現実は、虚構であるのでしょうか?
たとえば、東京ディズニーランドは、虚構の世界を体験できる遊園地であると言う人がいました。虚構を体験できるという現実があるのであれば、現実であっても、虚構に含まれた集合関係のような位置付けができるのでしょうか。つまり、「現実は虚構の一部であると言えるのでしょうか」という問いです。
一般的に、AがBであると言うとき、AよりもBの領域の方が広く、AがBの一部である関係が成り立っていると思います。ですから、質問は、繰り返しになりますが、「A(現実)がB(虚構)の一部であると考えていいでしょうか」という問いです。
あなたが、思いつく虚構の例を示して、できるだけ具体的なイメージを描くように、そして無駄な記述を省き、簡潔に、教えてください。
No.11
- 回答日時:
>自己=虚構、全宇宙の中にあり、かつ、全宇宙には属していない?これは、矛盾ですか?
そうではありません。
全宇宙とは、常に変化し続ける厚・み・の全くない流転そのものなのです。
自己が認識する時間というやつを極限まで短くしたことを想像してください。
厚・み・がない実相なのです。過去は一粒たりとも残されていないのです。
今しかないのですが、その今さえも厚・み・が無いのです。
何か具体例と言うことですので・・・
例えば、「リンゴ」という音声が発生されたとき、全宇宙は、自然法則に則り、
空気の粗密波、鼓膜の振動として作用しますが、それは、流転そのものでしかなく、
鼓膜に振動が届いたときには、空気の粗密波はもはやどこにもありませんね。
この振動が耳の神経細胞を刺激し、脳細胞がその信号を処理しますね。
ここも自然法則で動いていますね。で、その処理された信号を自己が受け取る段階で、
「り」を聞きますね。このときには、もう鼓膜が振動した「り」は全宇宙のどこにもありません。
同じように「んご」まで聞くのですが。聞き終わって、「リンゴ」という単語を一気に認識する自己が
いて、赤いリンゴをイメージしてますね。
全宇宙にとってこんな「リンゴ」音声信号を一気に認識する実相は無いのです。あり得ないのです。
自己は、「りんご」音声信号を一気に認識するにしても、いわゆる時間を使ってしまっているのです。
であるからこそ、自己はその流れ自体は全宇宙に属しているものの、自己が認識したあらゆるものも
自己が自己とする存在を含めて全宇宙には属しないのです。
もう少し説明を加えると、自己は、全宇宙の実相である変化をすでに使用して初めて成立するので、
全宇宙の実相から乖離すると言うことです。
そうですね。イメージとしては、パソコンで言うと、全宇宙の実相が0と1の信号の膨大な流れ、流転そのものとすると、
自己というのは、あるプログラムで制御された特定のタスクとその出力となります。
確かに自己も0と1の羅列ですし、出力も0と1の羅列ですから全宇宙に属するのですが、
そのタスク(自己)は、そこから乖離した特別な意味を「複数の0と1の状態の流転をもって」ある特定の場所に与えていて、もはや0と1ではないんですね。
この回答への補足
No.2・9に続き、ご記入いただき、ありがとうございます。
ただ、話がかみ合わないことがよく分かりました。
実は、自己の虚構性や認識論は、主題ではないのです。ここを深追いした僕が悪かったようです。どう折り合いを付けるか思案に苦しみますが。
「A(現実)がB(虚構)の一部であると考えていいでしょうか」という問いに対しては、No.9でよいと回答されているので、だとすると、虚構=自己と置き換えて、現実(全宇宙)が虚構(自己)の一部というのは、誇大妄想のようでもあり、ピンと来ません。ここから、展開していただけませんか。その方がよいと思うのですが・・・。
補足で、虚構=自己と矮小化してしまったことを謝罪します。
自己=虚構だからといって、虚構=自己にはできないと分かりました。
自己=虚構は、自己=虚構の一種(一部)だったからです。
大変失礼しました。
No.12
- 回答日時:
はじまして
1 現実は、虚構であるのでしょうか?
→違うと思います。
2 東京ディズニーランドは、虚構の世界を体験できる遊園地である。
現実は虚構の一部であると言えるのでしょうか。
→違うと思います。
3 A(現実)がB(虚構)の一部であると考えていいでしょうか。
→この命題は誤りと考えます。
理由
・「東京ディズニーランドは、虚構の世界を体験できる遊園地である」
この文章は次のように言い換えることができます。
→東京ディズニーランド(浦安に存在する現実のもの)は、虚構(ディズニーアニメという現実のアニメ作品)の世界を(現実のアニメ画像の中に自分が入り込んでしまったかのような)体験ができる(現実の)遊園地である。
したがって1の命題は そもそも現実の現象としての言説としてしか解釈できませんので、認識論でいうところでの いわゆる現実・虚構に関わる命題ではないと考えます。
2の命題後段も、ディズニーランドの命題の説明としての言説であるならば 同様に否定されます。
3の命題は単独の命題として考えてみます。
「現実は虚構の一部か」
→いま 私たちが存在している世界そのものが 実は脳が独自に知覚し感受し作り出したところのものであるという観点にたって(この世界を)虚構と仮定してみます。(…これは脳科学の成果を誤解釈したところの観点ですが、後ほど説明を試みます。)
すると現実なるものの存在がきわめてあやふやなものとなります。
なぜなら、世界の存在はすべて各人ごとの虚構の産物でしかなく 現実(およそ万人又はあらゆる生物や物質を含むすべての存在が共時的に現象している世界を含む現実)の存在は すべての虚構世界において共通している部分(が存在するとしてその部分を)を指して「現実」と呼び習わしているとでも言わなければ説明できません。
非常に苦しい説明ですね。それにあくまでも虚像でしかありませんのでいわゆる共同幻想とでもいいましょうか 通常使用している意味での「現実」とは程遠いイメージです。
そもそも前提が誤っているのでしょう。
脳科学が提出している脳の機能は情報の整理と記憶と状況に応じての出力機能です。
情報はどこからもたらされるのか、それは身体のさまざまな感覚器官からがほとんどです。目鼻口舌皮膚心を通じて外界の情報が脳に伝えられその情報を脳が整理し優先順位をもって出力しているというのが脳の機能と考えられます。
情報は人の外からもたらされる点が重要です。この情報は万民又はあらゆるものににとって同様です。違うのは脳(身体)の判断作用・反応です。
同じ水200ミリリットルという物理現象も人間にとっては飲料するのに適していても 蟻1匹にそれを一気に飲料させようとするとたちまちに死にいたりますし、そもそもその水の中でおぼれてしまうでしょう。
しかし水200ミリリットルという現象は共通しています。現実です。
認識論的な意味での虚構は、人の思考における虚構性を指した言説です。思考は言葉を用いて行われますので言葉こそが虚構を生み出すといえます。例えるならば物語です。
「魚の足」「人間のひれ」 いずれも単語一つ一つとしては紛れもなく現実の存在ですが その組み合わせによっては虚構でしかありえない言説を生みます。
また「真」「善」「美」「悪」という価値に関わる言葉については言葉自身が虚構性を含蓄しています。
思うに「現実」は完全には認識され難いものであるけれども厳然と存在していることは言えると考えます。
また「現実」から「虚構」が生み出される点から 「虚構」は「現実」の一部であるといったほうがよいと考えます。
仏教で言うところの「色即是空 空即是色」般若経におけるの「空」がそのまま虚構の概念と同値とは考えられません。
「空」は存在の「現実性」とか「虚構性」とかに関わる言説ではなく
例えば般若心経では
…無明もなく無明の尽きることもない
老死もなく老死の尽きることもない
苦もなく苦の尽きることもなく苦の原因もなく苦がなくなることもなく苦をなくする道もない
教えを知ることもなく悟りを得ることもない
そのような世界の実相をして「空」と呼んでいます。
その上で心経はこの世界(現実)の実相が「空」であることをあるがままによく知りなさい。と説いていると ものの本意は書いてありました。虚構と絡めて論じられるべき内容ではないと思います。
とりとめもなくなり申し訳ありません。
この回答への補足
お礼欄に書いた次の部分を補足します。
>認識論とか、「空」論とか、理屈で考えるとこのようになってしまいます。残念です。
認識論のような理屈で考えるとこのように(良い展開なのに逆の結論に)なってしまいます。残念です。(「空」論の部分は削除します。この部分の指摘は、まったく正しいと思います。)ただし、「→違うと思います。」という結論が、ちょっと早いような気がします。
記入いただき、ありがとうございます。
認識論とか、「空」論とか、理屈で考えるとこのようになってしまいます。残念です。例示、例文に即して考察すると明晰に見えてくると思います。
>→東京ディズニーランド(浦安に存在する現実のもの)は、虚構(ディズニーアニメという現実のアニメ作品)の世界を(現実のアニメ画像の中に自分が入り込んでしまったかのような)体験ができる(現実の)遊園地である・・・そもそも現実の現象としての言説としてしか解釈できません・・・
ここの展開はすばらしいと思います。疑似体験の現実性を見事に見抜いています。
>また「現実」から「虚構」が生み出される点から 「虚構」は「現実」の一部であるといったほうがよいと考えます。
ここの記述もすばらしいと思います。虚構は現実の一部であると言えると僕も思います。では、現実が虚構の一部だと言える場合があるのかどうか。ここの考察を先入観に囚われずに、冷静に、素直に、広く見渡して、してみたいと思います。
No.14
- 回答日時:
「A(現実)がB(虚構)の一部であると考えていいでしょうか」という問いです。
答え; その通りです。
そうですね。例として「舞台劇」とそれを観賞する「観客」を例に取りましょう。「舞台劇」の俳優たちは演技を一生懸命やってます。これは俳優達にとっての仕事ですから現実ですねでも演技が終わり舞台の裏に戻れば俳優達は別の現実の姿になり、舞台劇の自分は虚構だといいます。「舞台劇」を見ている観客は、舞台劇自体を虚構と知りつつ楽しんでいます、これは現実ですね。でも一歩外に出ると現実の自信を発見します。でも、だれそれのだれべえで生きるのもせいぜい80年の人生ですね。人生そのものが舞台劇の一主人公でしかないことに気づきます。
このような見方をすると現実とは虚構の中の一部の認識意識でしかないということになるでしょう。
この回答への補足
お礼欄で「現実(人生)とは虚構(自分が主人公の舞台劇)のようなもの」と書きましたが、さらに飛躍すると、「この全宇宙の現実は、劇(虚構)の一部ではないのだろうか」という文学的な表現も可能なのかもしれませんね。もちろん、作者は創造主と想定せざるを得ないのでしょうが。証拠はありません。
補足日時:2008/08/13 13:53大変、興味深い例示で、参考になりました。
「舞台劇」という現実、俳優という仕事も現実
演技前後の現実(日常)と演技中の虚構(作品)表現者という現実
観客の虚構参加(疑似体験的参加、感情移入的参加)という現実
人生という舞台劇(比喩)の主人公
「現実(人生)とは虚構(自分が主人公の舞台劇)のようなもの」という表現が成立しそうです。
ありがとうございました。
No.15
- 回答日時:
>このような現実は、現実でありながら、虚構の現実化でもあり・・・
フィクションの世界を垣間見せるのは小説では余りにも当たり前のこと。
その際、作家は、その感覚・思考・感情・意志の心的活動を総動員しているでしょう。
が、その結果作り出されたフィクションは、あくまでも現実を加工した虚構でしょう。
で、このことをもって、「我々が垣間見る世界は小説の一部」と言うのは暴論。
で、このことをもって、「我々が生存する世界は小説の一部」と言うのは暴論。
単なる言葉遊びの類でしょう。
この回答への補足
No.3に続き、再度回答いただきまして、ありがとうございます。
評価いただいたとおり、設問自体が暴論だと僕も思うのです。
ただ、「東京ディズニーランドは、虚構の世界を体験できる遊園地である」と聞いたとき、大きな間違い表現とは言えないなと感じたわけです。
虚構(アニメ・映画など)も現実の一部であるし、虚構世界の疑似体験施設も現実にあるわけですから、「虚構は現実の一部である」は成立すると思います。もっと言えば、「虚構は現実である」となります。フィクションの一例として様々な小説が実在するのは、ご指摘のとおりですし、ここまではご同意いただけると思います。
では、「現実は虚構の一部であると言えるのでしょうか」は、破綻しているのでしょうか。
>「我々が垣間見る世界は小説の一部」と言うのは暴論。
>「我々が生存する世界は小説の一部」と言うのは暴論。
これらの表現は、まったく適正なのですが、
小説を読んで、私たちが垣間見た世界は、読みながら思い描いた時点で「虚構の現実体験」という現実になっていて、その虚構において傍観者として参加しているような錯覚を(現実体験として)楽しんでいるのではないかと思うわけです。場合によっては、主人公に感情移入して、疑似体験を(現実的に)楽しんでいるのです。そのとき、「(疑似体験しているという)現実は(その小説などの)虚構の一部(を擬似的に再現しながら、虚構として現実化しているの)であると言える」のではないかと思うわけです。
つまり、ある意味、破綻していないと思いますが、いかがでしょうか。
虚構は、現実に根を張っていると、だんだん確認できてきました。
ただ、あくまでも、根であって、それが本体ではなく、虚構本体の独自的な存在意義が重要だとも思いました。(8月17日午後)
ありがとうございました。
No.16
- 回答日時:
ほかの方にも分かるように、簡潔にお願いします。
とのことですが、僕の言ってることはフランスのポストモダニストの言ってることの受け売りです。交換の手法、イメージの変容などはとても簡単には言い表せません。
そのひとつのテーマだけで哲学者が一生をささげるテーマです。
デリダ、ボードリヤール、ドルゥーズ、フーコー、ちよっととんで、ハイデガー、ニーチェ、ベルクソン・
哲学カテなんで、近代哲学をすこしでも興味のある方なら、僕が回答したことの方向性くらいは理解していただけると思います。
わかりやすくいえば僕の回答はちょっとしたギミックです・面白くなかったですか?
僕は、ウィトゲンシュタインかぶれですので、デリダよりも一層、哲学解体的なのです。一生を捧げる哲学なんてないと思っています。それは、単なる哲学迷宮在住宣言のように聞こえます。哲学は単なる道具に過ぎず、目的は知的視界不良状況の解消の方にあると僕は思います。
「交換の手法、イメージの変容などはとても簡単には言い表せません。」は、敗北宣言なのでしょうか。それとも、分からずに書いているのでしょうか。企業経営者なのでしたら、責任ある発言に留意すべきと思いました。それとも、ギミック的な延長(精神構造)での記述なのでしょうか。できれば、簡潔に「交換の手法など」の質問部分に答えていただきたかったですが、残念です。今のところ、現実・虚構の関係を問う今回の設問に何も寄与していません。さようなら。
No.18
- 回答日時:
>ご回答ありがとうございます。
核心に近づいてきた予感がします。>
そうですかそれはよかったです。
>できれば、具体的な例示をお願いできますか。
抽象的な定義ではなく、あなたの「生きた表現」として。
たとえば、現実的には、ミッキーマウスは単なる着ぐるみに過ぎないけれども、虚構の中では、擬人的に振る舞い、大活躍する。これだと、定義いただいたことと、微妙に違うような気がするのですが・・・。>
例といいましてもありすぎてなにを出せばいいか迷いますね。
そうですね、ミッキーマウスが挙げられているのでそれで行きましょう。
ミッキーマウスの着ぐるみを着て動いているミッキーマウスがいます。
その存在を認識する前つまり感覚的に捉える事が出来ない次元を現実と定義し感覚に入ってきた段階から虚構とする場合虚構と現実は一切交わることはないわけです、そうなると現実は虚構の一部ではないですよね。では今度はこれを現実を感覚に入る前から感覚に入ってきて像として映っている映っているそのものとし、虚構を感覚的に入ってきて映っている像そのものから想像や認識までに至るまでとすると現実は虚構の一部となるわけです。つまり現実と虚構の境界線によって一部なのか一部でないのかが決まるという話です。
______ _______
| | |
| 現実 | 虚構 |こうなのか
|______|______|
_______
| __|______
| | | |
| 現実 | | 虚構 |こうなのか(大きさは関係ないよ)
| |_|______|
|______|
の違いだという話です。
>>現実=対象そのものであり知覚される前の段階
>虚構=意識に浮かび上がってきた対象や様相
に適合する例がありますでしょうか。
お手数かけますが、よろしくお願いします。>
これは簡単です。まず目を閉じてください。そうすると目の前のものがなくなりますよね、それが知覚される前です。そして目を開けてください。そうするとそれは対象として映りますよね、それが意識に浮かび上がってきた状態です。
No.8に続き、再度回答いただきまして、ありがとうございます。様々なアプローチが出てきて、うれしい限りです。現実を知覚前の何か外在的な存在と捉える視点がよく分かりました。また、自己の知覚している像を虚構と考えているわけですね。つまり、現実(外的知覚対象)、虚構(内的知覚像)と大雑把に解釈しました。誤解があれば、訂正してください。
そこで、この場合、現実と虚構は、上の図のように、境界が引かれるので、峻別されると考える方がよさそうです。よって、「現実は虚構の一部ではないですよね」は納得です。ただ、僕が設定した問いは、「東京ディズニーランドは、虚構の世界を体験できる遊園地であると言う人がいました。」と書きました。ここでは、虚構の世界を自己の知覚像の世界とは意味していないのです。自己の外部に存在するフィクション(漫画・アニメ、映画、演劇、小説など)を意味しています。そして、その意味で、現実と虚構の関係を展望したいと考えたわけです。
定義次第というのは、ごもっともですが、定義のヒントはすでに設問中にあったのです。それを否定して、新たな視点を導入し、その方向に設問を拡張していただいたことには感謝します。外堀横の出城的な役割はあったと思います。核心ではなかったようです。はやとちりでした。
No.19
- 回答日時:
いま一つ納得していらしゃらないようなので、書きますけど。
フィクションというのは「現実ではない」というものです。
なので現実の定義をどのように設定するかによってフィクションと重なる部分がでてくるのか出てこないのかの設定が可能になるはずです。
現実ではないのだから絶対重ならないではないかというかもしれませんが、現実というものの定義がフィクションをも重なっている場合それは現実と虚構が重なるということだろうと思います。なので現実をはじめに定義した段階でフィクションが現実も垣間見るということならフィクションは現実と重なる部分があるという表現も可能かと思います。
もうすこし辞書的にいうなら現象という話だろうと思います。その現象という次元に立ってみればフィクションと現実が重なるという判断もできるものだろうと感じます。なのでフィクションの定義と現実の定義によって重なったり重ならなかったりするわけです。
回答に
>虚構の世界を自己の知覚像の世界とは意味していないのです。自己の外部に存在するフィクション(漫画・アニメ、映画、演劇、小説など)を意味しています。そして、その意味で、現実と虚構の関係を展望したいと考えたわけです。>
と書かれていたので答えてみたいと思います。
これも正直な話外界の物理的現象はやはり現実と考えるのが常だと思います。
しかし構成としては確かに非現実的です。そうなれば話は簡単です。構成する仕組みを解けばいい話になります。その構成を感じているのは感覚なのでわれわれ人間という話になります。そうすると現実を現実と感じるのか非現実と感じるのかの違いという話になります。なのでフィクションの定義を非現実的に感じるものと限定するならそれはフィクションです。もしディズニーランドにいって非現実的な感じがすればそれはフィクションです。ただそのなかに現実だなと感じることがあればそれは現実という話なのだと思いますね。
もしフィクションが人間によって作られたキャラクターストーリーと定義するならディズニーランドは現実を材料にしたフィクションということになると思います。
一つ前のNo.18の回答中で記載していただいた、下の方の図のような関係ですと、純粋な現実(A)、現実かつ虚構(B)、純粋な虚構(C)、現実でも虚構でもないこと(D)の4領域に分割できるでしょう。
>もしディズニーランドにいって非現実的な感じがすればそれはフィクションです。ただそのなかに現実だなと感じることがあればそれは現実という話なのだと思いますね。もしフィクションが人間によって作られたキャラクターストーリーと定義するならディズニーランドは現実を材料にしたフィクションということになると思います。
非現実は、(C)と(D)の領域です。
現実は、(A)と(B)の領域です。
しかし、ディズニーランドのような「現実を材料にしたフィクション」(逆?フィクションを材料にした現実)において、非現実的な印象も現実的な印象も、(B)の領域のみでしか成立し得ないのではないか。
(B)の領域であるならば、現実は虚構であると言えるのではないか。
このように解釈させていただきました。ありがとうございます。
No.20
- 回答日時:
色即是空:「この世の万物は形をもつが、その形は仮のもので、本質は空であり、不変のものではないという意。
」<岩波国語辞典第4版より> ということは、やはり、存在はすなわち虚構であると言っていいと思いますが?(他の回答者のかたへも)>共有されているかどうか問いません。
もし、真に客観的な現実があるのなら、だれにでも同じに感じられる(共有できる)現実があるだろうという意味です。しかしそのようなものは厳密には以下の理由からないのです。
>変化し続け、一時たりとも確定しないもの、たとえば「雲」は虚構でしょうか。単なる現象(現実)だと思うのですが・・・。
もしなにかの現実があったとしても、我々はその現実をたとえば目などの五感などを用いて脳で認識します(=現象)。この時点ですでに脳での情報処理が起こっており、その現実が変質している(とくに記憶が個人によって違う)と私は考えます。たとえば、雲の見え方は気象の専門家や画家、一般人で捉え方がかなり違っているだろうと考えます。また、個人の現象=一般の現実ではないのです。
別の言い方では、我々はしばしば「勝手に現実を仮定してしまう」が、脳科学的にも上の理由から客観的な現実は存在しないのです。仏教の根本教義においても、色即是空なのです。
そして、驚くべきことに現代物理学の量子力学の世界でも、運動量と位置は同時に正確に測定できないのです。
この回答への補足
空=虚構との思い込みがあるようですが、虚構=つくりもの、創作作品というようなニュアンスで設定していますので、空だと想定外です。ちなみに、万物の本質(空)が、「不変のものではない」とは、量子力学の例のとおり、電子が確率的な位置でしか示せなかったり、固定した不変の実体が幻想であるということを意味しているわけで、フィクションなのだと言いたいわけではないと思います。ちょっと、言語感覚的にずれた印象を持ちます。ウランが崩壊して鉛になるように、変化する現象が空のイメージだと思います。雲も変化する現象の例です。
>真に客観的な現実があるのなら、
ここもずれてます。「客観的な現実」に限定して考察していません。主観的でもいいのです。むしろ、主観・客観を問題にしていません。ですから、認識問題は、メインのテーマではありませんし、「捉え方がかなり違っているだろうと考えます。」はそのとおりでいいですし、ミッキーマウスなどに対する印象は千差万別の捉え方でいいのです。
ところで、「雲」は虚構なのですか。空と虚構の違いが、見えてきましたか。主題は、現実と虚構の関係です。虚構と空のような対比的な例で、一層、虚構のニュアンスが鮮明化できたという効果はあったと思います。
般若経の「空」では、「色」(万物、現象)が「空」であり、次に、知覚(五感)や認識なども「空」だとしています。
色即是空 空即是色 の前は、色不異空 空不異色 なので、「実体がないとはいえ、空は物質的な現象を離れてはいないし、また、物質的な現象は、実体がないことを離れて、物質的な現象であるのではない。」とあり、現象(色)の方に強く関連していると分かります。
そして、五蘊も、六根も、六境も、六識もないと進み、小乗的な存在論も認識論も否定していくわけです。ゆえに、「有」で捉えず、「空」と捉えるように諭しています。
ですから、「空」は、現実(全宇宙、現象、知覚)も虚構(つくりもの、創作作品、構想、想念)も、さらには、「現実でも虚構でもない不可知の領域」まで及ぶのではないかとさえ思われるのです。
回答者さんの「知覚像の認識」は、よく考えると、現実と虚構の区別では、現実の方に分類できると考えます。僕も虚構の方かなと勘違いしていたいたようです。想像・想念は、虚構です。ただ、心とかイメージは分類不能かもしれません。
このように見てくると、「空」は虚構であるという思い込みに気付いて、納得いただけると思うのですが、いかがでしょうか。
そして、「空」の広がりは、人知を超えて、記述不可能な領域にまで至って完成するのではないかという予感があります。そこが、悟りの境地であろうと思うのです。ですから、これ以上、触れないこととしたいと思います。
「理性の限界内の『般若心経』」黒崎宏 春秋社 2007年 参照
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