祖母が「正岡子規に関する本が欲しい」と言い、どんなものが良いか探しています。
子規の作品集と、伝記のようなノンフィクションの本、両方でオススメを教えて下さい。

わがままを言いますが、年寄りですのであまり文字が小さいもの・文庫本は読めません。(>_<)
アドバイス頂けたら嬉しいです。よろしくお願いします。

このQ&Aに関連する最新のQ&A

A 回答 (2件)

こんにちは。



正岡子規には晩年、病床で書いた随筆がいくつかあり、どれも名随筆として知られていますが、岩波文庫ワイド版に2冊あるようです。

墨汁一滴
http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/00/6/0072530.html

病牀六尺
http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/00/5/0070970.html

どちらも大真面目なのにユーモアに満ちた面白い作品で、子規の強靭な知性がうかがえます(あの若さで書いたとは・・・!!)。

*岩波文庫ワイド版は、版も大きく、活字も一般の文庫本に比べて大きくしてあります。
もちろん普通の岩波文庫にも収められていますから、大きい書店にいらっしゃれば質問者様みずからお手にとって内容が確かめられると思います。
    • good
    • 0

最近、愛媛県松山市にある正岡子規記念館に行ってきました。



本ではありませんが、この秋、放映になるNHKドラマ「坂の上の雲」に正岡子規も登場します。
これを見ると、かなり楽しいと思います。

正岡子規記念館では彼の生涯がパネルや映像でたどれるようになっていました。ここを訪れるのもいいと思います。

http://www.nhk.or.jp/matsuyama/sakanoue/

http://www.city.matsuyama.ehime.jp/sikihaku/

本の情報でなくてすみません。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございます。
「坂の上の雲」楽しみにしています。

お礼日時:2009/04/26 21:28

このQ&Aに関連する人気のQ&A

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q正岡子規の短歌の解釈

正岡子規の短歌に「瓶にさす藤の花ぶさみじかければ たたみの上にとどかざりけり」というものがあります。
 この短歌の意味とみなさんの独自の解釈を教えてください。 詳しく教えていただけると幸いです。 よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 
>「瓶にさす藤の花ぶさみじかければ たたみの上にとどかざりけり」

俳句というのは、元々、これだけで文学作品としては自立せず、状況説明などが必要になります。詠まれた状況が分かると、はじめて意味が納得できる作品では、自立しないのです。しかし、短歌は、和歌もそうですが、詠まれた状況を外しても、自立した作品となります。

ただし、うたが詠まれた状況が分かっていれば、なお、うたの鑑賞は深くなるとも言えます。

まず、このうたは、正岡子規が病弱で、晩年、病床に伏して多くの作品を造ったことは有名ですが、この作品が果たして、病床にあるときの作品かどうか、わたしは知りません。しかし、短歌は、字数が多いため、色々な内容を詠むことができます。この作品の場合、「たたみの上にとどかざりけり」と、短句あるいは下の句で詠っています。

一体、瓶にさした藤の花ぶさが、たたみの上に届くとか届かないとか、普通、そういうことを気にするだろうか、という疑問が素朴に出てきます。つまり、枯れかかって来た場合などは別ですが、たたみなどに花が触れないように活けるのが、普通です。

ここから、花房がたたみに触れるか触れないかということを、わざわざ短句で詠むということは、作者の視点が、床のたたみ近くにあるからではないかということが出てきます。そうでない場合は、別の詠み方が可能だからです。

正岡子規が病床に伏して作品を造ったか造らなかったか、この作品は病床に伏していたとき造った作品なのか、元気なときの作品なのか、それは分からないとしても、作品自身のなかに詠み込まれている言葉から、病床か、または何にしろ、たたみ近くに横たわって詠んだうたではないかという推測が当然出てきます。あるいは、たたみに横たわる場合の視点を想像して詠ったという解釈が出てきます。

「瓶にさす藤の花ぶさ」となっています。自然に咲いている藤の花ではなく、瓶に活けられたものなのです。これも重要で、わざわざそう詠うということは、「瓶の花」でなければならない理由があるのです。たまたま、瓶の藤の花を見たということでもよいのですが、この「たまたま見た」は、歌においては、「必然理由」になります。

先にも述べましたが、「瓶にさす花」が、床のたたみに、その花が届かないのは、ごく当たり前のことです。そういう風に花をさす、というか活けるからです。

すると、これはあたりまえの何でもない情景を詠っているということになります。しかし、「詠っている」ということに意味があるのです。わざわざこれをうたにしたというのは、何故かという疑問です。

ここで、「視点」が、たたみの上に横たわっているか、その状態を想定しての視点だと先に述べたことが関係してきます。藤の花ぶさが、たたみに届かない、という状況は、横たわっている状況が、そのままで、変えることができない、という事態を平行的に詠んでいるのではないかと解釈できるのです。

「瓶に活けられた藤の花ぶさが、畳に届かない。届かないのは当たり前で、そのように活けてあるのである。横たわる私も、この床から出ることができない。できないのは当然で、わたしは多分、病で、このまま死んで行くはずなのだから。世のなかの定めはどうしようもないものがある。人の運命も、どうしようもない。しかし、そう思いつつも、藤の花が、手元にあれば、ただ見るだけでなく、触れてめでることもできる。それもできないのが運命である。わたしのいのちが短いのも、これも運命だろう。しかし、花は花、短いことも短いこと……自然なことではないか」

ここまで解釈すると、正岡子規が、病床で作品を造り、病床から抜け出すことなく病死したという知識が入っていますが、作者は、「客観的」に「花ぶさの短いこと」「自分のいのちも短いこと」などを、何気ない情景を描写するように詠っていることになります。

自分自身のありようを、「客観視」し、色々な思いや、心の苦悩なども、もしかしてあるかも知れないのを、そういうことを一読感じさせず、何気ない情景を詠んだように作品を造っているところに味わいがあるということになります。(何気ない情景を詠んだうたではない、というのは、最初に、なぜ、たたみに届かないことを、それほど重要視するかということを述べましたが、ここから、出てきます)。
 
(また、たたみ近くの視点は、「寝ている状態」「病床にある状態」「死んで横たわっている状態」など色々ありえるのですが、正岡子規が、病床に伏してうたを詠んだなどという知識を前提にしないでも、「寝ている状態」を想定して、こういううたを詠んだということから、この「寝ている状態」は、多分、病床で、しかも、長くないいのちではないか、というのが、うたの言葉を玩味すると出てくるのです)。
 

 
>「瓶にさす藤の花ぶさみじかければ たたみの上にとどかざりけり」

俳句というのは、元々、これだけで文学作品としては自立せず、状況説明などが必要になります。詠まれた状況が分かると、はじめて意味が納得できる作品では、自立しないのです。しかし、短歌は、和歌もそうですが、詠まれた状況を外しても、自立した作品となります。

ただし、うたが詠まれた状況が分かっていれば、なお、うたの鑑賞は深くなるとも言えます。

まず、このうたは、正岡子規が病弱で、晩年、病床に伏して多くの作品を...続きを読む

Qスポーツノンフィクションの本を探しています。

今、矢崎良一さんの高校野球のノンフィクションに嵌っています。
お勧めのスポーツノンフィクションの本を教えてください。
競技は問いませんのでお願いします

Aベストアンサー

少し古いですが山際淳司さんの短編のルポ集で「スローカーブをもう一球」が好きです。
なかでもたった一人のオリンピックという話が好きでした。
日本ノンフィクション賞を受賞しています。

タイトルの通り野球をはじめ、マイナーなジャンルまでいろいろなスポーツの記事です。
淡々と事実を距離をもって書いているのに非常に読ませる文章です。
http://www.amazon.co.jp/dp/404100327X

Q正岡子規の短歌解釈 ぬばたまの~

正岡子規の短歌
「ぬばたまの黒毛の駒の太腹に雪どけの波さかまき来たる」
の解釈を教えてください。特に「黒毛の駒の太腹」の部分がよくわかりません。よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 正岡子規には、「平家物語」の、「宇治川の先陣」の争いの話に基づいた、
 先がけの 勲功(いさお)立てずば 生きてあらじと
    誓へる心 生食(いけずき)知るも
という短歌があります。(「いけずき」は馬の名。)

 ご質問の歌も同じ時の作品じゃないかな。

ぬばたまの(「黒」にかかる枕詞〔まくらことば〕)黒毛の馬の太った腹に、(宇治川を流れる)雪解けの(水の)波が逆巻いて打ち寄せている

というぐらいの内容だと思いますが。

「いけずき、するすみ」という二頭の馬を巡る平家物語の話は、

http://masa_n.at.infoseek.co.jp/heike/h236ch10_1.htm

〔第二百三十六話・第十章 青葉の笛(一)〕から、「次回へ」をクリックして、「第二百三十八話・青葉の笛(三)」ぐらいまでをお読みください。

参考URL:http://masa_n.at.infoseek.co.jp/heike/h236ch10_1.htm

Q単行本と文庫本どっちを選んでますか?

変な質問ですみません。

同じ内容でも、文庫本のと単行本(表紙が固いやつ)のってありますよね。私的には、文庫本の方が安いし、かさばらないし、読みやすい、持ち運びに便利なので、断然こっちのほうが良いと思います。
単行本って何がメリットあるんですか?

余談ですが、
この前古本屋に行った時に、
単行本バージョンしかなかったので、
仕方なく単行本の方を買いました。

お願いします。

Aベストアンサー

とことん文庫派です。
表紙が硬い本は苦手です。

文庫の小ささ、持った感じ、本棚に並べたときの美しさが好き。

病院や電車など、外で読むにはハードカバーはやりすぎな感があり、文庫のさりげなさがいいです。

どうしても早く読みたい本は、すぐに図書館へ予約をかけて借りて読むか、読みそうな人に打診して貸してもらいます。
しかたない場合は本屋さんで自分と格闘しながら購入しますが、lifeishellさんと同様、文庫が出たら買いなおします。

同居の義父が単行本派。
図書館で借りるのも、古本で買うのもだめで、新刊を買って本棚に整理して並べて行きます。
そして義母(読書に興味なし、理解なし)に物(本を物を一緒にします)が増えて困ると怒られています。

Q正岡子規の短歌を古語辞典を片手に意訳してみました。

正岡子規の短歌を古語辞典を片手に意訳してみました。

水車ひびく野川の夕寒みほろほろとちる款冬の花

↓(意訳)

肌寒い夕暮れ、水車の水音が響く野川にふきの花がはらはらと散っています。(もう夏も終わって秋になりますね)

これで合っているでしょうか?

夕寒みの意味がどこを探してもなかったのですが朝寒みと夜寒みが秋の季語であったのでその流れで“肌寒くなった夕方”の意で訳しました。
ふきの花は夏に咲くらしいのでそれが散るので夏が終わって秋が訪れる様を表現しているのかなと思いました。

添削をお願いします。また、みなさんの訳もお聞かせください。

Aベストアンサー

 短歌ですから五七五七七に区切ってみますと、
  みずぐるま ひびくのがわの ゆふさむみ ほろほろとちる 「款冬」のはな
ですね。
 「款冬」は「ふき」では字足らずですし、「ふきのとう」では字余りで言い方も無理があります。
 その点「やまぶき」なら合います。
 まあ、「かんとう」と音読みする手がないではありませんが、和語が続く一首の調べの最後に漢語がくるのはどうでしょうか。

 それに、蕗の花は、

> 更にフキは雌雄異株でよく見ると微妙に違う雌花と雄花を咲かせています。

> 雌花は花弁が糸状に退化していて短く、外観からは確認出来ません。

ともに、
http://ameblo.jp/kitanosatoyama/entry-10182910007.html
より引用

というもので、「ほろほろと散る」ような花びらはありませんし、むしろ花が咲いた後に、

> フキは雌雄異株の植物なのでその花茎であるフキノトウにも雌雄の別があります。雌の方は花が終わると茎が高く伸びて、いわゆる「トウが立つ」状態になって、白い綿毛のある種子が風で飛ばされて散るようになります。雄の方は余り高くは立たず用が済むとそのまましぼんでしまいます。
http://www.geocities.jp/maruhotigar/fukinotou.htm
より引用。

というように、綿毛が飛ぶ方が目立ちます。フキはタンポポと同じくキク科の植物です。

 また、どちらも春に咲きますね。山吹が咲くのは晩春ですが、夕方がまだ寒い日があってもおかしくはないと思います。

 水車がある場所ですからせいぜい村はずれ、山の中ではないでしょうし、人もけっこう行き来する場所だと想像されます。山吹を植えてあったとしてもおかしくないのでは。

 それから古語辞典をお持ちなら接尾語の「み」を調べて下さい。形容詞の語幹(シク活用の場合は終止形)に付いて原因理由を表す用法があるはずです。
 この接尾語の「み」だと考えると「夕寒み」の訳し方も違ってきます。
 接尾語の「み」は普通は「(名詞)を……み」(この場合は「夕を寒み」)となるのですが、音数を合わせるために「を」を省略するのは和歌ではよく行われることです。
 「山深み」 春とも知らぬ 松の戸に 絶え絶えかかる 雪の玉水 (新古今和歌集・式子内親王)

 短歌ですから五七五七七に区切ってみますと、
  みずぐるま ひびくのがわの ゆふさむみ ほろほろとちる 「款冬」のはな
ですね。
 「款冬」は「ふき」では字足らずですし、「ふきのとう」では字余りで言い方も無理があります。
 その点「やまぶき」なら合います。
 まあ、「かんとう」と音読みする手がないではありませんが、和語が続く一首の調べの最後に漢語がくるのはどうでしょうか。

 それに、蕗の花は、

> 更にフキは雌雄異株でよく見ると微妙に違う雌花と雄花を咲かせています。

> 雌花は花...続きを読む

Q文庫本と単行本の裏側のあらすじについての疑問

 日本語を勉強中の中国人です。ある日本の本の現象についてお伺いします。なぜ文庫本の裏側にあらすじがよく載っているのに、単行本の裏側にはないのでしょうか。

 また、質問文に不自然な表現がありましたら、それも教えていただければ幸いです。よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

単行本は、帯にアオリ文句を入れるからです。
買ったあと、帯を外せば、蔵書として綺麗な本をコレクションできます。

文庫本は帯のスペースが狭いので、あらすじはカバーに書くことが多いです。
また、文庫本はシリーズとして何巻も続くものが多いので、買うときに、同じものを買ったかも、という買い控えをさせないための意味もあります。

本来は奥付に入れる刊行年月をカバーにも入れているものもあります。

Q正岡子規の”瓶にさす藤の花ぶさ・・”は優れている?

正岡子規が歌った有名な短歌に
”瓶にさす藤の花ぶさみじかければ たたみの上にとどかざりけり”
があります。

正岡子規が病床で歌ったという境遇を、私は知っているので、この歌は素晴らしい、と思います。
しかし、もし、子規の境遇を知らなかったら、私はおそらく良い歌とは思わないでしょう。
皆様は、子規の境遇を知らなくても、この歌は優れている、と思いますか?

Aベストアンサー

短歌とか俳句は字数を極端に制限した詩・文学なのですが、その代償として前編が必ず鑑賞や「詞書」=タイトルやキャプションにあたる物とセットになったものと思って良いのではないでしょうか。

たとえば伊勢物語などは全編がその歌がどのようなシチュエーションで詠まれたかという描写で構成されているのです。

また有名な歌にはエピソードがセットになっていることは珍しくないのは、そのような(セットとして)流布されてきたからでしょう。

短歌はまずテーマが提出されて集まった人たちがそれに沿って歌を作って行くという形式から始まった文学であり知的な遊びでもあったわけです。ですから詞書というのは短歌とセットになった物なのです。

子規は新聞連載の中でこの歌を発表しています。冒頭に次の言葉書きを自ら付けています。
————————
 夕餉したため了りて仰向に寝ながら左の方を見れば机の上に藤を活けたるいとよく水をあげて花は今を盛りの有様なり。艶(えん)にもうつくしきかなとひとりごちつつそぞろに物語の昔などしぬばるるにつけてあやしくも歌心なん催されける。この道には日頃うとくなりまさりたればおぼつかなくも筆を取りて

瓶(かめ)にさす藤の花ぶさみじかければたゝみの上にとゞかざりけり
瓶にさす藤の花ぶさ一ふさはかさねし書の上に垂れたり
藤なみの花をし見れば奈良のみかど京のみかどの昔こひしも
藤なみの花をし見れば紫の絵の具取り出で写さんと思ふ
藤なみの花の紫絵にかゝばこき紫にかくべかりけり
瓶にさす藤の花ぶさ花垂(た)れて病の牀に春暮れんとす
去年(こぞ)の春亀戸に藤を見しことを今藤を見て思ひいでつも
くれなゐの牡丹(ぼたん)の花にさきだちて藤の紫咲きいでにけり
この藤は早く咲きたり亀井戸(かめいど)の藤咲かまくは十日まり後
八入折(やしおおり)の酒にひたせばしをれたる藤なみの花よみがへり咲く

 おだやかならぬふしもありがちながら病のひまの筆のすさみは日頃稀(まれ)なる心やりなりけり。をかしき春の一夜や。
—————————————

夕食を終わって寝ている左側に藤が生けられている、それを子規は畳に寝て下から見ているからこの畳と藤の間の空間にダイナミックな物を感じておもしろがっているわけです。卑小と思われている世界でのそういう発見を描いている。

十首の歌と言葉書きが最初からセットの物として発表されている事実はまず知っておくべきだと思います。

短歌や俳句は言葉で、ある光景を写し撮った写真のような物であり、言葉書きはそのキャプションであるという風にもシミュレートできるのではないでしょうか。

説明が無いと何だかわからなくてつまらない、確かに短歌や俳句はそういう宿命を持った文学形式かもしれません。
しかし子規はことば書きやこの歌の中に自分の寿命が限られてしまっていて悲しいだとかいう言葉を一切入れていない。その姿勢は子規が歌作に当たってむしろそのような説明語句に頼っていないことを意味しているのではないでしょうか。
作品の中にそれを入れてしまってはかえって説明的な絵解きに堕してしまうことをわかっているのです。

たとえば絵は一枚で全てを物語っていて鑑賞者は無言で予備知識無しでそこから何かを得なければいけない、しかも感動しなくちゃいけない。芸術は世紀の天才の思いもよらない仕事でなければいけない。
そういう芸術鑑賞法というのは、何かの意味や宗教的教訓の絵解きとして押し付けられた時代への反発として近代主義的な芸術観だとは思います。しかしかたくなになんでもかんでもそういう物でなければいけないとするのはかえって芸術の本質を見誤って、つまらない貧相な物にしてしまうでしょう。

短歌とか俳句は字数を極端に制限した詩・文学なのですが、その代償として前編が必ず鑑賞や「詞書」=タイトルやキャプションにあたる物とセットになったものと思って良いのではないでしょうか。

たとえば伊勢物語などは全編がその歌がどのようなシチュエーションで詠まれたかという描写で構成されているのです。

また有名な歌にはエピソードがセットになっていることは珍しくないのは、そのような(セットとして)流布されてきたからでしょう。

短歌はまずテーマが提出されて集まった人たちがそれに沿って歌を...続きを読む

Q心理的(情緒的/精神的)虐待に関係する本(フィクション・ノンフィクショ

心理的(情緒的/精神的)虐待に関係する本(フィクション・ノンフィクション問わず)

心理的(情緒的/精神的)虐待をとりあげている本を探しています。ご存知でしたら教えてくださいませんか?
フィクション・ノンフィクションは問いません。
ネグレクト・身体的/性的虐待を話題にしている本はたくさんあるのですが、心理的虐待を扱っている本がなかなか見つからずに困っています。
ちなみに
『ハッピーバースデー』(著:青木和雄)
「凍りついた瞳」シリーズ
は既読です。

Aベストアンサー

青木和雄さんが原作のマンガ「HELP! カウンセリングファイル」は心理的も含んだ虐待、いじめを扱った作品でした。
「百年の孤独」(高田祐子・講談社コミックスKiss)絶版だと思いますが、肉体的ではなく、心理的な虐待を受けて育った(子供を愛せない親だった)子の成長を描いています。

Q正岡子規

正岡子規って病気ばっかりでほとんどニートだったんですよね?

Aベストアンサー

新聞社で働いたりもしています

Qおすすめの本(文庫本か小説などかな)

タイトル通りです。
私は現在高校生です。
通学時のバスなどで暇なのでこの質問をしました。
よろしくお願いします。
出来れば小さめ(バス等で読めるくらいの)でお願いします。
あと文庫本等のカバーがダウンロード出来るサイトを知っていたら教えてください。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

> 文庫本等のカバーがダウンロード

これはブックカバーのことですか?
印刷して使う?
私はたまに気に入った画像や、本の内容にあっている画像をプリントしてブックカバーに使ったりします。Googleの画像検索などで壁紙ようの画像を検索すればよいと思います。

著作権の切れた小説をダウンロードしたいのであれば
青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/


人気Q&Aランキング

おすすめ情報