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お釈迦さまはじめ、シャーリプトラや龍樹、鳩摩羅什なんかは王族やバラモンといった上流階級出身だということですが、インドの仏教僧の中で、庶民階級以下の出身で有名な人はいるのでしょうか?

仏教は身分制度から自由だということですから、身分制度の厳しいインドでは抑圧された階級から仏教に身を投じるということも多かったのではないかと思うのですが、そうでもなかったのでしょうか?

A 回答 (14件中1~10件)

 もうすでに一番有名な優波離(うばり)さんのお話が出ていますが、少しだけお話させていただきます。



>>お釈迦さまはじめ、シャーリプトラや龍樹、鳩摩羅什なんかは王族やバラモンといった上流階級出身だということですが、インドの仏教僧の中で、庶民階級以下の出身で有名な人はいるのでしょうか?

 もう一つ有名な方のお話としては周利槃特(しゅりはんどく)さんのお話があります。(もうご存知かもしれませんが・・)
 この方のお母さんは確かに大富豪だったらしいのですが、その家に仕えていたシュードラの男性との間の子です。
 この周利槃特さんにはお兄さんがいてこの方は優秀な方だったのですが、周利槃特さん本人はいつまでったっても仏教の一文句も覚えることができない非常に記憶力・知力に乏しい方だったようです。そこで、周利槃特さんを見かねたお兄さんは、
「お前は修行者には向いてないから、ここから出て自分にあったことをやりなさい。」
と、精舎(お坊さん達が住む所)から追い出してしまいます。周利槃特さんは肩を落として出て行こうとすると、お釈迦様が現われ周利槃特さんに、一本のほうきを渡して、「塵や垢を除け」と唱えながら、掃除をするように勧めます。そう言われると周利槃特さんは来る日も来る日も掃除し続けました。そしてそんなある時、この掃除は心の塵や垢(煩悩)を落とすのと同じだと気づき悟りを開かれたそうです。(靴を磨くバージョンもあります。)
 このお話もまた優波離さんのお話と同じように、どのような身分のものであろうと、どのように知恵の無いものであろうと仏教の悟りは開けることをあらわすエピソードだと思います。

 ちょっと余談ですが、この周利槃特さんは自分の名前も覚えられないほど知恵の無い方だったそうで、名札を首から下げそれを人に見せて名前を知らせていたそうです。そんな、周利槃特さんが亡くなられた後、そこからある植物が生えてきたそうです。それは、「名前を荷う(名札をを背負っている)」というという意味で「茗荷(ミョウガ)」と名づけられたそうです。だから、「茗荷を食べると忘れっぽくなる」というお話が生まれたんですね。


>>仏教は身分制度から自由だということですから、身分制度の厳しいインドでは抑圧された階級から仏教に身を投じるということも多かったのではないかと思うのですが、そうでもなかったのでしょうか?

 そうですね。在家の信者として仏教を信仰した方も数多くあります。お釈迦様がなくなる原因はきのこにあたった説・豚肉にあたった説と二種類ありますが、食あたりだったことは共通しています。
 このときお釈迦様は乞食の最中に最下級身分の方からきのこをお布施されます。このときお釈迦様はこれが毒きのこであることは分かっていました。なぜ食べないのか?それは、布施としていただいたものはすべて食べなければならなった。お釈迦様は最下級の身分のものからもらった物であるからといって差別することなく、そのきのこをお食べになったそうです。
 そして、御入滅直前には多くの王子様がお釈迦様のお世話をさせてくださいと懇願する中、お釈迦様は最後の世話を最下級身分の遊女に任せるのです。
 お釈迦様のこのようなエピソードを探せば、まだあるはずですよ。ご自身でお調べになっても楽しいと思いますよ。

 長々書き連ねましたが、急ごしらえのため誤字脱字乱文はどうぞご容赦ください。参考にしていただければ幸いです。
 合掌 南無阿弥陀佛
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

ご紹介頂いたお話は初めてお聞きしました。
正直な感想を書かせて頂きますと、ご紹介頂いた逸話そのものにあまり好感を持てませんでした。

高貴な女性と男性奴隷の間の子といえば、確かアウトカーストの中でも、最も忌むべきとされる出自ですよね。
その最下層の身分の人にあえて「知力、記憶力に乏しい、自分の名前さえ覚えられない」という蔑んだ設定を与え、さらに愚直に「塵や垢を磨く」ことで悟りの希望を与えています。
この「塵や垢を磨く」とはアウトカーストに課せられた賎民用の職業の暗喩ではないでしょうか?

高貴な身分の高僧が、華麗に奇跡を起こしたり、病気平癒を行なうのとは、あまりに対照的で、元になった実話があったにせよ、この逸話は低身分層向けのプロパガンダであったのではないかと思えます。

失礼なお礼で申し訳ありません。

お礼日時:2008/08/11 11:58

お釈迦様はヒンドウー教の第何番目かの聖者として崇め奉られています


ヒンドウー教とはインドの教えという大まかなわく組みです
インドのカースト制度に相反する教義とはいえ
インド教としての仏教教義は
インド社会に受け入れられていったことはまちがいありません
>国教になったり弾圧されたり
?そういう事実があったか疑問ですが
仏教の戒律では政治活動はしてはいけません
教義的な衝突はあったかもしれませんが
闘争?は戒律ではしてはいけません
どこまでも完ぺきなほど
合理的な教義であったから
インドをはじめ世界中に受け入れられていったのでしょう
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>どこまでも完ぺきなほど
>合理的な教義であったから
>インドをはじめ世界中に受け入れられていったのでしょう

私は仏教の思想が優れているということには全く異存はありません。

ただ、「宗教」にそれが必要なのかどうかは分かりません。

世界一多くの人に受け入れられている宗教であるキリスト教の教義なんか、とても思想と呼べるようなものではないと思います。

お礼日時:2008/08/17 23:47

>それは教団が奴隷制を是認したことになるかと思います。



奴隷制度反対をかかげる理想集団ではないので
今ある現行法の中で行動し
反対活動や政治活動などはしません
反抗分子ではないからです
身分制度から自由だからと言って
やりたい放題をしていたわけではありません

>有名な人
「八十四人の密教行者」
杉本恒彦訳宮坂宥明、ペマ・リンジン画
春秋社
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

現代日本のように「政教分離」や「信教の自由」の保証された社会でなら、他宗派の尊重も問題なく行えると思いますが、ヒンドゥー社会でヒンドゥー教義を否定する集団が生き残るためには、妥協と融和と闘争のバランスがとても難しいように思います。

>反対活動や政治活動などはしません

国教になったり、弾圧されたりしていますから、政治活動や社会・ヒンドゥー経との闘争が皆無であったとは思えないのですが…。

お礼日時:2008/08/17 11:13

現在でも出家作法の中では


負債(借金がないか)を問われます
奴隷で年期が明けていないもの
主人の許しのない者は
出家を許されません
日本の寺院では
孤児院の役割も果たしました
口減らしのために
百姓の子供もお寺に入れられました
インドでは戒律は厳重なものですから
理想主義的なことは
全くなかったと思います
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

主人が奴隷の出家を認めないのは当然だと思いますが、教団が奴隷の出家を、主人の許可が無いことを理由に拒んだとすれば、それは教団が奴隷制を是認したことになるかと思います。

教団はどういう論理でそのことを正当化したのでしょうか?

お礼日時:2008/08/17 04:15

<<Wikiで調べると、質問蘭にあげた他に達磨は王族、無著・世親兄弟はバラモン、不空もお父さんはインドのバラモンということです。

少なくとも超有名どころは上流階級の独占又は寡占であると思えます。>>

俗世で「超有名」になっているのはそのような方々なのですね。

「超有名」が心の清らかさとは関係ないものと考えておられ、俗世においての阿羅漢の方々の影響力の強弱を言うのであれば。その人の能力に依存するものとおもいます。

生まれの良い人は前世からの善業を多く享受していることでしょう。だからと言ってバラモンのように生まれによって人をランク付けはしません。たまたま今その業が働いているだけで、生き方によっていくらでも業がひきつけられるのですから。問題はいかに生きているかになります。

生まれのよい人の中には、前業で禅定によって神通を得て能力を育んでいた方もいるでしょう。このような人が仏陀に出会い、仏法に出会い、漏尽智を得たならより多くの生命に影響力を持ちやすくなるでしょうね。

<<現実にヒンドゥー教、バラモン教社会の中で仏教が発展していく過程では、両者の間に摩擦や妥協、融合はあったと思いますし、最終的なインドにおける仏教の趨勢を見ますと、妥協の度合いは仏教の方が大きかったかと思います。>>

パーリ語の仏典を実証している私としましては、この仏法を変えたら・妥協したら「退化」のなるのでは。そのように実感しています。

この法以外のものが噴出したならば、仏教つまり仏陀の教え以外のもので、それぞれの開祖の教えでしょう。これを違うとはなかなかいえるものではないと感じます。

または仏陀の教えを参考にした「○○さん」の教え。となるでしょう。

chongaaさまは、「仏教」と言う世俗で言うの括り全体を「仏陀の教え」と観ているのですね。

私の思う「仏陀の教え」は一切妥協はしてないと思います。一応後に噴出してくるものや、当時あった教えに対しての論破はほとんどがなされているものと思いますし…。

妥協したり新たな教えを造ったのは後の人々であって仏陀ではないでしょう。

<<最終的なインドにおける仏教の趨勢>>

現在はインドでも水面下で結構追い上げてきてはいるみたいですねw

アンベートカル仏教と名を打って、パーリ語の仏典から我々の理性で理解でき、悪魔や天界・神などの我々の理性で解らないものを出来るだけ入れないようにしたものを参考に八正道を実践しているようです。

仏教の哲学的理性的論理的実証的な面はなかなか崩せるものではないでしょうからね。徐々にですが受け入れられているようです。

キリストを勢力とする国々でもエリートと言われる人々の間では仏教講義の人気も出ていると聞いています。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

ご説明の内容は理解しました。

ご推察の通り、私が質問の中で問題にしていますのは人間の集団としての仏教(教団)であって、教義ではありません。

僧侶が後世に名を残すか否かは思想の優劣や、魂の清らかさのみで決定されるとは思っておりません。

お礼日時:2008/08/13 18:09

 また言葉が悪いですね。

申し訳ないです。お盆前でばたばたしているものですから、推敲できないことをお許しください。

>>カースト制は現代でもなお根強くインド社会に残っていますし、仏教の高僧の伝記にさえその出身カーストが記されているのではないですか?
>>低カースト層に社会的に何の制約もなかったとは思えません。

 確かにその通りです。現在でもインドはヒンドゥー教(バラモン教)の影響下にあり、出生の身分によってつける仕事というのが変わってきます。 養老 孟司さんなんかに言わせればルームシェアリングの一つの形であるそうです。今インドのIT系仕事が急成長しているのは、新しい業種なのでカーストに組み込まれていないので誰でもつける仕事だからということもあるようですね。

 さて話を戻しますと、紀元前六世紀ごろななりアーリヤ人の社会がガンジス川中流域制覇すると、社会的にも文化的に大きな変化が訪れます。だんだんと豊か担ったおかげで経済的な交流も盛んになり、強大な王国が現れ始めました。このように王の権力が強まるとともに、宗教的権威をつかさどるバラモンたちは脇役に回って行ったようです。また、そういった経済の発展はバイシャ層の商人たちも豊かにしていきます。そして、強大な国によって領土拡大にともなって、アルジュナ王子(アーリヤ人の象徴)と蛇王の姫(当時の先住民族ドラヴィタ人は蛇の信仰を持っていたので、これは先住民族の象徴と考えます)という神話があらわすようにアーリヤ人と先住民族との混血が進み、カーストのもともとに意味であるヴァルナ(肌の色)俳味を失っていき、伝統的な考えに縛られない自由思想が生まれはじめます。こう言った時代背景のもとヴェーダ最後の時代といわれるウパニシャッド哲学というものが現われ、そして仏教やジャイナ教が発生していく基本をもったといわれます。
 つまり、カーストというものが大きな変革期にあったと考えられます。確かに現在もカーストは残っていますが、時代ごとに何度かの変革期はあって残ってきているはずです。その大きな変革期にあたっていると考えます。バラモンの権威は衰退していき、クシャトリア、バイシャの生活が豊かになっている。シュードラもその影響を受けていたはずです。
 そんな中、お釈迦様やマハーヴィーラ等の宗教者の出現により、カースト制は崩壊ではなく変革への影響を受けていたという意味で捉えていただければ助かります。

 すみません。急ぎで書きましたので、また御幣を招くような表現があったかもしれませんがどうぞお許しください。
 合掌 南無阿弥陀佛

この回答への補足

ご回答ありがとうございます。

お忙しいなか、申し訳ありません。
おかげさまで、随分勉強になりましたから、そろそろお暇しようと思いますが、少し疑問点を整理させていただきます。

ご説明は理解しました。
カーストの実情となりますと、ご説明のように時代の変遷もあるでしょうし、広大なインドのことですから、地域差も随分あると聞きます。それを完全に把握することは誰にも不可能なのではないかと思います。

ただ総論的に検討することは可能だと思い、この質問をしています。

つまり、お釈迦様が身分制度を否定した、ということは裏を返せば、社会に身分制度は存在した、ということだと思います。

厳しい身分制度の社会で、身分制度を否定し、四民平等を標榜する集団が現れれば、常識的に考えれば、その集団には低い身分の人たちが集まってくると思います。それは仏教団がある程度身分制撤廃に成功したのだとすれば尚更だと思います。もし私が奴隷階層であったとしても、出家を希望すると思います。

ただ上層階級からすれば、奴隷階級の人たちの出家を無制限に認めることは、無償労働力の流出、ひいては身分制度そのものの崩壊にもつながりかねませんから、すんなり出家を認めたとは思えません。

それでも仏教が平等思想を保ちつつ、どんどん発展したことを考えれば、(各時代、各地域の個別事情はあったにせよ)インド仏教全時代を通じれば、相当数の低階層出家者がいたのではないかと思います。

つまり、私が「一人か二人は…」と書きましたのはインド仏教全時代を通じての話であって、仏教草創期に限った疑問ではありません。

お釈迦様は教祖ですからお釈迦様にまつわる説話が数多いのは当然だと思いますが、それだけにやや荒唐無稽もしくは類型的で、どこまで実話か疑わしい部分も多いですし、そもそも仏教草創期自体が、インド仏教通年でみればかなり独特な状態の期間あったといえる可能性もあると思っています。

もちろん、原始仏教の時代に優波離や、周利槃特という人がいたことは重要な事実だと思います。

しかし、それはそれとして、中期仏教以降で、現代に名前の残る高僧、特に経歴に比較的信憑性の高い人物の中に低カースト出身者が見当たらないことは依然、奇妙に思えます。

というか、率直にいうと、低い身分出身の僧侶が名を成すためには、やはり有形無形の障害があったのではないかと疑っております。

それは勿論好ましいことではないでしょうが、教団とて人間集団、まして何万人規模になれば、大なり小なり世俗化しない方が不思議であるとも思えます。

補足日時:2008/08/13 17:45
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 私もまだまだ原始教団に関しては一般的な知識がある程度で、まだまだ勉強不足であることを感じさせられます。




>>ただ、それでも一人か二人は低い身分出身の出世僧がいてもよいのではないかと思います。
 
 出世僧という言い方が適切かどうかは分かりませんが、少なくともシュードラ出身もしくは父母どちらかが低身分の方という記述があるのは、私の知る限りでは十大弟子の中では優波離さん。十六羅漢の中では周利槃特さん(先にはお母さんが大富豪の娘と書きましたが、お父さんのほうが大富豪の息子だって説もあったはずです)。そのほかでは周利槃特のお兄さん摩訶槃特(まかはんどく)さんくらいしか記憶にありません。


>>低い身分で、少年期かもしくは幼年期に仏門に入る子はいなかったのでしょうか?
>>例えば捨て子とか、食を得る目的であったとしても、仏教の理念からすれば、そういう子もある程度教団は受け入れたのではないかと思います。
>>そうした少年期であれば、バラモンの子とも素養の差は大きな問題にならないと思いますし、むしろ出世欲、ハングリー精神は遥かに旺盛だと思います。

 私の記憶にある中で比較的早い時期に仏教教団に入ったのは、お釈迦様の実子羅睺羅(らごら)さんくらいですかね。この羅睺羅さんの年に関しては諸説あるんですが、本格的な出家を許されたのは15歳になってからといわれます。十五歳になるまでは出家とは認められず、僧侶達と同じ宿坊に寝泊りするのではなく、その宿坊の外に寝泊りしたということが『四分律』のなかに描かれています。
 このように、お釈迦様の実子であっても出家を認められるにはある程度の年にならなければいけなかったわけです。仏教は自覚の宗教と呼ばれることがあるそうですから、自主性を重んじらてのことでしょう。
 羅睺羅さんに関しても、お釈迦様が故郷に帰られたときに、お釈迦様の奥さんがお釈迦様がなかなか自分と息子である羅睺羅さんに会いに来ないというので、お釈迦様を困らせてやろうと羅睺羅さんにお父さんの所に行って「お父さんの一番の宝物をください。」と言ってご覧なさいと、お釈迦様のところ向かわせます。けれども、奥さんの当ては外れます。羅睺羅さんは素直に言われたとおりお釈迦様の前に行き「お父さんの一番の宝物をください」といいますと、お釈迦様はお前に最高のものをあげようと舎利弗さん目連さんを師として出家もしくは僧にするために教団に引き取ってしまいます。
 ここからは私見ですが、奥さんがこんなことをさせなければお釈迦様は羅睺羅さんを強制的に教団で引き取るようなことはしなかったでしょう。インドにはある程度世俗における役目を果たしてから出家するという考え方があります。これにも諸説ありますがお釈迦様も羅睺羅さんという王家の跡取りが生まれて、そのこが健康に健康に育つことをある程度見届けてから出家されます。こういったことからも、判断のつきかねる子供を教団に入れるということが数多くなされていたかということに関しては疑問を挟む余地はあると思います。そういった孤児やなどの関わり方としては、食事を与えたり着るものを与えたりはしていたかもしれませんが、教団に入れるということはしなかったのではないでしょうか。


>>にもかかわらず、後世に名を残す名僧がほとんど上層階級出身であるとされる理由を想像しますに、
>>・ 教団内での出世競争が純粋な実力主義では無かった。(門閥、財力に左右されたか、低身分者は排除された)

 これに関しては、仏教教団は実力主義というより優波離さんのエピソードからもうかがえるように、先に出家したものを敬いなさいという立場です。あくまで十大弟子というのはお釈迦様が決めた基準では無いでしょうし、多くのひとから尊敬を集めたという点では実力主義であったかもしれませんが、釈尊在世において門閥はまだなったでしょうし、出家した時点で財産も身分も捨てちゃいますから財力に左右されることも無いでしょう。低身分者は排除されたとしたら、優波離さんや周利槃特さんなんかも現れなかったでしょう。


>>・低身分者の出家を社会が許さなかった。

 これに関しては、そんなことありませんね。社会的にはカーストの否定というのは定着していたと思います。カーストの否定をなされたのははお釈迦様だけではなくジャイナ教の開祖ニガンタ・ナータプッタ(マハーヴィーラ)など、多くの自由思想家と呼ばれる人たちによってなされていたはずです。


>>・高僧が卑しい身分出身であることは世間的に都合が悪く、本人もしくは伝記作者が詐称した。

 これは本人が詐称したとは考えにくいと思いますが、後者に関してはあるかもしれませんね。初期のおいては大迦葉さんの呼びかけにより、阿難さんが教えを担当し、優波離さんが戒律を担当して、仏教教義の統一を行っています(第一結集)が、そのときには文書化されていません。文書として覚えるのではなく、体で覚えるってことのようです。これから二百年ほどこのような方式が採用され、経典というものが作られるのはその後になります。その経典編纂のときに当時のことを知っている人が生きているとは思えませんから、経典類を読んでも高僧達の出生にも色々バラつきがありますから先の推測も考えられると思います。

 まぁ、色々書き連ねてきましたが、私の知っていることはこの程度ですかね。低身分階層の僧侶もかなりいたことは確かです。お釈迦様のお説教を聴いて感激して出家しちゃう人も数多くいたようですからね。あまりちゃんとしたご説明ができないのがなんとも申し訳ない。参考になれば、嬉しい次第です。
 合掌 南無阿弥陀佛
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

前の方へのお礼欄にも書きましたが、初期仏教期と大乗仏教期では教団の在り方が全く変わってしまっている可能性があるのではないかと思っています。

初期仏教期の理念や良しですが、時代が下ると共に世俗化するのは、仏教団とて人間集団である以上、仕方のないことだと思います。

初期教団の理念やエピソードをもってインド仏教全時代を測るのは少し無理があるように思えます。

また、

>社会的にはカーストの否定というのは定着していたと思います。

ということですが、これは意外なお答えでした。
カースト制は現代でもなお根強くインド社会に残っていますし、仏教の高僧の伝記にさえその出身カーストが記されているのではないですか?

低カースト層に社会的に何の制約もなかったとは思えません。

お礼日時:2008/08/12 22:36

まず、サンガの構成員の出身階級について。


サンガは理念的には四衆に広く開かれていたことは間違いありません。ただ現実をみると、その内実はご指摘のとおり、バラモンやクシャトリア出身者が大半だったと言えます。

昔、赤沼智善氏が発表された研究によると、原始経典に名の出る比丘1,160人のうち、出身カーストがわかるものが532人、うちバラモン219人、クシャトリア128人、ヴァイシャ155人、シュードラはわずかに30人という結果でした。つまりこの研究では、シュードラはわずかにサンガの5~6%を占めるに過ぎなかった、ということになります。

仏教の理念はむろん四衆平等ですが、お釈迦さんの説く思弁的な態度がすべての階層から理解を得たわけではありませんし、果たしてそのような意図を持って説かれたかどうかについては、大いに疑わしいといえるでしょう。

例えば、ブーグレというカースト制度の研究者は、仏陀の説教は煩瑣哲学を完全に脱却していたわけではなく、その説法を理解するためには、伝統的弁証法に熟達していなければならなかったであろうことを指摘しています。そのうえで、仏教の教説自体は革新的なものでありながら、それは主にカーストの上部の人間に対して説かれたものであり、実際のカースト制度そのものには何ら影響を与えることがなかったことを強調しました。

ブーグレやオルデンブルグといった昔の学者がこの意味でよく引く例のひとつが、原始経典に頻出するパーリ語のクラプッタkulaputtaです。この語は漢訳仏典で「善男子」と訳される言葉ですが、その原義はkulaの子弟、つまり「貴族階級(高貴な家庭)の出身者」というものであって、もともとは広く男性一般をさす言葉ではありません。この言葉の原義どおり、仏陀の呼びかけは上層階級にあって相応の教養を備えた人たちを対象になされたのだ、というわけです。

いずれにしても、上のようなサンガの構成員の割合からすれば、十大弟子などを上流階級の出身者が占めるのはむしろ自然なことだと言えるのではないでしょうか。

ところで、幼少年期の出家について。
実際に律蔵にも、幼くして教団に引き取られた子供たちについての記載があります。阿難に帰依していた両親が病気で亡くなってしまい、確か7,8歳程度だったと思いますが、残された兄弟をやむなく阿難が仏陀の許しを得て教団に引き取ったというような話です。昔ですから、病死する人間も相当多くいたはずで、このような社会事業的な意味の事例も確かにあったことでしょう。

ただ、事態はそう単純ではありません。ごく初期のころはともかく、教団として整って以降のサンガは、幼い子供や未成年を受け入れることに消極的になっていきます。律によっても多少異なりますが、およそサンガは15歳に満たない子供は拒否するようになるのです。というのも、幼くして出家させた子供たちがサンガの調和や安寧を乱したり、信用を失墜させる例が頻発したからです。

例えば、身寄りのない父子が出家したところ、自覚のない幼い子供が父の施し物をねだるなどしたため、周囲の人々から出家者による不貞の子などと疑われた例があったり、これまたウパーリという名の子供ですが、懇願されて出家受戒を許したところ、午後の空腹に耐えかねて大騒ぎをするなど、サンガの安寧が非常に損なわれた例が律に記載されています。
こういった事態を受けて、教団はやがて、「出家者としての自覚があり、出家者として行動できる年齢に達した者」のみを受け入れるようになっていくのです(先に挙げた幼い兄弟はいわばサンガの中の例外的存在として、食べ物にたかるカラスやハエを払う役目の子供、「駆烏沙弥」として教団に引き取られています)。

また、どこかで別の回答にも書きましたが、サンガに受け入れるということは社会のシステムから出てしまうことを認めることですから、たとえ本人が出家を希望していても、基本的に父母のいる者はその許しを得たうえでなければ出家を認めないのが通例でした。後になってサンガがトラブルを蒙らないように、予めチェックをしたわけです。

以上のようなことからも分かるとおり、サンガとはあくまでも自分の意思によって梵行を自主的に行う人たちの集団で、その修行環境の安寧が乱されないよう、出家者の選定には年齢はじめ色々と条件がつけられたわけです。この意味で、多少の例外はあったでしょうが、階層の問題以前に、サンガは子ども一般に対してあまりオープンであった場所とは言えません。それはサンガの性質そのものに起因する、やむをえない限定条件といえます。
(ちなみに、こういったことが現代の我々にわかるのは、そのすべてが律蔵に記されているからです。律とは基本的にサンガの成員が守るべき事柄とその理由が記されているいわば内部マニュアルであって、一般の人々に公開されることはありませんでしたので、もとより一般受けを意識する必要もなかったはずです)

また、出世競争云々、ということも書かれていましたが、基本的に教団内では、出世というものが存在しませんし、権力を発揮する場面というのは事実上ありません。
在家者に人気があるかどうか、という違いはありますが、基本的に施し物の分配も出家の順番だけを基準に行われますし、重要な事柄は成員の全員参加で決定されるので、命令システムもありません。指導教官のような役も権力とは言いがたいですし、そもそも受ける側の新米比丘のほうの指名によるものでした。

ちょっとまとまらない回答になりましたが、どうぞご容赦ください。何かご不審の点があればいずれまた回答させて頂きます。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

とても勉強になります。

ご回答頂きました内容は、主に原始、初期仏教団に関する考察であるかと思います。

思いますに、インドの仏教集団の様子というのは、初期から部派仏教に至る間もそうですが、大乗仏教が興って世俗化する過程で大きく様相が変わったのではないかと思っています。

そこに至るまでに、年月だけで500年、インド社会の中での仏教の位置づけも変わり、信徒数の増加も大変なものであったと思います。

また、名のある高僧の業績が具体的に今日に伝わるようになるのもこの頃からだと思います。

出世競争という言葉は直截的過ぎたかもしれませんが、例えば他宗との論争や、権力者への講義、経典作成、論書の発表等をめぐっての僧侶間での切磋琢磨、競争やその結果得られる名誉というものも、この時代には確実に存在したと思います。

紀元前後以降の低カースト層の仏教とのかかわりについても何かご教授頂けると有り難く思います。

お礼日時:2008/08/12 22:00

 すいません話が本題がずれましたね。

申し訳ない。


>>そういう仏教であればこそ、「愚か」はともかく、アウトカースト出身の高僧は(伝説ではなく)いてもよいと思うのですが…。

 というのはつまり「なぜシュードラ出身の高僧が少ないのか?」ということだと思いますが、少し私の意見をまとめさせていただきます。
 確かにお釈迦様はバラモン教のカーストに反対し、身分の解放を打ち出しています。身分だけでなく男女の差別もせず僧侶は男性だけでなく女性も認められていました。
 このような平等主義は多くの人々に認められていきましたが、悲しいかな教養に乏しいシュードラと呼ばれる人たちは身分の差別がなくなったからといっても、どうしたらいいのか、またはそれがどういうことなのか分からない方が多かったのではないでしょうか。これが、シュードラ出身の高僧があまりいないと感じる一つの要因かと思います。
 それに対して、意外と反応が大きかったのがバラモンの階層でしょう。普通に考えたら仏教と対抗しそうなバラモンがなぜ仏教徒となって言ったかといえば、お釈迦様が現われた時代になるとバラモンの数も飽和状態でしょうから、バラモン階級がみな司祭となってどうこう出来たとは考えにくいですね。そんな中、バラモン教のあり方に疑問を持つものや、不満に思っていたものたちが数多くいたと考えられます。こういった方々が仏教に帰依していったのではないかなぁと思います。これがバラモン階層の僧が数多くいる要因ではないかと思います。

 これはあくまでなんとなくこうじゃないかなという推測の域を脱しませんが、こんな理由もあるんじゃないですかね。時代背景やそこに住んでいた人たちのことを考慮に入れる必要があります。私の意見もまだまだ考察の余地はありますね。未熟な回答で申し訳ない。
 合掌 南無阿弥陀佛
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この回答へのお礼

ご回答有り難うございます。

>これはあくまでなんとなくこうじゃないかなという推測の域を脱しませんが

この時代のインドのことは記録が少なくてほとんど推測するしかないんですよね。
専門家の方の推測をお聞きできるのはとても有り難く思います。

ご説明の内容はよく分かりました。
高い身分出身の高僧が多い理由としてはとても納得できます。

ただ、それでも一人か二人は低い身分出身の出世僧がいてもよいのではないかと思います。
低い身分で、少年期かもしくは幼年期に仏門に入る子はいなかったのでしょうか?
例えば捨て子とか、食を得る目的であったとしても、仏教の理念からすれば、そういう子もある程度教団は受け入れたのではないかと思います。

そうした少年期であれば、バラモンの子とも素養の差は大きな問題にならないと思いますし、むしろ出世欲、ハングリー精神は遥かに旺盛だと思います。

にもかかわらず、後世に名を残す名僧がほとんど上層階級出身であるとされる理由を想像しますに、

・教団内での出世競争が純粋な実力主義では無かった。(門閥、財力に左右されたか、低身分者は排除された)
・低身分者の出家を社会が許さなかった。
・高僧が卑しい身分出身であることは世間的に都合が悪く、本人もしくは伝記作者が詐称した。

といった理由があるのかなあと思いました。

もちろん以上は私の勝手な推測ですが、このあたりの状況を教えて頂くか、推し量る材料が欲しかったというのが質問の趣旨でありました。

お礼日時:2008/08/12 12:00

<<庶民階級以下の出家者が皆無であったことはあり得ないと思いますし、理念として階級制度の否定があったのも間違いないと思います。

>>

ですね。

<<一方で、特にインド仏教中期以降、名を残した高僧で出自が記録されている人は、やはり圧倒的に上流階級出身者が多いように思えます。
そのことがどういう状況を意味するのか知りたく思います。>>

多いように思えるのですね。

ちょっと本格的に調べていないのでなんともいえないので、本当にそうかは置いておいて。

その時代の求するものとして、「財産地位」と「真理探求」が二本柱になっていた時代だと思います。

特に地位や財をすでに手に入れていた人々にとっては「真理探究」と言う残りの一本に力を注ぎやすい環境にあったのかも知れません。

<<また、王族とかはともかく、バラモン出身の高僧が多いのも興味深く思います。バラモンということは、カーストの中ではヒンドゥー教やバラモン教に仕えるべき家系ですよね。>>

そもそも財や地位に満たされ、ことさらに真理に対する考えも深い人々でしょう。禅定を得ているような方々もいたでしょう。仏陀の説法を聞いて、自分の「真理」と思ってたものの間違いを指摘され納得するだけの素地の多く有る人もおおかったでしょう。

そのような下地がそろった方々が多かったのではないでしょうか。

しかし、仏教の多数がバラモン教の元信徒となるのかは疑問です。

<<ヒンドゥー教は宗教を超えて>>

前提の有る宗教の一つでしょう。

<<インド社会そのものだというようなことも聞きますが>>

誰かに聞いたのですね。

<<仏教もヒンドゥー経の枠組みのなかで発展したということでしょうか?>>

どのようにしたらそのような見解に至るのか私には解らないです。

仏教の理性的な論理的かつ実証的な自ら確かめる性質の教えが、風習・伝統・聖典に有るから正しいと言う性質のものとは正反対に有るように私は感じます。

かつてのバラモン教の教えも仏教の論理的理性的な教えに仕方なく変更を余儀なくされ、今では違う形に変わっているものもおくありますね。

今でも少数の方はやっていますが、生贄などの祭祀もいまではあまり見られませんね。

不殺生の完璧な論理を理性的に説かれたのでそうなったと。

どちらかと言うと仏教のほうが影響を与えていると感じます。
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この回答へのお礼

ご回答有り難うございます。

>多いように思えるのですね。

Wikiで調べると、質問蘭にあげた他に達磨は王族、無著・世親兄弟はバラモン、不空もお父さんはインドのバラモンということです。
本格的に調べれば低身分出身の人もいるかもしれませんし、いれば是非教えて頂きたいですが、少なくとも超有名どころは上流階級の独占又は寡占であると思えます。

>特に地位や財をすでに手に入れていた人々にとっては「真理探究」と言う残りの一本に力を注ぎやすい環境にあったのかも知れません。

そういう要因もあったかと思いますが、高僧と呼ばれる人は比較的若い頃から仏門に入った人が多く、功遂げ名を成した後に出家して有名になった人はあまり聞きません。
若い頃から仏門に入ったなら、上流階級も下層階級も、真理探究の素養にさほどの差は無いのではないかと思いますが…。

>どのようにしたらそのような見解に至るのか私には解らないです。

仏教の理念、思想がヒンドゥー教と全く異なる、むしろ相容れない部分の多いものであることは理解しています。

しかし、現実にヒンドゥー教、バラモン教社会の中で仏教が発展していく過程では、両者の間に摩擦や妥協、融合はあったと思いますし、最終的なインドにおける仏教の趨勢を見ますと、妥協の度合いは仏教の方が大きかったかと思います。

(仏教もヒンドゥー教の枠組みのなかで発展したということでしょうか?)と書きましたのは、そういう意味です。

お礼日時:2008/08/12 10:52

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