No.7ベストアンサー
- 回答日時:
フーコーはルネサンス期の終焉と古典主義時代の幕開けをベーコンとデカルトの登場に見て取っていますよね。
ルネサンス期には「類似」が知の基本的な経験であったのに対して、まずベーコンはそれを「種族のイドラ」として誤りであると指摘します。
そうしてデカルトは、「類似」から「比較」へと向かっていくのです。
「デカルトは、人間の精神の働きは、ほとんどすべてが比較という操作によって行われることを指摘しながら、数と量の比較と秩序の比較を重視する。特に重要なのは秩序の比較の方法であり、ある項から別の項へ、さらに第三の項へと、比較によって連続的に系列を形成していくのである。デカルトの学問体系は、理性の力によって確実に認識できたものを連続的に結びつけることによって、大きな秩序を形成しようとするものであった。」
(中山元『フーコー入門』p.83)
> 実体を有限実体と無限実体に分けているようなんですが、と言ってしまったのですが、そうすると二元論的な感じになるのですがどうなんでしょうかね。
そうなんです。デカルトがフーコーが指摘したような「同一性と相違性」の比較によって系列を形成していったと考えると、「実体」が「有限実体」と「無限実体」の二元論としてとらえられるのも必然ということになります。
たとえば「神は無限なる実体である」とデカルトがいうときの「無限」ということにしても、『省察』のなかでは「現実無限」、すなわちあらゆる完全性が、可能的にではなく、同時に現実に実現されてあるということで、人間にある完全性をだんだんと実現していくという「継起的無限」とは異なるものである、というふうに言っています。
ほんと、「比較」が古典主義時代のエピステーメーだと指摘されると、一気に目の前が開けてくるような感じがしません?
この手際の鮮やかさというのはやっぱりフーコーだなあ、って気がしますね。
オアシスといっていただいてありがたいのですが、わたしも所詮素人なので、どうか眉に唾をお忘れなく。ただ、ここで質問をなさる場合、その質問が何を問うているかを理解するための前提を共有しない方からの書きこみがあることは避けられない事態であると思います。どうか冷静な対応をなさってくださいますよう。わたしが回答したくなるような質問を出してくださる方はそれほど多くはないので、余計なひとことを失礼しました。
No.6
- 回答日時:
No.4です。
もはや デカルトを離れて 《人間における神の分有》について ご紹介しておきたいと思いました。
図式のみですが。
*
三位一体(光なる神)・・・:父(光源)‐子(発耀)‐聖霊(明るさ・暖かさ)
↓ ↓ ↓
三一性(精神の光/人間):記憶能力 ‐知解能力 ‐意志能力
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・:精神の秩序‐その視像 ‐愛(自治・自立)
社会行為・・・・・・・・・・・:組織行為 ‐生産行為 ‐経営行為
国家組織・・・・・・・・・・・・:司法府 ‐立法府 ‐行政府
・あるいは もう少し詳しく。
身体〔の運動〕・・・・・精神・概念(記憶・・・・・知解・・・・・意志)
・・・・・・・・・・・・・・・・・↓・・・・・・・(↓・・・・・・・↓・・・・・・・↓)
[市民/市民社会]
個体・・・・・・・・・・・・家 族 ( 秩序・・・・・労働・・・・・・愛)
社会主体・・・・・・・・自治態勢(自治組織・・〔生産〕・・共同自治)
経済主体・・・・・・・・生産態勢(組織・・・・・・生産・・・・・・・経営 )
政治主体・・・・・・・・・↓ ・・・・・・・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓
[公民/公民圏] ・・・・↓・・・・・・ ・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓
社会科学主体・・・・・社会形態(社会組織・・経済活動・・・政治 )
〃・・・・・・・・・・・・・(国 家 : 司法・・・・・立法・・・・・・・行政 )
・これが 次の聖書の文句を解釈したものです。
▲ (創世記1:27)~~~~~~~~~~~~~~
神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 分有といえば とうぜん 不完全なのですが 不完全であるのは もともと その存在からして そうであります。ですから 特に 全体を知らず 部分的に知るというのは 《時間的な差異がある》ということに見出されます。知解したことと それを意志によって行為に表わすこととが 必ずしも 一致しません。立法府のつくった法律どおりに行政が仕事をしません。司法が それをさばきます。
《時間的な差異がある》ということは 或る程度において 最終的には 《三つの能力行為や 分立した三権が 時間過程を広く取って長い目でみれば 一体である》と言えるのかも知れません。それゆえ 分有なのだと考えます。
brageloneさん、お忙しいところわざわざありがとう御座います。
ゆっくりと拝読させていただきます。
何かありましたら補足させていただきますのでよろしくどうぞ。
No.5
- 回答日時:
> 分有ということになるとデカルトの言う実態の定義と矛盾するんですよね
そうなんです。わたしもこれは昔から疑問でした。
デカルトというのは、やっぱり近代の人にくらべて、どうもわかりにくいところが多いんです。
まず『哲学原理』では実体がこう定義されています。
「存在するために他のいかなるものも必要とせずに存在するもの」(I-51)
本当の意味でそうした実体たりうるのは「神」だけですが、デカルトは神によって創造された「精神」と「物体」をも実体と認めています。ご質問にある「無限実体」が「神」で、「精神」と「物体」が、神に作られたゆえに「有限実体」ということです。
・神は実体である。
・「精神」と「物体」は神以外の何ものにも依存しない。
・ゆえにそれも実体である。
という論理です。
いまのわたしたちからみると、「神に作られた」ということは、まず「実体」の定義に反しないのか、と奇妙に思われます。「実体」と言いながら、まず「神の存在証明」を展開し、それによって「思惟実体」を保証しようとする筋道は、なんだかおかしいような気がする。
だけど、そこはそれ「エピステーメー」がちがうから(笑:いいなあ、この説明)。
で、わたしがこれまでに読んだなかで、一番納得ができたのは以前にもデカルトの回答で引用した木田元の『反哲学入門』だったので、それをもとに回答します。
----(p.125)---
一般にキリスト教の世界創造論では、こんなふうに考えられています。つまり、世界は神によって創造されたものであり、したがって、世界には最高の理性(Ratio)としての神の意図が摂理(ratio=理性的法則)として支配している。一方で神は、世界創造の仕上げとして、みずからに似せて人間を創造し、それに理性(ratio)を与えた。したがって、人間の理性は人間のうちにありながらも神の理性の出張所か派出所のようなものである。その理性に神によって植えつけられた生得観念は、世界創造の設計図ともいうべき神の諸観念の不完全な部分的写しのようなものだということになる。したがって、人間の理性に生得的な観念と、世界を貫く理性法則とは、神を媒介にして対応し合っている。人間が生得観念をうまく使いさえすれば、世界を底の底で成り立たせている理性法則を正しく認識することができるはずである――と、だいたいこんなふうに考えられているわけです。デカルトは、キリスト教のこの世界創造論を、神から話をはじめるのではなく、人間にとって身近な人間理性の直感的な自己確認から話しはじめ、いわば話の順序を変えて展開してみせたのです。
----
人間の理性を「摂理の不完全な部分的写し」というふうに理解すると、つまりこれを一種の「像」というメタファーを使って理解すると、「実体」の「写し」もまた「(やや不完全な)実体」である、というのも納得できる、というか、そういう考え方をしていたのだろうな、という気がします。
むしろデカルトのやろうとしたのは、当時の人が自明のものとしていた「神の理性の出張所か派出所のような」「人間の理性」の証明ではなく、「精神」と「身体」の区別、「身体」から独立した「精神」の独自性ということだった。
----(p.123)---
デカルトの主張したいのは、次のことだけなのです。つまり、そうだからこそ、肉体的感覚器官に与えられる感覚的諸性質は「物体」の、つまり「自然」の実在的構成要素ではなく、単に私たち人間にとって偶有的なものである身体への現われにすぎないのであり、「物体」つまり「自然」を真に構成しているのは、私たちの「精神」が洞察する「量的諸関係」だけなのだ、と。
-----
木田さんの説明は、なんだか迷路を出口の方から入っていくような感じもしないではないのですが、ここらへんのことがきちんと説明されている本はあまりないので、ぜひご一読を。
ついでにラッセルの帰納法もそのうち。
ghostbusterさん、毎度ありがとうございます。
>だけど、そこはそれ「エピステーメー」がちがうから(笑:いいなあ、この説明)。
少なくとも中世の神、キリスト教ないしユダヤ教の知識がないと分かりがたいですね。
>単に私たち人間にとって偶有的なものである身体への現われにすぎないのであり、「物体」つまり「自然」を真に構成しているのは、私たちの「精神」が洞察する「量的諸関係」だけなのだ、と。
-----
物体の本質が延長であると言ってることからこれは納得です。
身体も普遍的実体(物体的実体)の部分なんでしょうね。
実体を有限実体と無限実体に分けているようなんですが、と言ってしまったのですが、そうすると二元論的な感じになるのですがどうなんでしょうかね。
質問をするというのもある種ジレンマがありまして。
回答真贋確認作業に苦しめられることも(笑。
その点、ghostbusterさんのご回答は渇いた砂漠のオアシスといえますね(本当)。
No.4
- 回答日時:
デカルト自身の文章で確認していませんが もし
★ (No.2補足欄)~~~~~~~~~~~~~~~~
実体というのはその存在のためには他のなにものをも必要としないもの、とデカルトは定義しているはずです。
しかしながら精神が作用する為には神の協力が必要だといっているわけなんですよね。
これは一体どういうことなのか、ということなんですよ。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ ということでしたら 答えられます。
○ 《無限実体》が 神である。
☆ のは 問題ないですよね。それに対して
○ 《有限実体》は 人間である。
☆ と捉えればよいはづです。じっさいには 人間は 《実体》ではないですが。つまり 《有限》と《実体》とは げんみつには 矛盾します。けっきょく
★☆ 〔能力にも人生にも限りがあって 総じて 移ろいゆく存在である人間の〕精神が作用する為には神の協力が必要だ。
☆ という意味は 人間が 神の無限で不可変の実体を 分有するということではないでしょうか。神に触れられているとも言いますし 神の霊(その生命の力)を宿すとも言ったりします。
ただ デカルトもしくはその解釈者たちは この息を吹きかけられたあたかも《実体》なる存在としての人間について その能力を 全面に押し出して それに頼るようになったと捉えられます。
この回答への補足
brageloneさん、わざわざありがとうございます。
デカルトは精神(mens)、物体(coupus)をそれぞれ実体であるといっています。つまり、精神と物体は独立した関係ですので、何ら共通した性質を持たず相互に作用しあうこともなく、従ってまた一歩が他方の原因であることも無いということなんですね。
分有ということになるとデカルトの言う実態の定義と矛盾するんですよね。
結局デカルトというのはいい加減な自然科学者といったところなんですかねb。
No.3
- 回答日時:
そうですねー
実際どういうつもりだったのかはわかりませんので
あくまでも私見ですが
虚数は数値として処理できるにもかかわらず物質では現れません
実数解ではないので物質ではないわけです
ですが、法則のうちには内在していて
二乗すれば実数解になります
このように隠れた物質という意味で神の力を借りないと存在しないが
特殊な操作してやれば物質にもなるので有限実体に加えたのかもしれません
デカルトというと言葉のロジックで勝負する哲学者というよりも
私にとっては数学者のイメージですのでこのように解釈しています
この回答への補足
michan555さん、わざわざありがとうございます。
>実数=物質 虚数=精神の間違いです
デカルトは物体(coupus)の属性は延長(extensio)であるといっています。
実数は延長を持つのでしょうか?
No.1
- 回答日時:
デカルトは科学者ですので
物質というものにドライになってる気がします
微分とか座標を用いていろいろやってましたんで
神だけ別格で無限実体 物質や精神を有限実体と分けました
複素数を虚として虚数の生みの親にもなってます
実数=実体 虚数=精神とも考えられます
つまり神だけは数学においてすべての方程式、法則ですので
別格な存在としたのかもしれません
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