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なぜ物事には「終わり」があるのか?

A 回答 (18件中1~10件)

 ホントに終わりってあるの?おそらく、キリスト教を土台にした、西欧風の考え方だと思う。

東洋的な「因果往訪」とか、「輪廻」、あるいは「持病」などのように、境目がはっきりしないコトが不安だから、どこかで区切りをつけたがった結果でしょう。
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訂正:



×物質が振動することは知覚すること(実感すること)はできます。

⇒物質が振動することを知覚すること(実感すること)はできます。
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 物質が振動することは知覚すること(実感すること)はできます。



 振動するということは、空間があると同時に時間もある証拠。

 時間は空間とセットでなければ認識できない。

 もともとひとつのものであるから。片方だけの認識は所詮架空であり、虚構である。

  って、誰かが言ってたような???
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始まりと終わりは、人の主観であり、物事を判断するための基準、本当の意味での始まりと終わりは、確認することは出来ないので、確かなことは言えない。

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>なぜ物事には「終わり」があるのか?


という問いには、哲学者は答えないのではないでしょうか?

なぜ、という疑問は、だれかが何かをしたときに、その人に理由を聞くときに使うのでしょう。

もし、
物事には「終わり」があるのか?
と問えば、哲学のカテゴリーにふさわしい問いになったと思います。
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呼気があるからそのまえに吸気がある 


ニワトリがいるからタマゴがある
空集合があるから全体集合がある 
 * 
根元事象はなくならない 
 * 
用語に誤用は御免
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ANo.11:補足の補足


 つまり宇宙空間で、反射の前の光だけの光って、無論それは存在界の存在ですから、機械的に感知することはできても、人間とだけの機能では感知は無理ですね。
 反射してくれるか、反射対象があるかでないと。
 或いは十全の光の存在条件を一つずつ、削除していくことにより感知できるかも知れませんね。
 
 言いたい事は存在条件ていうのは、開始と終了であり、そういう条件のないものは存在し得ないということなんです。
 条件のない存在とは究極の主格意識でしかない。それは主格の意識内容や結果である存在界の存在ではない。ということなんですが。
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ANo.7:


 ちょいと補足
 OtamaFJWRさん、仮に「終わり」のないものがあったとする、或いはそういうものを構想する。
 最初にそういうものを構想できますか?
 そして「終わり」のないものって、どんなものでしょうかね。
 条件下にないものでしょうか?そういうものって、私たちの存在という経験界において知覚したり、対象客体にしたり、或いは意識内容にできますか?補足で何かコメントいただけるのでしょうか?

この回答への補足

絶対無=時空が存在する以前の環境、は永遠ではないかと。

補足日時:2010/04/29 15:57
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なぜ物事には「終わり」があるのか?



○頓知問答のような回答は論外ですが、「なぜ物事には「終わり」があるのか?」という疑問が回答を示唆しているのですよ。
逆説として、誰しも終わりの無い「永遠」を思い浮かべますね。例えば、「永遠が」真であれば、「始まりと終わりがある物事」は舞台劇のようなものですね。舞台劇は始まりと終りがないと劇になりませんからね。
元に戻って、「始まりと終わりがある物事」が真であれば、「永遠」など存在しないということになりますね。
さて、どちらも真ではありえないのでどちらかが正しいのですが、どちらでしょうということなのですね。常識的にとはいってもむずかしいかもしれませんが、例えば、舞台劇の脚本家になった気になれば、脚本家は次から次に脚本を書き、新しい舞台を演出し、役者はいろいろな舞台で経験を積む、舞台には始まりも終わりもあり有限ですが、演出家も役者も居続けますね。
この例えのように、永遠に居続けることが担保されているからいろんな舞台で演じることが出来、いろんな経験を積めるということなのですね。
同じことをやり続けるということは飽きますからね。
それで、始まりと終りがあるのですね。始まりや終り、生や死がある世界は舞台劇のように仮の世界なんですね。
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はじめとおわりは人間という、肉体に限度を持った平凡な個体の中途半端な精神が、自分主体に考えた単なるイメージです。

一般的に物事にははじめもなく、終わりもありません。
非凡な哲学者であったおしゃかさんははっきり万物流転(輪廻)とだけおっしゃています。宇宙なども、はじめとおわりがあるというひともいますが、それはひとくぎりつけなければ平凡な人間には考え切れないほど時間的に空間的に大きいからなのです。
ポーは「永遠(無限大)という言葉はそれへの想像の努力なのだ」というようなことを言っています。人間は、死すべきものである肉体ゆえに、はてしないものをイメージできないのです。
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