これ何て呼びますか

変なことをお尋ねします。

「人間は失敗作ですか?」

というのは今人間がしていることって人間以外の動物から見れば迷惑以外の何物でもない気がするのです。文明の発展だって所詮人間の生活を豊かにしようとしているだけで他の動物にとっては住むところを破壊され環境を悪くし不都合としか思えない気がするのです。
極端な話、本当に地球の生物や環境のことを考えるのであれば人間がいなくなることが一番いいのではないかとさえ思えます。

最近この考えが頭に取り付いて離れません。この意見への同調、反論、どんな意見でも構いませんので意見をお願い致します。
よろしくお願いいたします。

A 回答 (15件中1~10件)

変な言い方ですけど、 こういう若い新鮮な優しい心からの質問、大好きです。

(笑)

でも、この問いには 切々とした反論とかがあるので、急ぎ書かせていただくことにしました。

広大な命の連鎖の中、
まず 
動物には、成功も失敗も存在しないとう、その意識の状態をよく考えてみてください。

そんなゆとりなく生きてきたんです。 必死です。 感情もあります。 それなりに豊かです。(いやよく知れば驚いてしまう部分もあります。)

でも、ゆとりなんかないです。 仲間という社会意識や感情もあるんですが、本能の中でのことなんです。

そこには[自他を見つめる」という名のゆとりはなかったはずなんです。

生物の脳の中にその命、その能力が生まれて、始めて「見つめる」ことが出来るから反省し進歩出来る可能性を宿したわけですが、 こうして始めて生きるという面でもより確かなゆとりを心(意識)に得るとともに、

それ以上に、自己が理解でき そして他の存在が同じ存在として存在しているという哲学を獲得し、はじめて「仲間」であるということを超えて「友」という価値をそこに見たということが重要です。

この どこまで行っても、何億光年も乾いた火と土の星達の宇宙。水分はあるのでしょうが、結局は青い星の出現の可能性もほとんどない無味乾燥しただだっ広い いやそんなものじゃない、ほんとうに意味などない長く長くはてしない宇宙に、  始めて「友」という存在、 そう価値の源泉という存在が 潤いが    この青い星にふさわしい存在が   

とうとう 生まれたんです。 そうして言葉をも「見つめる能力」はやがて獲得し、 心の底から笑ったり、 時には深く深く悲しみも知ってきたんです。

でも「失敗作」?_ ちがいます。  こんなに こんなに、こんなに
泣いて笑っていっしょうけんめい生きてきた 失敗しても失敗してもそうして生きてきた命が 宇宙のどこにありましたか?

友を知り、そして、始めて「いっしょに星を見る」というゆとりを獲得した人間、 この青い星自体に、夕焼けの雲を見て、しばらくすると「ほら一番星だ」と友に語りかけ、やがて大地には星が    昼間の空が青いからこそ「美」として見えたり、   海があり 浜辺のなつかしい波があり、川があり、森があり、雨が降り大地を潤し、   そう水がありこころまで潤す、  この中に生きてる人の存在の 価値の世界を考えてみれば、その視点に立ってみれば、

<人間がいなくなることが一番いいのでは>ということには せつせつとした反論したくなる気持ちを解ってもらえると思います。

そして、相変わらず 人間にだけ、可能性という存在も与えられています。 どんな時にも希望を失ってはいけないです。 過去の人たち、いや全ての命たちのためにもです。 

たとえ 最後の最後までそう努力しても地球がとうとう守れなくて、終わってしまったとしても、すべての価値すら消えてしまったとしても、人間ってその時になら 笑って死ねると思いませんか?  

魂のそこから笑って、魂のそこのそこから最後の別れを悲しんで涙も滝のようにながして、しずかに去ってもゆけるんじゃないですか?

人間へのリスペクトを忘れちゃいけないと思う。
 
であれば、動物をもそこまでいたわるようなやさしい新鮮な若いあなたのような人こそ、この情報化時代に
やがて リーダーとなり 平和の砦を築き、地球をこんどこそ守ってください。   

「人間は失敗作ですか?」 何言ってるんですか、ganz9984さんのような若い命に その答えがかかってるんじゃないですか(笑)。

以上、せつせつとした反論でした。n 同調かな。
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この回答へのお礼

ご意見ありがというございます。

たしかに自他をみつめるというのは人間だけができることなんでしょうね。そう考えれば失敗という考え自体を持てるというのはそれはそれで素晴らしいことなのかもしれませんね。人間が生態系や環境に与える影響が失敗なのかどうかは現時点では判断できませんが、私たちは今私たちが正しいと信じていることを全力で行う、それが後々考えられたときに人間が考える成功につながるのかもしれませんね。


最後にここで回答を締め切りたいと思いますので、この場を借りて今回質問に答えて下さった皆さんにお礼を申し上げます。こんなくだらない質問にお時間を割いて頂き本当にありがとうございました。様々な意見を聞かせていただき参考になりました。どうもありがとうございました。

お礼日時:2008/01/24 21:59

> ただすべてを結果論で捉えてしまうと、今私たちがやってい


> ることでさえ無意味に思えてくる気もするんですけどね。

 そう思うなら、「すべて」などといういいかげんな概念で物事を見るのはやめましょう。それは結局、ごくごく微細な断面を見て全体を理解したと思い込むことに過ぎません。それは、別の日本語では思考停止と呼びます。

 今の例で言えば、地球環境レベルのマクロな側面についてのみの話をしているのにそれを「すべて」と思い込んでしまうことです。

 例えば、マクロに見る以上、抽象化の網の目を漏れる事象はそれこそ山のようにあります。また例えば、太陽系・銀河系のレベルで見たら、何も言っていません。かように、今の話は世界のごくごく一部の話でしかないのです。
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この回答へのお礼

ご意見ありがとうございます。

失礼いたしました。すべてというのは失言でしたね。
私が申したかったのは
「この人間という存在自体が地球の環境および生態系に異常を起こしているのではないか?という問題を結果論として考えてしまうと今人間がやっている動物保護運動だとか温暖化対策だとかさえも意味が無いものとして考えられるんじゃないか」
ということです。

お礼日時:2008/01/24 21:26

まあ動物の支点からしてみれば失敗作でしょう。


地球を大切にしたい人からしてみても失敗作でしょう。
つまりある支点をAとしそれにBした場合成功と定義し、○○を○○と定義し○○を○○と定義し・・・・
と永久に続くなかで○○を失敗と定義した場合に当てはまった場合はまあ失敗になるのかもしれませんね。
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この回答へのお礼

ご意見ありがとうございます。

そうですね、失敗をどう定義するかによって意見は変わってきますね。
つまりは何をもって失敗とするかというのがポイントなんでしょうね。

お礼日時:2008/01/24 21:18

地球を食い潰して宇宙へと飛び出しても


地球でだめなら何処へ行ってもだめでしょう。
星を食い潰して放浪するエイリアンという映画を人類が地でいくことに。。。
とそんな分けの判らないことにことにうつつをぬかしているうちにあっという間に許容の臨界点を超えそうです。
この情報化時代にあっては戦争や食糧難とかによって選民思想による人類の峻別をおこす以前に種間の大量淘汰が起こる確率のほうが高いでしょうね。
残った民族は末代までその罪の重さを背負って生きる事なったりして
暗喩として事の顛末が汚名の烙印として語り継がれたりして。。。
似たようなことが過去においても起こった痕跡があったりして。。。
さて汚名の烙印を押されるのはどの民族か。。。

西田哲学の行き着くところ
2項対立の有効化
口で言ってだめなら自らの眼に拠って崩壊の瞬間に立ち会え
といったところ
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この回答へのお礼

ご意見ありがとうございます。

お礼日時:2008/01/18 10:14

質問者は、人間が失敗作だとすでにお考えのようですね。


環境破壊的で迷惑な存在だという判断をすでに下しています。
この意見に同意するか反対するかが、質問の主旨であり、適切な回答が出るかどうか分かりません。それぞれの回答者による賛否意見の羅列を求めているように思います。

そのような認識の上で、あえて回答します。

「失敗は成功のもと」ということがあります。壮大な試行錯誤の一過程として人類文明の時代があり、この時代の影響が将来に別の結果をもたらすだけに過ぎません。

地球を脱出せざるを得なくなり、銀河系に旅立つようになったとき、破壊者たる人類は、失敗したのか成功したのかよく分かりません。

動物や昆虫の目線では、迷惑者なのでしょうが、その種族が永遠に存在を保証されているわけではなく、人類も同じであり、変化の途中に過ぎません。半製品としては繁栄中だと思いますが・・・。
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この回答へのお礼

ご意見ありがとうございます。
動物や昆虫だけではなく、他の目線からも見ることが必要なんですね。

お礼日時:2008/01/18 10:14

失敗作かどうかはこれからに懸かっているのではないでしょうか。


科学が認知したその先に人類が共通意識を持てるかどうか
現代がその分岐点であると言えるのではないですか。

生きているものは皆いつか死に土に帰り星になるのだ
と言うことがお釈迦様の教えと唱える人もいるからどうなることやら
それもひとつの真実ではあるから
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この回答へのお礼

ご意見ありがとうございます。

お礼日時:2008/01/18 10:11

まず成功例の生物と比べないことには失敗かどうか分かりません。


人間と同等もしくはそれ以上の文明を持ち、なおかつ
人間社会よりもより完成された文明や思想で生活している高等生物が
いれば失敗じゃないんですかね?
もう少し答えがはっきりするまで待つ以外ないんじゃないでしょうか。
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この回答へのお礼

ご意見ありがとうございます。
やはり今判断するのは時期尚早なのかもしれませんね。

お礼日時:2008/01/18 10:10

生物学的に「完成されている」状態が成功作であるとすれば、それはゴキブリぐらいのものだと言われています。


比較的大きな環境の変化にも対応して、太古から生きながらえてきました。

あまりに狭い範囲の特異な環境に対応して進化していると、環境の少しの変化で絶滅してしまいます。
(今のシロクマなどが典型です)

人間は自分の体を環境に対応させる以前に、服を着たり住居を工夫したりして生きてきました。
それが地球上の環境をも変え、他の生物に悪影響を与えだしている状況、それが加速しているのが現在です。

生命の本質とは、星の個体エネルギーを運動エネルギーに変換して空間に放出する「熱エントロピー」です。

ということは、多用な環境に適応して深海から高山、砂漠からジャングルまで存在を広げた生命系そのものが、
一つの営みとしての「地球上の生命体」だと言えます。

人類以外の生物に悪影響を与えている今の文明のあり方は独善的ですが、体の周りの環境を最適な状態に保ち、
宇宙船などで地球の外にも生命活動(熱エントロピーの放出)を広げられる人類は「地球上の生命体」の実験的な触手なのかもしれません。

それが失敗作であれば、独善的に他の多用な生命を絶滅させるだけの存在ですが、
ほとんどの生物が絶滅したところで地球は少しも困りません。

太古には平均気温が100℃以上も上昇した時期もありますが、それで生物は再び(幾度となく)地球上にハビコッテいます。

ですから、人類が誕生してわずか2万年程度の今の段階では、
人類と言う習作が失敗作なのかどうかは判断不可能です。
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この回答へのお礼

ご意見ありがとうございます。

>太古には平均気温が100℃以上も上昇した時期もありますが、それで生物は再び(幾度となく)地球上にハビコッテいます。

環境が変わればまたそれに対応して新たな生物が出てくるもんなのかもしれませんね。それならば人間以外の生物から見れば今の人間のやっていることは独善的といえるのかもしれませんが、地球から見れば大したことではないのかもしれませんね。

お礼日時:2008/01/18 10:09

人間は、単に高等哺乳類の延長上の生き物に過ぎません。

特別な存在でもないし、どんな生物が成功して、その結果、環境が変わったとしても、それは結果論です。地球の生態系を大きく変えてしまった生き物は過去にもたくさんいましたし、巻き添えを食って滅びた生き物もたくさんいます。

ただ、そのうちで人類だけが、自分の引き起こしている環境変化を認知し、意識的に食い止めようとする能力を持っているのです。ホモサピエンスを失敗作とは思いません。成功事例だから、生態系への影響が大きいうえに、自分がやっていることの意味を理解できるのです。

ホモサピエンスが存在しなくても、同じような知性を持って文明を築き、環境を大きく変えてしまう生物が生まれてくる可能性は、12分にあったと思います。カラスは、文明を作ってもおかしくないくらい賢いです。ニホンザルはグループごとに方言や文化を持っていることが知られています。
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この回答へのお礼

ご意見ありがとうございます。

>ただ、そのうちで人類だけが、自分の引き起こしている環境変化を認知し、意識的に食い止めようとする能力を持っているのです。

これは大きな違いかもしれませんね。認識しているのとしていないのは全く違う気がします。

お礼日時:2008/01/18 10:00

 誤植:地上に減少⇒地上に現象

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