誕生日にもらった意外なもの

 
振り返ってみれば、生きていることに喜びを感じられない。人生の大部分のときにおいて、喜びや、生きている意味がないという感じが強いです。

しかし、それは人生が、辛いことや悲しいことばかりであったということではない。そういうことも、あまりなかったような感じです。生きてあることは、空しいというか、価値がなく、不愉快なことや心の苦しみや憂鬱に満たされているという感じです。

ときを経過すると、その感じは、ますます強まり、何をすることもない空しい、憂鬱な、そして心の悔恨と苦しみだけの日々です。

このサイトで、ここ一週間、少し回答してみましたが、感じるのは、不快感が大きいです。元々、このサイトは、色々な矛盾やおかしいことのある場所で、不快感がありましたが、最近、回答してみても、喜びがありません。

もっと色々と回答できればよいのかも知れませんが、あまりにも無知で無学なため、回答できない質問が多すぎ、自分に回答できそうなものだけを、何とか回答していましたが、時間をかけて、間違いのないよう確認しつつ回答を書いても、意味がないとも感じられます。

わたしが愚かで、無能で、他者から蔑まれ疎まれているのだということが事実なのでしょうが、こういう匿名の場で、そういうことになるのかとおもうと、何か意味が分からなくなります。

わたしは賢明さがたりないが故、自殺することを考え続け、そして実行できなかった愚かな存在だとも言えるでしょう。いまでも自殺を考えても、いまさらに、何の意味もないのです。

「何であること」で、生きる喜びや、意味を感じられますか? わたしの空しさはいかに答えがありますか?

カテゴリーを迷いましたが、「死とは何か」という質問がありますから、「人生の空しさとは?」も、ここでよいと考えます。

(回答中に、わたしの名を書かないでください。Jesu, meiner Seelen Wonne)。
 

A 回答 (39件中1~10件)

聖書から言わせてもらいます。



1.人には神のかたちがある。

創世記1:26、「神はまた言われた、『われわれのかたちに、われわれの姿に人を創造し、・・・」。

神が人を創造されたのは、万物創造の場合と同じではありません。

神は人をご自身のかたちに造られました。

手袋は手の形に作られます。それは手を入れるためです。

おなじように、人は神のかたちに造られました。それは神を入れるためです。



ローマ9:23-24(別訳)、「神は『栄光にあずからせるために・・・あわれみの器にご自身の栄光の富を知らせようとされた・・・このあわれみの器は・・・わたしたち・・・である」。

わたしたちは神の器です。

神はわたしたちの内容とならなければなりません。

水のビンが水を入れるためであるように、
わたしたちは神を入れるためです。

なるほど、知識、富、楽しみ、成功はすべてあなたを満足させることができないはずです。

あなたが造られたのは、神を入れるためだからです!
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>「何であること」で、生きる喜びや、意味を感じられますか? 



これだけに関して自分が感じていることを書きます。

私は、紙の上に筆記用具を使って心のままに絵を書いたり、これまで学習した言葉を使って人に何かをつたえたり、山や海に出かけて自然の音や匂いを感じてみたり、仕事がひと段落した後コーヒーを飲みながら次の構想を考えてみたり、ウエスに少しだけクリーナーをつけて靴をぴかぴかに磨きあげたり、無条件に私を信頼してくれていると感じている夫にあまえてみたり、パソコンという文明の道具で知らない人と意見を交換したり、体にグイグイ入ってくる音楽を聴いて歌ったり踊ったり・・・・。

美人でもなければ、エリートでもなく、貧乏で、持病もありますが、「人間であること」に生きる喜びを感じています。
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別れ際に、ちんたら格好をつける訳には行かないが、君とは背中を合わせることも無く、この際に、何処かしらを向いたまま、伝えることも、ある。


 
 
  
  その空虚が いつ あなたを限ったというのですか?
 
  あなたが いつ その空虚を 限られたものにしたというですのか?
 
 
これは、魔法です。新作の。
空虚になすすべもない ひとがいるなら これを伝えよう。効くかどうかは分からない。もう、この魔法は、きみや人々には必要ないのかもしれない。だが 言おう。
似たような、言語ゲームを持つものならば、少しくらいは効いても、おかしくはない。自分で自分に言うときは、あなたを、私にをきかえてもよい。自分に言いたいように、自分に言えばいい。
いつか、この言葉を唱えなくても、この魔法が起こせるように(起こっている状態に)なる。言葉は絵(イマージュ)になり、絵は形無く具現する

 
空虚は、あなたを縛ったことなど、かつて一度も無く、これからも無い。
 
あなたが、空虚を限れるものとすることも、かつて無く、これからもない。

それゆえ あなたは 自由 なのです
 
 
 
∴かつて、それを幾ら、心底、限りたいと思うことが、あったとしても、。逃れようと、逃れたいと、思ったとしても。
これからはもう そういうことは しなくていい  
 
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OKWebの制約に苦しんでいるようですね。



私は本職がシステムエンジニアですので、作り手の事情・
管理者の事情もある程度わかります。

客観的に見れば、OKWebはきちんと管理している方です。
Q&Aサイトあるいは掲示板サイトでは、OKWebのように
細かく管理していくか、あるいは2ちゃんねるのように
最低限の規約に触れない限り、野放しにしておくかの
どちらかにしないと、運営が立ち行かなくなる恐れがあります。

質問者の方の心の事情とは別にこのサイトに息苦しさ
を感じるのであれば、早急にこのサイトを離れること
をオススメします。

質問者の方はたいへん幅広い知識をお持ちのようです。
もしわずかな熱意さえあれば、自分でこのようなサイト
を立ち上げることも不可能ではないでしょう。

「あるモノは使え。ないモノは作れ」
腕利きのSE/プログラマがよく口にする言葉です。
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それにしても、徒に冗長な回答をしてしまったものです。

まさかその当時は補足文・お礼文の字数に制限が加わるとは思ってもいなかったのです。いろいろ考えた結果、もし前回答(#32)へのコメントの字数が足りないという場合は、こちらに書き添えて頂いても結構です。

さて、それでここに何も新しいことを書かないのであるとすれば、わたしは20日間以上経過しているのにもかかわらず、何の進歩もないことになります。変化は何かしらあるでしょうが、そのことを再び回答しないというのでは、進歩はないと言っていることになりましょう。そこでわたしはできるだけ簡潔に、前回の回答(#32)の続編を書くことを思い立ちました。

#32の回答で書いたことは意外にはったりや粗が多く、我ながら不肖の子のように見てしまうようになりました。それも生後数日もしていないのにも拘らず、です。この質問に向き合ってみることで、空しさを一層強く感じるに至りました。

そう言えばわたしもこのところ気力のない毎日を過ごして来ました。それはおそらく選択する恐怖から逃避しているにすぎないのだと思います。そして無為に日々を暮らすようになったわたしですが、腰が重く、動こうとすることができなくなってきました。

その間いろいろと読書に耽ったりもしたものですが、トルストイの「復活」をつい最近読み始めました。トルストイという人はなかなか心得ているようで、人間の二面性をうまく捉えていると感じます。どんな人間にでもある精神的な側面と動物的な側面のことは、確かに言い古されていますし、わたしもヘッセの作品をいくつか読んで理解した気になっていましたが、その2つの側面をどうバランスを取って生きていったものかということになると何も答えられないでいました。

しかし確実にわかったのは、空しさを感じるのは精神的(アポロ的)側面の感覚であって、飽くことを知らぬ動物的(ディオニュソス的)側面の持つ感覚ではないということです。本来の人間とは、後から来た動物的側面ではなくて、精神的な側面にこそあるのかもしれません。そう考えれば、空しく思うということは、動物的側面ばかりにかまける者達の跳梁跋扈する世の中では「生きづらい」と感じることかもしれません。しかし、そこで朱に交わって赤くなるのは完全な堕落であり、精神の敗北であると思います。

理論上では、「海の星」さんの精神的な側面を応援します。勝利とかそういうことではなく、こうした拮抗が均衡を以てしっかりと続くように。そして精神的な側面が動物的な側面に気圧されることのないように。

中途半端ですが、ひとまずこれでわたしの出番は終わることにしましょう。また再回答の要請があればそれに従いますのでご随意に。

この回答への補足

 
皆様、回答をたいへん有り難うございます。

しかし、時間をかけて考えて行きたいと思っておりましたが、このサイトでは、「お礼」「補足」の両方に「字数制限」を設けたようです。

元々、人生の空しさについて尋ね、またその具体的な一例として、「このサイト」での空しさを記した私たちです。現在のこのような「字数制限」の設定が、一層に、「空しさ」や「無意味さ」として痛感されます。世は無常でしょうが、営利主義に走ることも、この企業サイトの維持にはあるいは必要なことかも知れません。

しかし、このサイトは、会員間の個人的情報交換の禁止を規約で謳い、実際に、メールアドレスなどを記した場合、強制的に削除などを行っているようです。しかし、元々考えてみれば、このサイトも、インターネットの空間に対し「開かれた」場であり、またそうであるが故に、大勢の人がこのサイトを訪問し閲覧し、あるいは会員となって質問したり、回答したりしています。

どうして、そういうことが可能になるのか、それは上に述べたように、このサイト場が、インターネット空間に対し「開かれている」からです。あるいは検索エンジンを通じて、あるいは、どこかのホームページや、そこの掲示板の書き込みを見たりして、多くの人は、このようなQ&Aサイトが存在することを知り、そこから閲覧者や会員が、このサイトには増えて行くということになるのでしょう。

わたしも、検索エンジンを調べていて、このサイトを見つけたのです。皆さんもまた。色々なきっかけで、このサイトを知ることになったでしょう。

もっと多くの字数があれば、皆さんと、何か話したいことが多くあり、それらは時間をかけて、考えて行くつもりでいました。しかし、「字数制限」は、それを許しません。私たちとしては、このサイトを通じてではなく、別の場において、皆さんと語り合いとも希望するものです。しかし、そのためにメール・アドレスなどを書くことは禁止されている訳で、事実、私たちは、そういう風にアドレスなどを書いたことは一度もありませんし、今後も、そういうことはありません。

しかし、少し視野を広げて考えれば、最初に述べたように、このサイトはインターネット空間に開かれており、私たちは、皆さんもそうですが、その「インターネットの自由な空間」から、この「限定されたサイト」に出入りしているというのが本当の姿なのです。

従って、別に、このサイトのQ&A欄で、個人のメールアドレスやサイトのURLなど書かなくとも、広大なインターネット空間で、私たちは、互いに、それと知らずにすれ違っているのだとも言えます。それは実は、インターネット空間の自由な広がりが、可能としているのです。

このサイトが、個人と個人の「心の交流」を禁止する規約を持っているなら、それに従いましょう。しかし、インターネットの空間での偶然か神の配慮によるのか、出会いによる交流は、「自由」であり、このサイトの規約などの遠く及ばない世界だとも言えます。

皆さんとは、また違う人との交流が、あるいはインターネットの空間にはあるかも知れず、そういうなかで出会った人のなかに、ここで回答された方が、実は混じっているという可能性も、ごくごく幽かかも知れませんが、ありうることでしょう。

ともあれ、この質問は、この質問として、「字数制限」のなかで、今後の「お礼」などを考えて行くこととし、私たちは、また、インターネット空間での新しい人々との「出会いの可能性」に、人生の空しさに対する思索や、共鳴の可能性を見出したいとも思うのです。

何か、このサイトを「棄てる」ような補足ですが、このサイトの管理性、特に最近の「改悪」には、空しさと絶望を強く感じるとも言えます。また、それが、このような「補足」を書くことになった理由だとも思えます。

(私たちは、あるいは本心では、他者の無償の善意を資産とし、それによって成り立っている、このようなサイトを、もはや後にしたいと思ってるのかも知れません。回答する意欲は、ほとんどなくなりました。いまや、Au revoir[さようなら]というべき時かも知れません。しかし、Au revoir はフランス語では、別の意味でもあるのです。「オ・ルヴワール、主は、我らの慰めであれば」)。

再度、回答をたいへん有り難うございました。
(2003/0412/2042-2104)
 

補足日時:2003/04/12 21:11
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猫は伸びをするだろう?


人間の脳はでかいから、精神の伸びという行為があると、今さっき思った。
精神の伸びね。精神の。
この精神の伸びと、体の伸びが一致すれば、つまるところ、季節が廻るわけだな。バイオリズムといってもいい。
そうして、その人の精神が、体現されるわけだ。
体は精神に現れ体感となり、精神は体を通して世界に現れる。
無理のない、自然体だ。
こうして、やっと、真に世界と向き合える、並べるわけだな。
精神と、体を分離してはいけない。
体が嫌だといい、精神が善いといってても、だめだ。
体も、精神も、善いといわなければだめだ。
そして、現実にある、体と精神のアンバランスを統べるのが、世界だと思うわけだな。綿密には自然だ。
世界が見えてるか?
体を置き去りにしては、行けない。
体にとらわれてても、行けない。
精神をないがしろにしても、行けない。
精神に迫害されていても、行けない。
どうすれば行けるのか?
手のひらや、夜の空や、目の前の、月や、空気、風、目の前の季節を見ながら考えると、だんだん分かってくる。躯で、分かってくる。
すると、自然と、笑いが込み上げてくるわけ。
なぜか(笑。
ニヤニヤとか、へっ、とかしてしまうわけや(笑。
 
その後。
 
体で分かってきたら、生活が勝手に変わってくる。
在り方が変われば、現れるものも変わってくる。
在り方が、自然になれば、生き様も自然体になる。
あたりまえだ。
在り方が、現実を生むんよ。
  
 
在り方を無限にすると、世界が現れる。
自分のあり方を無限にするには、自分を超えることだ。
それは、季節が行う。
まだ先があるけど、とりあえずこれだけな。
たくさんあるが、もってけ(笑。
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OSHIETEの字を読みました。

私は、今、自分がここにいると感じます。
それだけで、空を埋める何かがあります。
感じて下さい。みんな、あなたの文を読んで、返事を書いています。
私も、今、書いています。自分のためでもあり、あなたのためでもあります。
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今朝(3/16)、このご質問を発見し、しばらくこれにどう回答したらいいものか考えた上で、1から31番目の回答と、現時点で書かれてある補足・お礼をざっと読み通しました。

本当ならば何日かけてでも考えに考え抜いた上で回答を差し上げたかったのですが、海の星さんに伝えたいメッセージというのがあり、拙速ではありますが、ひとまず最初の回答を済ませておこうと思いました。必ずしも第2回目の回答をする予定はありませんけれども、ひょっとしたらもう1度回答する可能性もあるかもしれません。ただし、海の星さんからのご反応により、再度の回答のご依頼などがございました場合には必ずもう1度回答させて頂きます。そうしたご依頼のなき際には再度の回答を絶対にすると約束するものではございませんので、無理にわたしの回答を待たずとも結構です。
また、今回の私の回答で「海の星さん」という呼び方を使用することをご容赦下さい。「回答中に、わたしの名を書かないでください。」という質問文中の言葉を今までの回答者の方々は忠実に守られていらっしゃいます。しかしわたしは2人称を使うのに「あなた」という言葉を使いたくないのです。「お前」や「あんた」などの失敬な表現を使うことも言語道断だと思っております。また、「汝」「おぬし」「そち」「そのほう」など、実際に合わない言い回しを使用するのもこの場に相応しくありませんし、ご質問者の性別をわたしが存じ上げないことから、「貴女」「貴男」などと書くわけにもいきません。やむをえず会員名のラテン語を訳し、このように呼び掛けることにしますことをご容認頂ければと思います。

さて、わたしは、海の星さんに似た方がこのサイトに関する質問をされたことがあり、それに回答したことを思い出さずにはいられません。勝手なモノローグかもしれませんが、お許しを願うとして、今は削除されたその質問のことに思いを馳せています。その方は1回だけ質問したのですが、その質問が削除されてしまったことは残念なことであると思います。

その時の回答は、わたしの手許に残存しております。実はこの質問が削除された時、管理者に問い合わせて、わたしの回答だけを取り寄せたものです。今思えば、その時の質問文、そしてわたしの回答に対するお礼文も取り寄せておけばよかったかもしれないという後悔も若干あります。しかし、今さらそれを言っても仕方がないとも思います。

このサイトが孕んでいる数多の撞着にやりきれない思いがあり、さらには人生の空しさにまで発展してしまった海の星さんに、その時のわたしの回答の冒頭の一文を、もう一度ここに復活させたいと思います。

>いや、「海の星」さんは冷静ではないと思います。

当時のわたしの回答には質問者の会員名が入っていました。それはそうと、なぜわたしは海の星さんのことを冷静でないと指摘するのでしょうか。それは海の星さんが妄執の虜となっていらっしゃるからです。わたしにはそれがなんとなくわかるのです。意味や理論や理屈といったような概念に取り憑かれ、それで割り切れないものがあるということに空しさを感じているのです。

海の星さんご自身の質問の内容にどんな意味があるでしょうか。わたしには実はよくわかりません。言語には能記と所記がありますが、その上っ面だけを見て、果たして完全な回答ができるでしょうか。心理学的な探究をすれば海の星さんがどんな心理状態で書いていらっしゃるかわかるかもしれませんし、そんな学問に頼らずとも質問という情報から齎される刺戟にわたしが知覚した印象というものも海の星さんのことを理解する一助になるかもしれません。しかし、それも内容の一面を見るに留まります。真理を見ることはどうしてもできません。ただ真相を知るのみです。真理は憶測するだけのものであって、結局それが憶測である以上正しいものではありません。実際、海の星さんもご自身の質問を読み直してみて、書いた時に意図していなかったことが書かれていることに気がつくかもしれません。言葉というのは意を尽くせないものなのです。しかし、海の星さんは言葉に拘泥する。言葉に拘泥するというよりも意味に拘泥している。海の星さんは自分の段階をペシミズムと位置付けていらっしゃいますが、さて、ペシミズムとは何でしょうかということになります。悲観的、厭世的などと訳語はあるかもしれませんが、それは言い換えに過ぎないのであって、何も物語ってはくれません。自分をペシミズムの状態にあるという定義ができる根拠をもしわたしが問うたとしたら、海の星さんは冷静に答えられないだろうとわたしは考えます。少なくともわたしを説得することはできないと思います。なぜなら、自分こそ複雑なものはないからです。「汝自身を知れ」という言葉をご存じかと思いますが、簡単なようでいて、自分というものを知るのは難しいことです。これが肉体的な疾患であれば「自分は風邪を引いている」とわかりますが、精神的感情的な問題であった時は、それを言葉で説明しようとすると隔靴掻痒のごとく空しさを感じるものです。言葉を万能なものとして考えたり、意味を万能のものとして考えたりすることは、どこかで崩壊する神話であるということを弁えていない証左です。

同様に神も万能でなければ、科学も万能ではありませんでした。かつてはそう思われていましたが、これらも崩壊した神話です。前者はヨーロッパなどでは長くキリスト教という全体主義的な幻想がニーチェの時代から襤褸を見せ始め、後者はそれを司る人間が万能ではなかったのに気が付くのが遅すぎたため、凄絶たる被害を起こしましたし、これからも続くでしょう(環境問題・戦禍など)。
しかし海の星さんは何か縁(よすが)なくしては生き甲斐がないと感じていらっしゃるようです。譬えて言うなら海の星さんは跛行しているのです。今まで持っていた杖は脆くも折れてしまったのでしょう。また新たな杖を探さなくてはいけないかもしれません。もっとも、下の段落のような思考もありえます。

「そうだ。いかにもそうなのだ。暗闇の中、海に溺れた者は手ごたえのある「ひとつ」のよすがにしがみつき、足をばたばたさせている。少し目が慣れてくると、他の「ひとつ」も同時にしがみつけるようになる。だが、時にはそれが身を裂くこともあるだろうし、その時には片方の「ひとつ」を斬って捨てるしかないのだ。「ひとつ」に縋る者は溺れ死に、「いくつか」に縋る者は己が身を裂いて死ぬ。死なない方法はあるが、死なせないようにするために光を当てることに、果たして意味があるだろうか。わたしが投じた光によって、溺れた者はよりたくさんの「ひとつ」が見えるようになる。そして、その中のどれか「ひとつ」を選ぶに違いない。「ひとつ」に縋る者は溺れ死に、「いくつか」に縋る者は己が身を裂いて死ぬ。したがって、わたしが光を投じることは、人を導き救うどころか、却って人を惑わし殺すことだったのだ。選ばないという選択を現実にするため、わたしは溺れる者を、暗闇の中泳ぐ者に鍛えねば、人は救えない。

杖を持たずに強く生きるということを善しとする思想です。なにか拠り所が欲しいと思ってしまうであろう人間が、拠り所を捨てて生きていく時、そこに何か別のものが生じるかもしれません。かく言うわたしはそれでも杖を探しているものです。しかし、どんな鋼鉄の頑丈な杖を見つけたとしても、その杖はすぐに風化するのであろうと懐疑的なのが今のわたしなのです(海の星さんのように自己診断するならば、さしずめわたしは「ニヒリズム」の段階にあるということになりましょうか。ただし辞書的な意味での、ですが)。そのため、海の星さんには残念ながらその先の段階についてお話しすることはできません。そもそも、わたしよりも海の星さんの方が先の段階にいらっしゃるかもしれず、もしそうだとしたら私の助言など烏滸がましいものなのかもしれませんが。少なくとも、永遠的な価値観という者を探し求めてわたしは彷徨し、咆哮し続けます。その価値観というのは、もはやすでに「意味を求める」ことを超越しているところにあります。ただ、それが見つかるにはどれだけ時間がかかるかわかりません。

永遠的な価値観というと、芸術のことがよく取り沙汰されます。今のわたしは(自分の話だけして申し訳ないのですが)その翼の下に身を寄せていますが、それももう間もなく崩れ去るであろうと考えています。哲学者にして音楽批評家のアドルノが「アウシュヴィッツの後でベートーヴェンの第5交響曲を演奏することに意味はない」と言っているように、そろそろ芸術が時間を超越できないことに気がつき始めてきたからです。もちろん、ベートーヴェンのこの交響曲が「苦悩から歓喜へ」というオプティミスティックな主張を持っているせいもありましょうが、真実を見つめるはずだとわたしが思い込んでいた芸術すら、わたしにとって見れば嘘の世界でした。

ここで考えたのが、「世界(事象)は1つの考え方によって把握できない」ということです。どんなことであれ、自己完結した(閉じた)体系などはないというわたしの考え方です。簡単に言ってしまえば「それ自身で完璧なものというのはない」ということなのですが、今ここで槍玉に挙げたいのは「意味」でも「理論」でもありません。それらはさっき海の星さんに取り憑いていると言いましたが、もっと大きなものが取り憑いているのです。そしてそれを指摘すると、海の星さんの存在を根本から揺るがしかねないものなのですが、敢えて言うことにします。それは「知識」です。かてて加えて「智慧」も一緒にしてもよいかもしれません。「知識」だけでは測り知れないものがあるということなのです。それはこのサイトが如実に物語っています。「知識」だけでは割り切れない。しかし世界知識資産を目標とする。これは随分大きく出たはったりでもあり願望でもあり、そして妄想です。そしてそういうものがある以上、善悪の判断基準というものすらないのです。このサイトに限らず、世の中は煩雑で、シンプルな自己完結した(閉じた)体系によっては語られないものです。ここで、先の質問の回答からまた引用してみましょう。

>「海の星」さんは本当に何が正しくて何が間違っているかを判断できるでしょうか。わたしもできません。おそらく管理人の方々もできないと思います。管理人にできることは、せいぜい、「誹謗中傷」であるかどうかを審議して判断したり、規約に抵触しないかどうかを見極める程度のものです。ですから、間違えてよい麦を引っこ抜かないように、毒麦(らしいかどうか微妙な麦)も生えたままにしておくというだけの話です。

これはその時の質問者の名前を便宜的に「海の星さん」に差し換えたので、その時の質問と今回の質問の内容の差異を意図的に無視しているかのように感じられるかもしれませんが、一応補足しておきますと、かつての質問では管理者の態度が問題になっていました。この時のわたしの回答を読み返す限り、審議も判断も、みな妄想であるなと感じます。それも随分最近になってから気が付いたことです。今回、「わたしが愚かで、無能で、他者から蔑まれ疎まれているのだということが事実」と書いていらっしゃる海の星さんですが、他者の判断なんて、大したことはないと思います。これも妄想にすぎません。たかが妄想です。この辺まで言えば、これに照らし合わせて#1、#9の回答に何かピンとくるものがあるかもしれません。

>判断はあなたがしているのです。そして、価値はどこにも存在しません。あなたの中にあるのです。

質問文が「Jesu, meiner Seelen Wonne」で閉じられているのに対し、初っ端の回答が「釈迦」を持ち出してきたことには言い様のない不安なものを感じますが、目の曇り、迷妄を断ち切るためにも、海の星さんの中にある判断や価値観というものが海の星さん自身を空しく思わせているのではないかということを述べておきたいと思います。そう、空しく思うのも海の星さん自身だということです。もし「空しく思うことの意味」を問われたら、模範的にわたしは妄想で答えましょう。それは「心のバランスを取るための適応規制」なのだと。

>「海の星」さんもこのサイトでは心外なことがしばしばあるでしょうが、それで傷ついたからといって、それを契機に質問するのは無益なことではないかと思います。むしろ、具体例が問題なのか一般論が問題なのか、焦点がボケてしまって、きっちりとした回答を出すこともできなくなると思います。これはわたしが以前に質問して失敗した経験とそっくりなため、申し添えておきます。

歴史は繰り返すと言いますが、海の星さんもわたしが昔話をしている対象の質問の質問者と同じような感じです。この質問「生きていることの空しさ」は、このサイトで心外なことがあったのが契機に質問されたようですね。直接的な動機ではないにせよ、です。そして、今回も具体例が問題なのか一般論が問題なのか、焦点がボケてしまって、きっちりとした回答が出しづらいです。つまり、このサイトのことを聞いているのか、人生のことを聞いているのか、です。「入れ子的」と説明しましたが、このサイトと人生ではスケールが違いすぎて、敷衍過剰のきらいがあります。とりあえずこのサイトに関する小さな悩みを解消してから、人生の問題に話を移すべきではなかったかと思います。これは強要ではなく、問題の提示の時に回答しやすくなる方法を考えなかった同じ経験者としてのアドバイスです。

>全てのユーザーが、他人のことを思いやれることが、コミュニティの理想だと思います。しかし、価値観は十人十色ゆえ、他人のことを思いやったつもりでもそうではない場合もあります。「理想」と「現実」は常に乖離しています。それは仕方のないことではないでしょうか。

かの質問ではわたしはこう書いていました。随分と割り切って説明していました。まだまだ青二才の若造の回答であったと思います。その先を言うべきだったと今後悔しています。もうすでにその質問者は活動を停止してしまっているので、今更ここで言っても遅いのですが、「いくら乖離していようとも、現実に妥協してはいけない」と言いたかった。「いくら妄想であり脆弱なものであろうとも、信念を持って現実に立ち向かえ」と言いたかったものです。特にその質問者の方がどこかで「自分は対抗意識が強い」とおっしゃっていたからこそ、そう発言したかった。今ちょうど似た質問を見つけたので思ほえずこんなことまで書いてしまいましたが、海の星さんへのメッセージとしてもこれは不適切ではないだろうと思います。

わたしの回答を見てかなり困惑されたことでしょうね。わたしはしばらくここでの活動を見送っていたこともあり、海の星さんとそれほど親しく接触したこともないというのに、こんなことを言われては、嘸困惑されることでしょう。

最後にストレートに一問一答で簡潔に回答するとしたらわたしはどう答えるかを述べておきましょう。

>「何であること」で、生きる喜びや、意味を感じられますか?
わたしには「何であること」の意義は生きることに対してちっぽけなものでしかないと思います。

>わたしの空しさはいかに答えがありますか?
ただ強い信念によって克己すること。ただしわたしはそれを未だ貫徹していないので、保証はできません。

「海の星」さんの感情を汲んで回答したつもりですが、うまく意を尽くせていないかもしれません。ですが、とりあえずわたしはそうとしか言えません。「ちっとは自分で考えて空しさを抑えたらどうなんだよ」とかいった、自分ではないからこそできるようなアドバイスもできるのでしょうが、「海の星」さんの自主性を尊重するために、その抱えている空しさすらも評価したいと思います。

また、わたしは何ら賢者の類ではありません。人間であるせいか、感情を持っており、ついつい苦悩の中にある海の星さんに対して憐憫の情を抱いてしまいました。憐憫とはすなわち相手を卑しめる、見下す行為でもありますが、それが人間であるせいか、性として持ち合わせてしまっているようです。そのわたしの罪深さを大目に見て下さいと言うこと自体不遜でありあつかましい行為ですが、それ自体も赦していただければ幸いと感じております。

最後は、控え目な、それでいて強い言葉で締めたいと思います。
「nabayoshはこう語った。」
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訂正、”労働、”ではなく、”労働!。

”ですね。

それと、私自身もかつては、思索や思考するのがすきな時代がありました。
孤独な。

今では、そういう時代があったからこそ、不器用な私、人間として完全ではない私に、ささやかな手や心、言葉を、他の普通の人間から指し掛けられた時の喜びや感謝、自分もそういう、自分だけの心との格闘だけでなく、他の人にとって、喜びや、ありがたみを多少なりとも、感じてもらうことのできるようにと思ってます。相手が私のささやかな行為によって、足しになったなら、喜びと感じます。意味を感じます。

若いかたにこのような質問が多いようですが、あなたが、自分の喜怒哀楽だけでなく、(思考上の)現実社会で、他の人と接する事によって、悲しみや喜び、ともに、醜い人間としての感情を感じ、より、自分を許す事、
あなたは自分を本当には、おろかや無能とは思っていないでしょう。きっと、そう思っているあなた自身に酔っているのだと思います。そうして、
人の中で、自分の存在意義を感じていただけるように祈ってます。
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何であることに意味を感じるか?



私は、妻である事、母である事、この社会の歯車の中で、ひとつのそれも、対して役にもたたないでも、一部分である構成品である証・・・の
ささやかな仕事をし、毎日を暮らし、お金を消費し・・・その日常が、
おおきな社会や、歴史の流れを作っていることをわずかなりとも、実感できると、意味を感じます、むなしさも、感じないです。

ゲーテを読み込んでいるあなたなら、きっと、分かると思いますが。
ファウストのゆきつくさきです。労働、思考や、頭脳や、思想ではなく・・
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