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中2です。
江戸時代、もし、日本がキリスト教を禁止しなかったら
江戸時代の日本はどうなっていましたか?
できるだけくわしく、簡単に教えてください><!

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A 回答 (6件)

意外とどうもならないかもしれません。


現代の日本は当然信教の自由が保障されていますが、それでも全人口に
対するキリスト教徒の割合は1%にも満たないそうです。
日本の伝統的風土にキリスト教(というより一神教)が根付かないのです。
確かに戦国時代から安土桃山時代の一時期に爆発的に拡大した事はありますが、
長い目でみればたとえ禁教になっていなくてもいずれ淘汰されたのではないでしょうか?
本来は外来宗教である仏教がそうであるように、日本の風土に合わせて作り変えられた
似て非なる宗教としてなら残っていったかもしれませんが。
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歴史に「もしも」はありえませんが、想像してみるのは楽しいですね♪



私は神道と仏教とキリスト教がいっしょくたになった日本を考えてちょっと楽しくなりました。
お寺の中に神社がある風景は日本では当たり前ですが、
仏像と並んでマリア像がまつられてたりして。

長崎の方だったと思いますが「マリア観音」というのをテレビで
見たことがあります。
仏像が入っているような厨子をあけるとマリア像が安置されているのです。
こういうのを考え出した日本人ってすごい、と思いました。

実はキリスト教は1549年、フランシスコ・ザビエルによってもたらされたのではない、という説があります。

15代応神天皇の時代に、渡来人の秦(はた)氏によってすでにもたらされていたという説を、佐伯好朗という人が唱えています。

秦氏の本拠地は京都の太秦ですが、太秦と一字ちがいの大秦は漢語でローマ、
太秦にある広隆寺は別名を太秦寺といいますが
太秦寺と一字違いの大秦寺とはキリスト教の一派である
ネストリウス派キリスト教寺院を漢語であらわしたものだそうです。
ネストリウス派キリスト教は漢語では景教といい
平安時代、空海が遣唐使として唐へわたったころ、
唐にはこうした景教寺院がたくさんあったそうです。

平安時代よりももっと昔の応神天皇の時代(3世紀ごろ)、
弓月君(ゆづきのきみ)という人が大勢の民を率いてやってきたということが日本書紀や古事記に書かれています。
当時中央アジアに弓月王国という国がありました。
弓月王国はキリスト教国で、秦氏は弓月王国からやってきたのではないかと佐伯氏はとなえました。

聖書をお手本にして日本書紀や古事記は書かれたともいいます。

トンデモ説だという人もいますが、日本神道とキリスト教って
とてもよく似ているのですよ。
キリスト教が広く日本人に受け入れられたのはそういう背景があると思います。

現代人がキリスト教の行事であるクリスマスをすんなり受け入れているのも
そういうベースがあるからかもしれません。

楽しい質問をありがとうございます。
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キリスト教というカルト教団によって日本が滅ぶ。


日本にあった神社仏閣が全てぶち壊されてその跡地に教会が建てられます。
東大寺や法隆寺などの文化財が破壊されて教会が建ちます。

明治時代のように廃仏毀釈で全てを破壊し、神仏統合令をすべてキリスト教にしようとしたこと。
明治は廃仏毀釈に神仏統合令で日本を崩壊させた戦争へ突き進みます。
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それは宿題かな?


宿題だとココでは回答できないお約束なんですけど。
中2ということで考えると、
江戸時代は既に戦争(内戦)をしなくなっていたので、武士が武士の
地位を守るために身分制度を厳格にする必要がありました。
また経済を安定化させるために経済の中心である米を安定的に
生産・供給する必要がありました。そのため農民が農業から逃亡しない
ように(町に出て商売をしたりすることをしないように)身分を固定する
必要がありました。これらの考えから士農工商という身分制度が確立されます。
キリスト教はこれら身分制度を崩壊させる可能性を持っていましたから、
最悪の場合、農業を基本とした経済が崩壊し、武士が権力を失い、
民主主義運動が起こって社会が大混乱に陥り、結果的に日本は経済力も
軍事力も弱体化して、イギリスやスペインに侵略されていたかもしれません。
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>キリスト教を禁止しなかったら?



この場合、「鎖国をしなかったら」という事も含むのか含まないのかによって、状況がだいぶ変わってしまいます。
キリスト教の布教を許して、鎖国をするという事が考えられないからです。
キリスト教の禁止、鎖国の両方が無かった場合、東南アジア方面での日本人の活躍がかなりあり、華僑だけではなく、日僑などという言葉もひろがっていた事でしょう。
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白人の植民地になっていました。



大航海時代の頃の日本は戦国時代であり、強力な軍隊があったために白人が武力で日本を侵略することは困難でした。しかし、江戸時代になると武力は低下し、侵略を受ける可能性が高くなります。それを防ぐための鎖国であり、キリスト教の禁止だったのです。

キリスト教の宣教師は、単に宗教活動を行うだけではなく、日本を侵略するための偵察を行っていたのです。日本人であってもキリスト教徒がスパイとみなされたのは致し方ないことでしょう。
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Q江戸時代はなぜキリスト教はNGだったの?

日本は仏教が中心ですが、キリスト教信者もいます。キリスト教に篤い学校・老人施設・病院などもあります。
しかし、江戸時代はキリスト教は禁止されていました。キリスト教を信仰すると罰を受け、踏み絵などキリスト教信者を見つけては処罰という制度もありました。天草四郎を中心とした島原の乱も起きるなどしながらもキリスト教は禁止されましたが、隠れキリシタンも多数存在していました。
で、いったいなぜ江戸時代はキリスト教が禁止されていたのでしょうか???

Aベストアンサー

江戸幕府のキリシタン禁制は慶長17年(1612)、幕府直轄領での禁制、翌18年に、全国さらに外国まで広げたものですが、キリスト教禁令にはさまざまな要素があります。
 キリスト教布教当初から信仰が拡大するにつれ、キリシタン大名領では神社仏閣の破棄が行われました。そのことから民衆側からもキリスト教を邪教視する風潮がありました。同時に寺社の破棄は、日本の伝統的倫理観の破壊と恐れられたのでしょう。

 次に創造主の元の平等、つまり創造主の絶対性ですが、それが日本の封建領主の倫理観とは相容れなかった。欧州では支配者と創造主は同一であるという「神権政治」、そこから発展した、王の地位は創造主より授けられたものという「王権神授」という伝統的倫理観が土壌にあります。そのような倫理観がない世界(日本)に創造主の絶対性を重んじる思想は、主君・領主への忠誠より、創造主への忠誠を優先させます。このことが天下統一のさわりになると、豊臣秀吉は天正15年(1587)に禁教令を発します。

 さらには外交政策の面。徳川家康は和平外交を進めるため、当初は信仰を黙認していましたが、慶長5年、オランダ船リーフデ号漂着により、プロテスタントであるオランダ・イギリスと交渉開始。日本市場の拡大を図るため、ポルトガル・スペインの締め出しを計画。そこでカトリックへの不利な情報と中傷を行いました。つまりカトリック国の侵略的意図。信徒を利用した反乱計画などをは、当時の幕府としては「天下統一のさわりになると」いう危惧をより拡大させました。禁制により教会の破壊・宣教師の国外追放。信徒の東北・蝦夷地への放逐などが行われました。
 徳川家光はさらに厳しく禁制を行いますが、寛永14年(1637)の島原の乱による衝撃から、鎖国政策の徹底とキリシタン弾圧はより強固となります。
 カトリックの海外布教は、プロテスタントに対する対抗措置という面がありました。その点、海外布教を重視していないプロテスタント国とは幕府は貿易を行えたのでしょう。

参考
『国史大事典』(吉川弘文館)

 ただし、禁制も太平の世が長く続くことで形骸化していき、当初はキリシタン監視の意味でもうけられた寺請制度も、寺院側からすれば「檀家としての勤めを果たしていれば、裏でキリスト教を信仰していても黙認する」という事実もありました。領主も「良き領民としての勤め」を果たす限りは信仰も黙認状態でもありました。キリシタンであると暴露しても、領主の監督不行届と罰せられる危険性があったからです。
 現在でも「カクレキリシタン」の家では、寺院の檀家であり、神社の氏子であり、家には仏壇・神棚が祀られて、同時にカクレキリシタンである。その信仰体系は仏教・神道・民間信仰とキリスト教が混在した、いわゆるカトリック・プロテスタントとは異なる信仰形態ですが、キリスト教公認以後も、カトリック・プロテスタントに改宗せず、先祖が守ってきた信仰として「カクレキリシタン」として守り続ける家があります。

資料
『オラショ―魂の通奏低音 カクレキリシタン』(宮崎賢太郎・長崎新聞社)
http://www.nagasaki-np.co.jp/jigyoubu/book/kakure_book.html

『カクレキリシタンの信仰世界』(宮崎賢太郎・東京大学出版会)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4130104020/250-7207972-6663457

江戸幕府のキリシタン禁制は慶長17年(1612)、幕府直轄領での禁制、翌18年に、全国さらに外国まで広げたものですが、キリスト教禁令にはさまざまな要素があります。
 キリスト教布教当初から信仰が拡大するにつれ、キリシタン大名領では神社仏閣の破棄が行われました。そのことから民衆側からもキリスト教を邪教視する風潮がありました。同時に寺社の破棄は、日本の伝統的倫理観の破壊と恐れられたのでしょう。

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