし、法を拠り所とせよ」という言葉です。
確か、晩年の言葉で、「私もいずれは死ぬ。死んでしまった私という存在に執着するのではなく、また、私の代わりになるような誰かを頼るのではなく、私の説いた法に従って、自ら精進して、悟りを開け」という意味だと思います(この言葉によって、仏滅後数百年の間、仏像が造られることはなかったといいます)。

仏教の教えである「法」を説かれた「仏」に対する敬意、報恩、帰依の心がなければ仏教徒とは言えないでしょう。ですが、法よりも“仏という人間”を重視してしまうのは、ブッダの教えに反するように思います。
仏教は、仏を拝み仏に助けてもらう宗教ではなく、仏の教えに従って、自ら精進する宗教だからです。
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私は頭を真っ白にして何も考えない状態になれます。


未だ仏教的な悟りの境地には届かずに殆ど年中瞑想しているような精神状態です。

かんたんな言葉を使います。
仏とは真実の人間性を意味します。
智慧とはかんたんにバランスが取れて聡明な知性です。
日本人なら誰も抱く共通認識である「人間らしくありたい」このように願う心だけで菩薩です。

ちなみに「何ぞや」系の質問は頭を空っぽに出来る当方には確かな薬効がわかります。簡単な観念に還元すると悟りを開くのが早いです。
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