架空の映画のネタバレレビュー

テレビや映画での戦国時代合戦風景ですが、たいてい草原が多い。
しかし今の関ヶ原や天王山など見たら山は木が生い茂っている。
なれば戦国時代の主な合戦は森の中が正しいのでは?
森でなくても田んぼや畑でしょ?
その麓の田んぼが合戦場になったとしても、田んぼの開墾が
実際に進んだのは江戸時代でしょう。
となれば騎馬軍団が颯爽と走るのは難しいし、
鉄砲隊の連続射撃されても森の中だと簡単に当たらない
と思うのですが?どうですか?

A 回答 (7件)

戦国の合戦は千差万別・・・実際には、木がいっぱい生えている合間で戦ったりもするでしょうが、テレビではわかり難いので、原っぱのようなところが多いのでしょうね。



ただ、関ヶ原の場合は、確か石田三成は笹尾山、毛利勢は南宮山、小早川秀秋は松尾山などに陣を構えてはいますが、山を駆け下りて麓で戦っていたような気がするんですが・・・

天王山も、秀吉は天王山中腹の宝積寺に陣を構えますが、実際に戦闘があったのは、天王山の麓の淀川の河原です。

長篠の合戦があった設楽ヶ原も、小川が縦横無尽に走る湿地帯でしたし、あの川中島も、周囲の山に布陣して、実際に合戦するのは河原です。

姉川の合戦の時も、小谷城の周辺が山で戦い難いので、わざわざ姉川のあたりにおびき寄せる形で本格的な戦闘が始まったように記憶していますので、やっぱり、山と山の間をぬって、戦い易い場所を選んで戦っていたのではないでしょうか?

もちろん、地形を生かしての奇襲戦の場合は別ですが・・・
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私の認識では、森は基本的に身を潜め、奇襲や待ち伏せなどに利用され、


実際に戦うのは開けた場所と認識しております。(各戦場で地理的背景は違いますが)
戦国時代は、兵法等を取り入れた合戦が主流の為、見晴らしのよい高台等に本陣を置き、そこから大将が戦況を見て布陣の指示を出していた為、全体を見渡せる開かれた場所が戦場になることが多かったのではないでしょうか。
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長篠の戦が行われた場所というのは現在も当時も田んぼだったようで、


しかも低い丘にはさまれたすごく狭い谷あいになっています。
ですので疾走してくる武田騎馬軍団を三段撃ちの信長鉄砲隊がこれを撃破!
なんてシーンは無かったのではないかと言われています。
またそういう地形なので武田勝頼が陣を張ったところからは合戦場が
見えない位置取りだったため前線の状況を正しく把握できずに傷口を
広げてしまったという説があるそうです。

桶狭間の戦いでも信長軍が進んだ道の両側は田植えが終わったばかりの
田んぼでつまり池のような状態だったのでその沿道以外の場所にいた
今川軍は織田軍を側面攻撃でなきない状態だったということを読んだ
ことがあります。
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地形が平らな場所だと意外に森林になっていなかったりします。

河原近くの地形なんかを見ると多少わかっていただけるかと思います。灌木がちょっとあって、あとはすすきなんかが生い茂っていたりしてね。意外に大きな木が育つって大変なんですよ。日本の里の原風景ともいえる雑木林は、意外にも何百年と人が手入れをしているから成立していたんですよ(だから最近の雑木林は手入れをする人がいないので荒れ果てて木が育たなくなっている)。

他の方も回答していますが、18世紀以前の軍隊ってのはどこの国でも「連れてこられた人」が結構混じっているのです。これは、本当に無理やり連れてこられた人と、接待の飲み会に嫌々ながら参加しているサラリーマンくらいの連れてこられた感で参加している人たちなんかも含みます。だから、森林なんかの目の行き届かないところで戦争をするとどさくさ紛れに逃げてしまう連中が続出してしまうんですね。

しかしながら、ご指摘の通りに田んぼや畑の中で戦争をすることもよくあったことです。時々、合戦で「○×畷の戦い」なんてのがあります。この「畷」は田んぼのあぜ道を指す言葉です。沖田畷の戦いでは、数に勝る竜造寺軍が島津軍に敗れた戦いですが、この沖田畷、田んぼが深くて田んぼには将兵は入れなかったんですね。だから、あぜ道ぞいでしか移動できなかったので竜造寺軍は数の有利さを生かせなかったですし、竜造寺隆信は逃げそこなって討ち死にしています。

また騎馬軍団ですが、当時の日本の馬は非常に小さかった(ポニー以下)だったのでいわゆる騎馬突撃に向かない馬でした。幕末に当時の馬の写真が残されているのですが、平均身長150センチそこそこだった当時の日本人でもまたがると足がつきそうなほどに背が低い馬でした。蹄鉄が高価だったので一般的には草履を履いていたそうで、これも突撃には向かないですね。
西洋から来た宣教師も「ヨーロッパの騎士は戦うときに馬に乗るが、日本のサムライは戦うときに馬から降りる」と書き残しています。

ではなぜテレビや映画では草原で颯爽と戦っているのかというと、森の中での戦いじゃごちゃごちゃして見た目が悪く迫力がでないのと、現代日本では合戦の撮影が可能な場所が極めて限られることからでしょう。
リアルな戦いのシーンが見たければ、黒澤映画の「羅生門」を見ることをおすすめします。真剣の切り合いになってお互いがびびって刀をめくらめっぽうに振り回すシーンがあります。
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戦争の場合一方が攻め込み一方が守るわけです。


(両方が攻め込むケースもありますが。)

そうなると平原のほうが戦いやすいですから、当然優勢の側は平原で戦いたいわけですし、劣勢の側はそうした戦いを避けるわけです。
そうなると劣勢側は森(というより丘や山)に篭ることも多くなり、それを討つために攻勢側が森や山に攻め込むこともあるわけです。

要は少しでも自分の有利な側に引き込もうとして、おたがい自分の好きな戦場に引き込もうとするわけです。
まあ多くの場合戦争の目的は略奪で、村や田のある場所でやりたい放題しているところに敵軍が駆けつけて、それに対抗して陣を構えるケースが多いため、必然田や湿地帯で戦うことが多かったと思います。
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戦国時代の合戦は、陣形を組んでの対峙から始まるのが普通です。

野戦通信手段が貧弱な時代に大軍を統制する手段は、緊密な陣形を組んで、一丸となった運動をする事しかなかったのです。刀槍が主力武器ですから、短い交戦距離で攻撃力を集中するには、密集陣形が不可欠でもあります。陣形が崩れてしまったら、即ち敗北です。陣形を組める場所を互いに摸索しながら行軍するわけですから、大軍同士が対峙できる場所はある程度決まってくるわけですね。睨み合いの陣地戦になった場合などは、視界の邪魔になる木などは伐採してしまいます。多少の防御効果より、見通し距離が広い事と陣形が組みやすい事の方が、この当時の戦闘では重要だったのです。
ですから、この時代の戦闘で森の中での乱戦になるのは、全く敵の存在を予想していない情況での不期遭遇戦か、少数での奇襲時に限られるでしょう。
兵士がバラバラになって、地形に身を隠しながら戦うようになったのは、銃が発達して交戦距離が伸び、兵士の国家に対する帰属意識が強い(逃亡兵が出難い)徴兵制による国民軍が成立した、ナポレオン時代以降の事になります。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%AD%E9%81%87% …
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騎馬軍団がとか連続射撃がとかは、最近は否定されていると思う。



それはさておき、戦国時代には行ったことがないし、著述がないので直接は分からないが、戦闘の進行に関して著述のあるナポレオン戦争あたりから考えると、操軍の基本は、「相手が動きづらく、自軍が運動しやすい場所を選ぶ」というもので、そのために戦前の地図の作成は旧陸軍が行っていました。
自軍の大規模な軍隊を運動しやすい場所をお互いに探しあうと、結果として開けた平原になってしまうということではないでしょうか。この原則はナポレオン戦争だろうが日本の戦国時代だろうが変わらないと思います。
関ヶ原が、壬申の乱でも主戦場の一つになったのはやはり地勢上の必然性があったかと。
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