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こんにち、鉄道(列車)の人身事故が発生した場合、事故列車は一定時間、現場に停車します。
しかし、戦前・戦中から戦後の昭和20年代頃までの国鉄においては、列車が人身事故を起こした場合、当該列車の乗務員がその事実を認識していても、列車を現場に停車させず、そのままダイヤ通りの運行を行っておりました。
このように、事故発生時の対応に、「昔=そのまま運行」「今=現場に停車」という時代による変化があったわけですが、
1.こんにちのように、現場に停車するようになったのはいつからか?
2.そうなった理由は何か?
ご存知の方がいらっしゃいましたら、ご教示下さいませ。

A 回答 (1件)

単純に「蒸気機関車牽引の列車では、人身事故に気づかなかった」だけ


ではないかと思うんですが。

蒸気機関車は実際に運転台に座ると分かるのですが、非常に前方を確認
し辛いです。おまけに大型の機関車は100t以上の重量がありますので、
運転台と反対側から飛び込まれたり、夜間に飛び込まれた場合、人間
程度の重量があったっても何も感じることなく、機関区に戻って整備
されるまで分からないこともあるのです。

多分人命がどうとかと言う前に、そういう技術的な問題もあったんじゃ
無いかと思います。

この回答への補足

早速の書込み、ありがとうございます。
「蒸気機関車だったので、乗務員が気づかなかっただけではないか」とのご指摘ですが、失礼ながらそうではありませんでした。
補足的に説明致します。私は昭和40年頃に、戦前・戦中・戦後にかけて当時の国鉄の蒸気機関車機関士だった人物から直接話をきいたことがあります。その人物は私の遠縁(実父の叔父)だったので、会って話を聞いたのは一回きりで、当時私はまだ小学校の4年生か5年生くらいでした。当時、全国的にSLブームという現象が起こっており、私もそれにかぶれた小学生の一人だったわけです。で、父が自分の叔父が元機関士ということで、話がきけるだろうからと、その人物の家に連れて行ってくれたのです。その人物から現役時代の色々な話を聞いたのですが、そんな四方山話の中で、「終戦間際から終戦直後頃は、飛び込み自殺が多かった」「現役時代、合計20件の飛び込みに合った。」「当時は、今と違い、人を轢いても現場に停車などせず、ダイヤ通り列車を走らせた。ダイヤ通りの次の停車駅で停車し、そこの駅員に事実関係を伝え、その後も予定通りの乗務を続けた。」というような趣旨でした。当時私は小学生だったこともあり、細かな質問等はできませんでした。
私は単純に、戦中戦後の混乱期だったので、そういう対応だったのだろうと勝手な判断をしていました。(その人物は、戦中戦後だけ飛び込みにあった、とは言ってなかったのですが)
ところが、最近になって、芥川龍之介の「寒さ」という作品を読みましたところ、作品中に列車が人を轢死させて、停車せずにそのまま走り去ったような描写がありました。(明示的に「停車せずにそのまま走り去った」とは書かれていませんが、一読すると、そういう流れだったと読み取れます。また、駅の構内踏み切りが現場であり、乗務員が気づいていなかったとは考えにくい描写です。) 「寒さ」の発表年は大正13年で、芥川龍之介が大正5年から8年にかけて、鎌倉から横須賀まで列車通勤していた当時の経験をベースにしていると考えられているようです。勿論、小説ですから事実をそのまま描写したのではないでしょう。しかし、当時の風俗・習慣・慣習等に反する記述をしたとも考えにくいです。このことから、列車が人を轢いても現場に停車しなかったのは、戦中・戦後の混乱期限定ではなく、少なくとも大正時代からそうだった、と判断するほうが妥当であろうと私は考え直しました。
このような経緯があって、今回こちらで愚問を呈し、皆様のご教示をお願いしようと思いました。
(ここで質問する前に、自分なりにネットで調べては見ましたが、わかりませんでした。三河島事故を契機に、規定類の見直しが行われたという説もあるようなので、もしかするとこの件もそれを機会に変わったのかな?とも想像しますが)

(ご参考 「寒さ」)

http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/137_1 …

補足日時:2008/06/04 11:04
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