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「暗い」という言葉は万能ではないし、意図するところも伝わりにくいものです。要は、「のりが悪い」(そりゃのりのいい曲もありますよ、ですがあくまで協和音的にしろ不協和音的にしろ、インテリジェント貴族的なのりです)「庶民的でない」「肩肘張った感じがする」「顔が硬直する」「異次元世界に入り込む気がする」「富裕層あるいはインテリ層と密接なような気がする」etc.の感覚のことです(サティは別枠にしてもいいと思いますが、作品の内容からあれはあまりクラシックの作曲家と思えないところがあります)

すなわち、なぜクラシック音楽にこのような感覚を生じさせるものがあるのか、それはどういうところから感じられるのか。
あるいは、ポピュラー音楽にはそれがほとんど感じられないのはなぜなのか、分かるようで分からない疑問です。

どういう風に考えたらよいでしょうか?

A 回答 (16件中11~16件)

『クラシックが暗い』とあなたが言われるのは、単なる偏見ですよね。



今では『クラシック』というジャンルが確立されていますが、昔はその『クラシック』がポピュラーだったわけです。それしかなかったのですから。(民族音楽などで楽しんでもいたでしょうが。)

民衆はこの曲達に熱狂し、(モーツァルトのオペラとかね。)次回作に期待して待望したりしていたんです。

もちろん、貴族の為に作った曲も沢山ありますが、後年は民衆の為に多く作られてきています。

どちらにしろ、われわれ日本人にとっては外国の音楽です。
日本人が楽しんでいた音楽と言えば、邦楽といわれるのもや、(こっちの方が、よっぽど暗いと思いません?)
笛や三味線、太鼓です。

不思議な事に日本古来の音楽を学ぶ人より、西洋音楽を学ぶ人の方が日本には多いのが現状ですね。

日本人の心はどこに行ってしまったのだろう・・・・。

ポピュラー音楽って深く探っていくと各国の民の歌、ソウル、が元になっている事が多いので本能的に親しみやすいのではないでしょうか。あなたの言われる「柄の悪い」人、教養の無い人達は、昔はこれらで楽しんでいたと思われます。


音楽はどちらにせよ人間の心を映し出しているものなので、この『クラシック』と呼ばれるヨーロッパ音楽は各国や、年代ごとに特徴もあります。
ひとくくりにはできません。
クラシック音楽には高級というイメージがありますが、これは現代の人が作ったものでしょう。

ウィーンやプラハなどに行くと、街のあちらこちらでバイオリンやチェロを演奏している人が沢山います。(演目はクラシックです。)
聞こえない辻が無いくらいです。
一定間隔を置いて(縄張り?)場所を取り、演奏しています。
それも、毎日毎日。
当然、これらの街の柄の悪い人達もこの音楽に親しんでいますよ。
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この回答へのお礼

昔の人と今の人はそんなに性質が違うというのが疑問でした。今。の人は諧謔が好きなのではないかと。すくなくとも、あまりにもかしこまったクラシックの曲たちをすんなり受け入れるには、かなりの道徳性に染まった人間観が必要だと思います。実際それがあったのかと。邦楽は結構プレーンで明るい気がしますね。
民族音楽ソウル(邦楽も該当する)は、そんなにかしこまっていないですよね。しかし、西洋文明と同じで、やはりもっとも技術的に発展したものが後に世界を席巻するときに、なにか不要な「道徳性」というものも引きずっていったのが、その余波となって現在にも残っているのではないだろうかと(クラシックの演奏会にかしこまるとか)
プラハの例は参考になります。やはり、ところ変われば価値観が換わり、やくざがクラシックを口ずさむことも日常かもしれません。そうすると、文化文明のほうを絡めて考えるべきでしょうね。

お礼日時:2008/03/26 08:03

質問者さんの言いたいこと分かる気がします。


その全ての理由は分かりませんが、これじゃないかなというのはちょっと思いつきました。クラシックは、基本的にバッハやらハイドンやらモーツァルトやらが大昔に作曲したものを未だに使っていますよね。たとえ演奏者が今の人でも作られた曲自体数百年前とかのものです。200年前の人たちの普段着を現代人が着たら明らかに普段着じゃないのと一緒で、クラシック音楽の曲は現代における「普段」の感覚と当然ずれていると思います。逆に現代の流行や時代の流れニーズに合わせて一から作ったものがポピュラー音楽です。なのでポピュラー音楽と比べてクラシックがちょっと異質な感じがするのは当然とも思えます。

あと、クラシックってもの凄い数の楽器使いますよね。というか楽器がなければ成り立たないし、楽器自体も高級です。普通の一般民衆は中々そんなもの演奏できないでしょう。その時点で少し大衆から離れた存在といえます。ポピュラー音楽なんかは、楽器も使いますが、基本声が出せれば楽しめます。もの凄くお手軽お気軽に普通の人も楽しむことができる。これも大きな違いではないかと思います。
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この回答へのお礼

伝統を引くずり続けたというのはあるでしょうね。ちょっと思いつきましたが、「ショパンの特集」とかやると、あの時代の作曲家でもまったく諧謔性とか庶民性とかその点はないわけですが、何か典型的に悲壮を好むというかそんな方向になってしまう。実際そんな人じゃなかったと思いますけどね。ただ、作品となるとどうしてもそういう枠から抜けられなかった、というか、音楽というものがそういうものだということになってしまっていて、その暗闇から抜けるすべがなかったんでしょうかね。ただ、彼の技術をもってすれば、新しいと音とか雰囲気とか「バラード」とか作っているのと平行して実験してもよかったんじゃないかと思うんですが。なので、19世紀に、当事者が伝統に縛られ続けた(ロマン派は一種の閉塞感がある)のではないかと。

それと、現代に過去のものをやるわけですから、当然ずれていますね。ただ、それをかすがいにして「クラシックはかしこまるものだ」という無言の圧迫がこの国にはあります。後はおっしゃるように楽器の問題ですね。庶民的とはやはり言いがたい(なんの西洋楽器でも習得には10年はかかりますからね)

お礼日時:2008/03/26 08:09

No6です



>貴族王侯宗教者というのはそれほど「ノリ」を求めなかったのかと疑問です。
>あるいは、単純に「音楽」というものがそういう方向性をまだ発見していなかった、
いやそういうことではなくて、今、「クラシック」といわれている曲、
例えば「モーツァルト」なんか当時の大流行曲、ノリノリ、最先端の音楽な訳です。
トルコ行進曲なんか出た瞬間から大ブレイクそれから何百年も流行ってる訳です。

>売れないものは作らない。
ではなく、当時は今みたいにCDとかiPodとかないので、
お金を出すのは王侯貴族なので彼らにとっての求められる曲
つまり「売れる曲」を作曲した訳です。

例えばそれがワルツだったりします。今、思うとワルツとか社交ダンスな感じで
古臭いと感じるのかもしれませんが、これも当時の流行最先端、
今ならブラック系、ダンス系、ヒップホップ系そんな感じな音楽な訳ですよ
王侯貴族は大きな部屋でダンス大会を開き、そこで作曲家兼演奏家に
ワルツなんかを弾かせて、女性を誘った訳です
今の時代でいう「クラブでナンパ」となんら変わりはありません

かしこまってクラシックを聞いた訳ではなく、楽しんで聞いていたんです。
例えば今はコンサートホールで静かに音を立てずに聴くのがクラシックみたい
な感じになってますが、当時は室内で談笑しながら、即興でアレンジしながら
弾いていました。

映画「アマデウス」の中でも、モーツァルトが自分の曲を
「サリエリ風」とか「○○風」とかにアレンジして弾いて笑いを取ってます。
あれなんか今でいう「モノマネ」です。

他にもリストという演奏家がいますけど、これなんかいわゆるアイドルの祖先
と言ってもいいぐらいです。アイドルが駄目ならビートルズの祖先でもいいですし、
作曲家兼演奏家ということであれば「小室哲哉」に近いかもしれません。
ピアニストとしての作曲家としての腕前もさることながら
その美貌と演奏技術で当時の女性と虜にした訳です。
楽譜を見ないで演奏する暗譜
コンサート形式で派手な演奏で客を魅了し、お金を取るというスタイルと
確立したのはリストと言われます。そういう意味では
今の音楽家すべての祖先かもしれません。

別にクラシックだからノリが悪いということではないと思いますよ
それぞれの時代の最先端の音楽でありスタイルを目指していたということですね

質問者さんが今ノリがいいと考えられているポピュラー音楽も後200年経てば、
「なんかノリが悪い」と言われるようになるのと同じだと思います
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この回答へのお礼

当時の物事というのは、今の事情で推察してはならないものだと思います。たとえば宗教など今とスタンスが違いますから、今の感覚では蕩尽習慣は推し量れないしりかもできない。いわば、外国文学を理解するには、その言語に習得してから出ないとだめなのと一緒です。翻訳ではアウトラインしかつかめない。そういう意味で、今回のご回答は実にご明晰です。大事な点を気づかされました。
当時としては、これがエンタメ性満載だったという感覚もあったのでしょうね。

お礼日時:2008/03/26 14:52

既に皆さんが結構的を得たことを書かれておられますね。

 私は、いわゆるJポップス、演歌は殆ど聴きません。と言うのは、内容的に肌に合わないからです。また、片仮名語と日本語の組み合わせ、理解できません。間違った日本語の発音。”カをキャなどと発音したり、前後の脈絡がない歌詞?”嫌ですね。だからと言って、好きな人も多いので、それはそれでよいでしょう。それこそ、人は人、色々有るよ、でしょうね。
ところで、あなたの考えておられる、クラシックって何ですか? 私はよく聴くのは、バッハ、彼以前か同時代の曲、モーツアルト、殆ど聴かないのはチャイコフスキー、ショパン、など。サティーは、残念ながら退屈ですね。モーツァルトは軽くて、ミサ曲ですらそんなにクラっぽく
ないですよ。チャイコフスキーでもヴァイオリン協奏曲は聴きますね。

アンデスの歌、イディッシュの歌、ドイツやスコットランドの民謡、日本/沖縄の民謡なども好きです。

音楽は、好きなものを気楽に聴くことが出来れば 好いのでは? 無理して合わないものを聴く必要は無いと思います。
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この回答へのお礼

ポップスは、音楽よりも歌詞に重点を置くという意味で、私もなんか肌に合わないですね。それは「音楽」というより「詩」なんじゃない?と。しかもその詩が、どんどん乱れてきていて、ロマン性とかなくなってますね。餅は餅屋だとも思いますが、そういうプロの詩作が受けなくなってしまった?なんとも凡庸であったり乱れていたりして平気なものがあふれかえっているようです。

私が考えるクラシックは、やはり、19世紀までの機能性和音重視のやつという感じです。これは、枠が強固だなぁと感じます。で、その枠が、あろうことかあるまいことかなにか「高尚性」というものを伴っている気がします。

お礼日時:2008/03/26 14:56

全くの素人の私見です。

論旨のみを書きます。

「クラシック」という音楽の一つのジャンルが確立したのは19世紀ロマン派の時代でしょう。
彼らは「自意識という自分に親しい領域」を見つめ、
芸術とはいかなるものかとか、芸術家とはいかにあるべきものかとか、
そうしたいわば自己宣伝を事あるごとにくりかえし、
ついに一般世間を説得しおおせたことは、
現在われわれがショパンやワーグナー、ゴッホやゴーギャンやモリディアーニを典型的芸術家の生涯として想起し、一定の理解や敬意を表するばかりか、憧憬や尊敬の念をさえ覚えることをもってしてもわかります。

たとえ彼らの多くが、ほとんど生活不能者であったり性格破綻者であったり狂気にとらわれたバガボンドであったとしても。

ロマン派以降の(クラシックにおける)現代音楽は、直接にはロマン派からの反動、反発、批判、訣別の運動としてとらえることができますが、この「芸術家的」精神の自由は継承しました。
真実、または真実と自分が信じるものについての表出を、なにものにも妨げられることなくおもねることなく行うこと。それが芸術家としての善、良心です。

したがって、かつて王侯貴族やブルジョワの趣味に従ったように現代一般大衆の好みに迎合するいわれは全くありません。というかむしろ、彼らにとって世間とは俗悪の別名なのです。それはつとめて避けるべき領域なのです。

(このように、西洋風な「芸術」は芸術とそうでないものを歴史的にみて峻別する方向にあると思います。これがたとえばわが国の伝統文化、茶の湯が典型的にそうであるような、生活の中に美を見つける、生活の中の芸術と大きく異なる点だと思います)

質問者さんのおっしゃる「暗い」とは、こうしたあれこれの総括的な印象ではないでしょうか。

以下蛇足気味ですが、
私はこのように見ていますので、ロマン派以前のクラシックとロマン派以降をひとくくりで論じるのは芸術観の地軸がゆれ、相互に矛盾したり、齟齬が生じるのではないかと思っています。
バッハやモーツァルトやルネサンスの音楽は、ロマン派が彼らのアイデンティティーの拠り所、ルーツとして「発見」した側面があります。
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この回答へのお礼

どうも、ありがとうございます。
音楽の分野のみならず、近代あるいは近世からの芸術史観というものが効いてくるものかもしれないですね。
一般大衆というものが、芸術家からして、まったく無意味であり忌み嫌うべき時代と地域や時代もあったのだと思います。
おっしゃるように、西洋的な考えは、非常に選別的なところもあるのではないでしょうか。なので、自分たちの領域、これの中のどっぷりはまった時代がバッハかもっと前かから、おそらく19世紀後半まで続きましたね。絵画の歴史とも連動するかもしれませんが、印象派の勃興(これは伝統の破壊の要素が大きいと思います)と歩調を合わすようにして、新しい音楽体系を模索しだしました。つまり、西洋音楽(イオニアン、エオリアン音階に基づく体系化された音楽)から、世界各地の音階や音素を取り入れていった。もちろんこれは、文明の利器とか、情報化の促進によって可能になったものでしょう。

ただ、回答者さんもおっしゃる、ロマン派以前のクラシックと、ロマン派以降(19c後半までの新しい波が来る以前)のそれをあまり区別することはないのではないかと思ってしまいます。それは、結局大衆や世界に背を向けた、自分らの領域の中で高度に体系化されたものを創作しただけの次代ということがいえないかと。

個人的な考えですが、この「西洋の体系化したもの」から押し広げようとした動きが出始めたとき、初めてクラシックは明るくなっていったような気がします。具体的には「ブルース」とか「打撃効果」とか。

カンツォーネとか、やたら明るいけど、その明るさが西洋音楽音階からいささかもでないという閉塞感の中で、いやに輝いているという、ちょっと気味悪さがありますね。

お礼日時:2008/03/27 22:02

こんにちは。

#10です。

お礼を拝見して思ったのですが,ポピュラーがクラシックの閉塞を打破したというよりは,多様な民族音楽・大衆音楽が,クラシック音楽の枠・体系の中に20世紀になって組み込まれてしまった結果が現代のポピュラー音楽なのではないか,という見方もできるのかもしれませんね。

何百年も前にすでに確立された音楽技法や大衆に従い続けることと大衆に背を向けて何かを探し続けること,世界の広さ・深さに無関心であるがゆえの無邪気さと深淵をのぞいてしまったがゆえの深刻さ(質問者さまの言葉を借りれば「暗さ」),どちらが閉塞していてどちらが自由なのか,容易に判断できることではないような気がしています。
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この回答へのお礼

クラシックの中にとかしこまれて、それが現代にあるさまざまなジャンルというお考え、的を得ていると思います。結局、技術的な土台は借りてるんですよ。伝統工芸をマニュファクチャで作るのに似ていて。深い学問的なものと、浅く日常的なもの、どちらがより開かれているかは、難しい問題ですね。

お礼日時:2008/03/29 15:26

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