新生活を充実させるための「こだわり」を取材!!

 ひとの存在についてです。
 じつは この命題が 思い浮かんだのみです。

 ○ ひとという存在の自然本性は そこから――自由意志による選択をとおして―― 存在(生命)に善いことも そして その善いことに反すること(つまり 悪いこと)も 自由に おこなうようである。
 ○ ただ その存在じたいは 善悪を超えている。かも知れない。

 ☆ こういう命題です。これについて 真偽・成否などをおしえて欲しいのですが どこから どのように 問えばよいか 分かりません。
 手がかりは あります。

 ○ 神は 自分にかたどって ひとをつくった。

 ☆ これによると 神は おそらく――善人悪人を問わず 誰にも 等しく 雨を降らすというごとく―― 善悪を超えているはづですから
 その神の存在に似ている と言えば そうなのかなというところです。つまり

 ○ ひとは はなはだ不類似であるが いくらかは 神に似て その自然本性において 善悪を超えているところがある。かな?

 ☆ という命題です。
 こういう中身なのだよ とか いやいや それは 考え違いだ これこれのごとく認識すべきなのだよ とか おしえてください。ほかの仕方や内容の回答でも かまいません。

教えて!goo グレード

A 回答 (23件中1~10件)

存在は、善悪を超えているか?という質問を読んで。



善悪は判断だと思う。
だから判断する主体、存在がいる筈。
存在が先行する筈。

最初に、何の疑いもなく、そう思いました。
続いて、これを疑うならまず
善悪が判断でないことがあるか?を考えることが
この質問のポイントかと思いました。

一方、例えばキリスト教信者にとって
善悪は聖書に書かれたことです(ですよね?)
解釈や応用の余地はあれど
信者にとって善悪は判断(相対)でなく絶対です(ですよね?)

聖書に精通されているbrageloneさんならではのご質問なのだろうと
とりあえずは考えてみたわけです。

善悪が絶対として人間存在に先行して存在するケースを考えていたのですが
なかなか思いつきません。

> 《殺すなかれ》が 普遍的な思想であるとすれば
> それは 存在のために望ましいこととして
> 善であるという捉え方をしているのではないか。
聖書や宗教を離れて、自分が親しんでいる日常のスキムで考えれば
時代はサスティナビリティを求めていると言われ
その大目的は(まわりまわって)自己保存だよね、と思うわけです。
(自己保存が全てを超える、などと私は自然に思っているわけです。)

自己保存は自然淘汰を乗り越えてきた生物プログラムの基本資質であり
それを「善」と呼ぶなら、そう呼んでもいいと思います。
DNAレベルでの自己保存の下に持続可能性(サスティナビリティ)の維持という命題が
今は有効手段だと考えられているということでしょう。
聖書はそのときの「先人の知恵」「参考書」なのですかね?

自己保存が善だとすれば自殺は非善ですし
DNAレベルで考えれば子孫をつくろうとしない私も非善なのかしら
なんてことを悩んでいます。
でも、このあと3連休は悩んだり考えたりすることを中断して
体を動かすつもりです。
(すいません、後半はつまらない雑談になってしまいました。)

この回答への補足

 あぁ そうなんですか。つまり
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 存在は、善悪を超えているか?という質問を読んで。

   善悪は判断だと思う。
   だから判断する主体、存在がいる筈。
   存在が先行する筈。

 最初に、何の疑いもなく、そう思いました。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ すなわち そもそも もともと
 ☆☆ (No.5補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 7. ・・・はじめの《存在》については すでに その意志による自由選択としての善と悪とを 超えている。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ だったのですか。では なぜ ただちに わたしは そこに辿りつかなかったか。
 1. 原罪の思想の影響。――これはわたしには 当てはまらない。というのは たとえ あったとしても すでに 消されていると捉えるからです。
 2. 昔からの 性善説・性悪説の影響。――どちらでもない もしくは どちらでもあるという説は よく聞くような感じですが はっきりしないまま 現代にまで到っているから。
 3. ブッディスムの《無明=煩悩》思想の影響。――とにかく われを滅却せよと言うのですから。涅槃なんて言うのは 要するに 《死》ですから 死なしめるべき存在は 悪だという漠然とした感覚が 人びとにあると思われたから。
 
 ☆ (1)の原罪論も わたしの考えにかかわらず 世の中には けっこう 《はびこっている》でしょうから 影響があると言っておくべきでしょうね。
 ★ 続いて、・・・/ 善悪が判断でないことがあるか?を考えることが / この質問のポイントかと思いました。
 ☆ ふうーむ。ただ ですね ただ この《善悪判断》を ひとは 《人間の存在》じたいに及ぼそうとするとも言えます。上の三つの思想ですね。思考や判断で その当体である存在を 規定することは出来ないのですが だから どこから見ても
 ★ 存在が先行する
 ☆ のでしょうが どうなんですかね? 規定することは出来ないけれど あたかも それこそ 信仰において 信ずべき内容として 存在の善か悪か 善悪共存かを決めたいという欲求が 強いのでしょうか? さあ どうなんでしょう。

 ちなみに 聖書ないしキリスト信仰においては わたしの知る限り
 ○ 絶対⇒その擬人化として 絶対者⇒その俗称としての神 これが 信仰の相手として 想定されるわけですが そのとき 絶対であるなら 好ましくない悪ではないであろうと 想定されます。飾りをつけて 至高の善であるという形容を与えた。
 ☆ そういうことだろうと思います。信仰としての主観においては そのようなあたかも実体が先行しているから そうして人間の言葉による表現が得られると言うでしょうが。
 ★ 信者にとって善悪は判断(相対)でなく絶対です(ですよね?)
 ☆ これは 俗説です。神を信じるということは 人間は あくまで 相対的な あやまち得る存在だという自覚が 深まりこそすれ それをないがしろにするものではありません。《あやまつなら われ あり》と言っていく存在過程ですから。

 ★ 善悪が絶対として人間存在に先行して存在するケースを考えていたのですが / なかなか思いつきません。
 ☆ なるほど。検討・検証の余地がありますね。と言いますか それは あれですね。《Q:存在と存在理由とは どちらが大切ですか》の質問ですね。そうしますと その問題は 主観の自由における例外と言いますか この人間世界においても 自由主観の傑出した自己表現としてのあっぱれな・やはり愛なる行為ということなのでしょうね。
 基本は 《存在が 善悪判断に 先行する》です。
 その《存在》は 善悪を超えていて 善悪から自由で それでいてこそ ひとに対して 平等という視点を持つことができるのだろうか。こういう問いになるのでしょうか。平等と言ったって なかなか むつかしいでしょうし。

 いかん。これから ちょっと野暮用があって 時間が迫っていると思うと とりとめのない文章になってしまいます。追って 再考します。
 CUE009さん いつも ご回答をありがとうございます。

補足日時:2009/01/10 11:50
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この回答へのお礼

 補足欄で言っている《再考》は このあとのご回答へのお応えとして 述べることになりましたので そちらを参照してくださいますか。すみません。

お礼日時:2009/01/12 11:55

こんばんはー。



>自然科学を できるところまで・その限界まで 駆使して 突きとめる

いえ、そう言うわけではないのです。
済みません、書き方がまずかったです。
自分の書いたのを見ると、自然科学を使うのだ、と言うふうにも読めますが、
全くそういう意味ではありません。
そもそも心の話し自己の話しは、機械で計測などできないので、
直接的な科学の対象にはなりませんし、そんなことは無理です。

あと、科学を駆使する、という一方向のやり方を使う気もありません。
頭が固いと解けない問題、と思ってますし、
基本的に何にも頼らないで我が道を行こう、と思ってます。
知る限りのすべての学問を利用しながらも、それに依存しないよう気をつけてます。

僕が言いたかったのは、今結果的に、以下の科学の精神を採用してます。
1.論理的構造
2.抽象化、普遍化、などです。

これも鵜呑みにしたのではなく、実際使った上で十分実用的だ、と思ったので、
当面の道具にしています。

内向的な本質論の視点からは、この世が、無であり、愛である以上=言葉で表現できるものなど何もない、というゴールは分かっているので
本質論の範囲では、何かを断定的にいうのはおかしいと感じてます。
でもそれでは考えることもできないので、仮に、言葉や、イメージや、視点を使ってます。
世間の常識や固定観念を遠ざけたい、というのもありますし、
言葉や、断定する何か、観念や視点は、最終的にお互い打ち消しあって消えてしまう、と思ってます。そういう方針です。
というより、経験上、こだわりを無くせば無くすほど、考えがよく進みます。


でも、brageloneさんの対象とする社会性や外向性ー人間関係ですね、
それらはそもそも断定によって成立する世界なので、断定しないと始まらない、と思います。
この世は断定のかたまりですし。この世の構成材料は、断定そのものですし。
僕も何か違和感(不快なものではなく、深い意味での違い)を感じてたんですが、
それは心に注目するか、人間関係に注目するか、の違いでしょうか? 元々同じものなのですが・・


なんか、自分の方針ばかり語ってしまって・・・
でも話がまとまってきてほっとしてます~

ーーーーーーーーーーーーーーー

>この世に対して 遠慮勝ちな姿勢になります
これは、あの世からの視点、ということですか? 
それとも、神がこの世を作ってやった、というような意味合いが薄い言葉、という意味でしょうか?

この回答への補足

 みなさん この質問は 次の質問へ引き継ぐことに致しました。突然ですが よろしくお願いいたします。

 ● 《Q:この世界は わたしたちのものではないのか》
   http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4634124.html

補足日時:2009/01/16 09:11
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この回答へのお礼

 sheep67さん ご回答をありがとうございます。

 あぁ わたしの表現も おかしかったですね。科学万能であるというような意味合いを出してしまっていると読んでもおかしくありませんね。
 神秘思想は それこそ 現実を超えて 解釈するのがむつかしい領域に入っていくので その非現実性の部分を 単なる空想ではないように担保するために 自然科学を道具として用いる こういう意味で言おうとしていたのでした。

 さて 道が二つあるというふうに確認した問題は 今回おっしゃっているように
 ★ それは心に注目するか、人間関係に注目するか、の違いでしょうか? 元々同じものなのですが・・
 ☆ だとわたしも考えます。《こころに注目する》場合に これまでの傾向としては 神秘思想があるのではないかと わたしは 思ったのでした。
 ★ 元々同じものなのですが・・・
 ☆ だとやはり考えます。一般に 形而上学は 最終的には 現実との――こころにおける和解ということが もともとのねらいだったのでしょうし その現実との――親和性あるいは整合性を 持つものであろうとするはづです。

 ☆☆ 寄留という言葉では この世に対して 遠慮勝ちな姿勢になります。
 ☆ という意味は たとえ この世を厭うような逃げの姿勢ではなくても どうも 腰が引けているような遠慮をして 現実に対応しているのではないか こう感じたところです。
 その意味は こうです。もしひとが わたしは この世界に 人生の旅をする中で 寄留しているのだと思ったとするなら そのときには 逆であると考えるべきではないか。つまり この世界でふんぞり返って 澄まし顔やしたり顔をしている御仁たちが かれらこそが 寄留しているのだ。その先生がたこそが もう少し 肩身の狭い思いをしてみても ばちは当たらないはづだ。こういう意味です。どうでしょう。

お礼日時:2009/01/16 06:56

こんばんは。



>その隔絶したところから この世のこの人間に その力を与えているかどうか

これは個人レベルで考えてます。
でもこれを分析するには、僕自身の行動の内なにが神から出て、なにが人知で、なにが他人の影響そのものなのか、等、完全に分類できてないと、できないです。
逆に言うと、自分のことがそこまで分かってたら、他人の集まりであるこういうことの社会分析も手がつけられますが、今はまだ無理です。まだ自分のことも分かってないので。


>このように二つの側面
僕は・・またちょっと違うかもしれません。
相対や絶対の、主に抽象的な仕組みや、
あるいはメンタルの仕組みの中でも、心理学も手をつけてない非常に抽象的な部分の仕組みを理解することで、あの世とこの世の関係を分かりたいという方針です。
物理学的な方法です。
抽象的な仕組みが分かれば、それは骨組みとなって、そこに肉付けすれば、それが多分具体的に起こる現実の事柄、ということになる、と思ってます。
なので、いきなり具体的な、社会がどうこう、という話しには行っていないです。
それが厳密にはなしにできるのは、全部わかってからじゃないかと思います。

そのあとの本の引用は、抜粋なのでよく分からないのですが、
アウグスティヌスさんはきっと分かられてたんだなーと感じます。
多分、言われてるとおりなのでしょうが・・・
僕は心理的メカニズムのような切り口で、論理的に分析したいし、できたらいいなーと思ってます。

>寄留という言葉

言葉のイメージは分かりますが、コメントが難しい言葉ですねー。
この言葉も、神がこの世を作った、という意味なので、
でも僕は個人レベルを理解した後に、社会レベルの話しに行きたいので、
この話しは順序的に、もっと後で論じたい話しですねー。

ではでは。
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この回答へのお礼

 sheep67さん ご回答をありがとうございます。

 なるほど。自然科学を できるところまで・その限界まで 駆使して 突きとめる。そのあと 肉づけをしていく。ですか。
 あるいは むしろ この方法だと 観想・瞑想と通じているようにも思えますし もっと言えば 神秘思想のごとくにも 見えます。《個人》を先に捉えるという点で 神秘主義のようにも 見えます。

 ☆☆ 寄留
 ☆ は 別の見方をすれば この世に対して 遠慮勝ちな姿勢になりますね。一歩退いた感じにも映ります。

 そうですか。そうですね。個人レベルで みっちり 探究してください。たぶん わたしは つねに 社会とのかかわり つまりは すでに 関係性を宿した個人の存在 これを 前提して 探究をつづけると思うのです。
 いくらかの道に分かれるのは とうぜんでしょうね。

 また何かありましたら ご投稿ください。よろしくどうぞ。

お礼日時:2009/01/15 22:59

> 《空》つまり《ゼロ》だと言えば 《無》のことですから


空は、中身を空にするんですよ。
絶対が相対を包んでいると仰るときに
その包まで捨てちゃあダメでしょう。

> 物語は 何もないと捉え その何も物語らないところにこそ
> 人間は その存在が 或る意味で 保証されて
> その不完全さや ものごとの善悪を 超えることができるのだろうか
物語らない状態の(ただ在るだけの状態の)存在を
肯定しても否定しても仕様がないと思うんですけど。
(存在は《すくい》がどうであるかの問題を超えている、という回答です。)

この回答への補足

 CUE009さん ご回答をありがとうございます。

 ★ 存在は《すくい》がどうであるかの問題を超えている、という回答です。
 ☆ これだけでは まだ 納得しません。すなわち 前回には
 ★★(ANo.20) 絶対は無根拠に、ゆるぎなくそこに存在していると考えます。
 ☆ こうも述べておられます。という意味は 《無根拠に》の部分は いわば論理的な想定に当たりますが 《ゆるぎなくそこに存在している》という部分は けっきょく 主観内面のあり方を表わしていると言うべきなのです。《有るか無いか分からない》絶対を 《存在している》と規定するのは 主観の行為――もちろん 自由ですが――に属しますし それに留まります。つまりは これは 絶対を想定したあとの一種の《物語》なのです。
 《神は存在する》と述べるのも 物語であり 《いやいや 神などは 存在していない》というのも 同じく まったく同等に・そして自由に 物語なのです。

 ですから たぶん この主観内面における神ないし無神をめぐる物語だけでは 《人間存在は 善悪に先行する》とは言うものの 《人間存在は 善悪を超えており 善悪の行為とその錯綜関係から自由である》とは 言い難い。つまり そう言う根拠が まだ 薄いように思います。
 絶対の想定にもとづき 神ないし無神と わたしとの関係が 設定され ここから わたしの存在は 経験行為としての善悪から 論理的には 自由であり 離れていると言えるかも知れません。そうなのですが その《論理的な保証》は どこまで 現実として あるいは 実感として わたしなる主観たちに 確かなものとして しかも 共有されるか。
 (あれっ かなり 後退してしまいました)。

 ★ 空観  
 ☆ は わたしは 得意ですよ。
 善ないし悪と呼ぶべき行為があるとします。これを捉える観点 そのようなわたしの観点 これは 善悪から離れているという理論です。それが 空観です。
 つまり 世界に起きていることは 善または悪の行為です。すべての行為に 直接・間接の原因としての因と縁とがあり その連鎖において 行為は引き継がれ あとは それら諸行為の社会的な関係錯綜または相互依存関係が 世の中にはあるだけだというのが 空観であり 縁起説だと理解しています。
 つまり この空観をおこなっているわたしは 空という観点・立ち場にいるという見立てです。これは ほぼ《絶対》というなぞの地点だと考えられます。物理化学生物学的な現象は もちろん 心理的あるいは意志判断的な思惟や行為のすべてが その相互関係および推移過程となって現われるその一切を 見ているという地点です。世界のすべてを見ているという地点です。その地点に立てて ものごとを見ることが出来ることが 空観です。ちなみに それは 人間のわたしが おこなうのです。それが 出来るのが 涅槃です。でも わたしは そこに まだ います。
 つまり おそらく 《絶対》の想定に立って その地点を設定しているのだと理解します。これは 半ば 無理なことであるかも分かりません。

 と今回は こんな応答になりましょうか。

補足日時:2009/01/15 22:44
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> 《絶対》が想定されてくる場合というのは


> 相対世界の有限性が尽きたところであるわけですから
絶対というのは根拠の尽きたところでもあると思います。
(根拠の起点、といった方が正しいと思います。)
よって、絶対に「なぜ?」と問うても理由はない筈です。
絶対は無根拠に、ゆるぎなくそこに存在していると考えます。

> 《この法則》も 一段と広く大きい世界において
私たちは5次元の上に6次元があるかも?といった
プロセスの話をしているのではない筈です。
(物理学者だって絶対を探しているのでしょう?)
相対世界の尽きたところに
「ただ11次元で振動する超ひもがあった」
「歪曲した5次元時空がただ無限に広がっていた」
としたら、さてどうなんでしょう?を話したかったのです。
不案内な物理学の話を持ち出したのは
異次元感を醸成したかったからです。

想定という大前提の上で
相対世界の尽きたところに、ただ11次元で振動する超ひもが
無根拠にドーン!とあったとして
そのことが善や救済とどう関係していくのでしょう?
絶対世界と、善や救済は、次元の違う話だとは考えられませんか?
そのような「絶対」を、シッダールダは「空」と呼んだ
とは考えられませんか?
「存在は善悪を超えている」っていうのは、そういうことだと思うのですが・・・

> 永遠の生命という物語が得られます。
永遠の生命という物語を読み込んでいる、ということはないでしょうか?

ps.イーガンの「万物理論」を引用したついでに。
(これを引用したのはプロセスの話ではないという確認のためです。)
同じ作者の「順列都市」では、人間が人口世界をつくり、人口生命の創造に成功します。
物語の後半で、この開発者が人工生命とのコンタクトを図ります。
しかし、人工生命は開発者である人間の不完全さを見取って
人間を創造者として認めませんでした。

そんな話を頭の片隅に思い浮かべつつ。

この回答への補足

 CUE009さん ご回答をありがとうございます。

 そうですね。《五〔次元〕だとか 十一〔次元〕だとか》 その数字がわざわいしたようです。順序あるいは個数があるということは 有限の世界であり その因果関係なりとしての根拠もあります。つまり 相対の世界に属します。
 ということで 絶対との区別を しっかりしていこうと思うと そこここに 茶々を入れてしまうようです。

 絶対とは たしかに 無根拠です。すべての経験合理性にもとづく法則をも超えています。言いかえると これが 絶対というものだと示すことが出来たとすれば それは 絶対ではありません。そうですよね。

 そこで 次の話については どうか。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 絶対世界と、善や救済は、次元の違う話だとは考えられませんか?
 そのような「絶対」を、シッダールダは「空」と呼んだ / とは考えられませんか?
 「存在は善悪を超えている」っていうのは、そういうことだと思うのですが・・・
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ おそらく げんみつに言えば こうなのでしょう。つまり
 ○ 絶対を想定した上で その絶対という観点に 仮想的にでも立って この相対世界を見たとする場合 その見方が 《空観》なのでしょうね。
 ☆ つまり 《絶対》のことを 《空》と呼んだのではないでしょうね。《空》つまり《ゼロ》だと言えば 《無》のことですから げんみつには まちがっています。すなわち 《有をも無をも超えた領域》を ただ《無 ないし 空》とだけ規定してしまっては まちがいになります。
 しかも 
 ○ この《絶対》と人間との関係 これをも 想定することになるというのが 人間のくせなのではないでしょうか。つまり 物語のことです。
 ☆ すなわち ブッダとても つまり ゼロだと言いたい人の場合でも 《空観 / 縁起説》つまりあるいは 《さとり》という境地に関する概念まで 作り上げたではないですか。これは これも 物語です。
 キリスト信仰の場合には その絶対が あろうことか 人間になって 相対世界に介入したとまで 物語が 広がりました。どちらも いわゆる《すくい》の問題に 色濃く かかわっています。

 ここまで 考え述べて来て 思ったことは では こういう問いにすれば どうでしょうかというものです。
 ○ 存在は 《すくい》がどうであるかの問題を 超えている。
 ☆ と言えるか です。
 ○ 《さとる・さとれる・さとれない》あるいは《すくわれる・すくわれない》という論議を まったく 超えたところに 存在は その現実の境地を持つことができるのではないか。
 ☆ です。

 そして この問いは 直前のご回答での質疑応答ともかかわっていて
 ○ 絶対の国と相対の国とは 互いに この人間世界において 入り組み合っている。と言えるか。入り組み合っているなら それは どういう仕組みとしてであるか。もしくは どういう人間の境地としてであるか。つまり さとりとは どういうことか。
 ☆ このような問題になるように思いましたが どうでしょうか。

 もし このような《さとり を超えたさとり》あるいは《すくいを超えたすくい》なる物語が 
 ★ しかし、人工生命は開発者である人間の不完全さを見取って / 人間を創造者として認めませんでした。
 ☆ というごとく まぼろしに終わるとすれば それでは 《絶対》は どこに行くのか。想定してもしなくても 同じ事態であるのか。ひとは 存在として 善悪を超えているかどうかなどと 延々と 議論しつづける動物であるに過ぎないのか。

 ★ 絶対は無根拠に、ゆるぎなくそこに存在していると考えます。
 ☆ と主張するとき そのあとには 物語は 何もないと捉え その何も物語らないところにこそ 人間は その存在が 或る意味で 保証されて その不完全さや ものごとの善悪を 超えることができるのだろうか。・・・

補足日時:2009/01/15 15:58
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こんばんは


そうなんですか、brageloneさんもこの仕組みを追われてたんですかー。

ぼくは焦っても仕方ないので、考えずに行きます。
ビジョンがまだなにも見えていません。
前回書いたとおり、まだ分かってません。
それは探偵の推理なので、基本ひらめくまで待ちます。

>神は 絶対として
この表現は引っかかりました
神への愛、と言いますが、神への思いが愛ならば、絶対視とは相容れません。
そう言ってしまうと、まるで天皇陛下か、何かどこかの偉大な人のようです。
多分、絶対であり同時に相対であるところの何か、という風な?

>☆ の《仕組みの自覚》 これを さらにさらに 追究していくことが ひとつの道であるように考えます
本当ですねー、でもここまでこれるとは思っても見なかったですが。
幸いこれた以上、後ろを見ないで前進ですねー。

>○ このとき 人に無視され あらゆる人に無関心をもって 接せられるという事態に出遭ったとき ひとは 生きて行かれるか。

存在と関係に根ざす人、というのは、とにかく視野が広いはずです。
なにも引っかかるものがないという意味で。
神を知らなければ、よりどころが欲しくてせっかく持って生まれた視野を狭くしてまで、
小さな概念に頼ります。
でも神様がいれば、そんなよりどころは要らず、
脳みその中の固定観念を、自分自身とせず、一切とらわれず、
概念は、手に持ってる記憶、対象なんだ、という認識かなと思います。
善悪などの価値感もです。
もってもいますし理解できますが、その概念に価値を置きません。
ただ概念があるだけです。

だからこそ、概念に自分のよりどころを求めて概念に価値を与えてしまい、
その価値による物差しで人を測ることで、他人を無視をする人の気持ちが、
心の底から理解できる、ということだと思います(僕はまだまだです)

なので、善悪を越えていたら生きていけると思いますが、
その人にとっては、それは、無視されても一人で生きていける、という感覚ではないと思います。
無視する人の気持ち(弱さ)がいたいほどよく分かるので、
言葉は交わせなくても一緒に生きていける、というふうな?
下手な想像をしますが・・・


こんな文章で良かったでしょうか?

この回答への補足

 sheep67さん ご回答をありがとうございます。

 ★ ☆《神は 絶対として》――多分、絶対であり同時に相対であるところの何か、という風な?
 ☆ これは ですね。
 ● 神は 
  ○ 絶対として:とうぜん 相対の世界に属する人とは 隔絶しているけれども 
  ○ 相対世界との入り組みとして:その隔絶したところから この世のこの人間に その力を与えているかどうか
 ☆ このように二つの側面において捉えるとよいと思うのですが どうでしょう。

 このところ アウグスティヌス本人にかかりきりでしたが その研究者の著作を読んだことを思い出しました。掲げます。
 ▲ 〔R.A.マーカス(Markus):アウグスティヌス神学における歴史と社会〕~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 
 △ (アウグスティヌス:神の国 19・17) ~~~~~~~~~~~~~~~~
   それゆえに この天の国は地上の国を寄留している間に あらゆる民族からその市民を召し出し あらゆる言語の寄留者の社会を作る。そして 地の国の平和をもたらして保存している習慣や法律や制度の相違には何ら意を用いず それらのうちの何ものも廃止したり 破壊したりせず むしろそれらは異なる民族においてさまざまではあっても 地上の平和という一つの目的をめざしている限り もしも唯一の最高の真なる神が崇拝されるべきだと教える宗教が阻止されないならば これを保持したり追求したりするのである。
 それゆれに 天の国すら地上において寄留している間は地上の平和を用い 死すべき人間の本性に属する事物に関しては 敬虔と宗教とを妨害せぬ限り 人間の意志の結合を保護しかつ欲求し 地上の平和を天上の平和にもたらす。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ・・・〔この地上の国の〕政治の領域は相対的となり 制限され〔ている〕。その制限された領域内でそれは自律している。しかしまさにその自律の中では それは天の国の市民の深い関心事である。この・・・強調は 人間の生の世俗的部分に対するアウグスティヌスの極めて円熟した考察の一部であり 二つの国にある無人地帯( no man's land =非武装中立地帯)ではなく それら二つが互いに絡み もつれて ただ終末論にしか分離できない現実におけるそれらの時間的生としての彼の《サエクルム(この時世 saeculum )》に対する理解から流れ出している。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《宗教》だとか《崇拝》だとかは 旧いと思うので 言い替えたいところですが 《入り組み方》について 考察しており その考察の解説が与えられているようです。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 なので、善悪を越えていたら生きていけると思いますが、 / その人にとっては、それは、無視されても一人で生きていける、という感覚ではないと思います。
 無視する人の気持ち(弱さ)がいたいほどよく分かるので、 / 言葉は交わせなくても一緒に生きていける、というふうな?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ こういうふうな生のあり方のことを 《寄留》と言っているのだと思いましたが どうでしょう?

補足日時:2009/01/15 09:29
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補足で言われてるのは、本質存在~僕は完全性、と今はいってますが、の良さがどのように表れてるか、という意味のようですが、


それだと、人によってさまざまかな、と思います。
存在と関係が具体的にどう現れるか、ならいくつか例をあげたいです。

例 人との絆(=関係性)が深いほど、その人の存在感がある。絆が、愛でも憎しみでもです。
逆に絆が浅かったりなかったりする場合
マザーテレサがいってたと思いますが、人は無視されるのが一番辛い、というものです。
いじめでのしかとの感覚です。
愛の反対は無視?でしたっけ?
無視は関係性の拒絶です。というよりそもそもなんにもない、ということですが。

よく、そういうときに、「自分が透明人間になったような気がする」という文学的表現があります。
その感覚は、人とのつながりがなくなることで、「自分の存在感」が、大きく薄らいだから、と思います。
存在と関係は厳密に比例して、疑いようがないです。
ただ、意識だけをつまり、この世だけを対象とするなら、
この世存在としての人は意志による抑圧能力があるので、意識と人格の範疇ではそれは成り立ちませんが。
包括的に見れば、存在=関係は、成り立つ式だと思います。
あの世では、意志と本音は一体化しており、この世の人間のような分裂はありえない、と想像してます。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

>超経験の世界を なぞ
今はそうですが、未来においては解決されると信じます。個人的に。
神様が、あの世の仕組みを解けないようにしてる、とは思えないので。

>《なぞ》としての存在また関係を 必ずしもなぞではない人間存在が 
分有していると言えるか。少しは 似ていると言えるか

人それぞれだと思います。自覚の問題と思います。
気づくことが=「分有する」ことだと思います。

分有の仕組み、とは、あの世とこの世の混じり方の問題、かな、と思います。
この世とあの世の組み合わさり方のメカニズムです。
でもまだ考え中で、論理的な仕組みが分かってません。
なので、例とかあげようかなと思います。


1.横を歩く人が、1メートルのところに立っていても、心の距離は1センチだったり、人によっては100億キロはなれている、と思います。
これは、あの世側から見れば、あの世では決して触れ合うことなどない心の距離が遠くの人に、
物質世界では、いともたやすく接触することができる、という特異な性質のことだと思ってます。

2.赤ちゃんはみなまだあの世にいますが、生まれてこの世の時空と物質の仕組みを5感で体感し、
しかも、そのこの世の仕組み~自分の体も含めて~のほうのリアリティーが強くなったときに、
初めてこの世に移動してくる、と考えます。

3.>《本質存在じゃなく、娑婆に自分が存在している、というその感覚》
と書かれてますが、しゃばに自分がいてる、という光景を見る自分は、
そう観察する自分は、どこにいるのか? と考えると、そのときの自分はあの世にいます。
これは死ぬときの自分のビジョンと基本的に同じと思います。
この「娑婆を眺める自分」は、善悪他あらゆる価値観を持つことができない、ということは実感していただけるでしょうか? 受容がないと、娑婆を眺めることができません。
善を受け入れ、悪をはねつける、という精神状態で娑婆を観察することは不可能です。
あらゆる価値観と、娑婆を眺めることは、人の脳や心では両立しません。
それと同じく、死後のあの世の人は、この世の人が持つ価値観を持たない、持てないと推測できます。

4.感情は、自分が探偵の推理のように把握した状況判断の、抽象的な形そのものに必ず一対一で対応したものだ、という事実。それは、明らかに脳の産物だ、と想像します。
「感情はとても論理的」と、仕組みが分かってくると、思うようになりました。


人は本来極限の集中そのものなので、このしゃばで、どれだけそのもって生まれた集中を下げないか?
という課題があります。
言い換えると、それは生後具体的に経験する事柄を、いかにプラスに解釈し、というより、
経験した事柄の背景となる現実と真実を、感覚的に理解しえるか、という話だと思います。

この集中を下げることなく、この世の現実を受け止めきれば、あの世が持つ、判断と実践の力が生きる、ということになります。
別の言い方だと、「分からないものは分からない」のまま保留する集中力です。
そこで解釈してしまうと、脳みそに、偏見の記憶を一個納入することになると思ってます。

神とあの世の違いが分からないので、僕の理解はこの辺りで止まってます。
何かご存じならまた教えてください。


ーーーーーーーーーーーー

上の複数の例は、無意識裏の、自己と外部の一致による自発的集中、という視点で、統一的に理解できます。
この世に本質存在と関係が実現してるかどうか、は、
個人レベルでは、これらの仕組みを自覚してるかどうか、ということだと思いますl。
実現してる人は、このことをわかってる人、と言えます。
言い換えると、信仰=気づき、といえるのかなー?たぶんですが。

ここから先が考え中で、いろいろありますが、全部まだ仮説で、人にいえるようなものがまだありません。

ーーーーーーーーーーーーーー

最後に、この手の理解の方法は、どうしても、総合的把握、総合的判断力になります。
つまり、推理小説に出てくる探偵さんの推理と同じです。
警察でいうところの状況証拠、というやつです。物証はありません。

その推理に確信が持てば持てるほど(=気づくほど)、それはリアリティーを増します。
言い換えると、あの世の状況が根源的で、この世ももちろん現実だけど、それは
あの世のルールの副産物として生じてるんだ、という実感が持てるのではないか、と想像します。
経験則から導く、抽象と具体の関係、というアウトライン、という予定です。

どうでしょうか? うう~消されないだろうか?びくびくです

この回答への補足

 sheep67さん ご回答をありがとうございます。

 ★ 分有の仕組み、とは、あの世とこの世の混じり方の問題、かな、と思います。 / この世とあの世の組み合わさり方のメカニズムです。
 ☆ この主題が まさに この質問の問い求めるところです。
 昔なら 《天上の国と地上の国》というところでしょうが その《組み合わさり方》です。
 その前には 果たして 二つの国は 組み合わさっているのかという問いも あったわけです。
 別の言い方では
 ○ 神の霊は 人に 宿るか。
 ☆ です。神は 絶対として とうぜん 相対の世界に属する人とは 隔絶しているけれども その隔絶したところから この世のこの人間に その力を与えているか です。
 sheep67さんは すでに その力(あるいは 霊)の与え方 つまり ひとから言えば 受け取り方の問題だとおっしゃっているのだと思います。人によるだろうし 集中や気づきによるのだと。

 ★ この「娑婆を眺める自分」は、善悪他あらゆる価値観を持つことができない、ということは実感していただけるでしょうか? 受容がないと、娑婆を眺めることができません。
 ☆ この文章は すでに 神の国と地上の国との入り組み方を説明しているように思えます。説明しようとしているように映ります。
 ★ 「娑婆を眺める自分」
 ☆ は むしろ 神の国にいるという視点であるかに思われます。そこから この地上の国を眺めているのだと。言いかえると
 ○ 娑婆=地上の国を 眺める自分は 自分という存在として 善悪を超えている。
 ☆ というこの質問への解なのであると受け取りました。
 
 このあとは そのことを さらに 一般的に説得力をもって 説明しうるかになるのではないでしょうか。まぁ お互い ここから ぼちぼちですけれど。
 たぶん こういうことだと思われます。つまり
 ★ 個人レベルでは、これら(= この世に本質存在と関係が実現してるかどうか)の仕組みを自覚してるかどうか、ということだと思います。
 ☆ の《仕組みの自覚》 これを さらにさらに 追究していくことが ひとつの道であるように考えます。
 たとえば 
 ○ 愛は 広い概念として 好きと嫌い 愛情と憎悪 思いやりと敵がい心などを含むと思われる。その愛の対極は 《無視》あるいは《無関心》である。
 ○ このとき 人に無視され あらゆる人に無関心をもって 接せられるという事態に出遭ったとき ひとは 生きて行かれるか。
 ○ もし 善悪を超えているならば その存在において ひとは 生きて行ける。と言える。
 ☆ そのへんの事情ないし情況は 果たして どういうことが 真実であるだろうという問い求めになっています。どうでしょう。

補足日時:2009/01/14 22:23
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maimai.susです。

少々時間が空いて申し訳ないです。

まずは、
>★ 人間(欲望の集合体)
 ☆ の存在そのものとは どういうあり方をしているのか
のお答から。
正確には、(欲望)この表現が正しいか、どうかは分かりませんが。
人間とは物質的においてつーか、動物的?において何かを取り込みエネルギーにし活動しています。
まあ、上手く説明出来ないですが、物質的にそう言った性質で存在しています。そして、意識とはその中に有る形になっていると思うのです。
従って、意識もまた、それに、付随した形もしくは近しい性質だと考えている訳です。

~をしたい、~でありたい、~してあげたい、~欲しい、と言うような感情(力の流れ)が人間の心の本質であると自分的には思っています。
それを、自分的に言うと(欲望)と言う言葉が一番しっくりくるので欲望と表現させて頂いている訳です。

余談では有りますが、物事を善悪を省き見たり考えたりすると、感情の流れが緩やかになることに、お気づきでしょうか。
喜びや悲しみ怒りと言う感情が、抑えられる(減少する)のです。

これ以上の話となると、物理的な話とかになるので、今回の回答はここで止めておきます。
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この回答へのお礼

 maimaisusさん ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 わたしも 
 ○ 身体および精神 としての存在 あるいは もっと直截に 《身体=精神》という存在 
 ☆ と言ったりしますし 見ていますので 
 ★ 欲望 / 物質的 / 動物的 / エネルギーの摂り込み / そして 意識
 ☆ という捉え方は 分かるように思います。それほど 違わないように思います。

 そのあととしては 《余談では有りますが》として 書きこんでいただいた文章 つまり 次の箇所が 目に止まりました。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 物事を善悪を省き見たり考えたりすると、感情の流れが緩やかになることに、お気づきでしょうか。
 喜びや悲しみ怒りと言う感情が、抑えられる(減少する)のです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ そうですね。印象としては 
 ★ 物事を善悪を省き見たり考えたりすると 感情の流れが緩やかになる
 ☆ かも知れませんが どうも 消極的な手法であるように映るのですが どうですかね。《善悪の判断をすべきところでも それを省き 物事を捉えている》ように映るのです。もっと わるく言えば 《逃避》としての知恵であるように感じているのですが どうでしょう?
 ★ 喜びや悲しみ怒りと言う感情が、抑えられる(減少する)
 ☆ ことを目指すというよりは 喜怒哀楽の感情を 何事にも 自由に 表わしていく。それでいて 不必要なことには 静かでいられるとか 感情を表わすことが必要な場合だと思ったときには その感情表出とは別に 同時に並行して 理論的な分析をもおこなっていけたら よいなとか そういうふうに 考えているのですが どうですか?
 
 つまり 我田引水の話をするならば このとき このときにこそ 存在としての《わたし》は 善悪から自由でいられるようになると考えるのです。感情に惑わされず 溺れず しかも ものごとを それとして きちんと 把握していけるようになれたら ということですが それは いまの仮説からいけば そうすることが出来るという見通しを持ったということなんです。
 どうですかね。あまりにも 雲をつかむような話であるでしょうか。

お礼日時:2009/01/14 19:41

今回のQ&Aを通じて言葉の限界を痛感しています。



> 絶対がこの相対としての存在であるわれわれに
> 介入して来ているとするなら、われわれはもはや
> 永遠の生命に触れていると言わなければならないことになります
絶対、相対は字義どおりではなく「仮置き」の言葉の筈です。
永遠、生命も、たぶん字義どおりに捉えるべきではないと思いますが
永遠の生命という言葉が文字通りにしか解釈できない私には
なぜ?という感じです。

私たちの次元を超えた法則が本当にあったとします。
その発見により人類の倫理・道徳・規範が変わってしまうという
SF小説があります(ここ数年読んだ小説で一番好きな作品です)。
http://www.amazon.co.jp/%E4%B8%87%E7%89%A9%E7%90 …

> 永遠の生命に触れていると言わなければならないことになります
もし、私たちの次元を超えた法則が見つかれば
この法則は私たちにとって、文字通り「絶対」です。
私たちの世界観も一変するかも知れません。
そして、この新しい世界観は、過去のものより強固でしょう。
この世界観の上に、私たちは新しい道徳や規範を
創造し構築していくと思います。
それだけだと思います(話がズレているかしら?)。

> 五次元から上は 分かるわけがないと思っていまいます。
一昨年の夏にNHK-BSで放映された
「リサ・ランドール 異次元への招待」はご覧になりませんでしたか?
未見であれば、Youtube上に残っている筈です。
(検索すればすぐ見つかる筈です。)

ご存知のことかも知れませんが
(そして私は解説できるほどの知識がありませんが)
アインシュタインは、前後・左右・上下の3つの空間次元に
時間を加えた「4次元時空」を単一の構造として扱えることを示すことで
私たちの空間と時間に対する概念を修正しました。
そして、全ての物質やエネルギーの分布が時空を歪曲させ
時空の歪曲が「重力効果」を生み出すことを定式化しました。
(重力効果を時空の幾何として捉えなおしました。)

その後、カルツァとクラインが
通常の四次元時空(縦、横、高さ、時間)に加えて
もうひとつ、超微細な空間に円形で存在する時空を設定すると
一般相対性理論からでも重力と電磁気力を平等に扱えるという
仮説を提出しました。

リサ・ランドールの提唱する「歪曲した5次元」モデルでは
自然界に存在する4つの力のうち重力が極端に弱いことや
5次元以上の次元の見えない理由がシンプルに説明されます。

私たちは3次元生物ですから、3次元しか知覚できません。
ですから、高次元時空の幾何で考えた方程式から導く予測が
当たるか/当たらないか、だけしか分かりません。
(相対性理論によってGPSの観測精度が抜群に上がった、という
事例を聞いて、信仰に至るのでしょう。)

・・・ということだそうです。

この回答への補足

 CUE009さん ご回答をありがとうございます。

 この質問に関しましては わたしの中では その考えが あっちへ行ったりこっちへ来たりで 揺れています。あるいは 揺れているのではなくて もともと それだけの幅を持った見方があり得たのかなぁという具合いではあるとも思えています。

 きわめて微妙な 微小な入口を求めて 解明作業が進められているような感じも して来ます。
 それというのも 
 ★ 絶対、相対は字義どおりではなく「仮置き」の言葉の筈です。
 ☆ 《相対》の世界は いま・此処なる経験現実ですから――それをも 虚構だと見ようとする人もいるようですが―― その時空間に沿った言葉です。そこから 《絶対》を想定するわけです。これが 大前提です。《想定だということが 大前提である》です。
 そうすると ひょっとすると
 ○ われわれはもはや 永遠の生命に触れていると言わなければならない。かも知れない。
 ☆ という 今度は 物語が得られます。《想定という大前提の上での 〈永遠の生命〉という物語の出現》であるわけです。
 ★ リサ・ランドール
 ☆ は たまたま テレビ放送のほうで見ましたが そして その理論の内容や成否について 暗くて 批評し得ませんが けっきょく わたしが思うのは そのとき 《五次元》なら五次元の問題が まだ そして新たに この経験世界に連結しているかに思われることです。たしかに 次元が異なる世界の話であるわけですが その五次元が全体としての世界を構成するとすれば その世界観は あらためて 経験世界であり 相対世界であるということになるのではないか こう思われることです。つまりは
 ★ もし、私たちの次元を超えた法則が見つかれば / この法則は私たちにとって、文字通り「絶対」です。
 ☆ 《この法則》も 一段と広く大きい世界において やはり 相対の世界に属する経験的な理論であるに過ぎないのではないか こういう見方です。
 今回は 《こっちへ(自分のほうへ)来たり》の見解になるようです。

 わたしたちは 四次元の時空にいます。五次元あるいは十一次元があるかも知れません。問題は 《絶対》が想定されてくる場合というのは 相対世界の有限性が尽きたところであるわけですから 尽きていないのなら それは まだ 相対世界に属します。という点に〔問題は〕あります。
 ということは 《絶対》という問題は つねに いま・ここのあり方になる。のではないでしょうか。いま生きているときに 《永遠の生命》というなぞが 何らかのかたちで この有限の生命存在にかかわっている ということでなければ わたしたちの理性や精神は 満足しないのではないでしょうか。
 そういう物語が求められているし 《存在は 善悪を超えている》の具体内容であることになるのではないかと 思えて来ていますが どうでしょう。
 哲学は 自然科学に対して 謙虚でなければいけないと同時に 自然科学を超えている思考領域をも持つというふうに 思えて来ていますが どうでしょう?

補足日時:2009/01/14 14:39
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この回答へのお礼

 ★ グレッグ・イーガン:万物理論 (創元SF文庫)
 ☆ は アマゾンのレヰ゛ューを ひととおり見ました。上で触れ得ませんでしたが 内容としては 重なっていると思いますので あとは 控えさせてもらいます。

 * SF小説は ほんとに 読まないんですよ。以前 こちらの質疑応答で 《ワ゛リス VALIS》を勧められてざっと読んだことがありました。

お礼日時:2009/01/14 14:49

、オコリザルです。


思考のためのたたき台なので今回は前置きが長いです。
欲望、煩悩の類はまず最初に衝動として現れる際の現象として脳内の分泌物に還元され具体化される。
そんな化学反応の話です。
悪を認めることは罪。
悪は存在しません。
したがって悪意が仮に独立した存在と仮定して(孤独のさなかにある)自らの悪を認めると悪が悪で無くなり、その行いの罪を認めることとなり瞬時に罪となる。
したがって自己の同一性に恭順した悪意は罪になる化学反応を起こします。

人生の物語ですが悪意への勝利によってこのように罪に悩まされて
過ごしました。

罪は何に化学反応を起こすのでしょうか。
存在の本質は無罪です。
罪が罪を認めると断罪となります。
文字通り罪を絶たれて許されることです。
そして存在の本質、無意識的には光の子、心理学的には健康な無意識とも表現されますが、そのように昇華します。
ドグマの城壁を打ち壊し、観念の世界(この世)全ての森羅万象に愛を認めると完璧な自己の同一性を得ます。
存在の本質において罪も悪も無いのなら悪意と罪の意識は存在を認識する過程において発生する煩悩であり、孤独なそれらの脳内の分泌物には本質が無いことになります。
そのような存在に自己の同一性を完成させるための自己の救済が行き届かない場合「本質の無い望み」つまり欲望にさいなまれることとなります。
原罪なる言葉を発明したキリスト者がたの信教と異なる善性もあるでしょう。
悪意と対峙する善だけでなく罪を許す善もあるでしょう。
煩悩としてには罪を認める善もありえます。
これが罪の存在を許す善と解釈される間違いがありえます。
本来は孤独な存在たる罪が、われが罪であると認めることです。瞬時に化学反応を起こすはづが、中途半端に罪のままとどまる現象です。
罪の存在を許す間違いは罪が悪に循環する化学反応を起こします。
この罪と悪の循環には本来因果関係が無く光に還元する正しい道のりだけを案内するのが正解です。
その説得に善である必要はあるのでしょうか。
愛であれば容易な気もします。

唐突ですが欲望とは生命に対する無理解と直感します。

取り留めの無い文章でした。

この回答への補足

 オコリザルさん おはよう。ご回答をありがとうございます。

 随想ふうのご回答に合わせて こちらも つづってまいります。存在は 善悪を超えているにたどりつければ さいわいです。

 ★ 欲望とは生命に対する無理解と直感します。
 ☆ 欲望とは もともとは 意志が自由に選択した思惟でありその実行のことです。この意志行為が その味を占めて 意欲が増した結果のありさまを言うように思います。
 そのとき 自己の考える自己の存在(あるいは 同一性)のために善いとは思わないのに選んでしまいおこなってしまう意志行為も 含まれます。いわゆる悪です。
 善い意欲であっても それをむさぼるなら 時には 過ぎたるは及ばざるがごとしで 度を過ぎた貪欲として マイナスの善(つまり 悪)に入れられるのかも知れません。

 さて ふたたび そもそも なのですが わたしたちは うそをつくと言います。実際 うそをつきます。つかない人はいないでしょう。
 うそとは やはり 自己の存在=生命・その維持向上のために善くないと 自己が判断した思惟内容のことです。あるいは むしろ 冗談に近い 軽いうその場合などにも すでに 理屈はどうであっても やはり軽く 良心の呵責というごとく 心に傷(いた)みを感じるのではないでしょうか。それが うそである証拠だと言っていいでしょう。
 (慣れっこになって わたしは もう傷みを感じないというのは 例外ではありません)。
 だとすれば この《うそ》は マイナスの善です。つまり 悪と呼ぶ現象です。

 ところが この悪であるうそが起こったことに対して もはや わたしたちは 何かをして なくすことは 出来ない相談です。何かをして つぐなうことは 出来るかも知れません。しかも 償ったからと言って うそ自体がなくなるわけではありません。忘れるだけです。
 悔いて悔いて 二度とうそをつかないと誓っても どうすることも出来ないと思われることが しばしばですし たとえ どうにかすることが出来ても 過去についたうそを無くすことは出来ません。社会に貢献して その偉大なる功績によって 過去のうそを消し去ってくれと言っても 無駄です。

 うそは 一ぺんでも ついてしまったなら もはや それを消すのは 無理です。なぜなら そのことは 自分が いちばんよく知っているからです。良心は あたかも最高裁判所長官として(あまり いいたとえではないなぁ) 君臨しているかのごとくです。
 では だれが なにが うそという悪を《処理》するか。

 この悪を 《絶対》に対する背向きであり わが絶対との関係を傷つけるその関係性に対する違反であると もし 捉えたときには 世に言う《罪》という概念が 持たれることになります。
 ひとつには 罪は もともと 神に対する裏切りです。人と人とのあいだに起きる悪が その具体的な中身であり そうでありつつ 神との関係の問題です。そういうふうに 昔の人びとは 捉えたわけです。
 人と人との相互の問題は 相互に その解決を 実現し得ます。いつまでも戦争を繰り返していても 賠償と和解とで 解決しうるものだと 互いに 認容してしまっているとさえ言えるかも知れません。あるいは 乱暴な話としては それこそ けんかで決着をつけるというわけのものです。じゃんけんで決めるというのも ありでしょうか。
 すなわち そうではなく どうしても ぬぐい切れない悪とそれをめぐるわが良心の咎めは 人と人のあいだの問題では 必ずしも なく そうではなく これは わが神に対する謀反としての己れの《うそ》から始まり それを《罪》として認識した人間から始まっているのでしょう。

 では だれが この わたしのうそ このわたしの悪 このわたしの罪から わたしたち人間を なぐさめるのでしょうか。
 《悪は存在しない》と われわれ人間が 互いに 認め合って共同の主観(コモンセンス)とすることによってでしょうか。《罪は赦された》と 互いに 認容しあうことによってでしょうか。
 何をすべきでしょう? 何が足りないでしょう? 足りるようになることがらは あるでしょうか? どうなのでしょう?

 ここから 脳内に化学反応が 果たして 起きるでしょうか? それは どこへ向かっていくでしょうか?

 あやかって とりとめなく。

補足日時:2009/01/14 11:00
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