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死刑廃止賛成派で、ディベートをすることになりました。
今は、立論を考えている状態ですが…まだ【誤判による死からの救済】しか決まっていません><
もう一うか二つ、意見が欲しいので、教えてください_(._.)_

それから、とりあえず死刑廃止賛成の礎になれそうな意見もぜひ出してください。お願いします!!!

A 回答 (21件中11~20件)

冤罪は懲役刑でもダメな項目なので、


「その理由による廃止=全ての刑の停止」
の意味になるので、止めておいた方が良いでしょう。
(冤罪による死刑がダメな以上
冤罪による無期などを認めるワケにはいきませんからね)



なお、日本の刑法体系は、「国が殺人を認めていない」のでは無く
「国は、社会生活を崩壊させるような行為を禁止する」だけであって、
社会制度を維持するような殺人(戦争など)は、何処の国でも認めているので
こちらも論じない方が良いでしょう。

原則「全ての人間は更生出来る」として、処罰主義は行なっていません。
その例外項目(更生不可能な存在)もある事を認め、それに対し死刑を適用されています。
突くのなら、そこからの方が良いでしょうね。
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 とりあえず、他の方の回答や、過去のQnadA、信頼性のある情報源などで、過去の論争をコンパクトに整理することが前提となりますが、その上でのアドバイスとして、相手側や第三者の聞き手に「分かりやすい」と思わせるような事例を取り上げ、上手く話す事が重要かな、と思います。

死刑という話題をあれこれ分かりやすく工夫するのはどうか、という意見は出てくる可能性もありますが、アメリカの法廷では陪審員に弁護士がユーモアを交えて解説を行うことは有名な話です。

 例えば、電気椅子を実用化したのは発明家で有名なエジソンです。で、そこまではいいのですが、彼は電気椅子の実用化に際して、ライバルのウェスティングハウスとの争いを持ち込んで、死刑にするという動詞に「ウェスティングハウスする」という言葉を持ち込もうとまでしています。現在でも死刑囚からの臓器提供とかの、死刑本来の目的からはやや逸脱した個人や社会の利益目的での死刑が議論されがちという問題がありますが、このあたりの話を取り上げると、堅苦しいディベートのイメージを和らげて、自分たちの主張を聞いてもらえやすく出来るのではないでしょうか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%BB%E6%B0%97% …
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私の個人的な考えですが、


死刑廃止論を補強する理屈として
1.被害者の感情を重んじることがありますが、目には目をという古代以来の懲罰則を適用する事に疑問があります。それに当人が一番苦しむのは、ずっと生かしたまま反省させることの方が大きいのではと思います。
罪を憎んでひとを憎まずという西洋宗教の律法?も憎む感情を戒めているのだと思います。
2.人間は複雑ないきもので、死刑囚が獄中で人格を180度変えるという現象がままあるといいます。これも死刑廃止論に加担するのではないでしょうか。要は囚人の扱い(教育)次第で人格を変えることは比較的容易だと思うのです。刑務所の現状はこの点まことに寒いものです。
2件ほど廃止論に加担する意見をかきました。私自身は今のところ死刑やむなしという思いを持っています。
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自分で苦労して死ぬ人も居るのに犯罪者をわざわざ楽に殺してやるのもおかしいでしょう。

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 これは言わないほうがいいと思うのをいくつかあげます。



(1)厳罰化によって凶悪犯罪は減らせない、抑止できない
 →条件が複雑すぎて明確な根拠がありません。「数字は?」で行き詰ります。これは「死刑によって犯罪が抑止できている」という論にも当てはまりますが。
(2)法律によって殺人を禁じておきながら、
 →日本の法律では禁じておりません。「何条で?」といわれたらおしまいです。
(3)野蛮で残酷な非人道的、身体刑です。
 →何をもって野蛮と野蛮でない線引きをするのでしょう。「懲役刑も自由を奪うのですから野蛮で残酷な身体刑では?」で答えに窮します。
(4)死刑執行の場面は地獄絵さながらにむごたらしく
 →死刑に相当するような犯罪者の多くは、「自らの欲望のため」に被害者をその地獄絵さながらのむごたらしい状況に突き落としています。「そちらは無視?」といわれると答えがでません。
(5)先進国は死刑を廃止しているのだから、日本もそうしないと後進国
 →諸外国にあわせなくてはならない理由が明確ではありません。「じゃ憲法9条も改正しましょうか。先進国のどこもそんな法を採用していませんし」と言われます。

 いずれも過去の論争で死刑制度容認派から出された質問です。廃止派が明確に論破した例を私は見たことがありません(たいていは論点を逸らす)が、少なくともあなたなりの回答を用意しておかないと苦戦しますよ。
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ちょっと抜けた部分があったので補足します。



・死刑廃止派は憲法36条を根拠として、死刑は憲法違反である旨を主張するが、
日本国憲法は31条で死刑の存在を是認している。
更に36条にある「残虐刑」の定義については、条文内に詳細が述べられていないことから
何を持って「残虐刑」とするかの判断については
政府の判断に委ねられるものであり、
政府がこれを認め、主権者たる国民の大半がこれを支持する現状において
絞首刑を「残虐刑」と認定することは不当と言わざるを得ない。

後、個人的に思うことは、ディベートと言うのは
感情ではなく論理の戦いの場です。
「考えても見て下さい!死刑は何と残虐な~」などと
感情に任せてまくしたてるだけで勝てるとは思いません。
世界の歴史・制度・法律の条文・統計を詳説に検討し、
そこから論理的に自らの立場を正当とする
立論を確立するのがよいかと思います。

連レス失礼しました。
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助けになるかは分かりませんが、


私は死刑廃止反対派なので、相手の立論を予測して書いていきます。
以下に対する反論を準備できればよいかと思います。


・死刑廃止の大前提となっているのは、犯罪者の更生という
教育刑の存在であるが、現在の日本では再犯率が再検挙された分だけで
カウントしても5割前後に上り、現状教育刑が全く成果を上げていない
ことは統計上も明らかである。

・更に言えば現在死刑存続国であるアメリカでは1960年代のリベラル気運に乗り
一度死刑執行が停止され、懲役刑も刑期が大幅に短縮され、
莫大な予算を掛けて更生プログラムに取り組んだことがあった。
しかし結果は大失敗に終わり、再犯が横行、凶悪犯罪が激増し、
70年代の初頭、連邦裁判所で有罪判決を受けた者の70パーセント以上が再犯者という有様であった。
この惨状と無責任なリベラル論者にアメリカ国民は憤慨し、1977年以降、死刑が復活したという経緯がある。

・上記を見ても明らかであるように、「犯罪者の更生」という概念自体
何の科学的根拠もない妄想か願望の域を出るものではない。
そのようなものに基づき、国民の生命身体を危険に晒すことは
国家として国民を守る義務を放棄する無責任極まりない行為と言わざるを得ない。

・民主主義国家たる日本国の持つあらゆる権利は全て日本国民からの信託の下、
主権者国民より付与されていると言うべきものであり、
当然死刑の是非について判断する権利も国民に帰属するものである。
2004年12月内閣府実施「基本的法制度に関する世論調査」によると
日本国民の81.4%は死刑存続を支持しており、
このような中で死刑を廃止することは
国権の暴走並びに民主主義の否定以外の何物でもない。

・死刑廃止派は欧米先進国の多くが死刑廃止しているのだから、
日本も廃止すべき旨を述べているが、凡そ文化・風土・歴史の異なる
日本がそれに習わなければならない何も理由はない。

・誤判について、現在の日本の裁判で死刑が適用されること自体
犯罪全体から見ると極めて稀であり、現在の実務において
決定的な物証がある案件以外で死刑が適用される可能性はほぼ無い。

・死刑廃止派は死刑は犯罪抑止力にならないので無意味と述べているが、
死刑適応の対象になるような凶悪犯罪者については
出所すれば、同様の凶悪犯罪を犯す可能性の高いことは
容易に予測されるが、死刑が執行されたケースにおいて、それは起こり得ない。

・上記と関連して終身刑導入の提案が予想されるが、
現状ですら、全国の刑務所がパンク寸前の状態であり
この上終身刑を導入することは現実的とは言い難い。

・死刑廃止派は刑務官の死刑執行による精神的苦痛を理由として
死刑廃止を訴えるが、刑務官は自らの意思で職業を選択した結果、
更に国家試験まで通過して就職するものであり、就職時から
当然にこれを認識していたものであり、
更に離職の自由も当然に認められているのだから、全く妥当とは言えない。


以上に完璧に反論できれば勝てるでしょう。
健闘を祈ります。
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人の命は天から与えられたものであり、誰もこれを奪うことができない。

死刑は人権を根本から否定するもので、人間の尊厳と名誉を踏みにじる、野蛮で残酷な非人道的、身体刑です。
法律によって殺人を禁じておきながら、国家による殺人を合法的に行うことが近代的、文化的社会の先進国家としてあるべき姿でしょうか。殺人に対して殺人で返す応報刑は、国家が殺人者と同じレベルになっているということです、その国家を構成しているのは、われわれ国民です、国民一人一人が国家による殺人に否応なしに手を染めさせられているのです。
「死刑は犯罪の抑止効果がある」と論じる人がいますが、死刑を廃止した多くの国々の統計を見ればそれが無意味なことは明らかです。むしろ国家が合法的に人を殺している社会の方が人命軽視の風潮が高まり、殺伐とした社会を生み「人殺し」の歯止めが低くなってしまいます、死刑制度は犯罪をより残酷なものへとエスカレートさせています。死刑制度は被害者の犯人への憎しみの感情を癒す効果しかありません、仇討の制度を旧態依然として引きずっているにすぎません、裁判は社会の秩序維持という公益のものであって、社会の憂さ晴らしとして機能してはならないのです。
死刑執行の場面は地獄絵さながらにむごたらしく、筆舌に尽くしがたいものであると容易に想像できます、救いの望みを絶たれ孤独と絶望の中、死の恐怖と執行時の苦悶を想像し恐ろしさのあまり狂乱状態になって肉親の名を叫び、命乞いをして助けを求めてあえぐ死刑囚を、一片の慈悲も与えず強引に絞首台にくくりつけて吊るす様は、血の通った人間が同じ人間にできる行為とは到底思えません、吊るされた死刑囚は血と体液を噴出し、20分近く苦しさにもがき暴れまくり、失禁し人間としての尊厳など微塵にもない状態で死んでいくそうです、その光景は正常な人間ではとても正視できないそうです。
死刑を廃止した国や事実上廃止という国も合わせれば、世界中でその数は130カ国近くなります、存続している国は約60ですがこの中では発展途上国といわれる国が多数を占めています、しかし先進国と言われる国の中で死刑を存置し続けているのは今や日本とアメリカだけです、そのアメリカでも14の州ですでに廃止されています。最近の世界の動きでは、1989年に国連総会で「死刑廃止条約」が批准されています、また国連人権委員会でも「死刑廃止に関する決議」がなされ、ついに国連総会で死刑の執行停止を求める決議が採択されるにいたっています。死刑を続ける日本は常識を欠いた野蛮な後進国として国際世論の非難をうけています。
以上長くなりましたが、参考にしていただければ幸いです。
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私は死刑廃止派ではありませんし、旧日本軍の戦犯や最近の残虐事件の犯人は死刑が妥当だと思いますが歴史的な経緯として



・かつて日本含む世界では死刑制度は権力者に楯突く市民を弾圧する手段として独裁政治維持のために使われていた
・当時の権力者や偉人は犯罪を減らし平和な世界を作るため残虐な刑罰を創ったが厳罰化では犯罪を減らすことができなかった
・死刑や残虐刑などの「報復刑」強化の結果、犯罪者はむしろ開き直り、犯罪数は増え、犯罪組織は拡大した
・死刑廃止の潮流の大きい欧米において死刑置知を貫く地域はキリスト教国やその影響が強い地域に集中している

自由刑の問題点
http://ja.wikipedia.org/wiki/自由刑
http://www.geocities.jp/aphros67/indexs.htm
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私は強盗傷害事件の被害者の家族です。


それもあって、個人的には死刑廃止論には反対の立場でいます。

もし死刑廃止の立論が
>【誤判による死からの救済】しか決まっていない
のであれば、人を殺めた者が生きることを許せるだけの道理を考えてください。

先の回答者が、被害者の救済という事を述べられていますが、
個人的には刑事罰は社会秩序に対する責任であって、
被害者に対する責任は民事で裁かれるものと思っています。
ですので、私は条件次第で死刑廃止に賛成する余地も残します。

被害者側の私の意見としては、
加害者が死刑になろうとも、何年の懲役刑を受けようとも、
それによって救済される気持ちは起こりようがないのです。
しかし、相当の刑事罰が下されなければ納得もいきません。

加害者に対して感じる怒りと憤りのうち、最も大きいものは、
自分の犯した罪を、反省以前に、認識さえしない場合の理不尽さです。

率直にいえば、
被害者としては加害者に、苦しんでほしいのです。
肉体的によりも、まず、精神的に苦しんでほしいのです。
被害者が受けた苦しみに相当する分、
それ以上の責任部分だけ苦しんでほしいのです。
良心の呵責に泣き、震えおののいてほしいのです。

被害者としては、加害者の更正など興味がありません。
(すみません。これは私の個人見解です。一般化できるかは分かりません)
自らの犯した罪の分だけ苦しめば、それを人間性の回復と受け止めることが出来るかも知れません。
しかし、余程の特別な信念がないかぎり(宗教信仰など)、
被害者は加害者を赦しなどしません。一生涯そのつもりはありません。

被害者は加害者を、人間だと認めたくないのです。
人だと感じているのです。
しかし、それが客観的には認められない受け止め方だと、理解した上でなお、そのように感じるのです。
被害者として加害者に妥協できる感情的な要素は、
「加害者も人間『かもしれない』」という一点です。

『かもしれない』ではなく、『である』と納得せしむる道理があるならば、私は死刑廃止論を否定はしません。

死刑廃止を是とするのであれば、
人間の生命は無条件に尊い、という一般的な前提から、
犯罪事実という特殊の一々の事実にまで、思考の目を降ろして考えて欲しい。
死刑廃止議論を、社会の最大公益というような視点からして欲しくはないのです。

先の回答者さんが、
>かといって個人的な報復は論外だし・・
と書かれていますが、被害者感情としては「論外」ではないのです。

被害者を倫理的に善良であるはずだとは思わないでください。
もし、罪と罰に不公平感を抱き、
社会全体が世論としてその不公平を承認している、と感じたら、
被害者は「個人的な報復」への誘惑を断ち切ることが出来なくなる可能性もある、
これは心情としては偽らざるところです。

私は死刑廃止には賛成しませんので、
このような私の主張に対する解答を用意してディベートに臨んでいただきたいと思います。

なお、繰り返しになりますが、
以上は私個人の意見で、被害者一般に共通するものとは思わないでください。
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