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デカルトの思想「我思うゆえに我あり」によれば
本当に正しく、真理だと言えるのはこの「私がこうして思っていること」だけだそうですね。
更に言えば、私のこの手足や顔だって本当に存在しているか分からないらしいですね。そして、学問や数学ならOKだろうと思いきや、これら全て無根拠だそうですね。1+1=2が正しいかどうかさえ・・・。
(方法序説で読みました。)

すなわち、

真理の追求だ!とかいって永い間、人々が頑張ってきた学問も・・・
宇宙の謎が解けた!と喜んでいた物理学者の努力も・・・
心から愛していたあの人も・・・

全ては無根拠であり、何の論理の裏打ちもないってことですね。

世間知らずの僕はこの事実を知った日、雷を打たれたようにショックを受け、空虚な気分になりました。しかし、少し世間に目をやれば、全くそんなことを気にせずに人々は生きているように感じるのです。
ここでクエスチョンです。

・なぜ、人々はそんなに平然と生きているんですか?
・それとも、以上の僕のデカルト思想の解釈がおかしいのですか?(一応、解説書などを参考にしたのですが)
・それとも、デカルト思想がおかしいのですか?
・それとも、人々はデカルト思想を容認し、それを覚悟し、十字架を背負って生きている「覚悟の人々」なのでしょうか?

まだ社会人にもなっていない僕には全然分かりません。教えてください、m(_ _)m

A 回答 (13件中1~10件)

根拠がないからといって信用できないわけではないです。


世界が1秒後に消えてなくならないという根拠はありませんが
そんなことは起こるわけがないと誰もが思うでしょう。

現在世の中にある常識や物理法則なんかもそうです。
今のところ過去の事例は全てそれらで説明が付いているのです。だから私もそれらを信じています。
それにもし例外が出てきたのならそのときにまた考え直せばいいだけです。

また、見るもの全てが嘘だったとしてもそれはそれでかまわないと思います。
たとえ私が実は1秒前までは存在しておらず、記憶が今さっき何者かに与えられたばかりなのだとしても
食べ物が美味しければそれでいいです。好きなことをやって楽しくなれればそれでいいです。

別に十字架を背負う必要はありません。多分背負うほど重いものでもないからです。
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 根拠があろうとなかろうと、今生きる以外に何もできないからね。

できないことに思い悩んだってしょうがない。
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 西欧欧米の知的演繹、代数計算の操作が遊びであり、虚構の中のものでしかないのです。


 デカルトもちろん、然り。
 「我思うゆえに我あり」の我は行為し、思惟し、感覚している意識末端、結果があるに過ぎず、存在、主格者、そうさせている原因者、基盤、そして価値理念のことに小指のつめの先もふれることはできていないのです。
 これにより出発することは、無意味なことです。
 単なる思惟という行為をしている思惟の内容と結果があるということにすぎないのではないでしょうか?
 そうさせている、そこに到っているものに透徹してなる、帰る、ということをしないで、頭が把握したものを基本とするのはおかしいと存じます。
 それでは頭はどうなんですか?いえもちろん、物質として首の上に繋がっている頭のことも、その中の脳みそのことも、その働きも、ここで私がいっている頭のことではないですがね。
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デカルト曰く「私以外の全ては無根拠」が正しいとすれば、


他人からみればデカルトの存在も無根拠。
そんな人のいうことを素直に信じるほうがおかしいのでは。
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その、デカルトと言う人、1+1がなんだかも分からない


ボンクラらしいので、教えてあげましょ。1+1は2ですよ。

1というのは単位です
例えば2+2=4のように
2は1が二つ集まっててそれが二つと二つを足すから4なんだよ
というように1は単位です
a+a=2aのように同じ単位なら計算ができます
しかし
みかんが一つ、みかんの皮をむいてでてきた実が3つだとすると
この足し算はできません
この場合
(1)a+3bとなるので
同じ単位どうしで足し算をするということは絶対条件であり
1+1は互いに同じ単位ということで問題は出されているので
1+1=2になります
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 認識の主体について こういう議論が出来るかと思います。



 アウグスティヌスの《われ あやまつならば われ有り》から デカルトが 《われ考える ゆえに われ有り》を導き出したことには 独自性があると パスカルが 議論しているところです。主体のあり方がどうであるかの問題です。
 ▲ ______________________
  わたしは公正な人々に尋ねたい――とパスカルは言う―― 《物質は自然にかつ絶対に 思考する能力を持たない》という原理と 《わたしは思考する ゆえに わたしは存在する》というそれとは 果たしてデカルトの精神においてと 同じことを千二百年前に言った聖アウグスティヌスの精神においてと 同一であろうか。
(パスカル:《幾何学の精神について》2.1657)
__________________________
 パスカルは デカルトの《コギト エルゴ スム》という《原理》は アウグスティヌスの《われあやまつなら われ有り(われ欺かれるなら われ有り。 Si fallor, sum. )》の焼き直しであるが 独自性があると言おうとしています。
 アウグスティヌスの語るところは たとえば次のようである。
 ● ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 だから 精神は自己自身をよく知るようにという命令を聞くとき 自己自身をよく知ることに何ものも付加してはならない。
 ・・・だから精神は 知解力が存在し 生きるように 自己が存在し 生きることを知っている。だから 例えば 精神が自己を空気であると思いなすとき 空気が知解すると思いなすのである。しかも 精神は自己が知解することを知っている。精神は自己について思いなしているものを分離せよ。自己について知っているものを認めよ。

  * 念のために この点についてのデカルトの文章です。
   ◆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  そして最後に われわれが目覚めているときにもつすべての思想
 がそのまま われわれが眠っているときにも またわれわれに現われ
 うるのであり しかもこの場合はそれら思想のどれも 真であるとは
 いわれない ということを考えて 私は それまでに私の精神に入り
 きたったすべてのものは 私の夢の幻想と同様に 真ならぬものであ
 る と仮想しようと決心した。
    (方法序説 4)
   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 それにも拘らず すべての精神は自らが知解し 存在し 生きていることを知っている。しかし精神は知解することをその知解するものに関係づけ 存在することと生きることを自己自身に関係づける。

 さて 生きていないものは知解しないし 存在しないものは生きていないことを誰も疑わない。

  * この点をデカルトは 《物質は自然にかつ絶対に 思考する能力
   を持たない》と言ったと パスカルは書いていた。

 だから 必然的に 知解するものが存在し 生きていることは 生存しない死体が存在するようにではなく また知解しない動物の魂が存在するようにでもなく 独特な したがって卓越した仕方による。・・・
 さて 生きる力 想起する力 知解する力 意志する力 思惟する力 認識力 判断力が 空気(あるいはその他の元素)であるのか・・・どうか人々は疑ったのであった。或る人はこれ 或る人は他のことを主張しようと努めた。それにも拘らず 自分が生き 想起し 知解し 意志し 思惟し 知り 判断することを誰が疑おうか。たとい 疑っても生きており 疑うなら なぜ疑うのか 記憶しており 疑うなら 自分が疑っていることを知解し 疑うなら 彼は確実であろうと欲しているのだ。疑うなら 彼は軽率に同意してはならないと判断しているのだ。それゆえ 他のことを疑う人も精神のこのすべての働きを疑ってはならない。もし この精神の働き(または《わたし》)が存在しないなら 何ものについても疑うことは出来ないのである。・・・
  (アウグスティヌス:三位一体論10・10 c.399-421)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  もう少し つづります。途中に差し挟んだ引用文のあとつづけて デカルトが
 ◆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  そうするとただちに 私は気づいた 私がこのように すべては偽である と考えている間も そう考えている私は 必然的に何ものか〔の存在〕でなければならぬ と。そして 《私は考える ゆえに私はある》というこの真理は・・・
  (方法序説 2)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
と書いたことは よく知られているところである。

 これらに対してパスカルは このアウグスティヌスからのデカルトの独立性を ある別の議論(つまり幾何学と論理学との関係について)の途中に一例として 軽く触れた。
  ▲ ________________________________________________
 デカルトがこの偉大な聖者(アウグスティヌスのこと)を読むことによって初めてそれを知ったにしても 彼(デカルト)がそれの真の唱道者でないということは わたしには実際 思いもよらぬことである。・・・なぜなら デカルトがその志向において果たして成功したと想定し この想定の上に立って この言葉が彼の書物にあっては 他の人々が偶然に言った同じ言葉と違っていること あたかも生命と力とに満ちた人間が死人と違っているのと同様であると わたしは言いたいからである。
 (パスカル:幾何学の精神について 2)
____________________________________________________
 パスカルは アウグスティヌスが 上に引用した文章のことばを《偶然に言った》と述べて けなしていますが 大目に見ておきましょう。
 《わたし》は どこへも行きません。いま ここに あります。
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>雷を打たれたようにショック


まぁ~まぁだいじょうぶ?
「私以外の全ては無根拠」であることに、お悩みなのですか。
「私以外」どころか当の「私」自身だって無根拠かもしれません。
で?Et alors?(笑)

そうですねぇ、根拠があることがいいことばかりではないかもですよ。
たとえば…貴方の親御さんに「どうしてボクを産んだの?」と聞いたところ
「産むつもりなんかサラサラなかったんだけど、できちゃったから仕方なく、それだけ!」
とか或いは
「歳とって弱ったらメイッパイめんどうみてくれる人が必要だからねぇ。お前を頼りにしてるんだよ。ぜったい親を見捨てるんじゃないよ。そのために産んで、いっしょうけんめい育てたんだからね!」
とか
「実はね、いずれは秘かに殺してガッポリ保険金を狙うために産んだんだよぉ。。。」とか言われちゃったら。
産んだ根拠は根拠でも嬉しくないでしょう?

私はデカルトなんて難しそうなの読んだことないですから
>・僕のデカルト思想の解釈がおかしいのですか?(一応、解説書など を参考にしたのですが)
>・それともデカルト思想がおかしいのですか?

については何とも申し上げられませんけど
>・人々はデカルト思想を容認し、それを覚悟し、十字架を背負って生 きている「覚悟の人々」なのでしょうか?

なかには、そんな人もいるかもしれませんが、殆どの人は、そんな悲壮なことはないんじゃないでしょうか。貴方御自身は現に「十字架を背負って生きている」「覚悟の人」ですか?

確かに論理の出発点である前提には実のところ何ら「根拠」と呼ぶに足るものはないのかもしれません。それでも、諸学問とりわけ科学の方面は、前提としての仮説を据えることで出発し発展させてきました。たとえフレイザーいわく
「真理とは結局、最もよく機能することが分かった仮説に過ぎない」
のだとしても、こんにちに至るまで我々が享受してきた利益もまた大きいはずです。
科学って、すごく緻密なようでいて、けっこうテ・キ・トーかもしれませんよ(笑)
No.1さまやNo.2さまの仰ることも頷けます。

宗教的なあとづけというのも、たいへん伝統的なものですが、それだけ人というものは営々と根拠を求め続けてやまなかったのですね。イジラシイくらいですね。どうしてなんでしょうね~(笑)
宗教でも科学でも結局、出発点は同じことかもしれません。そして最終点においても。

デカルトは「Cogito, ergo sum.」という、あまりにも有名なコトバを残していますが、実は
「その言葉の中には“思うものは存在する”ということの証明が抜けているので、論理的に真であるとは認められないのでは~?」(つんつんつんつく☆)
と突っつかれて
「こっこれは!霊的直感によって生まれた真理なのであり!霊的直感に哲学的証明はいらない」と答えてすましていた
らしいのです。(爆)

以下、御参考。
『デカルトの例の一句についてホントのところ、どうなんでしょう?』
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=1805568

あと数学カテゴリーでの常時人気質問です。
『1+1=2の証明って?』
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa217225.html
                    
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デカルトが生きた時代は、キリスト教の教えが非常に強い時代でした。


キリスト教では、人間は神によって造られたとされています。
デカルトの頭の中に、
じゃあ、自分の全ては、神によって造られて支配されているというなら、「自分って何」という疑問が生まれます。
「自分」という根拠はなに?
「自分」というものはないの
それが、「我思うゆえに我あり」でしょう。
全てのものが人間が考え出したもので、無根拠で論理の裏打ちもなくて、間違っているかもしれない。
でも、自分が考えていることこそ自分の根拠なら、別にふざけるわけではありませんが、赤塚先生が漫画で書いた、「それでいいのだ!」ということでしょう。
それも多くの人たちが「思う」事を積み重ねて、それをデカルトが「思って」それで、デカルトの考えにいたるのでしょう。
永遠に人類が「真理」というものに到達できなくても、そんな能力ないのだとしても、「考えること」が自分の根拠なら考えればいいのではないでしょうか?
人々は平然と生きてもいないし、あなたの考えが間違ってるわけでもなく、デカルトの思想がおかしいのでもないと思うし、「覚悟の人々」でもないと思います。
もちろん、あなたのような疑問を持つ人もいるし他の疑問を持つ人もいる、自分の考え方一つでうれしかったり悲しかったり、人を怒らしたり、喜ばせたりするでしょう。
「真理」を得て、強くなって自分を安定させたい「自己」を強くしたいと考えるよりも、どんな状況でも考え続けた「自己」を持って、未知の事でもぶつかっていけるから、今があるのではないでしょうか?
もちろん様々な問題があるにしても。
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 ANo.3に書いた通りではありますが、modoki666さんのANo.8の中段にあります、『自分が考えていること(事実たる行為)こそ自分の根拠ならです。

』までいたり、デカルトに関する理解を改め、且つ、深めました。
 1. 根拠は創造界におけるDroste効果的にいくらでも主格たる意識性は手繰っていくことになるでしょう。これを終局させるのは、創造という事実認識、事実を根拠とすることから飛び越えることでしょう。でも飛び越えた向こうからきている、主格意識(どこまでも手繰っていく)はそこからきているので、存在する。考えている(意識している)事実者、プロセスが存在する。そのものの確証根拠は得られなくても、それは存在している。ということかな
 2. 死体や物質、他人。自分としての主格意識が中に入っていない存在は、客体対象・objectである。そういう意味では主格は存在しない。確認証の外のものである。意識はない。でもその中に主格たる意識をいれられれば、それの存在は客体ではなくなる。その意味では確認証となる。
 3. 生きて存在している、自己の主格たる意識が依り代としているこの身はいかがか。実は之は自己たる主格の意識が、客体的に知覚・経験(行為を含む、行為には呼吸も入る、知覚も入る)している客体対象・objectである。(この私自身は、そういう瞬間に幼児のときからおちいり、不思議そうに自分の四肢やら体全体、周囲を見回して、奇妙な思いに入っていった) そういう意味で存在は確認証しているということはいえない。そこにころがる他人の死体と同じものである。
 4. そういうことで、デカルトとともに、自分という主格の意識がしている、経験と行為を確認証するだけにとどめています。
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・それとも、デカルト思想がおかしいのですか?



そうだね。 これ疑うのが一番の早道でしょう。
「我思うゆえに我あり」これ自体が子供じみてるし、真理ではないことは確かですね。理由をつけるとしたら、誰しも考えてるから、犬や猫だって考えてるよね、デカルトにいわれるまでもない程度のものだからね。こんな真理でもないものを土台にしたものに真理さえないよね。迷ったときは最初の思想を疑えは基本だね。
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