アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

 ひとの存在についてです。
 じつは この命題が 思い浮かんだのみです。

 ○ ひとという存在の自然本性は そこから――自由意志による選択をとおして―― 存在(生命)に善いことも そして その善いことに反すること(つまり 悪いこと)も 自由に おこなうようである。
 ○ ただ その存在じたいは 善悪を超えている。かも知れない。

 ☆ こういう命題です。これについて 真偽・成否などをおしえて欲しいのですが どこから どのように 問えばよいか 分かりません。
 手がかりは あります。

 ○ 神は 自分にかたどって ひとをつくった。

 ☆ これによると 神は おそらく――善人悪人を問わず 誰にも 等しく 雨を降らすというごとく―― 善悪を超えているはづですから
 その神の存在に似ている と言えば そうなのかなというところです。つまり

 ○ ひとは はなはだ不類似であるが いくらかは 神に似て その自然本性において 善悪を超えているところがある。かな?

 ☆ という命題です。
 こういう中身なのだよ とか いやいや それは 考え違いだ これこれのごとく認識すべきなのだよ とか おしえてください。ほかの仕方や内容の回答でも かまいません。

A 回答 (23件中11~20件)

No.13の回答に対する補足を頂く前に


再度、回答するなら、と思って考えていたことを
少々端折ってかきます。

次は専門外の物理学から引いた例えです。
物理学では物質とその相互作用の仕組みを探っています。
現代物理学のある一派(結構主流とされる)は
11次元で振動する超ひもが、仕組みの源だと考えています。
いわゆる「超弦理論」「M理論」です。
この一派によれば、11次元で振動する超ひもが引き起こした彼是が
3次元に照射されたものが私たちの世界(私たちの知覚世界)です。

さて、No.13の回答に対する補足を頂いた後で。
> 絶対は 相対世界に 接しているか。
> 絶対は 相対世界に 介入してくるか。
これは私が例として用意していた
「11次元で振動する超ひもが引き起こした彼是が
3次元に照射されたものが私たちの世界」と同じ意味だと思います。
> 神は その独り子〔なる神〕を 人間イエスとして
> 歴史に介入させたというのは いったい どういう事態か。
> 無神は 果たして その絶対性を 無神論者に 宿させているか
私たちは、11次元で振動する超ひもの「仕組み」に規定される
というような事態だと思います。
(仕組み、は適当な言葉がないので、とりあえず使っています。)
(無神論者は「神」「絶対」というステロタイプなイメージを嫌って
この言葉を避けているのだと思います。)


いつもは聖書の教えで応酬されてしまうのですが
今回は現代物理の教えで応酬しかえせたかしらん(笑
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この回答へのお礼

 CUE009さん もし もしも です もしも 絶対がこの相対としての存在であるわれわれに介入して来ているとするなら――その水滴のひとつぶだけであっても 垂れて来ているとするなら―― われわれは もはや 永遠の生命に触れている と言わなければならないことになります。ではないでしょうか?

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 「11次元で振動する超ひもが引き起こした彼是が
 3次元に照射されたものが私たちの世界」と同じ意味だと思います。
 > 神は その独り子〔なる神〕を 人間イエスとして
 > 歴史に介入させたというのは いったい どういう事態か。
 > 無神は 果たして その絶対性を 無神論者に 宿させているか
 私たちは、11次元で振動する超ひもの「仕組み」に規定される
 というような事態だと思います。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ このように 隔絶した存在である絶対が われわれを包んでいるとするなら もう何をか言わんやという事態になります。
 それとも あたかも ニュートリノのごとく われわれのところにやって来てはいるが 突き抜けて行くとでも言うのでしょうか。
 果たして どうなんですか?

 五次元から上は 分かるわけがないと思っていまいます。果たして どうなんですか?

 聖霊を受けるとか それによる復活とか 言いますが どうなんですか? 死んでからじゃあ つまんないですよね。
 果たして どういう仕組みなんですか?

お礼日時:2009/01/13 23:01

今日は仕事が暇みたいなので


またまたお邪魔しちゃいます。

> 聖書の文句に入ります。
> どうもCUE009さんの文章に接すると
> そうする場合が多いように思えます。
それは恐らく私があえて神を前提としない視点から
回答を考えているからだと思います。

> 聖書も仮りのものです。
> 《知識》だか《知恵》だか《愛(意志)》だかの《香り》が
> つまりそれとしての人なる存在が、むしろ媒介するのだと
仮だと言うのは十分認識した上で回答を書いています。
香りという語彙がなかったので、聖書で代用した、ぐらいです。
私にとっては聖書でも香りでも「名称」は何でもよくて
キリスト教の場合は、何かが、例えば媒介物が
人間に先行して存在してますよね、と言いたいのです。
これは「(人間)存在は善悪を超えている。」を考える上で
非常に大事なのではないでしょうか?

> この機序・秩序は 自然淘汰や文化環境による影響を受けて
> その存在や行為の中身が変化をこうむっても
> 変わらないと見ています。
それは神が前提だから
即ち神が担保する機序・秩序ではないでしょうか?
神を絶対とすれば道徳・規範が人間を縛ることは本末転倒です。
でも、神という担保を失うと話が変わってくる筈です。
神を前提としない視点から見れば
神-香り-人間-道徳・規範、は、全てフラットです。
> 固定されてしまっては 元も子もなくなる。
それは全てに(神にも)適用できないのでしょうか?
> ペアで存在する言葉で、つまり本質を表さない
なぜ本質は一元化されなければならないのでしょう?

> 人間の存在にはおそらく部分的に善悪を超えた絶対の境地が宿る
存在は肯定される、と単純に言ってはいけないのでしょうか?

はい、存在は善か?という問いに戻りました(笑

もし、神様がいて
神様に「(私たちの)存在は善ですか?」と問えたら
「ワシ(神)はただお前たち(人間)をつくっただけで他意はないぞ」
と答えてくれるような気がします(願望含む)。

この回答への補足

 ご回答をありがとうございます。
 CUE009さん 今回は かんたんですよ。

 まづ アウグスティヌス先生のお言葉を聞いてください。
 ▲ (神の国について 1・6 服部英次郎訳)~~~~~~~~
 神は言語に言い表わされない。
 それ故 如何に相応しい語でも神には適合しない。それはただ 相応しいものを言おうとする意志の表現に過ぎない。
 しかのみならず 《言い表わされない( ineffabilis )》という述語そのものが既に一つの矛盾を含んでいる。《言い表わされない》ということによって既に或るものを言い表わすのであるから。
 しかしこの矛盾を弁証的に解くよりはむしろ沈黙を以って蔽わねばならない。

  そして神自らも 何等適切なものが彼について言い表わされないにも拘わらず しかも人間の言語の奉仕を許し 我々が人間の言語によって彼を讃えて喜ぶことを欲し給うた。
 それ故我々は彼を神( Deus )と呼ぶ。
 勿論 彼は神という語の音声によって真実に認識されるのではない。それにも拘わらず この神という音声を聞くとき 我々の言語を解する総てのものは 最も完全な 不滅の存在を想起する。・・・
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ヰ゛トゲンシュタインが 《語り得ぬもの》に対しては《沈黙をもって答えなければならない》とかいう言葉を遺したそうですが パクリかどうかに関係なく 哲学史上では 先駆者がいたということになります。
 《経験的な相対の世界を超える》ということは わづかに そのしるし(言葉)によってのみ 指し示し得るというわけです。つまり 《絶対》は です。次元は まるっきり 違います。
 《 zettai 》という音韻が 絶対ではなく 《絶対》という文字が 絶対ではありません。それは 聖書が 仮りのものだという意味と通じています。
 この絶対は 善悪を超えているとともに 経験世界における《有る無い》をも超えています。したがって この絶対を 有るとも 無いとも 言えません。ほんとうには 言えません。
 ところが いちいち 有るとも無いとも言えないものと言っていたのでは 面倒ですから 《神(つまり 有神論の 有神)》とも あるいは 《無とか無神とか(つまり無神論のそれ)》とも 言うならわしになっています。ひとは 好きなほうを採ればよいのです。どちらも まったく 互いに対等であり 良心もしくは信教のあり方として やはりまったく自由です。

 ○ 絶対――/――人――能力行為(善悪の判断) なる機序。
 ○ この絶対が 神と無神とに 分かれる。
 ☆ というわけです。神にしろ無神にしろ それは 絶対として 人やその世界とは 隔絶しており 絶対的に 先行しています。つまりまた 次元が違います。 
 ★ 神-香り-人間-道徳・規範、は、全てフラットです。
 ☆ にはならないのです。それは むろん 無神にしても 同じです。そもそも 絶対は そういう想定です。

 ○ では この絶対は 相対世界を超えているというとき――想像をたくましくするのですが―― 相対世界を 包んでいると言えるか。
 ○ 絶対は 相対世界に 接しているか。
 ○ 絶対は 相対世界に 介入してくるか。
 ○ 神は その独り子〔なる神〕を 人間イエスとして 歴史に介入させたというのは いったい どういう事態か。
 ○ 無神は 果たして その絶対性を 無神論者に 宿させているか。

 という意味で
 ★ はい、存在は善か?という問いに戻りました(笑
 ☆ から 一歩あるいは一センチメートル 進歩しているでしょ?

 * 絶対と人間との関係は フラットにはなりませんよ!!

補足日時:2009/01/13 19:10
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> 神を信じるということは、人間はあくまで相対的な


> あやまち得る存在だという自覚が深まりこそすれ
> それをないがしろにするものではありません。
>《あやまつなら われ あり》と言っていく存在過程ですから。
つまり、神は絶対。人間は相対。
聖書はその間にあるので(人間が記述したものなので多少疑問もあるが)
人間よりは先行している、と認識するのですが
間違っているかしらん。

私は、普段から意識しているわけではありませんが
無邪気にダーヴィンを信じています。
ですから、ここで「存在の行為能力」や、さらにその「根っこ・土台」を考えたとき
今ある「存在の行為能力」やその「根っこ・土台」は
「自然淘汰」の結果だと思っています。
当然、淘汰されてしまった「根っこ・土台」もあると思っています。
淘汰されてしまったモノ/今あるモノ、どっちが「善」か?という議論は
「種の保存」を命題化するといった前提を持たない限り
成立しないと考えます。

もし、神を信じ、神と人間の間に聖書があるとすれば
人間がつくった「規範・道徳」は愚の骨頂となるのかも知れません。
しかし、自然淘汰を信じ、ミームなど文化的なものもその対象とするなら
「規範・道徳」も淘汰の結果であり、未来永劫存続する保証もない一方で
愚の骨頂とまで貶める必要性もないと考えます。

この回答への補足

 CUE009さん ご回答をありがとうございます。

 いきなり直接 聖書の文句に入ります。どうも CUE009さんの文章に接すると そうする場合が 多いように思えます。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 神は絶対。人間は相対。
 聖書はその間にあるので(人間が記述したものなので多少疑問もあるが) / 人間よりは先行している、と認識するのですが / 間違っているかしらん。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この認識を分析するためなのですが いづれにしても パウロという人は とてつもないことを書いています。
 ▲ (コリント後書2:14-16) ~~~~~~~~~~~
 神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。
 救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。
 滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ことば / 言葉を用いた表現 / もっと言えば 理屈による理解としては 聖書が 絶対なる神と相対なる人との仲介になりますが もともと この仲介は 神の子であり神であるキリストと呼ばれるイエスという人であるように・つまり そうであるわけですから 聖書は 聖書も 仮りのものです。規範のごとき媒介としなくても いいわけです。
 《知識》だか《知恵》だか《愛(意志)》だかの《香り》が つまりそれとしての人なる存在が むしろ媒介するのだと言っています。

 先行・後行の順序では 基本として
 ○ 神――神なる人(イエス)――人(存在)――人の思考・判断・行為(ここで言う善悪)
 ☆ です。そして この機序・秩序は 自然淘汰や文化環境による影響を受けて その存在や行為の中身が変化をこうむっても 変わらないと見ています。〔つまり 変わるまでは この順序に従うわけです。変わる場合は 従ったから 変わったとなるのではないかという意味です〕。
 そうしますと 規範という主題については
 ★ 自然淘汰を信じ、ミームなど文化的なものもその対象とするなら / 「規範・道徳」も淘汰の結果であり、未来永劫存続する保証もない
 ☆ という問題ではなく そうではなく どんな中身の道徳規範が来ても それが規範的効力を持たせられた仲介物となっているとするなら それは 愚の骨頂だという結論になると考えます。つまり 《規範化》じたいが ここで言う《善の損傷 つまり 悪》ということになります。
 〔いつの日か 存続しなくなったとするなら それは このように 規範化じたいが 悪であると言っていくことを通じてだと考えるわけです〕。
 〔これは 規範が 公的な効力を持つという場合であって そうではなく 個人やその横の関係において 精緻に理論化したもので 規範的(法則的)な性質を帯びるだけのものであれば 別です〕。

 規範であるような仲介物は 必要がなく あってはならないという主張を 基礎づけ実証しうる《香り》について その内実を さらに パウロは 語っています。霊気を帯びていますが いま あえて 出します。
 ▲ (コリント後書2:16~3:9)) ~~~~~~~~~~
 このような務めにだれがふさわしいでしょうか。
 わたしたちは、多くの人々のように神の言葉を売り物にせず、誠実に、また神に属する者として、神の御前でキリストに結ばれて語っています。
 わたしたちは、またもや自分を推薦し始めているのでしょうか。それとも、ある人々のように、あなたがたへの推薦状、あるいはあなたがたからの推薦状が、わたしたちに必要なのでしょうか。
 わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です。それは、わたしたちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています。
 あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。◆墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です◆。
 わたしたちは、キリストによってこのような確信を神の前で抱いています。
 もちろん、独りで何かできるなどと思う資格が、自分にあるということではありません。わたしたちの資格は神から与えられたものです。
 神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、◆文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします◆。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

補足日時:2009/01/13 14:15
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この回答へのお礼

 ☆ 《動的道徳》を 信仰のことばで言うと こう(上のように)なると思います。


 そうして これらのことを言うには やはり
 ○ 存在は 善悪に先行するものであって 善悪判断を超えるゆえ それ自体が 善悪判断の対象になるものではない。人間の存在には おそらく 部分的に 善悪を超えた絶対の境地が 宿る。(?)
 ☆ というように 井戸端会議で探究していかねばならないと思うのですが いかがでしょう。

 * しかし 《香り》は 《境地》と言いかえれば ある程度は 通じるかに思いますが 理論のことばではないようにも思います。

お礼日時:2009/01/13 14:26

文字数制限や、文章を短くしたいので、全部にお返事ではなく、


僕で漠然とまとめて、重要そうなのだけ書くと言うことで。

まず前提として、今のこの本質論は、どこまで極限に厳密に定義するかの問題。
その意味は、一度極限まで厳密に定義できれば、日常会話風に、柔らかく崩すことも、
厳密に表現することも自由自在です。これも暫定的ですが。


以下個人的意見です。
上2つは、お題についての意見です。
3つめは、善悪の概念の裏の仕組み関係の話です

ーーーーーーーーーーーー存在が善悪を表現する、という書き方について

存在は善悪を超越する、という題なのですが、おかしいと感じました。
存在は、関係とペアを組んで成立しています。

関係性も存在と同じくらい大事と思ってます。
この世の視点で見たとき、それは世界を作っている根本的な直観です。
そもそも神様は関係性じゃないか、と考えてまして・・・
あの世に行けば、神様を存在としても捉えられるのだろうか??どうなんだろうか?わかりません。
つまり存在、関係、という言葉は、この世の言葉としての意味で使う限り、やはりペアで存在する言葉で、つまり本質を表さないと思います。

ありてあるもの、無いというものもない、という2重の表現は、一つの単語でこの手の真実を表す単語はないので、2回重ねることで擬似的に表現してます。
このような論理的な表現で、この世の単語を、あの世を説明するため、これは擬似的なんだとはっきり自覚して使うなら、意味はあると思います。


ーーーーーーーーーーーー言葉の限界
つまり、上のように単語として捉える==どうしてもその把握したものは自分より小さい対象になり、
単語の中に、自分全部を丸ごと感じさせられるような、そんな意味を他人に感じさせる単語はないです。
話しが分析的になるほど、この問題が大きいです。
つまり論理的に、単語という材料を組み合わせるだけで全体のメカニズムを構築する、という発想は成り立たない、と思います。
ビルみたいな立て方は無理だと思います。
頭で理解できた単語は、自分全体を表さない、さらに自分全体を内包するさらに大きな仕組みがあるとしても表現できない、と必ず言えると思います。
それは、原理的には、娑婆に属する脳みそは、例え深い直観を使っても、脳の働きはこの世を理解するためにできてるから、と思います。


ーーーーーーー善悪について思いついた例え
神様信じる系の人で(仏教タイプの自分尊重の人はのぞいて)
最後にこの世を去る以上、あの世がない、と、無意識に思ってる人は、自己存在への依存ができます。(もちろん本質存在じゃなく、娑婆に自分が存在している、というその感覚のことです)
=どうせ死んだら終わりなんだから悪いことでも何でもやっていいんだ、という、この世に自分が存在してるんだ、という感覚に対する依存心です。
でも、死も確かにあり、同時にあの世がある、と本気で思っていれば、こういう破れかぶれにはなれないです。
死が前提として人にある以上、この世の価値は道具です。
逆にこの世しかないのであれば、死ねば終わりだから、上のようなこの世存在への依存が可能です。
同時にそういう人は、この世の価値、価値観こそ、本当の価値だ、と感じると思います。
自己価値の外部への投影だと思います。


自分の問題点は棚に上げて書いては見ましたが、自分でも不満な説明が多々ありますがー。

この回答への補足

 sheep67さん ご回答をありがとうございます。

 全体としまして 問い求めの切り口という観点では 微妙に 今回の質問は 特殊であるようになっています。そのように考えてみました。
それは 
 ★ まず前提として、今のこの本質論は、どこまで極限に厳密に定義するかの問題。
 ☆ が あるのですが そうなのですが その 最先行する本質論を承(う)けた上で 
 ○ 今回は 《存在》というとき できるだけ 実存すなわち現実存在に基づこうとしています。 
 ★ その意味は、一度極限まで厳密に定義できれば、日常会話風に、柔らかく崩すことも、 / 厳密に表現することも自由自在です。これも暫定的ですが。
 ☆ という切り口とは 微妙に違って 
 ○ 《極限の定義》つまり最先行する本質論が 日常現実のひとという存在に すでに 宿っていると想定する場合 どういう見方が出来るか。
 ☆ と追究してみようと思い立ったものです。
 早い話としては 絶対なる本質は すでに初めから《善悪を超えている》存在です。この性質が 生身の人間である存在にも 現実に実現しているか この問い求めです。もっとも 同じことをおっしゃっているのかも分かりません。

 ★ つまり存在、関係、という言葉は、この世の言葉としての意味で使う限り、やはりペアで存在する言葉で、つまり本質を表さないと思います。
 ☆ つまり 
 ○ 人間存在は この経験世界に生きるあいだにおいても 社会的な独立した存在であると同時に 社会的な関係しあう存在である。
 ☆ かどうかです。
 ○ 孤独なるわたしは 社会にあって 孤独関係としてのわたしである。
 ☆ と言っていけるかどうかです。やせ我慢であるに過ぎないのか  いや そうではなく 現実において真実であるのか。逆に言えば
 ○ 神は なぞの存在であり ひとは 有限で時間経験的な存在である。
 ○ 《言葉の限界》の問題として 有限で可変的である人間存在が使うことばによる表現は 経験世界を超えたところの本質について 定義するには 限界がある。
 ○ だから その超経験の世界を なぞと言う。
 ○ だから この《なぞ》としての存在また関係を 必ずしもなぞではない人間存在が 分有していると言えるか。少しは 似ていると言えるか。
 ○ もっと言えば 《本質存在じゃなく、娑婆に自分が存在している、というその感覚》に 善悪あるいは利害という観点で見ようとする《この世の価値観》を超えた自然本性つまり 判断かつ実践の能力が 生きているか。
 ☆ です。どうでしょう?

 今回も わたしは 試行錯誤の過程です。

補足日時:2009/01/13 06:48
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ちょびっと追加です。



善悪は、あると思いますが、
善悪、という価値観はない、と感じます。

つまり人から叩かれたらいたいからやだし、止めてよーと言いますが、
あるいはキリストが言われるように、自分のして欲しいことをせよ、というのは、善悪の判断の物差しになるかなーと思います。
でも、それに価値を感じるのは、依存だと思います。

価値は、宝石と同じで、依頼心の産物です。
叩かれたくないから、止めて!とはいえますが、あなたのやることは間違っている、という価値判断を付け加えるとおかしいと感じるのですが??
キリストが言われるように、あなたに石を投げられる資格のある人は一人もいない、というようにです。

存在は 善悪を超えている、と関係ありますよね?
ん~、微妙でしょうか?
善悪の本質を描くのは、存在と善悪の関係を明瞭にすることにつながると思うので・・

この回答への補足

 つづいてですね。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  つまり人から叩かれたらいたいからやだし、止めてよーと言いますが、
 あるいはキリストが言われるように、自分のして欲しいことをせよ、というのは、善悪の判断の物差しになるかなーと思います。
 でも、それに価値を感じるのは、依存だと思います。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは どうでしょう。一つには 前回(No.9)における成果として
 ○ 善悪の判断 また それを重ねて経験し学習効果として成り立った物差し これらは むろん 主体であるひとは 考慮に入れるが 必ずしも 最終の判断であるとは限らない。
 ☆ に当たるでしょうか。あるいは もう一つに
 ○ そのような物差しとしての価値観が 思考や判断にとって 固定されてしまっては 元も子もなくなる。
 ☆ つまりは 《Q:道徳規範は 愚の骨頂》(http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4607794.html)の問題になるでしょうか。我田引水でしょうか。

 ★ 価値(* 規範化した価値観)は、宝石と同じで、依頼心の産物です。
 ☆ おそらく 規範を頭に頂くと あたかも宝石に目がくらむがごとく 思考停止に陥りがちになります。その価値観は もはや その規範内容に沿って 条件反射をおこなわせるまでに 固定観念となって君臨します。ついには――時代の変化に対応し得ない場合などには―― 幻想と化してしまうかに思われます。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 叩かれたくないから、止めて!とはいえますが、あなたのやることは間違っている、という価値判断を付け加えるとおかしいと感じるのですが??
 キリストが言われるように、あなたに石を投げられる資格のある人は一人もいない、というようにです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この指摘は 重要だと思いました。そして しかも おそらくは 相手の問い返しに対応して
 ★ あなたのやることは〔* これこれの理由によって〕間違っている、という価値判断を付け加える
 ☆ ことも わたしたちは 相互におしえ合い おそわり合うという共生の生活において 自由に おこなうとも考えます。
 ★ 石を投げる
 ☆ 前に つまり 石を投げるとは関係なく そうではなく 相 手 の 要 請に応じて その行為や情況についての見方考え方を 誰もが 自由に 発表しあっても よいのではないか。このようにも考えますが どうでしょう?

補足日時:2009/01/12 11:40
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こんばんは。


このあいだはまことにもうしわけなく・・自戒してます。
きっと長文過ぎたのがだめだったんだ、ということで、とにかく話しを短く短く・・

と言っても、僕も下の方の意見と同じようなのなので、
善悪について付け足しのような話しです。

ここの哲学でよく偽善の話が出るのですが、
偽善と偽悪、という言葉があります。
その価値観のポイントは、善を偽ってるかどうかではなく、善を演じることで良くなるのだ、と本質的に思ってるかどうかです。
偽悪も同じで、悪を偽ることで、結果良くなればいいのだから、ということです。
人は本質的に善も悪も持っていて、2つともこの世の人格の本質です。
避けられないこの2つの価値観である以上、抑圧せずに正直に表現しきることで、逆にそれに振り回されないようにする、という意図が見えます。
善悪は、本質存在から見たら、演じる演目に過ぎない、道具だ、という視点です。

偽善、偽悪は、自然に始めた場合、自分ではそうと気付かないこともよくあります。
その時は、本当によかれと思ってやったり、悪くなってしまえ、と思ってやります。
そこに深い自覚が加われば、両方とも嘘くさいこと、嘘くさくてもまだ続けようか、止めようか、等主体的な判断が入ります。

主体性があれば=自分が存在であるという現実を持っている人にとっては、ペアで成り立つ価値観発生の原因である、この世の弱肉強食の仕組みにたいしても、主体的に判断できると思います。(理屈ですが)

また少し脱線したような・・

この回答への補足

 sheep67さん あらためて ご回答をありがとうございます。これまでのいきさつを超えて まいりましょう。

 そうですね。これも あらためて 前提事項を確認してすすむということになるでしょうか。
 ★ 善悪は、本質存在から見たら、演じる演目に過ぎない、道具だ、という視点です。
 ☆ これは 次の命題に等しいと捉えてよいでしょうか。
 ○ 存在は 善悪を超えている。
 ○ 存在は 善悪の判断に先行している。
 ○ 善悪の判断またはその判断能力は 存在に備わる行為能力〔の一部〕である。
 ○ 意志による自由選択(その思惟)において 善悪が判断されるが さらに大きな意志(もしくは愛なる意志)は その善や悪という個々の判断結果に必ずしも左右されずに 総合的に 判断をくだす。
 ○ その意味は これこれを選択するのが 善だと分かっても かならずしも そのとおりに 実行するよう最終の判断を下すとは限らない。悪という確実な判断としての選択肢であっても 最終的に どのように実践するかは 別である場合がある。
 ○ その意味するところは 存在が 主体であって 善悪判断は その主体に従属していると言えるようだ。

 次の文章の中の《本質的に思っているかどうか》あるいは《深い自覚 / 主体的な判断》のことを 上のように理解しました。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 その〔* 偽善と偽悪をめぐる〕価値観のポイントは、善を偽ってるかどうかではなく、善を演じることで良くなるのだ、と本質的に思ってるかどうかです。
 偽悪も同じで、悪を偽ることで、結果良くなればいいのだから、ということです。

 偽善、偽悪は、自然に始めた場合、自分ではそうと気付かないこともよくあります。
 その時は、本当によかれと思ってやったり、悪くなってしまえ、と思ってやります。
 そこに深い自覚が加われば、両方とも嘘くさいこと、嘘くさくてもまだ続けようか、止めようか、等主体的な判断が入ります。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  
 実際問題として 次のような課題については どうでしょう?
 ★ 主体性があれば=自分が存在であるという現実を持っている人にとっては、ペアで成り立つ価値観発生の原因である、この世の弱肉強食の仕組みにたいしても、主体的に判断できると思います。(理屈ですが)
 ☆ この中の
 ★ ペアで成り立つ価値観
 ☆ つまり
 ○ 個別的な考えやおこないをめぐる善悪の判断
 ☆ については どうでしょう? 存在が 善悪判断の主体であるという原則で もう あとは 付随する基準は 要らないでしょうか?
 たとえば
 ○ 善悪を超えた存在を持続させることが 言ってみれば 善である。それを阻むのは 善阻害であり これを 悪と呼んでいる。
 ☆ というように もとに戻って 
 ○ 悪は 善を損傷させる現象としてあるが 存在はしない。
 ☆ という考え方です。
 どうでしょう?

補足日時:2009/01/12 11:17
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maimai.susです。



自分は、前にも、幾度となくこの手の質問で答えているのですが、人間性の本質は欲望だと認識いるのですが、どうでしょうか?
本質が欲望なので、善悪は別にある意味関係ないんですよね。ただ欲望と言うものを分類していく過程で、善悪と言う判断基準が大きなウエイトを占めているというだけの事、だと思うのです。

なので、私個人から見るbrageloneさんは、今の処、善悪・愛の基準を主として物を考える人間性(欲望の集合体)という事になります。
感覚的な事に囚われ過ぎなければ、新たな規準を見出してゆくでしょう。

しかし世の中は、いろんな基準を主として、存在する、人間性もある訳で、上手くいくいかないは別として、それらを個性と呼ぶのではないでしょうか。

この回答への補足

 あぁ maimaisusさん おそらく おっしゃっていることと ここでの質問の出て来るその前提は あまり変わらないと思いますよ。重なっていると言いますか ただ 焦点は 別のほうに 当てているという恰好になるのではないでしょうか。
 ご回答をありがとうございます。

 というのも 
 ★ 欲望
 ☆ は 意欲・希望と言いかえれば 大きく広くは 意志のことだからです。その意志行為に 善とそうでないものがある。言いかえると 意志の自由な選択によって おこなった思惟および行為 まとめて 自己表現行為 ここには 同じくその意志の主体である人間が 善だと判断するものと そうでない性質のものとがある。というわけなのだと思いますから。
 そうして たしかに 世界の歩みとともに この判断基準としては
 ★ 感覚的な事に囚われ過ぎなければ、新たな規準を見出してゆくでしょう。
 ☆ とわたしも考えます。

 そうして 焦点が別だという意味は つまり さらに言えば そこから
 ★ 個性
 ☆ の問題に踏み出すのではなく 焦点を別のところに当てて この
 ○ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ★ 人間(欲望の集合体)
 ☆ の存在そのものとは どういうあり方をしているのか
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これを探るという問い求めなのです。

 一たん わたしは 自分で 仮説をまとめましたが どうも これだけでは 全体観をかたちづくらないようにも 思えて来ました。それは CUE009さんからの問いかけと言いますか ご指摘によってです。
 ★ (ANo.7=CUE009さん) ~~~~~~~~~~~~~~~
 善悪は判断だと思う。
 だから判断する主体、存在がいる筈。
 存在が先行する筈。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《存在は 意志行為とその善悪判断に先行する》 これは おそらく 真実だと考えます。そのあとで さらに問い求めなければならないことは いま 思案中なのですが ひとつに 次であるでしょう。
 ○ 善と悪とに判断される内容をおこなう意志は 存在に備わった行為能力である。ところで その行為能力じたいにも 善悪があるのか。そしてさらには 根っことしての・土台としての存在 これ自体にも 善悪は あるのか。
 ☆ です。
 ○ そもそも 土台が 善と悪とを宿しているのだから そこから出て来る意志の行為には 善と悪とがあるのだ。
 ☆ という命題を立てられたら どう対処するかです。

 焦点が別だと申しましたが こう考えてくると maimaisusさんのご見解も このような前提を 含むというようなことになるのでしょうか?
 別の視点から言いかえると 
 ○ 人間は 何のために 《善悪の彼岸》というようなことを言うのでしょう? 善悪に囚われないでいたいと思うのでしょう?
 ☆ 言いかえると
 ○ なぜ善を欲し 悪を好ましいものとは思わないのでしょう?
 ☆ こうなると 《個性》の違いで ことを処理するのも むつかしくなるのではないでしょうか。ですから やはり ひとつには 根っこの《存在》について 探っていくのも ありうるのではないかと思っているのですか どうでしょうか。

補足日時:2009/01/11 07:36
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善悪という概念があって、



また存在というものはまた別の次元の話として捉えるとそうなるのではないかと思います。

例えば社会生活において、善悪を優先する場合がありますが、存在自体を消してでも善悪を優先する場合もあると思います。

善悪も存在も因果関係によって影響しあいますが、存在自体が善悪を超えているという話は至極まっとうだと思います。

善悪よりも、その人がそこにいていい。
また、存在自体に意義があることが多い場合があると思えます。

2次元におとしても、皆さんの書き込みがあることのほうが、その内容の良し悪しよりも、意義があることだと理解できると思います。

?しかしその場合超越した悪というのは意義がないとも思えますね???

この回答への補足

 ○ 幽霊の正体見たり 枯れ尾花
 ☆ ということでしょうかねぇ? いえっ
 ○ 悪魔
 ☆ のことです。つまりは
 ★ ?しかしその場合超越した悪というのは意義がないとも思えますね???
 ☆ とおっしゃったことについてです。どうでしょうかねぇ。

 ▲ (ヨブ記1:6-7) ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ある日、主(* 神)の前に神の使いたちが集まり、サタン(* 悪魔)も来た。
 主はサタンに言われた。
  ――お前はどこから来た。
  ――地上を巡回しておりました。ほうぼうを歩きまわっていました。
 とサタンは答えた。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ というように あたかも幽霊が徘徊しているかのごとく 悪魔も 捉えられたのでしょうかねぇ。秋田の なまはげ のようなんでしょうか。
 そう言えば
 ○ 観世音菩薩
 ☆ は その名からする俗解では 《世音を観る》つまりは 観た結果を 《わたし》におしえてくれるわけですから 悪魔も幽霊も観音菩薩も みな 同じようなものなんでしょうか。
 悪魔は 報告の仕事よりも むしろ ひとを たいていは 好ましくはないが変に魅力的なものごとに誘うほうの仕事をしている感じですけれど。《なまはげ》と見れば 神に仕えている。つまり 《わたしなる存在》に仕えている。と言えそうですが。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 善悪も存在も因果関係によって影響しあいますが、存在自体が善悪を超えているという話は至極まっとうだと思います。

 善悪よりも、その人がそこにいていい。
 また、存在自体に意義があることが多い場合があると思えます。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 誰もが噛みしめていい文章だと思います。

 直前のご回答で CUE009さんの分析に反応して出したわたしのまとめで 自分ながら そうとう 一気に 来たぁーっという感じになりました。その内容をさらに確かなものにしていただいたと受け取っております。
 思えば わたしのまぼろしの質問《Q:悪は 存在しない》のときには 《存在は 善である〔と想定する〕》と言っていたのですから 遠くへ来たもんだ ですよね。二・三週間前のことでした。

 ならし運転するなり 考えを寝かしておくなり もう少し 質問も このまま 置いておきます。

 hosiboshiさん ありがとうございました。ご回答をありがとうございます。

補足日時:2009/01/10 06:52
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あけましておめでとうございます。



brageloneさんは善悪を
例えば、文化(規範や道徳)として捉えているのでしょうか?
あるいは、個人の価値観として捉えているのでしょうか?
あるいは、自然とか宇宙とか神とかの属性として捉えているのでしょうか?
あるいは、善悪そのものが存在だと捉えているのでしょうか?
(道徳規範は愚の骨頂とまで仰っているので最初はないですね。)
(存在と善悪の前後を問うているので最後もないですね。)

質問に質問を返しちゃいけませんね。
お前はどう思うかと問うているんですもんね。

存在は「善だ」といったら、それは「性善説」でしょうか。
存在は「悪だ」といったら、それは「性悪説」でしょうか。
存在が「善悪に先立つ」といったら、どっちも違うということでしょうか。

人間は、環境に対しては「負荷」ですよね、基本的に。
でも、このときの「環境」の主体は何なんだ?
環境っていうと「緑の地球」なイメージがありますし
砂漠化、なんてのは「滅び」のイメージがありますが
じゃあ、この世界の主体は「緑の地球」ですかい?
人間と緑の地球はどっちが大事?って考えると
ご質問の意図から逸れてしまうでしょうか?
(滅びは悪か?という疑問が湧きましたが、ここでは無視します。)

人間の存在が緑の地球に依存しているとすれば
先立つのは「緑の地球」か?
だとすれば「緑の地球」の成立条件が、人間の存在に先立つかも。
(地球離脱などSFネタはここでは考えないとします。)

ああ、でもこれは「人間」という存在と「地球」という存在の前後であって
存在と善悪の前後ではないですね。

存在と存在の間に善悪はあるのでしょうね。
では、例えば、人間から愛が生まれたのか、愛から人間が生まれたのか?
ん~・・・これは前後で考えるべきことでしょうか?
前後関係で考えると「愛がなくても子は出来る」なんて言説も成立しますが・・・
できれば前後でなく「セット」として考えたいと思います。

他との関係性が一切ない、完全単独(独立/孤立)存在には
善悪がないと思いました。
でも、完全単独(独立/孤立)存在というのが想定できません。
「無」が存在するとしたら、完全独立(孤立)存在かしら?

この回答への補足

 CUE009さん あたらしい年を迎えて およろこびを申し上げます。旧年中は・・・というところは 省かせていただきまして まづは ご回答をありがとうございます。

 そうですね。すべてにそうですが この質問は 質問の設定じたいやその中身についても 補足要求を どしどし おくっていただきたいと思います。その命題だけが お月さんのように 空に浮かんだといったところですから。
 ただし手がかりがありますが それは 趣旨説明にお伝えしたとおりです。もう一点 その存在の規定が 観念のごとく 思い浮かんだ経緯としては いまは消え去ったわたしの質問の《Q:悪は 存在しない》において お名前を出していいと思うのですが sheep67さんから そういう観想のようなご回答をもらったことから来ているとも思います。

 基礎としての理論を 仮説ですが ご披露して 今後の探究に参考としていただければと考えます。
 1. 存在――ひとの ですが――は どのように世に出て来たのかを別として なぜ 生まれたのかと問えば 分からない。
 2. このなぞのもとに 生まれた存在に備わったものを 自然本性と言い それには 三つの行為能力があると捉える。
 3. 身体および精神から成る存在は その精神が精神する動態であり このいとなみは 記憶と名づける。《記憶》という行為能力は 精神=身体の秩序である。この記憶の宝庫から ひとは 《知解》する。あるいは すでに知解した成果を記憶におさめて そこから知解(認識・知識)を得る。ところが この記憶と知解との往復運動を すでに つなぐ役割をも担っていて その知解結果の中から 総合的に(=人格の全体として) 自分の考えやおこないを選び決めるという《意志》も 控えている。
 4. 意志は その発揮に 制約は ない。意志行為が 成功するかどうかを別として 意志の決定については 自由である。また 基本的に言って 社会に生きる限りで 意志行為には 相手がある。相手との関係が 出来ている。または 出来る前から 人と人の関係性は 想定されている。この意志行為の関係性を 中性の概念として 《愛》とよぶ。
 5. さて 意志=愛は その発揮も決定内容も 自由である。それゆえにも 愛ないし自由意志を 中性ないし中立の概念として捉えた。
 6. たぶん ひとは 善と悪という言葉を 存在=自然本性=自由意志(愛)の持続(維持向上)のために 善いか悪いかで 決めて使っているのではないだろうか。《殺すなかれ》が 普遍的な思想であるとすれば それは 存在のために望ましいこととして 善であるという捉え方をしているのではないか。《殺す》のは 自死も他殺も その反対として マイナスの善である。また この善の欠損のことを 悪と呼ぶと。
 7. だとすれば 自由意志じたいにも当てはまるかに思われるが――なぜなら 中立の概念だから―― そもそも はじめの《存在》については すでに その意志による自由選択としての善と悪とを 超えている。のではないか?

 こういった趣旨説明になりますが いかがでしょう。
 木で言えば 根の部分について 説明したと思います。そのあと おっしゃるように 文化内容や価値観などにひろがって 幹や枝葉あるいは花や実のことにも到るのでしょうね。そこでは いくらか複雑な分析や整理を必要とするでしょうか。いわば出発点について 以上のように考えるのですが それについての問題点をも合わせて そこから どういうことが言えるでしょうか?

 * 愛が 中立だというのは 好きや思いやりや慈悲が 存在を好ましく思う善の側として プラスの愛であり 嫌悪・憎悪・敵愾心は 善の反対の悪の側として マイナスの愛だという分類になることです。

 * なお わがままですが 人間を 基軸として すべてを 考えるというふうに ここでは 見切り発車の形を採ります。

 * こうまとめてみれば けっこう つながりましたね。自分で言うのも おかしいですが 全体観が 或る程度 できましたね。吟味していただければと思います。

補足日時:2009/01/09 13:56
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善悪は極端な話、人の部分的な物なので超えるとか超えないの問題では無いと思うのですが。

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この回答へのお礼

 maimaisusさん ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 ★ 善悪は極端な話、人の部分的な物なので超えるとか超えないの問題では無いと思うのですが。
 ☆ たぶん 《ひとという存在とその能力に付随するもの》という意味で 《人の部分的な物》とおっしゃっているのだと受け取りますが 《超えるとか超えないの問題では無い》という事態が 《〈その付随物を超えている〉というふうに見える》のだと思います。

 ○ 存在は 善悪から自由である。

 ☆ こういう表現も いいかと思います。

 さらに敷衍していただくなら 理解が伸びるかも知れません。

お礼日時:2009/01/09 10:36

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