【あるあるbot連動企画】あるあるbotに投稿したけど採用されなかったあるある募集

 ひとの存在についてです。
 じつは この命題が 思い浮かんだのみです。

 ○ ひとという存在の自然本性は そこから――自由意志による選択をとおして―― 存在(生命)に善いことも そして その善いことに反すること(つまり 悪いこと)も 自由に おこなうようである。
 ○ ただ その存在じたいは 善悪を超えている。かも知れない。

 ☆ こういう命題です。これについて 真偽・成否などをおしえて欲しいのですが どこから どのように 問えばよいか 分かりません。
 手がかりは あります。

 ○ 神は 自分にかたどって ひとをつくった。

 ☆ これによると 神は おそらく――善人悪人を問わず 誰にも 等しく 雨を降らすというごとく―― 善悪を超えているはづですから
 その神の存在に似ている と言えば そうなのかなというところです。つまり

 ○ ひとは はなはだ不類似であるが いくらかは 神に似て その自然本性において 善悪を超えているところがある。かな?

 ☆ という命題です。
 こういう中身なのだよ とか いやいや それは 考え違いだ これこれのごとく認識すべきなのだよ とか おしえてください。ほかの仕方や内容の回答でも かまいません。

A 回答 (23件中21~23件)

オコリザルです。


>★ (ANo.1) 自らの機軸として絶対を確認します。
 ☆ だったのですが 修正でしょうか。あるいは ちょっとした おとぼけになるでしょうか。

信仰を表ざたにする立場と、あくまでも内面にひたかくしにする立場の流儀といいますか作法の差でしかありません。
人間信仰とはお互いが愛であることの確認です。
愛し合おうとする努力でもあります。

善と悪への中立ならばそのようにはもはや考えないです。
悪とそしられてもとことん自らは善であると言い張ることを推奨します。心理学的表現ですが悪意で無く悪人ならばまっとうできる正義です。

★ 「自らは人間として存在する」このことに疑いを持ったことはありません。
 ☆ の《人間として》には 《善悪から自由な》という意味合いが含まれるでしょうか。

このような自由は満喫できないでただ翻弄されてすごしました。
知性の暴走で済みますが、わたしなりの言い方では、無意識のみが自由意志を確認して存在がおざなりと言いますか後回しにされたゆえの翻弄です。
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この回答へのお礼

 primeapeさん ご回答をありがとうございます。

 ははぁーん そう来ますか。
 まづ
 ★ 信仰を表ざたにする立場と、あくまでも内面にひたかくしにする立場の流儀といいますか作法の差でしかありません。
 ☆ これは 納得できます。ただし あまり 反対の内容の二つのことを 同時に 言わないようにとは願います。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 人間信仰とはお互いが愛であることの確認です。
 愛し合おうとする努力でもあります。

 善と悪への中立ならばそのようにはもはや考えないです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは 同じような趣旨になるのですが 姿勢の持ち方で わたしの場合は 違って来ます。
 ○ 存在は 行為能力として 意志であり この意志行為を 関係性という側面から捉えるなら 愛となる。
 ○ しかも この意志かつ愛が 存在という基礎のもとに やはり 中立であるなら ふつうの人間関係を 築き得るし 保ち得る。
 ☆ つまり 取り立てて《愛し合おうとする努力》をするのではない という姿勢でいます。

 ★ 善と悪への中立ならばそのようにはもはや考えないです。
 ☆ というのも 分かりますが 別の姿勢からは 
 ○ 善と悪への中立ゆえに ふつうの人間関係とそこにおけるコミュニケーションを 持続していける。これは 愛である。
 ☆ という情景を 思い浮かべます。

 ★ 翻弄されてすごしました。
 ☆ たしかに 《愛し合おうとする努力》を掲げていて 実際に実践するというときには 何かと 障害が多いでしょうし 衝突が起きるでしょうね。
 わたしの場合も 起きるのですが こちら(わたし)は 語弊がありますが それを 意に介さないでいます。障害が起こってももはや 馬耳東風でいますから――つまり あたかも中立として存在しているという姿勢で 思いかえしてみれば たしかに いますから―― 翻弄されるのは むしろ 相手のほうであるかも知れません。
 そうであるなら 愛も 中立であるようです。
 
 ううん。いったい どういう方向へ この質問の結論は 行くのでしょう。

お礼日時:2009/01/08 23:48

オコリザルです。


蛇足です。
神のみが絶対であり他に存在の機軸はありえない。
私はこのような考え方をしません。
だからこそ何度か引用した人間信仰です。
愛としてこの世に生を受けました。
誰でもそうです。
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この回答へのお礼

 あっ そうなんですか。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 神のみが絶対であり他に存在の機軸はありえない。
 私はこのような考え方をしません。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ つまり 前回では
 ★ (ANo.1) 自らの機軸として絶対を確認します。
 ☆ だったのですが 修正でしょうか。あるいは ちょっとした おとぼけになるでしょうか。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 だからこそ何度か引用した人間信仰です。
 愛としてこの世に生を受けました。
 誰でもそうです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ たしかに こちらのほうの思想は これまでのものですね。
 その存在は 果たして 中立という有り方を持ち得ているのでしょうか。どうでしょうかね。

お礼日時:2009/01/08 22:56

オコリザルです。


わたしの意見は時々とぼけたりギャグをかましたりすることもありますが終始一貫しています。
そんな今回のご質問で思いが及んだことです。

「縁起」又は「関係」の中に身をおくとき、要するに人と交わるとき、いい人であったり意地悪であったりするバランスのさなかにありながら、自らの機軸として絶対を確認します。実を言うと哲学で語られる相対について了解が不十分なのかもしれませんが、「自らは人間として存在する」このことに疑いを持ったことはありません。
その自らの絶対とは神性を備えた愛であり同時に光です。
信仰の階段に入り口の選び方によっては「神性に支えられた愛」であるかもしれません。

こんな私ですが「救う」と言うことは思いもよらず、お互いが「神性を備えた愛であり同時に光。」このことを確認するための問いかけを他者と交わします。孤独ではありませんが生きるために必要です。
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この回答へのお礼

 primeapeさん ご回答をありがとうございます。

 そうですね。たしかに 時には とぼけたりという形の文章にも 出会って来たような感じがします。
 わかる場合とわからない場合と そして 当たっているかどうか二つに分かれるけれども 推測が効く場合 このように分類さるようです。

 今回 わたしも どういうふうに進めていけばよいのか 思案中ですが  ご投稿くださった内容は 問うている命題について 肯定するという意味内容でしょうか。
 つまり ひとは 善悪を超えている存在でありうる。というふうな結論になりましょうか。
 ★ 「自らは人間として存在する」このことに疑いを持ったことはありません。
 ☆ の《人間として》には 《善悪から自由な》という意味合いが含まれるでしょうか。
 ★ いい人であったり意地悪であったりするバランスのさなかにありながら
 ☆ というとき 《バランス》を取っている存在は いわば中立としての位置を占めていると言えましょうか。
 これは しかしながら 直観の結果として得られた内容であるように受け取ります。
 理論として 解き明かすなら どういうふうになるのか この方面にも 触手を伸ばしたいのですが どういうふうに 推論を立てればよいのか 質問者としても 思案中です。
 ありがとうございました。

お礼日時:2009/01/08 22:49

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