No.2
- 回答日時:
預りの形にしています。
沙汰を待ちました。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E7%A6%84% …
奉行所は町人を裁く所です。
私的に、
懲役とは労務があり、人足寄場に近く、禁固とは武士の謹慎や政治犯に近いイメージを持っています。
この場合、226事件のようなイメージがあります。
全員射殺された訳ではありません。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E3%83%BB% …
沙汰を待ち、
江戸の評判が良く、
上手く行けば無罪放免、お家再興も叶う。
悪くとも、仕官が出来る。
と、最後まで淡い夢を描いていたと思います。
No.3
- 回答日時:
現代風に説明するとマスコミや一般大衆の支持があった事と
当時の政府の中にも本来、喧嘩両成敗の原則があるのに
浅野家のみが罰を受け改易になってしまった事に対して
同情する大名や旗本が多かった事が大きな理由です。
そして何より自分個人の為ではなく命をかけて
主君の仇を討つ、言い換えれば、
それだけ主君に対して忠節の心を持っている武士は
戦が絶えて久しい当時としては、良い意味で貴重な存在でした。
幕府として、どう扱えば良いのか、意見はまとまらず
決定するまでは決められた預け入れ先(大名家)で謹慎待機(おあずけ)となりました。
幕府としても慎重に考える時間が欲しかった事と共に事態を速やかに解決させる必要がありました。
幕府は困りましした。一番、悪かったのは最初の事件の時
浅野側は理由もよく調べずに即日切腹、相手の吉良は被害者なのですが
浅野の上司であり後に様々なパワーハラスメントを行なっていたことが
明るみにでます。
巷は忠臣蔵の47士の行為を誉める世論で溢れ返っていました。
ですが、これを、認めてしまうと
前回の浅野氏に対する処分が間違いであった事を認める事になってしまいます。
そして今度は吉良氏側が仇討ちに出ての繰り返しになってしまう恐れがありました。
結果、最後は犯罪者としてではなく預けられた大名家にて
武士として自らが始末を付ける切腹という事になりました。
個人的には、BESTな選択だったと思います。
参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E7%A9%82% …
No.4ベストアンサー
- 回答日時:
私は、自称「歴史作家」です。
通常、罪を犯すと、当然、町奉行の管轄となり、伝馬町で入牢させられます。
この時、御目見(おめみえ=公方さま(将軍)に拝謁できる者)以上の直参およびこれに準ずる僧正、院家、紫衣を許された僧侶、神主などは、伝馬町の牢屋敷内にある揚屋敷(あげやしき)と呼ばれる座敷に留め置かれます。もちろん、監視をする役人も付きます。
さて、本題の「赤穂浪士はなぜ?」ですが、
討ち入りをしたのは元禄15年(1703)12月14日夜となっていますが、正確には15日午前4時頃と言われています。
そして、見事本懐を遂げた後、大石内蔵助は47名の中から寺坂吉右衛門に密命を託し(一説には、内匠頭の妻・瑤泉院や弟・大学(長広)、広島本家への報告のため、とも、後の世に我らがどのようになるかを見とどけて欲しい、と言われたとも言われている。また、47名の中でただ一人赤穂藩士ではなく藩士の吉田忠左衛門の家来だった)離脱させ、残りの46名は泉岳寺へ詣でたのち「評定所」に自首しました。
評定所の役割としては、原告と被告の管轄が異なる裁判、藩内部や藩と藩の争い、旗本と御家人への訴訟を扱うところでした。
内蔵助の判断で、この「評定所」に自首したことが、町奉行所の手出しできないところとなったのです。つまりは、藩と藩の争いなのだ、と訴えたのです。
評定所には、牢はありませんので、内蔵助一同は評定所内で待機していました。
直ちに、評定所からの上申で、時の将軍徳川綱吉が報告を受けた際、綱吉自身は、内蔵助らが作成した「討ち入り口上書」を読み、彼らの行動を「忠義」である、と、褒め讃えました。
このことは、老中会議でも阿部正武(あべまさたけ)や小笠原長重(おがさわらながしげ)らが、綱吉の裁定に賛意を述べました。
しかし、側用人であった柳沢吉保は、「忠義」だけで政(まさりごと)をしていたのでは、世情の統制がきかない、と反論しました。
そこで、綱吉は急遽、幕府学問所である湯島聖堂の大学頭(だいがくのかみ)林信篤(はやしのぶあつ)と柳沢吉保のお抱え学者であった荻生徂徠(おぎゅうそらい)の2人を呼び議論させました。
この2人がそれぞれ賛成、反対意見を述べ、最終的には、綱吉が2人の意見の折衷案として、大名や旗本などと同等に扱い、細川、水野、松平、毛利の4家にお預けとなり、翌年2月3日、幕府より「切腹」の命。4日夕方より各家において全員が切腹した。
お分かりとは思いますが、「切腹」は当時の武士の死に方としては「名誉」であったし、また、世論に配慮して、浪士たちを幕府は「武士」と認めたことに大きな意義があった。
余談:
(1)綱吉が死去すると、6代将軍家宣の就任に伴う恩赦で、浅野大学は500石+広島浅野本家より300石を受けることとなり、旗本寄合に復活。
(2)46名の子息の中で15歳未満は15歳になると、八丈島や三宅島への「島流し(=遠島)」のはずであったが、すべて「恩赦」。
(3)内蔵助に密命を受けて離脱した寺坂吉右衛門はすべての事後処理が終わった後、大目付仙石伯耆守に自首したが、身分軽きゆえお咎めがなく。かえって、金子10両を与えられ解放された。その後、他家に仕えたり、江戸に出てきて寺男などをして83歳の天寿をまっとうした。
(4)柳沢吉保の後ろ盾であった荻生徂徠自身も、後に「その志を推すに、また義というべきものなり」と浪士の「忠義心」を認めていたという。
評定所というものがあったのですか。それはやはり特権階級用の施設ですね。一般犯罪ではないという新式が双方にできたのでしょうかね。
よくわかりました。ありがとうございます。
No.5
- 回答日時:
既にご回答がありますが別の事情もあったようです。
1.この事件は主君の無念をはらすとい名目があり、この当時仇討ちは名目があれば許される事になっていました。
また本来仇討ちは肉親関係で行われるのが普通で、主君の為という例はありませんでした。
従って従来の前例に従うには躊躇があったのです。
2.浅野浪士の仇討ちはある程度予想されていましたし幕府も便宜を図った兆しがあります。 しかしどれだけの人数になるかは不明でした。 47人という数が判明した時、それだけの人数を収容する牢屋はありませんでした。 武士の場合は未決囚は揚屋入りとなりますがとても収容能力がありませんでした。 この為大名諸家に預かりとしたのです。
3.そもそも喧嘩は両成敗というのが通常でしたが、浅野が殿中で刃傷をおこしたのは、勅使接待中の出来事であったので皇室に対し無礼であるということもありしかも吉良が応戦していないので喧嘩とはみとめられませんでした。 綱吉が浅野側を罰したのはそう片手落ちとは言えない決定でした。
しかし一般の反響は浅野側に同情的でしたので幕府もなんらかの措置が必要と考えるに至ったのです。
4.これらの事情から幕府も処置にこまり、時間稼ぎの必要から入牢とする処置をとらなかったのです。
しかし江戸を騒がせた事実はぬぐえませんので武士としての名誉である切腹を命じました。
47人入れる牢屋がない!とは意外ですね。無理やり詰め込めばどこでもここでも大丈夫そうです。揚げ牢というのもあるんですね。あとは情実とか世間体とか、法治国家とも思えないような醜態ですね。
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