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どうして、昔の人は公の交通手段としての船のなかで
踊りを踊ったり、歌ったり、かくし芸をしたり、念仏を唱えたりするのでしょう?
現代では貸切のときに、そういったことをするときがありますが、
まったく見知らずの人の前ではそんなことできませんし、しません。
楽しくしたいといっても、見たくない、聞きたくないという人もいたはずです。
(下手だったりすると)
無事に現地に着くようにという祈願かな?とは思うのですが
ネットで調べてもなかなかいい答えには出会えません
どなたか、知っている方がおりましたら
教えていただけないでしょうか?

A 回答 (4件)

#2です。

補足ありがとうございます。
『世間胸算用』の該当部分を読みました。(巻4 3「亭主の入替り」ですね)
〔ふだんなら芸事をしない人はないのに、その日に限って盛り上がらず念仏を唱えている人などがいてしんみりした様子なのに、一人浮かれて歌っている男がつらにくい〕というところですね。
この記述を見る限り、江戸時代であっても、「場に合わない行為をしていればみんなに迷惑がられる」というのは変わらないように思います。
普段の舟では、みんながにぎやかに芸をするのが普通だからみんなで騒いで盛り上がり、この舟では、暮の算段がうまくいかない人ばかりが乗り合わせて落ち込んでいるのに、一人だけ浮かれているので、他の客は苦々しく思っているのでしょう。

で、この場面で移動に使った船、「三十石船」について調べてみました。

ぶらりおおさか漫歩(参考URL)

三十石船とくらわんか舟
http://www.shinkin.co.jp/hirakata/hira44.html

三十石船 
http://www.asahi-net.or.jp/~PU7T-KMR/aki570.htm

などによると、船にかかる時間は、上り12時間、下り6時間だそうで、夜の上りは寝ているうちに京都に着くので人気だったそうです(そういう船ではみんなが寝ていたので、騒がないでしょうね)。また30人乗りくらいだそうですから、マイクロバス程度の小集団です。座席も横並びや向かい合わせで、落語「三十石」には、「一人で3人分や5人分の席を買って足をのばす」などもあり、相当狭かったようです。くっつきあってすわっている状態ですね。
長時間くっつきあっている時、黙って緊張状態でいるよりは、話しかけて知人扱いにしたほうがお互い気が楽だと思います。また、連れがいる場合が多いでしょうから、話をしているうちに、それを聞いて話に入ってくるとか。
よその地方の珍しい話なども聞けたでしょう。それが、旅の開放感から、いろんな芸が飛び出してくるのだと思います。
あまり「公の交通機関」という意識もないと思いますがどうでしょうか。

上方落語「三十石」は、大阪から三十石船に乗って京都に帰る様子を描いたものですが、人の会話もすごくにぎやかだし、物売りは来るし、船頭さんが舟歌を歌う場面もあります。中には下手な船頭さんもいたかもしれないけど、それもまた旅の風物として楽しめる余裕があったのではないでしょうか。

また、以下の本に、現代の旅と江戸期の旅の違い、西鶴の旅が名所より人事の観察に興味を持ち今の旅に近いことなどが出ていました。

『江戸のこころ-浮世と人と文学と-』 谷脇理史 新典社

また、旅は必ず複数でするもの、船旅は思わぬ楽しみ など、江戸期の旅の様子が以下の本に出ていました。

『図説 浮世絵に見る江戸の旅』 佐藤要人 監修 河出書房新社 ふくろうの本

参考URL:http://www.daishodai.ac.jp/frmdocs/manpo/burari. …
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この回答へのお礼

感動しました!!世間胸算用も巻の段も言わずに一文だけの補足でしたのに
わざわざここまで調べていただき
いくら感謝しても足りないくらいです。
お恥ずかしい話ですが、私は船の名前も知りませんでした。。
来週「亭主の入れ替え」の発表があるのですがkabukkiko様のおかげで
いい演習の発表になるとおもいます
本当にどうもありがとうございました。

お礼日時:2002/11/26 00:48

どの程度そのようなことをしたのか資料はありませんが、映画の世界の話ですね。



まず現代人と江戸時代の人の感覚や生活習慣が違うので比較は難しいですね。
船の旅は陸上を行くより楽な代わり危険でもあります。従って運命を同じくするもの同士の連帯感が生まれる事は容易に想像出来ます。また、海外から見れば現代の日本人でもグループで活動するのが好きな民族と写るぐらいですから、江戸時代の人は庶民同士はすぐまとまったのではないかと思います。海外旅行でも同じバスのグループは民族が違い言葉が通じなくても一体感が生まれ、一緒に拍手をしたり、美しい景色を眺めてまるでグループ旅行のようにはしゃぐ人がいます。

恥ずかしさの基準の違いも考えられます。電車の中で床に座ったり、座席で化粧を直す事などは江戸時代まで溯らなくても20年前には考えられない恥ずかしい行動です。公道を歩きながら飲食をすることも30年ぐらい前までは風変わりな人のする事でした。見たくない聞きたくないことを平然と行う世代とそれに絶えられない世代が混在しているのが現代だと思います。江戸時代の価値観はもっと均一だったと思われるので、その範囲内なら平気だったのでしょう。
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この回答へのお礼

貴重なご意見、ありがたく頂戴いたします。
映画の中でもあるように、やはり文学の世界でもそのような
場面はあるみたいで、どうしてなのか?と疑問を持ったのです。
価値観は時代と共に変わっていきますが
事実・考え方をどうやって江戸時代の世の中に根拠付けていくかが
課題となりそうです。
どうもありがとうございました。

お礼日時:2002/11/26 00:54

こんばんは


質問者さんの「昔の人は…船の中で踊りを踊ったり…」の根拠となった資料(たとえば浮世絵だとか、道中記だとか)は何だか教えていただきたいです。あまり知られていない話題のように思いますので。

ここからは勝手な想像です。
昔の旅の感覚はだいぶ今とちがいます。
今は、楽しみのために出かけるのは当たり前ですが、江戸時代くらいは、観光としての旅が生まれてきても(参考URL)、時間的経済的にままならないため、行きたいなあと思いながら一度も出かけられずに一生を終わるようなことも多かったと思います。浮世絵の風景画が売れたのは、自分では見られない景色への憧れも大きかったと思われます。
そんな中で、信仰を口実に、あるいは講の力を借りて物見遊山の旅に出かけられることになった人は、生涯一度かもしれないハレの状態だと思います。
そんな中、同じ船に乗ることになれば、同じところへ行く連帯感のようなものも生まれやすい、浮かれた気分でいれば少々羽目をはずしたくもなるし、お互いそんな気分であれば盛り上がりもするでしょう。
中には、商用などで旅は当たり前の人、急用で深刻な人などもいるでしょうが、たぶん騒いで盛り上がっているのは、お伊勢参りとかの人々ではないかなと思います。
見当はずれでしたらすみません。

参考URL:http://www.athome.co.jp/academy/culture/cul14.html

この回答への補足

回答ありがとうございました補足なのですが
私は井原西鶴の「世間胸算用」を研究しております。
「世間胸算用」とは京都の商人社会で年末の借金を庶民がどのように解決するか?
というのを当時の生活習慣とおりまぜながら書かれているのですが

そこに京都-大阪へ渡る下り舟があり
「浄瑠璃・早ものがたり・幸若舞・歌に舞いをし口をたたかないものは
いない。+念仏を唱える」
とあります。

参考URL感謝します

補足日時:2002/11/22 09:23
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例えば、飲み屋で騒ぐようなもんじゃないのでしょうか?


船に乗っている間は、格別何もすることがないので、
一杯ということでしょう。
んで、酔っ払って、歌ったり、踊ったり・・・。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
確かに、そういう理由もあったかとおもいます。
まっさきに回答していただき感謝します

お礼日時:2002/11/26 00:51

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