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質問に先立って前置きです。
悪は概念のみであり空絵ごとです。
罪もまたそうです。
欲望は私には正体不明です。
「この世」という言葉がありますがこれが何を表すかというと、空想の産物たる「あく」「罪」などが実在する幻の世界です。
脳の空間を認識するの産物で自らの心の中だけの空想の産物です。
夢を見ながら彷徨っているのだとお考えください。
夢の中に閉じこもっているのです。

現実と「この世」は異質であるとの前置きでそれでは現実たる「この世界」に信じるに足る真実とは何でしょう。
現代人はそれこそが愛であると学んでいます。
そこで心情において問題になるのがその「愛」は確かめた上で信じているのか、判らないで(時には判ろうともしないで)盲目のまま信じているのかです。
後者は信仰でなくとりすがりです。

一応「愛」を引き合いに足りましたが、信仰に限らないで「この世界」とはいかなるものとお考えでしょうか。

A 回答 (34件中1~10件)

質問者さんと同様の疑問を持った人物が400年ほど前に居ました。


名前をルネ・デカルトといいます。高名な数学者である彼は
様々な遍歴の後、ある真理へとたどり着きます。



全ての存在が虚偽であるとしても、
そのように疑っている意識存在、我だけは確実に存在している。



つまり、
『我思う、故に我あり(コギト、エルゴスム)』
です。この発想の瞬間こそが中世の終わりでした。
この言葉が全ての近代哲学の源流となり、
結果として人類は数千年続いた盲たる時代が終わり、
そして宗教の呪縛から逃れ『個』を手にすることとなったのです。



もちろんこの言説、特にエルゴ(ergo,故に)が正しいのか、
については今日に至るまで議論が続いています。ですが、そういった
考えの上でも"この世に存在するかもしれない絶対的なもの"、
を探すにあたってはまずそれを考えている自分の存在を
認めなければなりません。

その上で、外部の世界と自分の世界の関係性を
一つ一つ検証していくことで、多くの問題は
解決できるのではないでしょうか。

この回答への補足

質問の判りにくいだあろう箇所の補足です。
「この世」と現実の対比だと無神論的思想丸出しなので今回の趣旨のそこに信じるものはあるかが判りにくくなると主って「この世」と「この世界」を境界があいまいなまま対比させました。

補足日時:2008/11/27 21:35
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
デカルトといえば有名人ですが私はそんな初歩的な思想の内容すら無知でした。
ご回答の後半にありご回答者さまご自身の見解も適切です。

お礼日時:2008/11/27 21:35

 bragelone です。



 考えるに そもそも 《信じる》のは 《この世界》を超えたところのことです。しかも 《この世界》において《信じるに値するものは何か》という問いでしょうか。

 そうですね。
 ○ 存在です。
 ☆ でも 存在は 抽象的ですから
 ○ 現実存在 つまりいわゆる実存です。
 ☆ しかしながら それらは 言わずと知れた移ろいゆくものです。
 ○ その移ろいゆく存在からも 発せられる心のことば です。
 ☆ これを わたしは 信じるに値すると考えます。どの国ないし民族の言語にも属さない心のことばです。けれども あるいは まだ そのような言葉にも わたしたちは 欺かれるかも知れません。《信じるに値する》部分はあるでしょうね。

 たとえば 自民党を信じない。官僚を信じない。というとき いや いやしくも人間であるのに あたまから信じなくていいのか? という言葉を 胸の底から聞きます。そういうたぐいの言葉です。
 そのときには 腐った人間でも信じよう・愛していこうという気持ちを持とうとした場合に その反面で 公共的ないきどおりをも 感じていることがあります。この公憤は 心のことばであるかも知れません。
 それらには 多少とも 《信じるに値する》部分があるかと思います。

この回答への補足

本当はA1のwiz0621さんへのご回答ですが、失礼します。
wikiわれ思うゆえにわれあり。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%91%E6%80%9D% …
たとえば寝ている間に自我不在で寝返りを打つことは誰にでもあります。
いろいろ自らが人体実験をしていますが自分自身が不在のままの思考やその痕跡としての反応はあるみたいです。
検証法として全てを疑うことで確かめられるのが真理の輝きなのかは私自身は疑問です。
私は逆に全てを信じる行いに挑戦しています。

このコメントは論戦を仕掛けているのでなく個人的な備忘録です。

補足日時:2008/11/27 22:01
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この回答へのお礼

brageloneさん。ご回答ありがとうございます。
私がかつて苦闘した人間を信じる行いの解説ですね。
私は頭ごなしに体当たりで人間を信じようとしました。
brageloneさんのコメントの場合は、そこに考える行いが含まれていますが、私だって未だその全てが認められないもろさがあるので、ご判断は適切でしょう。
実存が移ろい行くことはそれを信じない理由にはならないかもしれませんが、そういえばかつて鬼神が「魂」といえばそれは永遠に純粋なまま変わらないと言っていました。

お礼日時:2008/11/27 21:47

「この世界」とは「変化」ではないでしょうか。


信じられるものは、変化するということしかありません。
夢の中の安定とその土台たる変化にただただ驚いてます。

この回答への補足

bananasandさんへの反応でなくこの質問そのものへの補足です。
よそで私が出したコメントです。

日本人は信仰の中で「絶対」と言う言葉の使い時を知らないのでしょうね。私も純粋な光が絶対の存在であるかどうかには関心がありませんので確かめようともしません。私は以前に自らの心の究極の姿について、「その背中は自らの存在に疑いを持ったことがないので、疑問めいた問いかけに答えようが無い」と、表現したことがあります。

何が言いたいかと言うと。
自らの本質の姿は絶対であり、それは内包している。
とでも言いましょうか。
デカルトの試行錯誤ではまさにその不変のものお確かめたのでしょうが私はそうではなく、この世界の全てを問いたいのです。

補足日時:2008/11/27 22:51
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
感覚的に、いい感じですね。
でも夢の世界だけ安定しても安住できないんですよ。
私の心境ではそうです。
永遠も真実も確かめきっていないとでも申しましょうか。

お礼日時:2008/11/27 22:47

遊び場じゃないですかね。


概念があるので心理が働き、それによって行動がかなり制限されていると思います、社会ですね。
生まれた所が束縛的な社会ならもう仕方ないです。
遊ぶ事が人の本質だと私は思いますので、制約をものともせずに遊ぶ。
もちろん困難は多いと思いますが、その困難も含めてその上でいかに自由に遊べるかという精神的肉体的試練場のような究極の遊び場だと思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
質問の趣旨を理解した上でのご回答とお見受けします。
いい感じですね。
十分健康的なご回答だと思いますよ。

お礼日時:2008/11/27 23:34

関係ない話かもしれませんが、私なりに書き込みします。



以前、一語の辞典(天)という本を読んだ記憶では、古代中国で周が殷を滅ぼした時、「天が我等に勝利をもたらした、天を信じなさい」といった類の表現で民を支配したようなことが書いてあったように思います。

私はそういった意味合いで、(愛)も宗教や商業界が便宜的にばら撒いたもののように思っています。

そこら辺を整然とさせてから、(この世界)の思想、観念を試みたらよいのではないでしょうか。

より明確な回答を示してくれる方が結構居られるのではないかと思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
「愛」を引き合いに出したのは無神論者全体が受ける誤解を回避する意味もありますが、現代においては大勢では確かにそうだとも思っています。
思ったよりもいろんなご意見が集まってうれしいです。

お礼日時:2008/11/27 23:24

質問者さんは「愛」とか「絶対」とか「永遠」とか、どうも西洋崇拝が骨まで染み付いている方のようですね。

お釈迦様は「執着」が諸悪の根源であると説いておりますが、愛は執着の権化ですね。日本人には「ゆくかわのながれ」の中に真実が在ると見抜きました。これは永遠や絶対とは対極の発見ですね。西洋人の絵画の中には渦が書かれることがほとんど在りません。渦は一次的な存在であり、永遠と相容れないからです。一方、日本の絵画でも中国の絵画でも昔から渦は絵画の中心テーマの一つです。

質問者さんが西洋崇拝に陥ってしまい、我々の先人達が石に齧り付き血の涙を流しながら見つけ出してきた智慧に興味を持たないのは何故なのでしょうか。明治政府が自分たちを正当化するために、江戸時代以前を糞味噌に言ったことを真に受けてしまったからなのでしょうか。それとも、西洋人との戦争に負けてしまい、自信を完全に喪失してしまったからなのでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
自らの思索の助けとなる回答とはいえませんが批評として尊重させていただきます。

お礼日時:2008/11/27 23:31

漠然とですが、信ずる対象がモノのように想定されているところに問題があるように思います。

究極的には固定されていない状態のようなものが対象になるのではないでしょうか。言葉自身がすべてをモノ化する働きを持っていますから、限界がありますが・・・。
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この回答へのお礼

ご回答有難うございます。
そうですね。まづ、この世がドグマであることが一般にどのくらい説明しきれるかとも関係しますが、有益なアドバイスをありがとう御座いました。

お礼日時:2008/11/28 19:31

 primeapeさん なにかあたらしい《魂胆》がお有りなのですね。



 ★ (No.3お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 何が言いたいかと言うと。
 自らの本質の姿は絶対であり、それは内包している。
 とでも言いましょうか。
 デカルトの試行錯誤ではまさにその不変のものを確かめたのでしょうが私はそうではなく、この世界の全てを問いたいのです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 自分の経験からしか類推できないのですが ブッディスムは 案外と言いましょうか当然と言うべきでしょうか 《〈この世界〉の全てを問》うていると思います。
 アウグスティヌスによると 蝿も蚊も 存在は善であり 意義があると言います。
 このような ブッディスムの見方も アウグスティヌス見解も いちおう 実践してみたのですが 早く言えば 体調を崩す結果になりました。やり方が悪いのだと思いますが そんなこんなで どのようにお答えすればよいのか 分からない状態です。
 
 ただ おっしゃるように 《〈この世界〉の全体をそのまま受け容れ 信じるに足ると想定する》ということは 《〈この世界〉のすべては いっさいが 移ろい行くものごとであって 信じるに値しない》と見ることと――表現の問題で争わないとすれば―― 同じような地点にいるとも言えます。のではないでしょうか。
 このあとの展開は まだ 分かりません。

この回答への補足

知っても知らなくてもいい技術論なんですが。
ブッディスムの見方も アウグスティヌス見解も いちおう 実践してみたのですが 早く言えば 体調を崩す結果になりました。

無意識の出すこの試みへの答えは「欲望を強引に運命に合致させようとする試み」です。

私も試しました。
これを試すと何かが壊れます。それが体調だったのでしょう。
私の場合狂気が攻めて来る現象として日常茶飯事です。
あまりにもわかりやすい言葉で語っているため、欲望すら悟りえるがけして相容れない、そのためです。
ちなみに何かが壊れる、には物が壊れることも含みます。経験世界の外側でも別にモノは手に負えないわけではないんですよ。

補足日時:2008/11/28 22:31
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この回答へのお礼

ご回答有難うございます。
移ろい行くこの世界の現象の根幹といいますか、人として認知できる情動や感情の根幹といいますか、それは現代人は「愛」と知っていますが、それが正しいかどうかは私にもわからない状態です。
それを試しているともいえますが愛を探すのか自分自身の本質を探すのか、果たしてそれらは一致するのか、そんな感じでして、様々なご意見に応えていく勉強から色々と学び始めようとしています。

お礼日時:2008/11/28 19:36

「この世界」とはいかなるものとお考えでしょうか。



大勢の幼稚園児が砂場でがやがやと「おままごと」している姿が「この世界」ですね。親や親たちがそれをやさしく見守っているというのが「愛」ですね。幼稚園児が砂場で喧嘩したり、好きあったり、持ち物を交換したり、砂山を作ったり、壊したり、たまには殺しもあるけどそれも「おままごと」舞台劇の余興でね。仏からは「この世界」はそのように見えるようですね。それに気が付いた哲学者は幼稚園児を「無知の知」と表現したということでしょうか。つまり、有る様で無い仮の世界でしょうね。
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この回答へのお礼

ご回答有難うございます。
健全な認識の仕方ですね。
心象表現ともいえるご回答ですが、童心に返れるのは幸せなことでしょう。
ご回答としては簡潔に表現できるほどわかっている証拠だと思っています。

お礼日時:2008/11/28 19:39

<<信仰に限らないで「この世界」とはいかなるものとお考えでしょうか>>



起こっている現象が何らかの法則によって次から次へと変化生滅し続けるものと考えてます。

それを感覚を感受するシステムによって知り、「好ましい・好ましくない・好ましくも好ましくなくも無いという」三つのどれかにに振り分けそこに個人個人の概念や嗜好などをのせて、捏造して、欲や怒り無知の感情を抱きそれによりさらに個人の概念を捏造の概念を構築していくものと思います。

これを誤知という人もいます。

たとえ同じ情報を観ても違う感情を持ちますね。気持ちい・気持ち悪い・ゴミだ・ご馳走だ…

<<この世界に信じるに値するものは何か>>

ある範囲を持って根拠を持って語られたもので、実際に現実的にどのように実験検証してみてもそのようになるもの。その中でも苦しみを悩みを増幅させることを勧めず、苦しみの減少・滅を勧めるもの。ですかね。

捏造しまくりの概念抱きまくりの生命ですから、そのようなものをなかなか発見できませんから、自分の理性で道徳的に論理的に実証的に柔軟に自己の見解を反証可能な姿勢を持って徹底的に科学的に構築していくより無いですね。

信じると言う働きが強すぎると「私は正しい他は間違っている」という自己の見解にしがみ付いてどのような事実を突きつけられても反証を受け入れないようになってしまうので注意が必要です。そちらの見解に沿った思考しか出来なくなる危険性があります。

だから上記したように己が理性を最大に活かした範囲をと根拠において反証を受け入れる姿勢で、根拠の有る自信・確信をすれば問題は起こりにくいと思います。

このように考えました。

お役に立てば幸いです。
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この回答へのお礼

ご回答有難うございます。
長文の割りに見解や考え方がまとまっていて、ご自分の意見をよくご承知なのだと感じました。
それだけでもすばらしいことです。
「この世」のドグマの外の世界が、今回は「この世界」と定義していますが、この辺のややこしい質問の投げかけも十分に認識の上、果敢に挑戦するかのような印象を受けます。
長らく狂気と対峙した私には鮮やかに知性を使いこなす印象に思えます。

お礼日時:2008/11/28 19:45
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