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徳川御三家は徳川宗家の血が絶えたときに、将軍を出す役目を持っていました。
つまり、とくがわ徳川宗家の世継ぎがいる限り、その人物が将軍となることが決まっていたはずです。
5代将軍の徳川綱吉には、兄(徳川綱重)の嫡男であり、家光の孫にあたる徳川綱豊(後の徳川家宣)がいました。常識で考えれば、れっきとした徳川宗家の血をひいている徳川綱豊が6代将軍の筆頭候補になるはずです。
なぜ、徳川綱吉は甥であり、家光の孫である徳川綱豊をさしおいて、分家にあたる御三家の一つである紀州家の徳川綱教を次の将軍にと考えたのでしょうか?
血統的には誰が考えても徳川綱豊こそが次期将軍筆頭候補になるはずです。
徳川綱吉がれっきとした宗家の血をひく人物(徳川綱豊)がいるのに、御三家(分家)の徳川綱教を次期将軍にと考えた理由を教えてください。

A 回答 (3件)

綱吉には徳松と言う子がいました。

当初、綱吉は徳松に将軍職を譲りたいと思っていました。
水戸光圀の反対を押し切り徳松を江戸城に入れたものの、徳松は5歳で死去してしまいます。
順当に行けば綱豊が将軍継嗣となってもおかしくは無いのですが、
当時、綱吉の母(桂昌院)と兄・綱重の母(順性院)は反目していて、綱吉は綱重の子である綱豊が将軍になるのは避けたかったと言うのと、
綱吉の「自分の血筋を将軍にしたい」と言う願望から、娘婿の綱教を将軍候補に擁立しようとしたのです。

しかし宝永元年、綱吉の娘で紀伊綱教の正室の鶴姫が亡くなってしまい、
綱吉の血筋が絶えてしまった事から綱教が将軍世子になる根拠がなくなり、綱豊が綱吉の世子となり家宣と名を改め6代将軍となりました。
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血統だけからいえば、第5代将軍は綱吉が継いで当然でしたが、その時も周囲の思惑で綱豊が対抗馬に祭り上げられました。

 決して血統だけで将軍が決められるというルールがあったわけではありません。 綱吉の娘婿である綱教も十分将軍継嗣の資格がありました。 綱吉が自分と将軍職を争った綱豊を後継とせず、自分の愛娘の旦那綱教を自らの後継にしようとしたのは当然でしょう。 
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皇室典範のような法規があったわけではない。


5代将軍決定に関して、もっとも影響力というか、決定力があったのは、4代将軍家綱の発言です。
館林宰相に・・・というやつ。

徳川御三家が宗家の血統が途絶えたとき・・・というのも法的に整備されたわけではありません。
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