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仏教カテゴリーの質問を見ていて疑問に思いました。
実際のところどうなんでしょうか。
というのも、仏教のカテゴリーにおける質問の多くは↓

たとえば、悟りとは何か?輪廻転生は何か?中道とは何か?
仏とは何か?我はあるのかないのか?空とは何か?

このように、何か?という質問が多いような気がします。
シッダッタに聞いたら毒矢のたとえで一蹴されそうな気もしますが、

仏陀になったという存在と、法という智慧の内容と
どっちが重要なのでしょうか?

もし、回答してくださるのであれば、申し訳ないですが
「厚く三宝を敬え。三宝とは仏法僧なり」
これは禁じ手とさせてもらいます。

A 回答 (16件中11~16件)

あくまで個人的な考えですが。



法(真理)は、極端に言えば、仏がいなくても(悟りを開いた人が誰もいなくても)、厳然として存在するものだと思います。
仏は、悟りを開いて、我々に法(真理)を言葉にして伝えてくれた方。
僧は、仏に続いて悟りを開こうとされている方。そして我々に仏の悟られた法(真理)を伝えようとしてくれる方。

「篤く三宝を敬え」の中の、「仏」や「僧」を敬えというのは、「仏」「僧」とは、「法」を悟り、あるいは悟ろうとし、伝えようとした人(真理の体現者)である、だから敬えという意味だと思います。

つまるところ、「篤く三宝を敬え」は、「法」を敬えということだと思います。
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ブッダって、今風にいうと「覚めた奴」なんですよね。

空気を読んでクールに立ち回る人間・・・なのかな~
つまり、ブッダ(覚者)と法(ダルマ)は一緒なんだす。覚めた奴は空気のようで、空気とガッタイしたものと考えていいのじゃないかな。
法を説くことは、法の上ッ面をなでるだけで、本当の法を理解出来はしません。法を体現することが、覚りです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
もちろん、どちらも大事だと思います。
でも、それだと答えが見えてしまっているので
こんな「どちらか?」の質問にしてみました。

お礼日時:2007/12/30 22:25

仏法と彼岸は異なるものではなく、彼岸と仏法は同じものである。



菩薩も、教えが無ければ、如来には至れなかったでしょう。
法を得、彼岸に至る。法なくして彼岸への道は無し。
彼方に到達したとたんに、法を捨てれば奈落に落ちるでしょう。

どちらが ではなく どちらも大事。
他の3大宗教は絶対神制なので、「どちらが?」というものがあるかもしれませんが、仏教において「法と仏どちらが大事か?」という考えはないでしょう。


ですが、個人的には、法が仏に先んずるものであるのかとも思います。まあ、無理矢理な序列付けですが。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
もちろん、どちらも大事だと思います。
それでも、どちかといえば法でしたか。

お礼日時:2007/12/30 22:21

>どっちが重要なのでしょうか?



法なくして仏陀になった者がいるのでしょうか?
答えは明白だと思いますが。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
法重視派ですね。
もちろん、法なくして仏陀になった人がいないのは
その通りです。

お礼日時:2007/12/30 22:16

仏は彼岸、法は渡し舟でしょうか。


向こう岸に渡れば、もう舟は不必要で
忘れていいものでしょう。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
どちらか、というと
仏陀重視派という感じでしょうか。
もちろん両方大事だとは思います。

お礼日時:2007/12/30 22:13

>仏陀になったという存在と、法という智慧の内容と


どっちが重要なのでしょうか?

私なりの考えですが。

仏陀になった「お釈迦様」は、もう2500~2600年くらいも前に、お亡くなりになっています。
でも、その教え(法・智慧)は、今でも健在、に、近いです。

その考えでは、法(智慧)の方が重要かもしれません。

しかし、補足すれば、「智慧」は万物に備わっていると言う様な考えもあります。
「密教的」になりますが・・・。
その考えでは、上の二つは「どちらも重要」。
そうも考えられますね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
どちらか、というと智慧派ですか。
もちろん「どちらも重要」なことは
確かですよね。

お礼日時:2007/12/30 22:12

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