プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

先日下記のような質問を出しました。
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4015822.html

上記の質問は今回の質問の前提として確認しておきたかったという理由です。

今回の質問は多少「素朴な疑問」っぽくて恥ずかしいのですが・・・

そもそもアメリカが日本に開国を迫り、日本が拒否をしたからといって、本当に日本はアメリカからの攻撃に対抗出来なかったのでしょうか。

たしかに当時の日本の海軍力は稚拙で、アメリカの軍艦に比べると明らかに劣るのかのしれません。

しかし仮に日本の鑑艇を一網打尽にしたからといって、それ以上に何かが出来たのでしょうか。

最新鋭の砲を搭載していたからと言って、所詮数隻の軍艦です。
砲弾の数なんて限られたものでしかないでしょう。

陸上に橋頭堡や防壁を築き弾丸が尽きるのを待てば、あとは数隻の乗員なんてせいぜいほんの数百名程度。

銃や砲も無いアフリカや南米の未開部族ならまだしも、日本は欧米に劣る旧式とは言え既に銃や砲も持っていて、しかも小国とはいえその気になれば数十万単位の兵士を徴集するくらいの能力は優にあったはずです。

かたや当時のアメリカに、太平洋を越えてそんな大部隊を輸送する能力があったとも思えません。

とりあえず艦隊からの攻撃を耐え偲んで、その間に他の欧州国と交渉に入りアメリカを牽制し、軍艦を調達し始める等の対策をうつ。

このような方策は不可能だったのでしょうか。

そのような方策をしていても結局、アメリカ以外の他の列強に油揚げをさらわれるだけ、机上の空論だって考えもありますが、現実に明治維新以降も日本は列強の侵略はなされていないし・・・・

実はアヘン戦争についても同様な疑問を持っているのですが。。。

A 回答 (8件)

だからペリー艦隊の軍事力を単純に恐れて打ち払いを断念したわけではないというのが回答なんです。


幕府は、そもそも集団合議体制で、内情はばらばらだった。
こういうシステムは、平安の時代ならば機能しますが、
有事の際には不決断という兆候を見せるものです。
幕府が行った歴代の改革にしても、推進派があれば、反対派が生まれ、
足を引っ張り合ってる。
打ち払いも解決策の一つではありますが、政治的なリスクが高い。
例えば、仮に老中主席阿部が打ち払いを推進したとして、
撃退され、砲台を占領されて終わったら、失脚して反対派閥に権力が移ってしまう。
戦争を決断した場合、結果がどうあれ、責任を取らねば成りませんが、
その責任を取るということが官僚には難しい問題なのです。
もちろん将軍が率先して、政策を示したというなら話は別ですが、
そういう状況ではなかったし、井伊直弼のような雄弁な開国派もいたわけで、
具体的に、戦争と言う決断をする状況にまったく無かったというのが、
ペリーとの交渉時の状況です。
あの状況で、徹底抗戦めいたことは荒唐無稽です。

政治的状況は非常に複雑であり、単に軍事力如何が問題になっていたわけではない、
ということの気づかないと、今回の質問のように間違った結論に進むことになるわけです。
実際、あなたの想像の展開では結論に行き着かないわけで、自明の利でしょう。
設定が違うから、その後の想像が全く間違ってくるわけです。
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この回答へのお礼

ありがとうございました

お礼日時:2008/05/28 15:24

単純な戦略論です。


当時、江戸には世界最大と言われる都市住民がいて、物資流通の大きな割合を海運に頼っていました。
日本は海運、水運が便利なので、欧米のような馬車文化が育ちませんでした。
そして、東京湾の制海権を握られると江戸の経済は干上がってしまうのです。
砲弾は何発も要りません。
砲弾数発で廻船を1隻、2隻沈めるだけで十分です。
独自に通行証を発行して、持っていない船だけ沈めるという手もあります。
これをやられると、江戸幕府の威信(日本の国力ではない)を弱めてしまいます。
欧米の次の手は、
有力な諸藩に取り入って、幕府と争わせ、内戦に持ち込み漁夫の利を得る。
ドサクサに紛れて港湾や鉄道、鉱山の施設権を手に入れる。
キリスト教を持ち込み宗教的対立を発生させる。.....etc
植民地への道、まっしぐらです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました

お礼日時:2008/05/28 15:25

アヘン戦争を見ればわかるとおり、当時の列強の戦術的な有利とは、船ですきあんところに砲撃や上陸をして、相手の沿岸部を好き勝手に叩いて、敵兵が集まるまえに逃げられる、といった点にあります。



 つまり、江戸や大坂その他の沿岸部はたとえ火の海になろうとあきらめる、断固鎖国を貫くという覚悟があれば、鎖国を貫くことはできます。ロシアの南下が20世紀には始まりますが、逆に言えばそれまで、本格的な占領の恐怖はありません。列強にできるのは沿岸部の破壊や内戦の誘導だけです。

 そこまで勘案して、社会構造や経済の崩壊、遷都といった覚悟を伴ってまで鎖国をするかというと、当時の幕府にはそれに耐える力がなかったので、開国を選んだわけです。
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この回答へのお礼

理解が深まりました

ありがとうございました

お礼日時:2008/05/28 15:23

もともと幕府海軍と戦うつもりはなかったのではないでしょうか。


それに、後の幕府脱走軍の主力、開陽と回天がまだなかったから、話にならないというか・・・。
今より埋め立てが少なかったので陸上に防壁を築いても、黒船が江戸湾に侵入して砲を撃てば、銀座まで約1000メートル、江戸城寄りの大名屋敷まで2000メートルです。今のお台場などの強化はペリー艦隊来航以降なので、下手すれば幕府方砲台の射程は数百メートル。旧式でも武器といっても、届かなければ始まらないです。また、たとえ木造艦でも、先込め銃でどうにかできるものではないと思われます。
徴兵や外交で反撃する前に、銀座、日本橋、深川、蔵前、外堀近くまでを砲撃して市街を破壊して離脱することも可能ですよね。だった4隻でも砲門でいえば何十門もあるわけで。
実際は、一方的に都市攻撃をすれば他の国から非難されることは必定で、列強の介入を招くことになりかねないので、『そういうこともできるんだよ』という圧力をかけるのが主目的だったのでしょうけれど。


戊辰戦争時、幕府=フランス、薩長=イギリスがてこ入れしていたように、列強は日本を狙っていました。もちろんアメリカとロシアも。
明治以降も列強の侵略をうけないため、政府は涙ぐましい努力をしています。『無事だったのだから、実はたいしたことないのでは?』というのとは違うと思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます

お礼日時:2008/05/28 02:13

まあ、無理でしょうね。


アメリカと戦いつつ他国と交渉なんて、国際外交に長けていないと到底出来ないことですが、当時の幕府は「万国公法」(国際法)の知識さえろくにありませんでした。
また、アメリカからの開国要求を突っぱねておきながら、他のヨーロッパ諸国と交渉するなんてことはしないでしょう。問題なのは開国するか否かなわけで、どこの国が相手とかは関係有りません。アメリカの開国要求をのまないということは、あくまで「鎖国」を貫くと言うことですし、ヨーロッパ諸国と交渉すると言うことは「鎖国」をやめると言うことです。アメリカ一国に対抗すると言うのは、意味が無いですし、矛盾してもいます。

仮に戦ったとしても、軍事力の面で、そもそも技術力に差が有るのはもちろんのことですが(日本の大砲が届かない位置から砲撃できる)、アメリカを敵に回したら、他のヨーロッパ諸国もアメリカ側につくと思います(対米戦略上の関係から幕府に味方する国もあると思いますが、そうしたら日本はその国の保護国になっていたでしょう)し、補給も別にアメリカ本土まで戻る必要は無く、東南アジアや中国まで戻ればいいのですから、次々と攻撃を受けて日本は壊滅的打撃をこうむったでしょう。あとは植民地になるだけです。
日本側の兵力の調達にしても、当時はまだ幕藩体制の時代ですから、統一した「日本」という組織的まとまりがあるわけではなく、幕府がいっせいに全国から兵力を集めるなんてことは出来ません。武士はあくまで藩に仕える存在ですから、藩ごとに編成された武士の集団を寄せ集めることになると思いますが、足並みがそろうとは思えません。藩同士の争いや幕府と藩の争い、方言の不統一などもあって、組織的抵抗は出来ないでしょう。太平の世に慣れきった当時の武士が戦えたとも思えません。
また、ペリーの艦隊は日本への攻撃は許可されておらず、あくまで圧力として武器を見せ付けてきただけなので、もしアメリカに戦争を仕掛けていたら、全くの逆効果だったと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます

お礼日時:2008/05/28 02:08

>>本当に日本はアメリカからの攻撃に対抗出来なかったのでしょうか。



ペリーは、大統領から「攻撃は絶対に禁ずる」の厳命を受けていました。軍事力は、あくまで「威嚇」だけの目的です。

>>たしかに当時の日本の海軍力は稚拙で

稚拙どころか、軍艦も水軍もありませんでした。諸藩にも、千石船以上の大船を建造することを禁じていました。船が有ったら、箱根の関も大井川の川止めも、江戸を守る意味が無くなるからです。

>>最新鋭の砲を搭載していたからと言って、所詮数隻の軍艦です。
砲弾の数なんて限られたものでしかないでしょう。

ペリー来航当時の幕府は、未曾有の国難に対応するため、大名から町人に到るまで、多くの意見書を公募しました。
質問者さんのような攻撃論や、切り込み志願の武士の意見書も有りましたが、全て却下されました。

>>陸上に橋頭堡や防壁を築き弾丸が尽きるのを待てば、あとは数隻の乗員なんてせいぜいほんの数百名程度。

防壁の工事を始める前に江戸の町を砲撃で火の海にされたら、大混乱に陥り、指揮系統が乱れて何も出来なくなると思いますが。それに、軍艦は動くんですから、防壁を作っても壁が無い所を探せば、そこを攻撃できてしまうでしょう?

>>その気になれば数十万単位の兵士を徴集するくらいの能力は優にあったはずです。

太平に慣れた武士に、戦闘能力があったと思いますか?
それに、武士たちの本当の敵は、ライバルである他藩と、取り締まる幕府の方だったようです。「300諸藩の一致団結」という所まで、まだ日本は進んでいませんでした。そういう意識は明治以降に生まれました。

>>その間に他の欧州国と交渉に入りアメリカを牽制し、軍艦を調達し始める等の対策をうつ。

他の欧州諸国が、アメリカと一緒になって攻撃する可能性のほうが大きいですよ。清国の例を見ればわかります。まだ何処の国も手を出さない時点なら、手控えしているでしょうけれど。

>>アメリカ以外の他の列強に油揚げをさらわれるだけ、

アヘン戦争とペリー来航の間、老中首座が水野忠邦から阿部正弘に変る頃、オランダが日本に西洋事情を伝え、「我が国が西洋との交渉の橋渡しをしよう」とまで提案したことがあります。もちろん、アメリカやロシアが日本を狙っていることを知って、200年以上前から日本と関係深いオランダが先を越されて損するワケにいかないとの思いからですが、幕府はノラリクラリとかわしてしまいました。

この回答への補足

以下補足質問いたします

1.ペリーが攻撃を禁じられていたかどうかは、日本側には知る由もないのでは?

2.現に幕末には幕府VS倒幕の戦争はいくらでもあったのですから、太平に慣れた武士に戦闘能力が皆無とは言いすぎではないのでしょうか?

3.一致団結まではいかなくても、ある程度の徴集は可能だったのでは?

4.他の国が一緒に攻撃することは、現代から見ての確率的な推測で、仮にそれが事実であっても、当時の幕府がそう判断したとは限らないのでは?

補足日時:2008/05/28 02:02
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます

お礼日時:2008/05/28 02:02

海軍というのは、存在することに意味があります。


存在することにより、相手側に言うことを聞かせます。
砲艦外交というやつです。

まず、江戸に回す米がストップします。

アメリカ艦隊を排除する力がない限り江戸は兵糧攻めにあいます。
上陸する必要はないのです。

アヘン戦争も同様です。

海上勢力は、対抗すべき艦隊がない限り、攻撃地点を自由に選択できるので、陸上勢力が何十万とあっても意味がありません。
第二次世界大戦後半に、アメリカ軍が上陸島嶼を自由に選べて、多くの日本陸上勢力が置き去りにされた状況と一緒です。

この回答への補足

制海権を占めると国内の軍隊がマヒするのは分かります。
しかし数隻の艦隊でそれを長期間維持できるのでしょうか

補足日時:2008/05/28 01:59
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この回答へのお礼

ありがとうございます

お礼日時:2008/05/28 01:59

根本的な間違いとして、


幕末期には、日本という統一国家が存在しなかったという
事実の見落としがありますね。前回の質問についても同様です。
そもそも明治維新の最大の目標は、
日本を中央集権国家として再編することでした。

だから日本がどうこういう問題は、幕末では語れません。
幕府と諸大名のゆるい集合体であった幕藩体制では、
対外戦争はほとんど不可能でした。
だから幕府は対応できなかったので、開国という選択をしたのです。

前回の質問の3の点で、見落としは、日本側の不備と、体制の欠如です。
ペリー来航は、現実的な侵略の第一歩と呼べるよう物ではなく、
単に捕鯨の寄港地を求めて、外交交渉に来ただけでした。
幕府の対応はかなり官僚的な側面もありますし、手続き上の問題や、
外交実務で、かなり困らされたわけで、
幕府の役人はアメリカの脅威というよりも、お上の職務の重圧と大任のほうに
恐れおののいてようなものです。とにかく前例の無い事態でした。
しかし江戸に外国の軍艦が無理やり来航したという事実を踏まえて、
この先どうなるのか、どうすべきなのか、という発想と、危機感から、
明治維新の動乱が始まるわけで、これは内的な改革と刷新の運動なのです。
先の先を考えてる。

アメリカが実際に日本を占領する力がないから、開国しないでいいといことに
ならないのはわかると思います。開国は結局のところ必要で、
国際化のすすむ世界のなかで日本は諸外国との折衝にあたらねばならなかったのです。
そうしなかった国、代表的に清王朝や李氏朝鮮などがどうなったかを考えれば、
必然的でしょう。
要するに、開国の問題と、アメリカの艦隊の直接的な脅威とは、実は別なのです。
ペリーが艦隊を連れて、強訴したのは、幕府に対して”緊急に”対応させるためであって、
単なる交渉手段に過ぎません。そしてそれは成功したわけですが、
ブラフが上手く効果を挙げたというだけです。

そしてどうしてこういうブラフが効果的だったのかと考えれば、
幕府の役人の官僚的体質(というか官僚そのものだが)と、
戦備体制の不備、幕藩体制下で幕府も諸大名も大半が財政難に喘いでいた事実、
国に代表する権限が幕府にあるかないかという問題、等々、
幕府の交渉者がすぐに答えの出せない問題がたくさんあったからです。
軍事的に追い払うよりも、外交交渉で一部の港を開放させたほうが
問題は早く解決できると考えたのは無理からぬことで、
別に滅亡の脅威からもろ手を挙げて降伏したわけではありません。
外敵よりも、国内に余りにも多くの問題があったことが、主な動機といえます。

ペリーは戦争をしにきたのではなくて、ただ寄港地を求めて開国を要求していただけです。
あなたが幕府の交渉役だったとして、いきなり武力で追い払ったりして、
その後にどういう結果になるか、責任とれるでしょうか。
下関戦争や薩英戦争の結果から考えて、どうなるかは明らかなのですが、
あなたのもう一つの根本的な間違いは、戦争がどう終わるかを理解していない点です。
戦争は、敵味方のいずれかが全て死ぬまで戦う・・なんてことはありません。
戦争の終結とは、クラウゼビッツの定義するところによると、
戦争継続が困難な政治的状況が生まれた場合に終わるわけです。
下関戦争や薩英戦争は、ペリーが率いてきたような艦隊だったわけですが、
両藩を屈服させています。
当時の状況で、長期間戦争状態を続けることは無理でしょう。
短期間の戦闘後、講和するしかないわけで、無防備な燃えやすい江戸を抱えた幕府は、
戦闘を回避する決断をするほど、ペリー艦隊の軍事力は十分に機能しました。
現実の史実の展開が、それを証明しているわけです。

この回答への補足

1.幕府が充分な中央集権体制を確立出来ていなかったのは知っています。
しかしそれにしても、薩長の同盟が出来た幕末の本当の末期でもないペリー来航時にある程度の徴集も出来なかったほどには、権威は失われてなかったのではないでしょうか。

2.戦争が最後の一人まで殺しあうものだなんて認識はしていません。
また当時の状況を省みて、その判断が間違いであったと思っているわけでもありません。

私が疑問に思っているのは、数隻の艦隊の威嚇に対し、水戸老公が主張したように「そんなものは打ち払えばよい」という主張が大勢を占めなかったほどに、幕府が懼れた理由がピンとこないのです。

補足日時:2008/05/28 01:46
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます

お礼日時:2008/05/28 01:45

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