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橋本惠氏の『イワクロ.COM~岩畔豪雄(いわくろひでお)と日米諒解案~』(↓)
http://www.iwakuro.com/index.html
の中で、同氏はこう述べています。

「交渉の相手アメリカ国務長官ハルは、後年、「岩畔大佐は日本陸軍の美徳と欠点を併せ持っていた」と評したという。日本陸軍にあって岩畔はきわめて出色の人物であった。ハルが、何を持って美徳と言い、また、何を持って欠点と言ったのか、読者にご判断の資料を提供したいと考えている。」(プロローグ―日本の命運を賭けて奔走した男がいた―より)

しかし、このサイト(オンライン書籍)を読む限り、私には橋本氏の上記の問いかけ、すなわちハルの岩畔に対する美徳は分かっても、「欠点」の方は結局分かりませんでした。

そこで自分なりに推理してみました。それはある時、ふと閃いたのですが、もしかしたらこのサイトにはその答えは書かれていないのではないか、ということに思い至りました。それはこういうものです。

岩畔には、陸軍という組織の中の人間であるがゆえの制約があったために、ある種「足枷」があったのではないか、ということです。それは、

(1) 陸軍軍人であったがために、「初めに三国軍事同盟ありき」で三国軍事同盟という枠から外れることができなかった。このため、アメリカ側から、もし三国軍事同盟を離脱すれば日ソ戦争となった場合アメリカは日本を援助するという提案を受け容れられなかった。

(2) 日米諒解案→近衛・ルーズベルト会談の実現を陸軍の手柄としたかった。あるいは陸軍-外務省ラインで決着させたいということに縛られていた。松岡外相の訪欧(昭和16年3月)に先立ち彼を訪ねた際、既に松岡には日独伊ソ四国軍事同盟構想があり、日米交渉はその後だということを直接言われていた。つまり松岡は日米国交修復には乗り気でないことを岩畔は知っていながらも、松岡だけを相手にし、説き伏せようとしていて、交渉が不発になった場合の他の解決ルートを築くことをしていなかった。

(3) 海軍条約派、あるいは海軍左派と呼ばれる米内光政、井上成美、山本五十六といった人々は、日米開戦はおろかそもそも三国軍事同盟にさえ反対だった(以下は上から順に海軍条約派、海軍左派、米内光政、井上成美、山本五十六)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%A1%E7%B4%84% …
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E8%BB%8D% …
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%B3%E5%86%85% …
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%B8%8A% …
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%9C%AC% …
こうした人々や、後日、松岡ら外務省により日米諒解案が葬られた後、日本に帰国した際、宮中へ行き、ここで木戸内相、松平宮相、鈴木侍従長らと会い、熱心に話を聞いて貰えた。彼らを通じて昭和天皇のお力を引き出すことも可能だった筈であるが、松岡が反対することは想定内だったのだから、訪米前にこうした人々と接触しておき、いざ松岡が妨害工作に出た場合、逆にこうした人々の力を借りて松岡や外務省を抑え込む、いわば「松岡包囲網」を作ることも可能だったのではないか。それができなかったのはやはり岩畔の当時の日本全体の政治力学への知識不足というか、国内全体を視野に収める立場になく、陸軍の一軍人であったため、視野が狭窄だった。

などと考えてみたのですが、岩畔の「欠点」とは実際何だったのでしょうか?

A 回答 (1件)

私が思うには、ハルがいう欠点とは岩畔個人の資質に就いていっているのではなく、結局、「武官」である岩畔大佐の行動そのものが日本陸軍を体現していて限界があり、松岡外相を取り込むことができなかった、回答が結局TOO LATEに終わるしかなかった、ということだと思います。



ハルは岩畔や日本に好意的だったように思いますが、当時ルーズベルト政権中枢部はソ連スパイが多数入り込んでいて(これは後日露見した)、有名なハルノートも、ハル原案ではなく、ソ連スパイの一人が起案したものをルーズベルトがハル原案の変わりに採用して、ハルに手交させたといわれています。(ソ連は日本を追い詰め、日本に対米開戦=アメリカに対独開戦、させることに利益があった)また、ハルより、ルーズベルトははるかに人種差別意識が強かったようですから、なんとしてでも日本をやっつけたかったと思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。私も回答者様のおっしゃる通りだと思います。

>岩畔大佐の行動そのものが日本陸軍を体現していて限界があり、松岡外相を取り込むことができなかった

まさしく正鵠を射たご回答だと思われます。

また、ハルノートに関しても大変興味深いコメントを頂きまして、ありがとうございました。こうして芋づる式(?)に新しい知識が増えていくのが私にとって歴史の勉強をしていて楽しい点です。

お礼日時:2008/02/17 22:32

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