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私は、輪廻転生や守護霊、因果応報を心から信じています。

今までの人生を振り返ってみると、色々な場面で大きな力(守護霊)に守られていたと感じます。その時は困ったことになったと思っていても、後々考えると、そうなって良かったことが多々ありました。

私は生まれつき身体が弱く、重病ではないけれどパワーが無いのです。ちょっと何かすると、ひどく疲労したり、頭痛がしてきました。高校の体育祭の翌日は完全休養日でした。

そんな体質のせいもあって今では、整体士の仕事をしています。
自分も施術してもらい、整体士という結構ハードな仕事も続けられるようになりました。

でも、もっとパワフルな方は沢山いらっしゃいます。
身体が弱いという現世での状態は、前世においてどういう事があったのでしょうか?来世を健康な身体で生きるには、今をどう生きたら良いのでしょうか?

また仕事面では、半分ボランティアの気持ちでとにかく患者さんに良くなってほしいと祈るような感じです。
しかし、因果律の法則から見ると患者さん達も何らかの業があって体の故障と言う果を受けているのだと思われます。

患者さんが施術によってその果から解放されるのは、もう十分に学習が済んだと解釈して良いのでしょうか?

長くなりますが、もう一つ。
魂は、転生を繰り返して学習し最高の境地(仏)を得る・・・という事ですが、実際にはどういう風になるのですか?
まだ肉体をもって地球上に生まれてくるのでしょうか?それとも他の世界に生まれるのですか?肉体に支配されないのですか?

こういう事に詳しい方、よろしくお願いします。

A 回答 (6件)

 nomamiさんは精神世界のことを信じられてるようなので、わたしもその前提でおはなしします。


 
 まず、体が弱いので前世はどんな状態だったのか?との質問についてですが、からだの不調及び病気はエネルギー障害、遺伝もありますが、その主原因は霊障、つまり霊のさわりです。nomamiさんの場合は生まれつき体が弱かったそうですので、うまれつきの霊媒体質です。世の中にはよく霊が見える聞えるという人がいますが、早いはなしがそういう体質だということです。で世間はそんな力をすごいことにようにいっていますがそれは大間違いです。

霊媒体質にも低級霊媒体質と高級霊媒体質とがあり、低級霊媒体質の人は、常時低級霊の憑依をうけその影響を受けてしまいそれをどうすることもできません。つまり自分の意思でコントロール出来ずに、さまざまな病気に悩まされることになります。
霊が腰にとりつけば、腰痛になりますし、心にとりつけばノイローゼなど、その形態はさまざまです。もちろん心の姿勢や運動、高度の神霊治療を受けることで次第に低級霊媒体質を脱し、高級霊媒体質に移行することも可能です。

次に取り付かれた人の病気が治るというのは、霊がその憑依を何らかの原因(神霊治療や霊がその人が本来もつエネルギーに負けた、改心した等々)で解いたということです。
だから今の体が弱い云々は前世とは一切関係ありませんし、そもそも前世はありません。つまり輪廻転生(人間がまた人間として生まれ変わること)はありません。
あるのは、死後の世界、霊界です。

人間は体と頭脳と魂から成り立っており、死後体と頭脳は滅びますが、その魂は生前その人が培った魂に応じた霊界の世界に移行します。
霊界は想念だけの世界ですので肉体の束縛などは一切うけません。


人間界でも自然と気の合うもの同士が友達になりますが、肉体のない想念だけの世界である霊界は、それとは比べ物にならないくらいの波長一致の原則が働いています。
いつも無気力に生きていたひとは、同じような仲間のいる霊界へいきますし、勇敢に人生を切り開いてきた人の魂は、同じように生前勇敢に人生を切り開いたひとのいる霊界に移行します。
nomamiさんもその死後はその想念に応じた霊界に赴くことになります。

 長くなってしまいますので詳しくは
 
 大霊界(1~14ほか) 隈本確   弘文出版 を読んでください。
 
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この回答へのお礼

早々とご解答いただきまして有難うございます。
本文にも書きましたが、私は色々な面で守護霊のような存在に守られていると感じています。気のせいとか偶然ではないと思います。身体不調の原因が霊障であるならば、何故守護霊は守ってくれないのでしょう?
転生が無いと言うことは今の生き方によって死後の行き先が決まってしまい、やりなおしもきかないと言う事でしょうか?厳しいですね。

お礼日時:2002/07/12 13:25

こんちわ、sohです



あんま詳しいわけじゃないですけどとりあえず。。。


輪廻転生は、源流を溯ると仏教より前になります。
ま、そこは置いといて

>身体が弱いという現世での状態は、前世においてどういう事があったのでしょうか?

なんらかの業があった、とだけしか言えません。
これは 1+1が2になるような法則性のあるものではなく
なんからの悪しき事、仏の道から外れることを行ったため
現世にてそのような宿業を背負い生み出されたと考えます


>来世を健康な身体で生きるには、今をどう生きたら良いのでしょうか?

ん~、来世にはいくつかあるのですが、
お天道様に胸を張って生きれるような、正しき道を歩み続けることに努力を惜しまず、また慈愛をもって人々に接し、自らを高めればよろしいでしょう。

>しかし、因果律の法則から見ると患者さん達も何らかの業があって体の故障と言う果を受けているのだと思われます。
>患者さんが施術によってその果から解放されるのは、もう十分に学習が済んだと解釈して良いのでしょうか?

もし学習が足りないのであれば
また違う、「よくなき果」がその患者さんの身にふりかかりますし、学習が足りているのであればそれ以降はなにも起こらず健康な日々を送れるのでしょう。

また違う解釈をするのであればその患者さんが、施術を施せる「貴方に出会えた事」自体が、その患者さんの行いが正しかったため仏が導いて下さったとの考え方もできます。


>魂は、転生を繰り返して学習し最高の境地(仏)を得る・・・という事ですが、実際にはどういう風になるのですか?

またもいくつかあるんですけれど
その考えの源流は
最終的にはこの輪廻転生から「解き放たれ」、仏の世界へと行くことです

簡単に言うならば仏の世界では「生老病死」のような「苦」から解き放たれた自分になれるってことですかね?

ほいではでは。
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この回答へのお礼

前世では余程悪い事をしていたのでしょうね。
今の生き方としては、現在の仕事を一生懸命やっていく事が一番良いのかなと思いました。

仏の世界では生老病死の苦が無いと言うことですが、「老」と「死」が無いと言うのは肉体を持たない世界なのでしょうか?
それとも、肉体は持っていても「老」や「死」を苦と感じないと言うことなのでしょうか?

私がその様な世界に行ける様になるにはまだまだ転生が必要でしょうが、ずっと気にかかっています。(夜は寝られますが)

お時間が有りましたらまた回答をお願いいたします。

お礼日時:2002/07/12 14:11

フムフム、いろいろとお悩みのようですね。


体が弱いとのことですが、それはあなたにとって良かった
ことなんですよ。

自分の体が弱いから、同じように体の弱い人の悩みがわか
るのです。あなたが整体士になったのも、意味があること
なんですよ。

神仏がおられるのならば、あなたの働きを通じて病んだ人
を楽にしてあげたいと願っているのではないでしょうか。


私たちは、残念ながら過去を変えることはできません。
できることは「今」を生きることだけです。

因果律を信じているのでしょう。
過去からの「因」があるかもしれない、けれどもそれに
とらわれても仕方のないこと。
今を懸命に生きてください。なるべく人のために生き、
善を積むようにがんばってください。
今の生き方が新たな「因」となり、未来に果報をもたらす
のです。


転生を繰り返せば仏になるとのことですが、少なくとも
お釈迦様はそんなことは言っていません。
苦しみから離れ、現世を正しく生きれば、誰でも悟りを
開くことができる。大雑把に言えば、これがお釈迦様の
教えです。


同僚でパワフルな方がいるとのことですが、あなたもそう
なる可能性はありますよ。
気功士でも、自分の気だけで施術する人はそんなにレベル
は高くないです。レベルの高い気功士は、天地の気を取り
込むことができます。

あまりここでは詳しく説明できませんが、心身を統一すれ
ば天地の気を取りこめるようになります。天地の気は無尽蔵です。
その手の書籍は探せばありますので、ご自分でいろいろと
勉強してみてください。
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この回答へのお礼

おっしゃるとおり、身体が弱くなかったらこういう職業には就かなかったでしょうね。
私は、仏=悟りを開いた魂 と考えていましたが違うのですか?
で、悟りを開いた魂はどういう状態になるのでしょうか?
いろんな本を読んでもはっきりしません。
もし、ご存知でしたら教えてください。

以前6年くらい、内気功(気功健康法)をやりました。
呼吸に合わせて、手や身体が水に浮くように勝手に動いたり、薄暗いところで両手指を少し離して付き合わせると白い線のようなものが見えたりして、「気」の存在は実感できました。しかし、身体の状態はちょっとは良くなったかなという位でした。

力のある気功士に気を入れて頂いたとき、百会からズーンと何かが入ってきて、アッという間に頭痛が消えてしまった事もありました。

お礼日時:2002/07/12 14:43

 補足いたします。


 
確かに守護霊さらに守護神様は間違いなく存在しますが、その出現理由もその質も多々あるということです。 

まず、なぜ守ってくれないのか?との疑問ですが、守護神様といっても、いまだ修行中の神霊から、非常に力をもった神霊などそのレベルはピンきりです。

だから守護している人間が自分より力のある悪霊に憑依された場合ふせぎ切れないのはあたりまえです。加えて守護神(霊)はなにも人間の奴隷や下僕ではありません。守護神といえど自分の存在を信じないものや、自分を敬いもしないものに、無条件で守護する義理はないのです。

詳しくは前述の本をお読みください。
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この回答へのお礼

有り難うございました。
守護霊にはいつも感謝しています。

お礼日時:2002/07/14 15:56

こんちわ、sohです。



専門家ではないので、ただのアドバイスになりますが


>仏の世界では生老病死の苦が無いと言うことですが、「老」と「死」が無いと言うのは肉体を持たない世界なのでしょうか?
>それとも、肉体は持っていても「老」や「死」を苦と感じないと言うことなのでしょうか?

>私がその様な世界に行ける様になるにはまだまだ転生が必要でしょうが、ずっと気にかかっています。(夜は寝られますが)


これは「ご自分」で悟らなければ解らぬことのようですし
私も当然「小悟」でさえ経験したことのない凡人なので、私の拙き筆では荷が重過ぎます

ただ、輪廻転生というのは「人」に魂がある
それを信じているからこそ導き出された考えの一つです
「肉体」に拘っていては現世に対する未練が魂に残っている事、どうぞお解りください。
おっと、勘違いされては困りますが天寿をまっとうしなき者には決して道は開かれませんよ。
貴方のおっしゃるよう今は

>今の生き方としては、現在の仕事を一生懸命やっていく事が一番良いのかなと思いました。

事が一番肝要かと存じ上げます。

それでは。(^-^/~~
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この回答へのお礼

有り難うございました。
今の生を一生懸命生きて生きます。

お礼日時:2002/07/14 15:53

いろいろな方面からの回答ができると思いますが、仏教の視点に限定して書かせて頂きます。



>身体が弱いという現世での状態は、前世においてどういう事があったのでしょう

まず仏教では確かに因果を説き、業を論じるのですが、少なくともこれを他人に当てはめて、他人の状況を説明する理論としては使ってはならないのではないか、と思います。
仏教の業論は自業自得をその背骨とします。つまり、自分の今現在おかれた状況について、それを誰かのせいにして現在をなおざりにすることがないよう、自らの業として受けとめ、そのうえで前向きに生きようとするために生まれたのが業論なのです。

私たちは、生まれた時点でそれぞれ差をもって生まれます。金持ちに対して貧乏もあれば健康に対して病弱なものもいます。そもそもどの国のどの家に生まれるか、またどんな時代に生まれるかなど、生まれ落ちた時点で既に与えられた条件の違いが沢山あるわけです。

むろん理不尽な差別などはこの限りではありませんが、これらの生得的な違いの原因はどこに求めてもきりがありません。ある状況下で生きていこうとするうえは、「~のせいでこうなった」という風によそに理由を求めることなく、自分が選択したもの、として自らが受けとめるところに積極的な生のスタートがあるわけです。仏教の業論の狙いはそこにあります。
仏教に「願生(がんしょう)」という言葉がありますが、これは私達がこの世に願って生まれてきたということを指します。つまり自分はこの世に「たまたま生れ落ちた」のでなく、「条件が整ったうえで主体的に生まれることを選んだ」という存在認識を表す言葉なのです。
こういう認識にたって個々人がそれぞれの状況を深く受け止めることが肝心なのであって、それで他人の状況の説明をしたところで自分には何の意味もありません。

ただ、このような原則が仏教のなかで貫徹していないことが混乱を助長しているのも現実です。「業は自分が受け止めるもの」という原則を忘れ、ある行為とその結果もたらされる報いについて、誰にでもあてはまる一般解を提供しようとした経典も数多くあるからです。
代表的なものが「善悪因果経」「業報差別経」「仏説十来」などですが、これらはいずれも原因と結果を極めて機械的かつ原理的に結びつけて説いています。またらい病(ハンセン氏病)がかつては“業病”と呼ばれたこと、仏法を誹謗した罪などの報いとされたこと、なども残念ながら有名な経典の内容によるものです。

「大集経」という経典を例にとると、
「富貴は慈悲より来たり、…無病は信心より来たり、…短命は殺生より来たり、病身は不浄より来たり…」といった具合で、ご質問の病弱は、この経典によると前世の不浄が原因だ、ということになってしまいます。
しかし、本来はこのような機械的な解釈は科学的意味以前に仏教的にも意味のないものです。繰り返しますが、仏教はお釈迦さんが個人の生を充実させるために説いた事柄が中心なのですから、本人が自分の境遇を受け止めるためにしか援用できないものだと思います。一般解がないのが、業論の本質なのです。

まとめてみると、仏教の三世因果の考え方は、
「今の自分は、過去の自分の業の結果である。ならば今をいとい嫌うことをやめ、他に原因を求める事をやめ、この現実をこの自分のものとして受け入れ、今を生きよう。
今自分が生きるこの瞬間が、未来の自分につながるのだ」という見方だと言えるでしょう。大事なことは、これは「いま現在」の「自分」を肯定し、精進するためのバックボーンである、ということです。


>魂は、転生を繰り返して学習し最高の境地(仏)を得る…という事ですが、実際にはどういう風になるのですか

お釈迦さんに限定して言えば、魂や輪廻はその説法の範疇外です。仮に輪廻を説くならその主体となる魂が不滅でないと困るわけですが、お釈迦さんは魂の存在を論じなかったのです。それら結論の出ない形而上的問題は、お釈迦さんにとってこの世での生を生きるうえで役に立たない、というものでした。この世において「智におもむかず、覚におもむかず、涅槃におもむか」(中阿含経)ない問題は論じられなかったのです。

ならば悟ったとはどういうことをいうのか。お釈迦さんの尊称のひとつに、「調御丈夫(ちょうごじょうぶ)」というものがありますが、この言い方が一面の回答になるでしょう。調御とはコントロールのこと、つまり「調御丈夫」とは「心身のコントロールに優れたお方」という意味に他なりません。
悟りというと霊妙不可思議なものに思われがちですが、原始経典に描かれる悟りの姿は、その多くが極めて現実的な心身のコントロール術とも言うべきものです。

一例として、雑阿含経中の箭経を挙げます。一般人には苦や楽があるが、悟った者も苦や楽があるのか、あるならどう違うのか、という質問がお釈迦さんになされます。それに対するお釈迦さんは、「如来はただ身受のみ生じ、心受を生じない」という意味の答えをするのです。
つまり、快いものを見たり聞いたりした時に、楽しいと感じるところまでは一般人も仏も一緒だが、仏はその先に心が乱れて「自分のものにしたい」などといった欲が生まれないこと、あるいは怪我をして痛みを感じるところまでは同じだが、その先痛みのあまり怒りにかられたりすることがない、という意味です。

この経の中には譬えとして毒矢が使われており、「如来は第一の矢が刺さるだけで済むが、普通の人間は第ニの毒矢まで受けてしまうのだ」という意味の説法がされています。

この経にみるように、お釈迦さんの言葉に限って言えば、悟りとはこの現実世界の苦しみから離れるための、わが身のコントロールの完成を指す言葉なのです。
従って、老・病・死といった苦からの解脱というのも、物理的な痛みや苦しみから超越したり、不老不死となることを言うのではなしに、若さや健康に執着して(そのような状態にない現状を憂いて)苦しむことからこの世において自由になること、上の例で言えば「第二の矢を受けない」ことを指すのです。
悟りという状態を祭り上げ神聖化してしまうと、却ってお釈迦さんの意図から外れてしまう事になりがちであり、十分注意すべき点だと思います。


※長くなってしまいましたので、この辺りで止めておきます。追加補足を頂ければ無論できる限りお答えするつもりはありますが、もし意味がないと思われれば無視して頂いても何ら差し支えありません。
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この回答へのお礼

有り難うございました。
今までに読んだ本や、それなりの人から聞いた説とは異なるのですぐには受け入れられないのですが、neil_2112 さんの説も頭に入れて考えていきます。

お礼日時:2002/07/15 19:24

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