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現実は、虚構であるのでしょうか?

たとえば、東京ディズニーランドは、虚構の世界を体験できる遊園地であると言う人がいました。虚構を体験できるという現実があるのであれば、現実であっても、虚構に含まれた集合関係のような位置付けができるのでしょうか。つまり、「現実は虚構の一部であると言えるのでしょうか」という問いです。

一般的に、AがBであると言うとき、AよりもBの領域の方が広く、AがBの一部である関係が成り立っていると思います。ですから、質問は、繰り返しになりますが、「A(現実)がB(虚構)の一部であると考えていいでしょうか」という問いです。

あなたが、思いつく虚構の例を示して、できるだけ具体的なイメージを描くように、そして無駄な記述を省き、簡潔に、教えてください。

A 回答 (34件中11~20件)

 No.22です。



 そうですね。
 ★ 虚構のオリジナリティー(独創性)を尊重すれば、基礎的な現実探しよりも、虚構(作品)そのものを現実として位置付けるという意味で現実を捉えるべきではないかと思いました。
 ☆ とおっしゃるとき わたしの場合は
 ○ 《虚構 そして 特にオリジナリティー(独創性)のある虚構》を生み出す人間もしくはその能力 
 ☆ これを 現実として捉えていました。そのときには ペガサスや麒麟に対応する基礎がなくても かまわないと思っていました。
 となると 落ち着くところは 定義の問題ということになりますでしょうか。

この回答への補足

No.14のやりとりが、いつぞやの「劇」の説明として代用できるかもしれません。単なる演劇ではなく、もっと普遍的な何かを意味させたいという言語使用感覚を込めています。蛇足でした。

補足日時:2008/08/13 14:17
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この回答へのお礼

なるほど、創造能力こそ、オリジナリティー(独創性)のある虚構(作品あるいは単なる思い付き段階の構想でも)の現実的に明らかな基礎となっていると言えそうですね。

「現実(想像力・創造力)は、虚構(作品又は構想)の一部である」という表現は、成立しそうですね。

ありがとうございました。

お礼日時:2008/08/13 13:47

なるほど、おおくの哲学的議論にあるように結局、定義づけに戻ってしまいますね。



>空=虚構との思い込みがあるようですが、虚構=つくりもの、創作作品というようなニュアンスで設定していますので、空だと想定外です。

定義として排除するというのでしたら、それで結構です。「現実は、虚構であるのでしょうか」は「現実は、たとえばディズニーのような創作作品であるのでしょうか」となります。虚構の一般的な意味からはかなりはずれた感じで、最初の質問に不適切な点があったと思います。(それで結構です。)

#21の補足>認識論は、哲学の迷宮の入り口で出口のない暇つぶしと思っていますので、扱いたくありません。

私も#21の方のように、「要するに頭の中に存在するものは全て虚構(=ディズニーのとある作品、でも私は良い)と言えるのではないですか。」という意見です。ヒトは認識によって外界(現実)を把握するのですから、認識論なしにこの話は議論できないだろうと思います。

>ちなみに、万物の本質(空)が、「不変のものではない」とは、量子力学の例のとおり、電子が確率的な位置でしか示せなかったり、固定した不変の実体が幻想であるということを意味しているわけで、フィクションなのだと言いたいわけではないと思います。

その位置に粒子がなかったとすれば、その位置のその存在はフィクションといえるのです。量子力学は観測者の測定の概念が重要です。これは実は「現実をどう測定できるか」という認識論に他ならないのです。認識論を無視したい、棚上げしたいというなら、こういった科学的なことまで無視することになるのです。

>ところで、「雲」は虚構なのですか。空と虚構の違いが、見えてきましたか。主題は、現実と虚構の関係です。

繰り返しますが、認識論なしにこの話はうまく議論できないだろうと思います。認識論は棚上げということでしたら、私のコメントは、最初の問いは原理的にあまり意味がないだろうということです。(なぜならヒトは認識によって現実を把握するのですから。)虚構に関してはここで恣意的に定義しなおされているに過ぎません。(認識論的には、認識された「雲」はディズニーのとある創作物のような空想されたものです。個人個人の頭の中でおそらく千差万別のかたちで存在するからです。)

この回答への補足

「空」ではなく、「虚構」について、考察したいのです。
「認識」は大事ですが、「認識論」はいりません。

>認識論なしにこの話は議論できないだろうと思います。

議論できます。認識論なしに、ほとんどの人は認識を習得して日常生活しています。なんら問題ありません。設定も日常会話程度です。

>「現実は、虚構であるのでしょうか」は「現実は、たとえばディズニーのような創作作品であるのでしょうか」となります。

なりません。矮小化してます。言いがかりです。「現実の一部は、たとえばディズニーのような創作作品であるのでしょうか」ならば、理解できます。たぶん、その創作作品は現実ですから、「そのとおりです」と答えます。

>その位置に粒子がなかったとすれば、その位置のその存在はフィクションといえるのです。

まず、粒子観自体が想定概念ですから、フィクションと言えばフィクションですが、それは「物理現象そのもの」ではなく、「物理現象の説明」がフィクションなだけだと思いますが。この違いを分かってください。

>認識論を無視したい、棚上げしたいというなら、こういった科学的なことまで無視することになるのです。

科学を必要としているのは、「空」の説明をしたい回答者さんの方だけで、僕は今ここでは必ずしも必要ないけれども、少しだけお付き合いしたまでです。科学を無視したいわけではないですよ。

>(認識論的には、認識された「雲」はディズニーのとある創作物のような空想されたものです。個人個人の頭の中でおそらく千差万別のかたちで存在するからです。)

「雲そのもの」と「雲の知覚像」の区別ができていないので、話が混乱しているのです。分かってください。

補足日時:2008/08/13 11:17
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この回答へのお礼

No.20のお礼欄に書いたとおり

>回答者さんの「知覚像の認識」は、よく考えると、現実と虚構の区別では、現実の方に分類できると考えます。僕も虚構の方かなと勘違いしていたようです。

ゆえに、No.27の補足欄、お礼欄の一部は、正確には、内容として無効です。そこを訂正すれば、おおよその方向に誤りはありません。

お礼日時:2008/08/15 09:52

 質問趣旨を読んだとき 定義の問題だと思いました。


 その後 質疑応答が続いていて いろんな角度から考えなければいけないのかなと思ったりしました。熱心な読者ではなかったですが あらためて はじめの考えで 回答を寄せます。

 1.《東京ディズニーランド》を企画し 青写真を描いたその想像物は 《虚構》として成り立った《現実》です。
 2.実際の構築物として 時空間にかたちを表わした虚構は 現実です。
 3.その実際の場で 《虚構の世界を体験できる》と感じるのは その当人の感覚や感想としての現実です。
 4.したがって 《虚構を体験できるという現実がある〔のであれば〕》という文(=認識・判断)は 《その当人にとって》という前提に立ってのことです。
 5. したがって その(4)の例によって 《現実であっても、虚構に含まれた集合関係のような位置付けができるのでしょうか》という問いに対して 肯定の答えをするのは むつかしいと思います。必ずしも 一般的ではありません。
 〔6.多数の人が 共感するという場合でも おそらく 偶有的な事態であるでしょう。その意味は 知覚による感想とその認識が 一人を除いてすべての人に 共通であるとしても その一人の例外は 重要だと思います。言いかえると 他のすべての人びとも 別の機会には 別の感想を持つ可能性があるということではないでしょうか。どちらでもありうる。〕
 7.ただし  《「現実は虚構の一部であると言えるのでしょうか」という問い》一般に対しては (1)と(2)の認識が 答えを用意すると思います。はじめは 青写真として虚構であったとしますと 一般に《虚構の一部として または 将来にわたって描かれ得る虚構の一部として 現実がある》と言えば言える視点が成り立つのではないでしょうか。
 8. あるいは 別の視点として もっと単純に 《あたまに虚構を思い浮かべている場合 その虚構を抱いているという事態は つねに 現実である》となります。
 9.しかしながら しいて言えば すべては 《存在》がなくては始まらない。つまり 《存在》が先であるでしょうから その時空間を占める人間存在としての《現実》が 基礎であるように考えます。そこから 虚構を わたしたちは 自由に・正当にも 持ちます。
 10.従いまして 《現実は、虚構であるのでしょうか?》の問いや 《「A(現実)がB(虚構)の一部であると考えていいでしょうか」という問い》に対して 然りと答える場合というのは 一般に 文学的表現であると考えます。《現実》を基礎に位置づけたほうが 妥当だという見解に傾きます。
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この回答へのお礼

大変、有意義な回答をいただきまして、ありがとうございます。
緻密な分析に敬意を表します。

青写真が、虚構であり、かつ、現実であるという指摘(例示)は、なるほどと思いました。青写真が具現化した構築物(あるいはそこで提供されるサービスも含めて)も、作品として虚構であり、かつ、現実であるというように理解しました。

また、回答5の指摘どおり、一般的ではないと思います。
同時に、回答7の指摘も納得です。
さらに、回答8では、虚構と現実が同時に存在しているイメージを持ちました。表裏一体という感じです。
ただ、回答9で、現実が基礎で(存在が先で)それから、虚構を持つという点には、すぐに同意できないのです。ミッキーマウスの場合、本当に、ねずみが基礎なのかと疑うわけです。基礎などないのではないかとさえ思います。ドラゴンの基礎は何か。ペガサスの基礎は何か。擬人化し、あるいは、翼がつくその発想(虚構化)は、基礎(存在)探しに還元し得ない創造性の方を重視すべきではないかと思うわけです。ですから、「《現実》を基礎に位置づけたほうが 妥当だという見解」ではなく、虚構のオリジナリティー(独創性)を尊重すれば、基礎的な現実探しよりも、虚構(作品)そのものを現実として位置付けるという意味で現実を捉えるべきではないかと思いました。

つまり、回答8のとおり、虚構が現実として同時に存在している感じです。そのような意味の現実は、虚構の一部と言えるかもしれないと思えるのです。文学的です。

お礼日時:2008/08/13 11:12

現実の定義は抜きにして現実そのものと現実に対する認識を区別したらどうでしょうか。

要するに頭の中に存在するものは全て虚構と言えるのではないですか。

この回答への補足

>頭の中に存在するもの

とは、物質たる脳みそでななく、想念とか思索・思弁とか空想とかのことを言いたいのでしょうが、これらが虚構ではないのです。これらの成果・産物が虚構なのです。設問の「虚構の世界を体験できる遊園地」が言語的に誤用でないならば、社会的に通用するならば、ここで言う虚構は「ディズニーアニメ」などを意味していると分かるはずなのですが・・・。

そして、認識論は、主題ではありません。もっとはっきり言えば、認識論は、哲学の迷宮の入り口で出口のない暇つぶしと思っていますので、扱いたくありません。

補足日時:2008/08/13 08:42
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この回答へのお礼

想念とか思索・思弁とか空想とかも、虚構に含めてもいいようですので、訂正してお詫びします。作品限定ではなく、構想だけでもいいと思えてきました。少し、フィクションの範囲を拡大します。そのきっかけは、この回答に補足する中から導かれました。ありがとうございました。

お礼日時:2008/08/13 14:08

色即是空:「この世の万物は形をもつが、その形は仮のもので、本質は空であり、不変のものではないという意。

」<岩波国語辞典第4版より> ということは、やはり、存在はすなわち虚構であると言っていいと思いますが?(他の回答者のかたへも)

>共有されているかどうか問いません。

もし、真に客観的な現実があるのなら、だれにでも同じに感じられる(共有できる)現実があるだろうという意味です。しかしそのようなものは厳密には以下の理由からないのです。

>変化し続け、一時たりとも確定しないもの、たとえば「雲」は虚構でしょうか。単なる現象(現実)だと思うのですが・・・。

もしなにかの現実があったとしても、我々はその現実をたとえば目などの五感などを用いて脳で認識します(=現象)。この時点ですでに脳での情報処理が起こっており、その現実が変質している(とくに記憶が個人によって違う)と私は考えます。たとえば、雲の見え方は気象の専門家や画家、一般人で捉え方がかなり違っているだろうと考えます。また、個人の現象=一般の現実ではないのです。

別の言い方では、我々はしばしば「勝手に現実を仮定してしまう」が、脳科学的にも上の理由から客観的な現実は存在しないのです。仏教の根本教義においても、色即是空なのです。

そして、驚くべきことに現代物理学の量子力学の世界でも、運動量と位置は同時に正確に測定できないのです。

この回答への補足

空=虚構との思い込みがあるようですが、虚構=つくりもの、創作作品というようなニュアンスで設定していますので、空だと想定外です。ちなみに、万物の本質(空)が、「不変のものではない」とは、量子力学の例のとおり、電子が確率的な位置でしか示せなかったり、固定した不変の実体が幻想であるということを意味しているわけで、フィクションなのだと言いたいわけではないと思います。ちょっと、言語感覚的にずれた印象を持ちます。ウランが崩壊して鉛になるように、変化する現象が空のイメージだと思います。雲も変化する現象の例です。

>真に客観的な現実があるのなら、

ここもずれてます。「客観的な現実」に限定して考察していません。主観的でもいいのです。むしろ、主観・客観を問題にしていません。ですから、認識問題は、メインのテーマではありませんし、「捉え方がかなり違っているだろうと考えます。」はそのとおりでいいですし、ミッキーマウスなどに対する印象は千差万別の捉え方でいいのです。

ところで、「雲」は虚構なのですか。空と虚構の違いが、見えてきましたか。主題は、現実と虚構の関係です。虚構と空のような対比的な例で、一層、虚構のニュアンスが鮮明化できたという効果はあったと思います。

補足日時:2008/08/13 08:39
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この回答へのお礼

般若経の「空」では、「色」(万物、現象)が「空」であり、次に、知覚(五感)や認識なども「空」だとしています。

色即是空 空即是色 の前は、色不異空 空不異色 なので、「実体がないとはいえ、空は物質的な現象を離れてはいないし、また、物質的な現象は、実体がないことを離れて、物質的な現象であるのではない。」とあり、現象(色)の方に強く関連していると分かります。

そして、五蘊も、六根も、六境も、六識もないと進み、小乗的な存在論も認識論も否定していくわけです。ゆえに、「有」で捉えず、「空」と捉えるように諭しています。

ですから、「空」は、現実(全宇宙、現象、知覚)も虚構(つくりもの、創作作品、構想、想念)も、さらには、「現実でも虚構でもない不可知の領域」まで及ぶのではないかとさえ思われるのです。

回答者さんの「知覚像の認識」は、よく考えると、現実と虚構の区別では、現実の方に分類できると考えます。僕も虚構の方かなと勘違いしていたいたようです。想像・想念は、虚構です。ただ、心とかイメージは分類不能かもしれません。

このように見てくると、「空」は虚構であるという思い込みに気付いて、納得いただけると思うのですが、いかがでしょうか。

そして、「空」の広がりは、人知を超えて、記述不可能な領域にまで至って完成するのではないかという予感があります。そこが、悟りの境地であろうと思うのです。ですから、これ以上、触れないこととしたいと思います。

「理性の限界内の『般若心経』」黒崎宏 春秋社 2007年 参照

お礼日時:2008/08/15 09:22

いま一つ納得していらしゃらないようなので、書きますけど。


フィクションというのは「現実ではない」というものです。
なので現実の定義をどのように設定するかによってフィクションと重なる部分がでてくるのか出てこないのかの設定が可能になるはずです。
現実ではないのだから絶対重ならないではないかというかもしれませんが、現実というものの定義がフィクションをも重なっている場合それは現実と虚構が重なるということだろうと思います。なので現実をはじめに定義した段階でフィクションが現実も垣間見るということならフィクションは現実と重なる部分があるという表現も可能かと思います。
もうすこし辞書的にいうなら現象という話だろうと思います。その現象という次元に立ってみればフィクションと現実が重なるという判断もできるものだろうと感じます。なのでフィクションの定義と現実の定義によって重なったり重ならなかったりするわけです。

回答に
>虚構の世界を自己の知覚像の世界とは意味していないのです。自己の外部に存在するフィクション(漫画・アニメ、映画、演劇、小説など)を意味しています。そして、その意味で、現実と虚構の関係を展望したいと考えたわけです。>
と書かれていたので答えてみたいと思います。
これも正直な話外界の物理的現象はやはり現実と考えるのが常だと思います。
しかし構成としては確かに非現実的です。そうなれば話は簡単です。構成する仕組みを解けばいい話になります。その構成を感じているのは感覚なのでわれわれ人間という話になります。そうすると現実を現実と感じるのか非現実と感じるのかの違いという話になります。なのでフィクションの定義を非現実的に感じるものと限定するならそれはフィクションです。もしディズニーランドにいって非現実的な感じがすればそれはフィクションです。ただそのなかに現実だなと感じることがあればそれは現実という話なのだと思いますね。
もしフィクションが人間によって作られたキャラクターストーリーと定義するならディズニーランドは現実を材料にしたフィクションということになると思います。
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この回答へのお礼

一つ前のNo.18の回答中で記載していただいた、下の方の図のような関係ですと、純粋な現実(A)、現実かつ虚構(B)、純粋な虚構(C)、現実でも虚構でもないこと(D)の4領域に分割できるでしょう。

>もしディズニーランドにいって非現実的な感じがすればそれはフィクションです。ただそのなかに現実だなと感じることがあればそれは現実という話なのだと思いますね。もしフィクションが人間によって作られたキャラクターストーリーと定義するならディズニーランドは現実を材料にしたフィクションということになると思います。

非現実は、(C)と(D)の領域です。
現実は、(A)と(B)の領域です。
しかし、ディズニーランドのような「現実を材料にしたフィクション」(逆?フィクションを材料にした現実)において、非現実的な印象も現実的な印象も、(B)の領域のみでしか成立し得ないのではないか。
(B)の領域であるならば、現実は虚構であると言えるのではないか。

このように解釈させていただきました。ありがとうございます。

お礼日時:2008/08/12 21:35

>ご回答ありがとうございます。


核心に近づいてきた予感がします。>

そうですかそれはよかったです。

>できれば、具体的な例示をお願いできますか。
抽象的な定義ではなく、あなたの「生きた表現」として。
たとえば、現実的には、ミッキーマウスは単なる着ぐるみに過ぎないけれども、虚構の中では、擬人的に振る舞い、大活躍する。これだと、定義いただいたことと、微妙に違うような気がするのですが・・・。>

例といいましてもありすぎてなにを出せばいいか迷いますね。
そうですね、ミッキーマウスが挙げられているのでそれで行きましょう。
ミッキーマウスの着ぐるみを着て動いているミッキーマウスがいます。
その存在を認識する前つまり感覚的に捉える事が出来ない次元を現実と定義し感覚に入ってきた段階から虚構とする場合虚構と現実は一切交わることはないわけです、そうなると現実は虚構の一部ではないですよね。では今度はこれを現実を感覚に入る前から感覚に入ってきて像として映っている映っているそのものとし、虚構を感覚的に入ってきて映っている像そのものから想像や認識までに至るまでとすると現実は虚構の一部となるわけです。つまり現実と虚構の境界線によって一部なのか一部でないのかが決まるという話です。
 ______ _______
|         |          |
|  現実    |   虚構    |こうなのか
|______|______|

 _______
|       __|______
|      |  |         |
|  現実 |  |  虚構    |こうなのか(大きさは関係ないよ)
|      |_|______|
|______|

の違いだという話です。

>>現実=対象そのものであり知覚される前の段階
>虚構=意識に浮かび上がってきた対象や様相
に適合する例がありますでしょうか。
お手数かけますが、よろしくお願いします。>

これは簡単です。まず目を閉じてください。そうすると目の前のものがなくなりますよね、それが知覚される前です。そして目を開けてください。そうするとそれは対象として映りますよね、それが意識に浮かび上がってきた状態です。

この回答への補足

もしかして、虚構と虚像の混同があるのでしょうか?

補足日時:2008/08/12 17:18
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この回答へのお礼

No.8に続き、再度回答いただきまして、ありがとうございます。様々なアプローチが出てきて、うれしい限りです。現実を知覚前の何か外在的な存在と捉える視点がよく分かりました。また、自己の知覚している像を虚構と考えているわけですね。つまり、現実(外的知覚対象)、虚構(内的知覚像)と大雑把に解釈しました。誤解があれば、訂正してください。

そこで、この場合、現実と虚構は、上の図のように、境界が引かれるので、峻別されると考える方がよさそうです。よって、「現実は虚構の一部ではないですよね」は納得です。ただ、僕が設定した問いは、「東京ディズニーランドは、虚構の世界を体験できる遊園地であると言う人がいました。」と書きました。ここでは、虚構の世界を自己の知覚像の世界とは意味していないのです。自己の外部に存在するフィクション(漫画・アニメ、映画、演劇、小説など)を意味しています。そして、その意味で、現実と虚構の関係を展望したいと考えたわけです。

定義次第というのは、ごもっともですが、定義のヒントはすでに設問中にあったのです。それを否定して、新たな視点を導入し、その方向に設問を拡張していただいたことには感謝します。外堀横の出城的な役割はあったと思います。核心ではなかったようです。はやとちりでした。

お礼日時:2008/08/12 15:18

>実は、自己の虚構性や認識論は、主題ではないのです。



 そうでしたか。私も誤解していました。失礼しました。
 
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ほかの方にも分かるように、簡潔にお願いします。


とのことですが、僕の言ってることはフランスのポストモダニストの言ってることの受け売りです。交換の手法、イメージの変容などはとても簡単には言い表せません。

そのひとつのテーマだけで哲学者が一生をささげるテーマです。



デリダ、ボードリヤール、ドルゥーズ、フーコー、ちよっととんで、ハイデガー、ニーチェ、ベルクソン・

哲学カテなんで、近代哲学をすこしでも興味のある方なら、僕が回答したことの方向性くらいは理解していただけると思います。

わかりやすくいえば僕の回答はちょっとしたギミックです・面白くなかったですか?
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この回答へのお礼

僕は、ウィトゲンシュタインかぶれですので、デリダよりも一層、哲学解体的なのです。一生を捧げる哲学なんてないと思っています。それは、単なる哲学迷宮在住宣言のように聞こえます。哲学は単なる道具に過ぎず、目的は知的視界不良状況の解消の方にあると僕は思います。

「交換の手法、イメージの変容などはとても簡単には言い表せません。」は、敗北宣言なのでしょうか。それとも、分からずに書いているのでしょうか。企業経営者なのでしたら、責任ある発言に留意すべきと思いました。それとも、ギミック的な延長(精神構造)での記述なのでしょうか。できれば、簡潔に「交換の手法など」の質問部分に答えていただきたかったですが、残念です。今のところ、現実・虚構の関係を問う今回の設問に何も寄与していません。さようなら。

お礼日時:2008/08/12 12:21

>このような現実は、現実でありながら、虚構の現実化でもあり・・・



フィクションの世界を垣間見せるのは小説では余りにも当たり前のこと。
その際、作家は、その感覚・思考・感情・意志の心的活動を総動員しているでしょう。
が、その結果作り出されたフィクションは、あくまでも現実を加工した虚構でしょう。

で、このことをもって、「我々が垣間見る世界は小説の一部」と言うのは暴論。
で、このことをもって、「我々が生存する世界は小説の一部」と言うのは暴論。
単なる言葉遊びの類でしょう。

この回答への補足

No.3に続き、再度回答いただきまして、ありがとうございます。
評価いただいたとおり、設問自体が暴論だと僕も思うのです。
ただ、「東京ディズニーランドは、虚構の世界を体験できる遊園地である」と聞いたとき、大きな間違い表現とは言えないなと感じたわけです。

虚構(アニメ・映画など)も現実の一部であるし、虚構世界の疑似体験施設も現実にあるわけですから、「虚構は現実の一部である」は成立すると思います。もっと言えば、「虚構は現実である」となります。フィクションの一例として様々な小説が実在するのは、ご指摘のとおりですし、ここまではご同意いただけると思います。

では、「現実は虚構の一部であると言えるのでしょうか」は、破綻しているのでしょうか。

>「我々が垣間見る世界は小説の一部」と言うのは暴論。
>「我々が生存する世界は小説の一部」と言うのは暴論。

これらの表現は、まったく適正なのですが、
小説を読んで、私たちが垣間見た世界は、読みながら思い描いた時点で「虚構の現実体験」という現実になっていて、その虚構において傍観者として参加しているような錯覚を(現実体験として)楽しんでいるのではないかと思うわけです。場合によっては、主人公に感情移入して、疑似体験を(現実的に)楽しんでいるのです。そのとき、「(疑似体験しているという)現実は(その小説などの)虚構の一部(を擬似的に再現しながら、虚構として現実化しているの)であると言える」のではないかと思うわけです。
つまり、ある意味、破綻していないと思いますが、いかがでしょうか。

補足日時:2008/08/12 10:23
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この回答へのお礼

虚構は、現実に根を張っていると、だんだん確認できてきました。
ただ、あくまでも、根であって、それが本体ではなく、虚構本体の独自的な存在意義が重要だとも思いました。(8月17日午後)

ありがとうございました。

お礼日時:2008/08/17 15:25

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