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人が世の中の闇の部分に魅力を感じるのはどのような心理でしょうか?

最近の動向なのかも知れませんが、世の中の必要悪やその闇の部分を取り扱ったドラマや漫画、映画が多いよう感じます。
不良高校生、ヤクザ、ホスト、刺客・・・。ドラマや映画なので美化しすぎているところはあると思いますが、少なくとも悪くは描かれていませんし、
その生き方や社会を見て「かっこいい」と思う人だって多いと思うのです。
忍者だって、悪者ではないにしろ世の中の「闇」に当てはまりますし、いわばスパイなので表の世界には出られない職業ですが、忍者が出てくる作品は数多くありますし、漫画やアニメでも忍者を取り扱ったものがたくさんあります。
世の中の闇で生きなければいけない職業だと分かりつつも、憧れを感じ好感を持ててしまうのは何故なのでしょうか?
このような心理は日本特有のものですか?それとも他の国にも見られるものでしょうか?

A 回答 (2件)

2つの理由があるように思います。



人間の成り立ちは、まず本能が基盤になっていると言っていいと思われます。
動物と違うのは、自我に目覚め、やがて善や理想を追い求める超自我性を獲得していくことでしょう。

この超自我の目覚めとでもいうようなものは、主に両親からの躾がその始まりとされています。
躾というのは端的に言うと本能の抑圧(抑制)ですね。
あれはだめ、これはだめ、と言われることで善悪の基本的な概念が身についていくわけです。
過剰な抑圧はまた別の問題を引き起こしますが、本質問とはあまり関連しないと思うのでここでは触れません。
いずれにせよ、善や理想といった超自我性の基本も、結局は本能の抑圧が大きな要素を占めていると言えます。

文化文明といった類のものは、この超自我性によって生み出されたものと考えられますが、抑圧されたとはいえ本能も人間の重要な構成要素です。
極論を言えば、超自我は無くとも生きていけますが、本能が無い状態での生は無いことになります。
「これほど必要なものなのに抑圧されざるを得ない本能」を復権させているのが、おっしゃるところの「闇」と表現できる領域でしょう。
一般社会には許容されない性質のものではありますが、これほど自由で本来的な本能の発揮は無いとも言えます。
現実的にはなかなか実行が難しい「自分の内なる本能」を代替的に体現しているから。
というのがまずひとつの理由ではないかと思います。

ただ、先にも少し触れましたが、人間は本能・自我・超自我のバランスがある程度取れていないと生き辛い仕組みになっているようです。
ですから、完全に本能のみ(=闇の部分)のみに焦点を当てていたのではドラマなどとして成功する確率は低いような気がします。
殆どのドラマでは必ずと言っていいほど超自我性の萌芽を明示したり、予感させるような構図になっているはずです。
「とても悪いところが殆どだが、このようなとても良いところがある」
という構図ですね。

つまり、掃き溜めに鶴、ではないですが、本能というどろどろした闇の中に芽生える、超自我性という善や理想(的なもの)であればこそ、一層光って見える。
という脚本的な効果はもくろまれていることでしょう。
超自我というのは本来的に人間が希求して止まないものでもありますから、このような手法によって、より魅力を感じるのではないでしょうか。
これが2つ目の理由です。

おそらく万国共通でしょう。

 
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この回答へのお礼

お礼が遅くなってしまいすみません!
そして、hakobuluさんの回答すごいです!私の中の消えていた電球がピカッ!と付いたような気分になりました。めちゃくちゃ納得したってことです(笑)
確かに、闇の世界に生きる人たちは私たちが普段から抑制しようとしている本能の部分が大多数で成り立ってる感じですよね。

>>人間は本能・自我・超自我のバランスがある程度取れていないと生き辛い仕組みになっているようです。

しかし、このようなことがあるからそこに自我や超自我といったものを描くことで、「悪者」にしか見えなかった人々に人間味が生まれ、hakobuluさんがおっしゃったように、明るい場所で光を放ってもあまり目立ちませんが、暗闇の世界だからこそ一つの光(善)より輝く、ということですね。

あ~とてもスッキリしました。今ちょうど大学で自我・超自我・本能の勉強もしていたので、心理学的に分析していただいて嬉しかったです。
とても参考になりました。回答ありがとうございました!

お礼日時:2008/11/14 16:30

日本特有のものか?それとも他の国にも見られるものかということについては、多分あるんじゃないかと思うんですが私は確認したことありません。

でも欧米の映画なんかの描写が参考になるかもしれません。

まず、いわゆる「闇の部分」というのは近頃「心の闇」などという意味深なコトバで表現されたりするようですが、これは現代に始まったものでもなく誰しも大なり小なり持ち合わせているでしょうものですから、ある種の親近感が下地としてあるであろうということが一つ。

それから、かと言って、そうした「闇」の世界にドップリ入り込んで生きていくというのは、ふつうの人には、なかなか恐ろしいものであり、ある種の勇気がいることであるということ。それが、ある面で憧れめいた感情を持たせるのでしょうか。

いわゆる「世のなかの闇の世界」なるところにいる人が、ただ権謀術数を振るい汚辱にまみれ他者を巻き込み殺め…それだけなら果たして、そこに「美」を感じることができるでしょうか。
それは、良い意味で平凡な感覚を持ち小心な一市民の自分として生活している限りでは到底、真似のできないことです。
策略を練り他者を陥れるにも、アタマが悪ければ無理な話。首尾よく強力な敵を窮地に追い詰め危害を加え続けるにも、良心がカケラも痛まないほどの人間離れしたドライさが必要です。
ですから、ほんもののワルというものは案外と日常生活ではサバサバとアッサリした態度の人が多いのではないかと思います。(ちょっと、コンサートなんかでギターを叩き壊したりオシリ露出したりするようなロックミュージシャンが、ふだんは意外と、もの静かだったりするのと似てるかな?或いはチョー知能の高いクールな人が日常生活では至って、おっとり、ぬぼーとした人だったり)いわゆるヤクザ、暴力団の男性は日常レベルでは女性に対して、そのへんのフツーのサラリーマンなどより、よっぽど細やかで優しかったりするようです。その代わり、ひとたび怒ると…?(笑)
こういう世界の人もいろいろで、どこまでワルに徹しきれるか、まるで自虐的に自分の能力を試すかのような人もいるし(「このうえに、なお憂きことの積もれかし、限りある身の力試さん」とか?「男になろう」とか?バカらしい笑)結局、ふつうの人のレベルではやっていけない落ちこぼれだから水が低きに流れるように流れていってしまう人もいるし、単に親が、そういう人だから、そういう価値観のなかで育って、跡を継いだだけとか、まぁいろいろです。
売春する人だってそうですよね。昔でしたら家が貧しくて家計を助けるためとか生活費に困ってという人もいれば、現代では単に、お小遣い稼ぎの人もいれば、親に対するアテツケだったり、なかには本当に好きでやってたりとか?
「インテリやくざ」なんて呼称があるくらいですけど、
まぁ「忍者」なんかは、やはりアタマ悪い忍者では仕事が勤まらなかったでしょうね。「忍者ウッカリくん」なんてネ(笑)

むしろウェット過ぎるようなネチネチタイプの人のほうが、ふだんから何かにつけて気に病み、情の込み入った始末の悪い事件を起こすように思われます。
さて、どちらが本当のワルなのでしょうね?
かのヒットラーなどは「悪の権化」と呼びたくなるようなイメージですけど政治家としては、また別の評価があるそうですし、私生活では、なかなかのフェミニストだったとか。だいたいユダヤ人に対する蔑視も、彼が青少年だった頃の、ちょっとした個人的劣等感に由来しているらしいです。
このヒットラーですら、映画などで揶揄されたり滑稽に描かれたりもしてるようですが(笑)

私が話をしていて一番ツマラナイと感じるのは、ぬるま湯のなかに浸かったような育ちの苦労知らずです。こういう人は、いくら学問をしても、学問がタダの知識にしかならない。せめてもシャープな感性があれば救いはあるのですが…。
底の浅い、厚みのない人は人間的魅力に乏しいと、世間でも、よく言われるようです。
「過去ある女」などという言い古された表現もありますね(私も、!?)
のっぺりぺたんとした人はツマンナイ。
私が個人的に敬愛し大好きな男性の一人に、「ヤンキー先生」のニックネームで知られる、義家弘介氏がおられます。現在は御立派になられましたが、むかしは、たいへんな不良少年だったそうです。そこから、いかにして立ち上がってきたかは、多分に演出が施されている部分もあるかとは思いますし実際メディアに露出しきれない、取りこぼしている陰もあるかもしれませんが、テレビドラマにまでなっているので、ご存じのかたも多いでしょう。

ほんもののワルというものは、日常生活のなかで、こまこまと「悪」を振り回さないかもしれませんが、いよいよとなると凄まじい凶暴さを、しかも淡々とやってのけます。
「オレが」「わたしが」と被害意識のカタマリになってコソコソねちねちチマチマと悪さをするようなウェットな人間とは、どこか根本で、少し違うようにも感じます。

「闇の世界」「悪の世界」に生きる人のどこに魅力を感じられるでしょうか?
悪を働く並はずれた知能ですか人間離れした酷薄さですか?
狂気に憧れる人の心理に似ているかもしれませんね。
それとも、どんなに汚辱にまみれても、けっして芯から染まりきらない一点の清らかさですか?
確かに、平凡な世界の人の前向きさよりも、苦界に沈んだような人の前向きさのほうが感動的ではありますね。
決して闇色に侵食されきることはない一点の純白さ。
質問者さまは、どちらに魅力を感じるのでしょうか。

どんなことでも、渦中にいる者と外側にいる者とでは実感が違うのでしょうね。
「憧れ」というのは、どこか自分からは遠い存在に持つものです。
遠いもののアラは見えにくいものです。
同時に、「悪」や「闇」の部分なるものは、けっして己から遠い存在でもないことでしょう。
         
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この回答へのお礼

お礼が遅くなってすみません。
しっかりと読ませていただきました。そのなかから今までモヤっとしていたものが晴れた気がします。
まず「なぜ憧れるか」の理由には私なりに2つあることが分かりました。
まず一点は回答者様が書かれた
>>それから、かと言って、そうした「闇」の世界にドップリ入り込んで生きていくというのは、ふつうの人には、なかなか恐ろしいものであり、ある種の勇気がいることであるということ。それが、ある面で憧れめいた感情を持たせるのでしょうか。

これですね!普通の一般人にとっては到底経験できない、いろんな意味での「ギリギリ」をしている人たちだからこそ憧れるのだろう、と思いました。
極道や暴力団なぞは警察や法律など社会権力を恐れて普通では染まれない世界ですし、不良学生だって今後の将来を考えるとやっぱりなれない(ならない?)人が多いのだと思います。
しかし、これだけでは憧れる対象にはならないでしょうけど、二点目に回答者様が最後に書かれた部分の登場ですね。

>>どんなに汚辱にまみれても、けっして芯から染まりきらない一点の清らかさ。
決して闇色に侵食されきることはない一点の純白さ。

まさに私が魅力に感じる部分はここなのです。実際の世界はどうなっているのか分かりません。私は今までに興味本位で極道の世界が書かれた本や、歌舞伎町関係の本を何冊か読みました。内容はやはり小指を切るとか、抗争や乱闘、ドラッグなどが多く、危なくて怖い世界だなぁと思います。
しかし、これらは常識的に考えて言う危なさ・怖さですよね。最近では、このような「悪者」扱いされる人の他に、保険料がどうの、年金問題や裏金など、国家権力内で生きる人々の悪事の方が表に出ることが多くなっている気がします。
しかし、よく考えたらこういう悪事に対しての映画やドラマはありませんよね。豊川悦司さん主演の「弁護士のくず」というドラマや「こち亀」なんかがそうなのでしょうか?

書いているうちに訳分からない文章になってしまいました。すみません。
回答ありがとうございました!

お礼日時:2008/11/14 16:16

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