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慈悲とは無の悟りを補う行いである。
お釈迦様の悟りに置いて「無」の内訳とは有無について明白な分別を養う事である。
にもかかわらづ、そのような分別を持ち合わせないで、無に属する事柄、無根であり、かないようも無い願いを傾けることは、幼稚園児でも納得する無い物ねだりである。
これこそは私を個人的に苦しめている取りすがりである。
私に言わせれば、良識のある方の引用した聖書に由来するイエスの信仰の様式ですら取りすがりであった。
「あなたの言葉から内心の信仰の在りようが見える。」
これは霊験を備えれば誰でも出来ます。
そして慈悲とはその信仰の有りようは無根である。
はっきりと、その信仰はかないようが無い。
そのように表すことである。
お釈迦様は当時のインド社会での信仰の有りように、このように無の観想を述べ、慰めるがのごとく慈悲をもって手向けた。
ただそれだけが慈悲なのに、仏弟子を気取り、無を恐れる背教者が宗教を組織して正当な釈迦の後継者のごとくふるまっている。
これこそが仏道の真相です。
何故悲しみを知らせる慈悲が必要なのか。
喜びを分かち合う事が出来ないからです。

以上は色々とご質問させていただいた仏教の問題点の集約です。
当事者よりアドバイスをお願いします。
最近煩わしているヤプーよりも信仰の当事者より意見を聞きたい。
あなたはそれでも仏道を歩めますか。
仏教文化の浸透した日本に置いて、信教で無かったとしても必ず潜り抜けるのが仏道です。
私もそうでした。
あなたは仏道を我が大道と自信をもって言えますか。

A 回答 (4件)

じぶんは釈迦がといたという膨大な一切経の教えを学んでいませんが、法華経(鳩摩羅什訳)に関して感じることがあります。


如是我聞という弟子の問いからはじまって28品の最後に去来而己でおわっています。つまり仏の得た悟りを求めるお弟子の姿勢をいいたいのです。自ら悟りを得たとおもいこんで退転する人が99.9%、戒めるべきことは途中で修行をやめないことです。機縁に触れてともに歩み学ぶことが「さとり」への第一歩ではないでしょうか。

この回答への補足

質問の主文でわたし自身も仏道を潜り抜けたと書いてあります。
何が信仰であるかに迷いが生じたとしてもそれでも信仰の道は続くでしょう。
かようであっても十分心強いのです。

補足日時:2010/07/25 13:58
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
信じる道としてそれでも仏道を歩めるのなら言う事は無いんです。
その道のりは確かで実りあるものでしょうよ。

お礼日時:2010/07/25 12:08

一信者としての所感をお伝えいたします。


密教においては、悟りを得ても大慈悲心を発する事がなければ未成の仏であるとされています。
大慈悲心を発する境地は、顕徳の成仏ともいわれ、衆生済度に尽くす境地でもあります。
大日経に「菩提心を因として、大悲を根とし、方便を竟意とす」とあります。
菩提心の果は、悟りのみならず大慈悲心による救済の方便を尽くす境地であるとも解せます。
そしてその事がどのようなものなのかは
「欲に対して利しながら済度して、真智を与え、涅槃に送る」という言葉に表されています。

大慈悲心とは戒定慧の三学の先にあるものなのでしょう。
それは、どのようなものに対する補いなどでは無く、仏果の直接の受持にさえ連なる至上の説法であるとさえ言えるのではないでしょうか。

教えの違いを超えて、苦界に身を投ぜられて救済に尽くされた方々の尊さは、万人が認めるところですが
その心は不滅といっても過言ではなく、何ら付け足す必要のないもののようにも思われます。
至らぬ身ながらも、そうした心の一端に触れた者として信じる事に迷いはありません。

この回答への補足

本文中にある、、、

そして慈悲とはその信仰の有りようは無根である。
はっきりと、その信仰はかないようが無い。
そのように表すことである。

一方で私の信条として、信仰とは各々が自らの道を歩むことである。
このようにとらえています。
まず自らがその道を信じなさい。
そのように言いたい。
そうすると私は一方では無慈悲なんですよね。

補足日時:2010/07/27 22:01
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この回答へのお礼

そりゃよかった。
それでこそですよ。
あなたの様な方には特に何も言いません。

お礼日時:2010/07/27 21:55

無とは、悟りとは、など聖人になっても競争原理による感情は制御できないようだ


獣の論理に忠実ですね

この回答への補足

考察です。
慈悲を手向ける必要や、慈悲を発露する必要は悪因とかかわっています。
ようるに、悪だからこそ慈悲が必要になる。
私は人の心に悪が忍び寄ったとしても、「世」要するに「自然の摂理」にはあくまでも、、、
悪は無い。
罪は無い。
嘘は無い。
このようになります。
したがって私はあくまでも悪人を悪人と見なさず人間としている。
仏教の解釈では、それならば大悲であるとも言いうるかも知れません。
私はそのような解釈を拒否します。
人間存在は自然の摂理にかなっており、それと調和するものである。
要するに悪意をふっ飛ばせるし、我が事に限ればすでに吹っ飛ばした。
あとはただ他者をぶっ飛ばすのみです。
無我に置いて無我以外には悪は存在したと論説されてある。
これに我をもって無根である。
「そんなもんありゃしねー」。
このようにするのが、無我の無にあらづ、我の無です。
有神論と解釈するといいでしょう。
お釈迦さまに関しては他者の信仰への積極的干渉が明白である通り、当時のインドの初源の神の姿と密接にかかわっていた。
多くを語った無については、
無根であるゆえ文字通りの無である。「そんなもんありゃしねー」と、
我が信仰のみの事柄であり、それを表すすべを知らないし必要もない。非思考ゆえの信仰ある無。
この二つが交錯しています。
無神論の「無」とは、たんに神を一切言葉で表さない事を意味しています。
それから仏、要するに人間の姿を信仰とするのなら、それは神の姿を人間になぞらえて信仰する事です。
したがって無神論から始まった仏教は有神論と接点がある。
問題となるのは宗教上では縄張り争いばっかりでこの手の考察に検討する余地を見出さない事でしょう。

補足日時:2010/07/29 00:26
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この回答へのお礼

君が生きている事は人類にとって損失だ。

お礼日時:2010/07/26 21:57

priちゃんを救うつもりはありません。

申し訳ない。

この回答への補足

 

補足日時:2010/07/25 03:46
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この回答へのお礼

 

お礼日時:2010/07/25 21:18

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