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以前、仏教についての書籍を色々紹介して頂いたのですが
http://okwave.jp/qa4422313.html

つまるところ、仏教とは最終的に仏となること(無我の境地)。
ということでよろしいのでしょうか?
ようするに、この世における執着(未練)を断つこと。
その為に悟らねばばらない。
つまり、この世とは修行である、と…。

その為に、あらゆる煩悩を絶ち、禁欲にならねばならない(修行に専念?)
正直、思った以上に複雑というか結構歴史が古く(書いてあること自体は単純…のはずなのだが;)、色々な解釈(?)がありかなり混乱しています…;
個人的には原典であるパーリ語の仏典を読むべきなのでしょうが、パーリ語はまだ習得していないので今はちょっと厳しいです;(ただ、仮に読めたとしても私に理解できるのだろうか…)

正直、原典すら挫折しそうです…orz
自分自身正しく理解してるのかどうか不安というか…調べていてだんだん混乱してきました…;

A 回答 (17件中11~17件)

私は素人ですが自分の体験から、およそ仏教の真髄と思われる事を書いてみます。

違うかも知れませんが、その時は教えて下さい。

最初に断わっておきますが、私は悟りを開いたつもりになっています。そのいきさつを書いてみます。

中学二年までは、わがままでひょうきんな子供でした、ある日ふと自分も死ぬのか?と考える事が在りました。そうしてその考えから抜ける事が出来なくなってしまいました。何時も自分が意識するときは「自分は死ぬのだ」と言う事ばかりでした。

毎日飽きもせずに「死にたくない」と言う事ばかり考えていました。毎日、死刑囚が死刑執行の日と言う感じです。今となってはあの頃の自分は馬鹿であったと思います。ですがあの当時はとても辛い気持ちで毎日を過ごしていました。その事ばかりを考えていましたら「生きている感じがなくなってしまいました」毎日が夢の中か、現実か分けわからなくなりました。ですが他の人が自分の事を、おかしいと言わなかったので、気持はもう狂ったみたいな感じですが、辛さを押し殺して普通に仕事をして、生活をしていました。

14歳から苦しみが始まって、27歳で縁が有って結婚をしました。翌年子供が出来て、生活が変わったせいなのか、生活が出来ない状態になりました。その時にたまたま本屋で見た鈴木知順先生の書いた、不安の解決という本を買って来ました。そして直ぐに、田舎から東京の鈴木診療所へ、行きました。

先生は、「””君人間は見ようとすると、見えなくなるのだよ」と言って私の目の前に、一本の鉛筆を差し出しました。入院したらよくなるかもしれない?と言う事を言いました。良くなりますとは言わなかったです。直ぐに入院する支度をして入院をしました。

入院中、悟りを開いた人の話や、道に至った人の話や、免許皆伝の話や、また禅の師匠が「禅」の事を、外人に教える目的で弓道の師匠を紹介して、禅の説明のために暗闇で弓矢を二本射た話、その話の中で一本目の矢が的の真ん中に命中していて、二本目の矢が一本目の矢を割って入っていて、弓の師匠の言う言葉「それはわしが射たのでは無い、それが射た」と言うような話が多かったです。

時折言う事に「ノイローゼは悟りを開かないと治らない」或いは「ノイローゼの一年は、坐禅を十年した事と同じ」といった事を聞かせてくれました。その頃の私にはさっぱりわからなかった事です。そうして四年後の事です、私が32歳の時です、玄関で靴を揃えていた時の事です、自分の自我意識が「無意識の意識」に出会うと言う事が有りました。

その日以来あんなに「死にたくない」と思っていた自分が、今度は「死ぬ時は死ぬだけだ」と思えるようになりました。今までは死を意識して体中に力が入っていました。その時に体中に入っていた力が急に抜けたのを覚えています。これが道元禅師が云っていた、心身脱落。脱落心身というものかと思います。恐れや恐怖のために四六時中体と心に力が入っていました。それ以後生きる事に意識を向けなくなったのです。ただ生きてゆく。という事になりました。

先生の影響で鈴木大拙博士の著作したものを、読んでいたのですが、禅問答の「父母未生以前本来の面目」という事が体得できました。それから28年の年月が経ちます。インターネットなどで神経症を検索した時に、今でも多くの方が苦しんでいる事を知りました。

仏教についての結論です。これは「精神疾患、或いは悩み、苦しみの解消、及び心の究極の癒しの心理学」というものかと思います。その訳を科学的に(専門外ですので当たっていないかも知れませんが、それでも精神疾患を経験していない精神科医よりは詳しいかも知れません)

人間の苦しみといっても、精神疾患といっても全てが同じ原理からです。これは分かってみれば簡単な事です。ですが、分かる事は簡単ではありません。まして説明して分からせる事はもっと難しいと思います。ですので簡単に理屈だけを説明してみます。

人間は子供の時が一番幸せな心を持っています。聖書にもあります。天国に一番近い存在は幼子という事です。仏教でも赤子のような純な心という事を云っています。これは分別をしない心です。幼子は分別をしないのではありません、出来ないのです。これは脳の機能で説明できます。

脳の機能分化がほぼ完成に近ずく頃、いわゆる中二病というものが発生する頃、宗教家が無常を感じて出家をしたいと思う頃です。思春期と言われる頃ですが、左脳右脳の機能分化がほぼ完成に近くなる頃、人間は悩みが始まります。自我意識が芽生える頃です。自我意識が完成に近くなる頃から精神疾患は多くなり始めます。それは知恵のリンゴを食べたことを意味しています。それが「天国から追放されたという意味です」

子供の頃自我意識が完成しない頃、それでも人間は生きる事が出来ます、かえって自我意識が生きる事を邪魔しているように見えます。大人の人間として本当に生きている、或いは幸せを感じている、或いは大いに仕事をしている状態は「自我意識がない」状態と言えます。「我を忘れて懸命にやっている」という事です。

お釈迦様は精神疾患だったと思われます、それは「一切皆苦」という言葉に集約されています。健常者なら「冬の後には春が来る」「暗いトンネルにも必ず出口が有る」という風に、否定の後には肯定的な考えが来ます。肯定と否定が混じっているのが健常者です。

精神疾患は否定に次ぐ否定です。肯定的には見れません、肯定的には生きられません。これが「一切皆苦」という事です。これはどういう事かと言いますと「意識」した事です。意識は左脳の仕事です、分別脳の仕事です。意識して意識から離れられなくなる事が精神疾患になったと言う事です。

不眠症というものが有ります、これは自我意識が眠ろうとしている事です、健常者の場合は、眠れます、これは直ぐに無意識に任せるからです。眠れないのは「自我意識だけで」眠ろうとしていると云う事です。人間は自我意識だけで生きてゆく時に苦しい想いをする事になります。それは無意識を無視、或いは、使わなくなるからです。その時に無視された右脳の意識、すなわち無意識の意識が、自我意識に抗議をします或いはアピールと言った方が良いかも知れません。

普通の生活は、はっきりとは分かり難いのですが、意識と無意識が互いに手を取り合ってうまく連携プレーをしています。精神疾患とはそのバランスが崩れた事を意味しています。「意識」するという事で「左脳の分別脳」一辺倒になってしまいます。この事から全てがうまくゆかなくなります。もう一つの意識がそのバランスを元にしようとします。これが精神疾患の「訳の分からない苦しさ」という事です。

精神疾患は自分で自分を苦しめているという事です。自我意識だけで自分を律してゆこうとする事です。そのためにもう一つの意識が自我意識に目覚めてもらいたいという事で、圧迫を加えます。

禅問答は分別脳には解けない問題です。それは脳の機能から説明できます。分別出来る事とは割り切れるという条件が付いています。自我意識が「心が自由になれない」という事は当たり前の事です。そのように出来ているからです。そして割り切れる問題ばかりなら何も問題はおこりません。ところが人生には割り切れない問題が有ります。

この事が思春期を悩ましくさせています。問題を「自分の心(脳)の何処に割り振ってやれば良いのかが分からないからです。」人生で割り切れない問題は数多くあります。此処では代表的な事を幾つか書いてみます。一番大きな問題は生と死です、その他には感情という事になります。精神疾患の大きな問題点は「自分の感情を」自我意識で解決しようとする事に在ります。これは不可能な事です。また永遠という意味を理解しようとする事も不可能という事になります。分別脳にはその事が理解する機能がないからです。

そこで禅問答という脳の開発プログラムが編み出されました。自我意識が必死で、禅問答に取り組む時に、一生懸命になっても、何としても解けないと分かる時が有ります。それは自我意識が「解けないとギブアップ」した時です。その時に出てきて自我意識の代わりに、自我意識の解けない問題を解いてくれます。その時に出会うもう一つの意識或いはもう一人の自分が「仏性」という事です。キリスト者ならば神と出会う、そして和解するという事になります。

精神疾患と言っても、悩み、苦しみと言っても同じ事です。洋の東西を問いません、それは脳の機能が同じからです。二元論の罠に落ちるという事になります。それは人間の脳そのものが二元論で出来ているからです。

お釈迦様の悟りを直接伝えるという、直指人心見性成仏「言葉を使わないで心から心へ直接伝えてきたという」禅問答について最後に一言だけ書いてみます。

禅問答が解けたかどうかを聞く時に「生死の問題が解決したかどうか?」という言い方をします。解けた時は生死にも囚われない自由な心を獲得できます。人生苦とは心の矛盾の事です。悟りを開くという事は自分自身に会うという事になります。自分自身に会って心の矛盾が解決したという事になります。今の仏教は私ら素人には難しすぎる感じがします。とても勉強している暇などない気がしています。

この回答への補足

お礼が遅くなってすみません;
実は2回ほどお礼の長文を書いたのですが、PC不調(?)のせいか全部一瞬で吹っ飛んでしまい、かなり凹んでました…orz
少々時間を下さい。
しばしお待ちを…。

補足日時:2008/11/12 04:32
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No1です


色即是空、空即是色には他に逆も真なりの意味も有りますよ(^^)
どのような宗教であろうと否定だけではいけません、どんな宗教でも必ず良い所いは有るのです
昔お坊さんが活躍する漫画が有ったのですがその中で、悩んだ僧に先輩の僧がかけた言葉です、私は日蓮宗ですがやはりお経の中に出ていましたマンガは日蓮宗ではなかったのですが色々な宗派のお経に出ているとしたらこれが仏教の真髄ではと考えます
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この回答へのお礼

>色即是空、空即是色には他に逆も真なりの意味も有りますよ(^^)
あら、そうだったんですか。
色々な解釈があるそうで、複雑ですよね;

>色々な宗派のお経に出ているとしたらこれが仏教の真髄ではと考えます
う~む…。良きものは良い…ですかね。
その為には「寛大な心」と「見抜く心」(悪いものと善いものを)が必要ですね(例えて言うなら「正しく受け入れる」ですかね)。
ある種、その為の仏教(心の修行)なのかもしれませんね。

お礼日時:2008/10/31 21:32

<<どうも西洋哲学の癖で私は固定観念(理屈?)に捕らわれ過ぎていたようです。

むろん、ものを実証する上では非常に重要で仏教もその部類だと思うのですが、どうも仏教は諸行無常や色即是空に現れているように、抽象的なものもありのままに捕らえ検証・実証しようとする試みがあるのか、のらりくらりとしていて何処か雲を掴むような奇妙な感覚になります。>>

(1)一般的な範囲の論理的(学問になるといろいろ矛盾などが出てくるのでw)に問題無いか

(2)実際的現実的に則さない面が無いか

この項目で自己の理性で鑑みて引っかかったら調べる価値を見出さないでしょうね

次いで、仏教で実証する際に重要項目の一つに「今ここにデータがあること。」と言うのがあると思います。だから抽象的なことは扱わないの
が通常と思います。

検証はデータがないとなんともならないですからねw
ここのところもいたって科学的な思考ですね。

その人の扱えるデータの範囲精妙さはどれだけ観察能力磨いたかによるものでしょうね。

冥想と言われるものはこの観察能力、いうなれば、顕微鏡の精度を筋トレするみたいに上げたり、邪魔な要因を無くしたりするものと理解したら解りやすいかもしれませんw

<<仰るとおり肩の力を抜き、私もリラックスして、読む必要があるのかもしれませんね。>>

そうですね。楽しく集中力・興味を持って読んだほうが理解も出来ますし、記憶にも残りますよね。観察時も緊張と焦りは邪魔な要因となるでしょうからね。

微笑みの絶えない道を歩んでいきましょうw

ではノシ
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この回答へのお礼

個人的に仏教を読んでいて思うのは
【西洋哲学】
西洋哲学とは「語りえぬものについては沈黙しなければならない」のウィトゲンシュタインに代表されるように、不可解なものを徹底的に廃し、その中から論理的に構築できるものから構築し、徐々に思考を拡大させていくのが大よそのやり方です(あくまで極論ですが)。
宗教とは違い、あくまでも学問としての実存を追求するのが西洋哲学のスタンスとなります。

【東洋哲学】
逆に東洋哲学では西洋哲学が切り捨ててしまいがちな「心の動き」にも着目し、それを論理的に考察しようとするのが仏教の真髄なのかなと思いました。
最近では、西洋哲学も環境要因(外的要因)の研究が進み、内的要因(心の動き)についても見直されるようになりました(フロイトに始まる実証的心理の探求(心理学の発達)もその一種と思われます)。
その中から仏教などの東洋思想も着目されるようになりました。
人間の場合、さらに複雑な構造プロセス(思考回路を含む)を踏むので、「心の動き」はさらに難解なものとなるでしょう。
仏教は内(内的要因)へと向かっていくような、どちらかといえば哲学というより心理学かなと私は捉えています。

両者のプロセスは違いますが、ただ最終的には希求してるものは同じかなという気もします。
私が感じてる違和感は恐らく対象が難解である人の心へと思考が拡大したことに対する、一種の戸惑いなのかもしれません。
まぁ、色々と心は雑念が多いからですね(苦笑)、それを断つ為の瞑想であり修行なのかもしれません。

お礼日時:2008/10/31 21:23

仏教とは一言で言えば、「生命哲学」と言うところでしょうか。


仏教は元々、説かれた当時は、決して信仰の対象ではなく、我々自身の生命というものを十界論や三諦論等で事細かに解き明かした哲理であり、我々の眼では捉えられない生命の実像、真理というものを我々に教えるための一種の学問であったのです。
そのことを端的に解き明かしている経典が、実は法華経なのです。
そして、それ以外の膨大な経典は、当時、説法を聞く人々の性格や理解度が十人十色だったため、その人たちのためにその法華経に説かれていることをいわゆる補足説明的に説くための補助教材みたいなものだったのです。
ですから、それらはたとえ仏教とは言っても部分観に過ぎず、法華経を学ばなければ活かされない偏頗なものとなってしまうのです。
法華経こそ仏教の原点、根幹であり、それ以外は枝葉でしかないので、真実を捉えたければ、まずは法華経を学ばれればよいかと思われます。
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この回答へのお礼

仰るとおりインドの原始仏教は哲学や宗教というより「心理学」に近かったと思います。
どうしてこんな風に(現代のように)なってしまったのか…。

法華経というと大乗仏教の経典でしたかな。
原始仏教の仏典が読み終わり次第ちょっとそちらも読んでみたいと思います。
アドバイスありがとう御座います。

お礼日時:2008/10/30 20:30

<<つまるところ、仏教とは最終的に仏となること(無我の境地)。


ということでよろしいのでしょうか?ようするに、この世における執着(未練)を断つこと。その為に悟らねばばらない。つまり、この世とは修行である、と…。>>

我々は無知により物事に執着し悩み苦しみを多く持ってますね。その悩み苦しみを無くすために目立つ原因からやめていき(悪をなさない)、作りやすい善い原因から順に作り(善に至り)大元の心の問題を解決し理性を育む(心を清らかにする)ことと思います。最終的には悩み苦しみの根源の心の捏造する働きを止めることでしょうね。

「修行だ!」と強張る必要は無いと思いますよ。

「悩み苦しんでるでしょ?悩み苦しむ原因を無くして、もっと気楽に軽く助け合って生きれるようにこんな工夫してみたらどうかな。」という教えだと思いますから。気楽にいきましょう。

ブッダもオススメする「集中力」も「楽しみ」と同じくくりの言葉です。不放逸は今行っていることについて集中しきちんとこなすこと。善い行い(と普通の行為)に行為に楽しみを保つことです。

楽しみが無ければ人は成長しないですから。楽しみは大切です。

人生に必要なものを「楽しむ工夫」をしてみては如何でしょう。何か必要な役に立つ勉強するときも仕事するときも歯を磨くときも単純に身体を動かすとき(歩いたり手を伸ばしたり、ご飯食べたり)も興味を持って…、根拠は善くわからないけど「なんとなく楽しくなる」ことも出来るでしょう。そんな風に気楽に楽しんでみてください。

集中力と落ち着きが生まれると思います。


詳しくは
サンガ新書「ブッダの集中力」「仏教の正しい先祖供養」
「ライバルのいない世界」をオススメします。

<<その為に、あらゆる煩悩を絶ち、禁欲にならねばならない(修行に専念?)>>

日常の中で楽に出来る範囲からやれば善いんですよ。そしてたまに仏陀の推薦項目から出来るかなと思うものにチャレンジ(今日は午後の食事抜いてみようとか)してみたり。そうして自分の出来る範囲が広がっていくと思いますから。

何か多くもらったものがあるから近所に配ろうかなとか、安くて善いもん見つけた!皆に買っていってやろうとか。徐々に徐々に。

あまり抑圧すると後で暴発しますからね。気楽にゲームでもやるかんじでやれば善いとおもいます。

笑顔が絶えないのが仏教ですからねw

親孝行とか募金とかちょっとしたゴミを拾ってみるとかw
布施行は結構楽しいですよ。

他にもブッダが推薦する実践項目はいっぱいありますから、やりやすいものを選んで楽しくやってみればもう仏陀の道を歩んでいることになるんですよ。

仏陀の説いた道は、禁欲っ!!!!!と凝り固まったがちがちに緊張して抑圧するような道じゃないですからね。

<<正直、思った以上に複雑というか結構歴史が古く(書いてあること自体は単純…のはずなのだが;)、色々な解釈(?)がありかなり混乱しています…;個人的には原典であるパーリ語の仏典を読むべきなのでしょうが、パーリ語はまだ習得していないので今はちょっと厳しいです;(ただ、仮に読めたとしても私に理解できるのだろうか…)>>

厳密に概要を一通り知りたいなら、やはりサンガ出版の「仏法」などで一度、八正道の概要などを確認することをオススメします。難解でもないと思いますので。間違いも無いと思いますよ。

パーリ語がわからなくても前の質問でオススメしたものは大抵日本語訳されているものですから読めますよ。スマササーラ長老の書籍はかなり解りやすいですから心配ないと思います。

ポッドキャストでも無料で音声を聞けますから、そちらもオススメしますよ。

納得がいったところからその中でもやりやすいものから実験してみれば善いのですよ。完璧主義みたいになるのも一つの汚れですから、気楽になさってみてください。

パーリ語の仏典の善いところは「納得できること」に尽きると思いますw論理的で道徳的実証的な理性的な教えですからね。具体的な実践項目も、その結果得られる効果も余す事無く語られていると感じます。今ここで実証できるものですw

<<人生とは一体何なのか?その目的とは?という問いに、明確な答えは今だ出ていません。>>

「もともとある人生の目的」その問いは答えの出るものではないと思います。結局は一人一人が概念化するしか出来ない性質のものですよね。データが今ここにないものはどうしても明確な答えは出ないでしょう。「もともとある目的と言うものは無い」と言ったほうが理性的な見解と私は思いますよ。

「人生とは・生きるとは何なのか」なら今ここにデータがありますから何とかなると思いますし、仏陀の教えの中にそれを観る方法が説かれていると思います。徐々にやっていけば善いと思います。落ち着きと集中力が備わらなければ観れないでしょうから。気楽にゲームするように実験していきましょう。
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この回答へのお礼

毎度アドバイスありがとう御座います。
誠にかたじけない…。

>「修行だ!」と強張る必要は無いと思いますよ。
>「悩み苦しんでるでしょ?悩み苦しむ原因を無くして、もっと気楽に軽く助け合って生きれるようにこんな工夫してみたらどうかな。」という教えだと思いますから。気楽にいきましょう
仰るとおりです;
真実を追うあまりつい力んでいたかもしれません;

>楽しみが無ければ人は成長しないですから。楽しみは大切です
なるほど。

>サンガ新書「ブッダの集中力」
>「仏教の正しい先祖供養」
>「ライバルのいない世界」
ありがとう御座います。
是非とも読ませて頂きます。
私はどうも勘違いしていたようです;

>厳密に概要を一通り知りたいなら、やはりサンガ出版の「仏法」などで一度、八正道の概要などを確認することをオススメします
そうでしたか。
ちょっと読んでみます(新品しか出回ってないのが辛いですが:笑&苦)。
ポッドキャストも探してみます。

>スマササーラ長老の書籍はかなり解りやすいですから心配ないと思います
一日一悟はかなり読みやすかったですね。
しかし、その分だけなかなか書いてあることは深いと思いました。

どうも西洋哲学の癖で私は固定観念(理屈?)に捕らわれ過ぎていたようです。
むろん、ものを実証する上では非常に重要で仏教もその部類だと思うのですが、どうも仏教は諸行無常や色即是空に現れているように、抽象的なものもありのままに捕らえ検証・実証しようとする試みがあるのか、のらりくらりとしていて何処か雲を掴むような奇妙な感覚になります。
仰るとおり肩の力を抜き、私もリラックスして、読む必要があるのかもしれませんね。

お礼日時:2008/10/30 13:17

 ★ つまるところ、仏教とは最終的に仏となること(無我の境地)。

/ ということでよろしいのでしょうか?
 ☆ おもしろいことに 無我の境地になっていなくとも 《結局》のところを 想像しておられることです。すでに 予感すらあるのかも知れません。
 ★ (No.1お礼欄) 私は西洋哲学も学んでいますが、人生とは一体何なのか?その目的とは?という問いに、明確な答えは今だ出ていません。
 ☆ 《人生にとって 結局のところ 最終的に 何を目指すか》 この問いを立てて すでに 精神=身体に 感じられ想像されるところを 探究していかれればよいのではないでしょうか。知識の多寡は ありますが 境地のちがいは それほど ひとによって 違うとも思えません。

 ひとつの助言です。
 ★ ようするに、この世における執着(未練)を断つこと。 / その為に悟らねばならない。 / つまり、この世とは修行である、と…。
 ☆ これは たぶん まちがいです。めざす境地に達することが 先です。そうすれば 執着を断つことができます。というよりも そのときには 執着が消えています。終わりから始めてください。
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この回答へのお礼

>《人生にとって 結局のところ 最終的に 何を目指すか》 この問いを立てて すでに 精神=身体に 感じられ想像されるところを 探究していかれればよいのではないでしょうか。
>知識の多寡は ありますが 境地のちがいは それほど ひとによって 違うとも思えません。
仰るとおりです。
ですが、霧の中…。
なかなか難しいですね;

>めざす境地に達することが 先です。そうすれば 執着を断つことができます。というよりも そのときには 執着が消えています。終わりから始めてください。
う~む…なるほど;
いやはや悟りの境地とは難しいですな;
ご助言ありがとう御座います。

お礼日時:2008/10/30 12:41

私なりに考えたことを書きます


仏とはあなたの心の中に有る迷いを発生させている物です
例えば禁欲に関してもお坊さんは結婚して子供のいる人もいます
宗教とは心のよりどころでなければなりません、
つまり仏教どうのこうのよりあなたにとって心のよりどころに慣れればどんな宗教でも構わないのです
現在の仏教は分化しすぎてどれが本来の仏教と言い切れません
バーリ語でもはたしてあなたの悩みの解決になれないと思います
シキソクゼイシキ、クウソクゼイシキ≪すみません漢字忘れました≫この中にあなたの答えが有るのではないですか?
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この回答へのお礼

仰るとおりですm(_ _)m
ただし、その拠り所(心の)は正しくあらねばなりません。
その正しい在り方とはいったいどんな状態なのか…。

>バーリ語でもはたしてあなたの悩みの解決になれないと思います
おっしゃる通りだと思います。
ただ、何かヒントだけでも掴めれば…そんな思いです。
私は西洋哲学も学んでいますが、人生とは一体何なのか?その目的とは?という問いに、明確な答えは今だ出ていません。

空即是色、色即是空ですね。
う~む…まさに真実は霧の中。
しかし、私は真実を捉えたい。

お礼日時:2008/10/30 01:25

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