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いつもお世話になっております。

「与えられる」事と物と「勝ち取る(獲る)」事と物は「同等/同価値」でしょうか?

要求の有無、期待の有無等に関わらず、誰かから「与えられる」事と物。
与えられた、行為そのものに気付くか否か?、や
与えられた事と物の内容や質も問題になるかと思いますが。。。

勝ち取る(獲る)に関しては、自分の意志と意識の上での結果ですので「気付き」については問題無し。
「事と物の内容や質」が問題となる場合は責任感の問題?とも思います^^

さて、何かと「勝ち取る(獲る)」行為に関しては意識が高く、価値も高いと考えがちな気がします。
片や、「与えられる」行為については何となく軽視しがちに思います。

私はこのように感じているのですが、これについてどう思われますでしょうか?
やはり二つは同等/同価値ではないのでしょうか?

*「与える」と「勝ち取る(獲る)」ではありません。
 今現在自分の手中に有るものを入手する過程についての話です。

前提となる「与えられる」「勝ち取る(獲る)」と言う行為についての問題点/設定の甘さのご指摘でも構いません。
よろしくお願いします!

A 回答 (25件中11~20件)

#14です。



「人事を尽くして、天命を俟つ」

でした。お恥ずかしい。
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#8です。



「人事を尽くして、天命を知る」

に凝縮されていると思います。私は、自分が成し遂げたことが世間に認められようが認められまいが、自分が創造的営みに参加できた運の良さに感謝しております。私は歴史の一角を開いた超一流の方を間近に知っておりますが、その方からも同じことを教わりました。
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この回答へのお礼

何度も丁寧にお答え頂き、嬉しい限りです。
ありがとうございます。

人事を尽くす。。。はい。
私に出来る事は、迷う事であれ悩む事であれ(笑)最善を尽くして行きます。

時々(いつも?汗)言葉が鎖のように絡まって来て、選べなくなる事があり、返答が遅れました事お許し下さい。。。

お礼日時:2009/05/21 13:23

勝ち取るもの、与えられたもの、それぞれ同じものであることを想定することは可能です。

稼いで得た1万円、道で拾った一万円、それぞれ同価値です。
仰る勝ち取る行為 は分かります。が、与えられる行為(これはどんな行為でしょうか?行為なくして得ること、たなぼた式にものが与えられるということではないのですか?)とは乞食をして投げ銭をゲットするということでしょうか?。これだって勝ち取る(他人に哀れみを催させて引き出させる?)ということの変形ではありませんか?正当な行為無くしで高付加の報酬を得ると取るならば、これはモラルハザードという問題を起こしそうですが。
このあたりうやむやにしたまま私は一方的に結論を出します。
結果が問題ではない。結果に至る過程こそが重要なのだ。
次の目標へ至るためにその過程の記憶がためになるからだ、ということにならないでしょうか。
エジソンもいいました。私の成果は99%の努力と1%のひらめきだ、と。
ひらめきで得た成果は成果そのものであって、努力で得た成果は、成果+努力 が彼の次の活動に活かせる実質の財産だということでしょう。
常識的な結論ですみません。

この回答への補足

こんばんは、amazo007様。
回答ありがとうございます!

>与えられる行為(これはどんな行為でしょうか?

これ無くしては存在しない、と言うもの。
初めからあったもの。
例えば、子に対して親。
 成果に対して費やした時間。
 成長に対してそれを受容する身体。
 経験に対してその選択を強いた束縛。。。。と言ったものを私は思い浮かべます。

いかがでしょうか?

>私の成果は99%の努力と1%のひらめきだ、

チャップリンかしら、同じような言葉を聞いた事があります。
「99%の努力と1%の才能。その1%が良ければうまく行く」と言うような言葉だったと記憶しています。

補足日時:2009/05/17 02:33
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与えられる=あかちゃんがミルクを与えられる。



勝ち取る=自分の成長があって、出る結果。大リーグのイチローのように。
 つまり与えられる時代は子供時代。他力本願。人のせいにする。
 勝ち取る時代が大人時代。自分でやる。人はやってくれない。
 また、与える力を持つ。
 
 ですから、現実の人間成長で考えると、価値から考えると、人間には価値があるので、その価値を表現するために成長するというのが価値が高い。自分の価値、できることが上がる高まることで、自分の価値が上がる。勝ち取るとは成長があるので、価値が高い。また自分の価値、行動力、できることが増える。ということではないでしょうか。
 たとえば、ピアノが弾けるようになる。これは自分ができるようになり、自分の価値が上がるということで、与えられることはできない領域です。

この回答への補足

>与えられる=あかちゃんがミルクを与えられる。

はい^^
この質疑の動機は、もしかしたらそのミルクを与えて「受け取ってもらえる喜び」に震え過ぎて生まれた疑問かも知れません。^^
受け取っている我が子は「必要だから、当然の権利だから受け取る」だけかも知れないのに。。。

aai1様は
>勝ち取る=大人時代。自分でやる。人はやってくれない。
 また、与える力を持つ。

と書いてくださいましたが、
私はたぶんその「与える」側に居る筈なのですけれど、
我が子に乳を与える自分を「勝ち取った」と言う気に、イマイチなれないのです。

乳を与える力を「彼らから与えられた」或は「彼らに依って引き出されている」と考えてしまうのです。

価値。。。

生まれたての我が子は小さくて弱々しくて皺だらけで可愛くなくて(汗)なーーんにも出来なくて。。。母なる私はそれを逐一補い、護り、与えて大きく強く丸まると可愛く(笑)色々出来るように育てて来たのです。

。。。が、それをやったのが「やってあげた」のは母の私だよ!なんて思えないのです。
彼らは「そうなるべくしてそう育った」のであって、私は出来るだけ彼らの成長の邪魔をしないように、妨げないようにとだけ思うのです。
寧ろ、私の方こそ「害をなす」のでは無いか?と心配でもあります。

ありがとうございました!

補足日時:2009/05/17 02:11
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 No.7 bragelonne です。



 そうですね。まづ わたしの回答としては 引用をかかげたため ややこしいものになったかも知れませんが はっきりしています。
 ○ 《与えられた》ものであっても けっきょく 《勝ち取る》という行為を経ている。だから 二つのあいだに ちがいは ない。
 ○ 《与えられた》ものであっても けっきょく その受けとめたものを自分のなかで 自分のことばで 自己表現するかたちにもっていかなければ ほとんど 何にもならない。あたかも自分で料理し 食べて 消化しておかねばならない。だとすれば 《勝ち取る》のと違わない。
 ☆ という内容でした。おもに 言葉をとおしての理解という行為に 焦点をあてたかたちではありました。

 引用文の中の
 ▲ かれ
 ☆ は 《わたしの言葉の聴き手》のことですね。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 頂いた文を読んでいますと、何となく
 「自分の内に他者(謎?)を認めなさい」とか
 「自分の内にも自分の力の及ばない者(部分)が存在している事を認めなさい」と言われているような気持ちになるのですが、どうなのでしょう?^^
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ たしかに そのようですね。《ひらめき》として一瞬のうちに起こるような 理解に対するはたらき これを 言おうとしているのかも知れません。違和感があったかも知れませんね。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 言葉は心を越えない、とても伝えたがるけど、心に勝てない。。。って歌が有りました。汗
 考えを出来るだけそのままで言語化しようとすると、余計に言葉の記号としての役割に囚われてしまう気がします。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ あぁ そうなんですか。歌は知りませんでした。そして 全体として ここは わたしも 同感しました。
 また
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
   *「勝ち取る(獲る)」と「与えられる」は相互に補完関係にあるのでは無いか?。。。と書きました。
 この表現も近いようであり、全然違うようでもあり、で泣きたくなって来ました。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ このことにも 同じ読みと考えでいます。わたしの確信の限りで言いますと もっと 自信を持ってくださいませ。

 ★ 此処ではその「頑張る」と言う意志の塊の行為を、一度真っ白(無為?)に戻して考えてみようかな、と言う感じでしょうか。。。
 ☆ そういうことなのではないでしょうか。おっしゃるような筋道で よろしいのではないでしょうか。

 もういちど 振り返りますが 《運》がよくて あたかも自然史の過程としてのように 向こうから・つまり環境や周りの人びとのほうから 必要なものが与えられるということ そのように 境遇が恵まれているということ これについて わたしの回答は すべて その情況においても その人が《勝ち取る》という行為をしていることになる こう言おうとしています。少数意見であるかも知れないので ふたたび お伝えしたいと思いました。
 そうして このように 《好運・恵まれた境遇》とともに いわば《ふつうの運と境遇》もあるでしょうし 《不運・逆境》も考えられますが けっきょく それらいづれの情況にあっても 《がんばる》を
 ★ 一度真っ白(無為?)に戻して
 ☆ みるというとき やはり 通俗的に言って 《自分のものにする》という意志行為の要素は 大きいと考えます。つまり 《勝ち取る》ですね。
 ただし では なぜ 《真っ白(無為?)にする》かと言えば――つまり それが なぜ 筋道としてよろしいと考えるかと言えば―― 白紙状態になればなるほど おそらく そこから勝ち取るべき《与えられる》ものが 多くなると考えられるからです。逆に言いかえれば 白紙状態にしていないと 与えられても 自分のものにしようというきっかけを つかみ損ねてしまう のではないかと思います。

 もう退散です。かえって ややこしくしてしまった部分 澄みません。

この回答への補足

bragelonne様こんばんは。
すっかり遅くなってしまいました。。。
申し訳ありません。

>《与えられた》ものであっても けっきょく 《勝ち取る》という行為を経ている。

その逆も言えるのではないかしら?と思いました。
「勝ち取る」にも、相手から受け取る/与えられると言う段階を踏んでいます。「与えられる」を内包している、と考えられます。

*「勝ち取る(獲る)」と「与えられる」は相互に補完関係にあるのでは無いか?

については、
「補完関係」なのか「従属関係」なのか、分からなくなって来ました。
私は全く異質な行為を不可能ながら並べようとしているのかしら、とも思います。

>《運》がよくて あたかも自然史の過程としてのように 
>環境や周りの人びとのほうから 必要なものが与えられるということ 
>そのように 境遇が恵まれているということ 
>これについて すべてその人が《勝ち取る》という行為をしていることになる 

ううーーん。。。。私は多分逆で、
それらの「相手が勝手に与えて来たもの」を「与えてもらった」と特に意識する事が「感謝」に繋がり人生の意味をより深く豊かにするのではないか?と思うのですが。。。
こんな考え方は、自分を無力化し過ぎますか?汗

私はちょっと「傲慢」や「迷惑」等と言った事柄を恐れ過ぎるのかも知れません。
好きな言葉と言えば「謙虚」ですし。。。

私は何かと自我境界に他者の影響を受け易いようです。
他者に向かって心を開き易い、と言えば聞こえは良いけれど、
他者の言葉と文字が直接に自我境界に影響し、境界の輪郭を変形させ易いように感じています。

こうして様々な観点と意図で語られる言葉を、発せられたままの状態と息吹で受け取ろうと努めると、自我境界の変形が激しくなります。
その振動で、中心に居る「私」迄が立ち位置を見失いがちです。。。

すべて「勝ち取る」と言う行為をしている事になる、と認めて良いのだろうか?と今、悩んでいます。。。
変ですね。。。

>白紙状態にしていないと 
>与えられても 自分のものにしようというきっかけを つかみ損ねてしまう のではないか

この一文は、今後何度も噛み直し味わい直す中で、思ってもみなかった味が出て来るかもしれない、とぼんやり思います。

謝罪等不要なのです。^^
またよろしくお願いしますね。

補足日時:2009/05/17 01:39
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補足に対してです。



与えられるというの教えてもらったこと。
つまり自分の思考や体験をとおしてではなく一般的にそうだからとうこと
になると思います。
だから普通に過ごしたいのなら問題はないでしょう。
しかし、何か問題が起きた時には何の役にも立たないものなったしまう
かもしれません。
教えてもらったことが全て正しいわけではないはずです。
少なくとも自分で検証する姿勢は必要だと思います。

勝ち取ったものは自分の思考や体験や失敗や間違いをとおして理解した
ことになります。
だから一般的に信じられていることとは違う事になるかもしれません。
そしてその一連の体験があれば、問題を抱えても自分なりの解決法が
あるために答えを出しやすくなるかもしれないということです。
もちろん万能ということはないので自分を成長させることは必要だと思います。

期待はずれなら何故それを信じてしまったのだろうと自分に見直す点が
あることを発見できるかもしれません。

この回答への補足

hamakkotarou様、回答頂いている皆様、
すっかり放ったらかしにされてご不快と思います。
申し訳ありません。
時間を見つけて質疑を続けて行きたいと思っていますので、お許し下されば幸いです。

>与えられるというの教えてもらったこと。
>勝ち取ったものは自分の思考や体験や失敗や間違いをとおして理解した
こと

ううむ。。。絶妙な言葉を選ばれましたね。^^
与えられて、その後に「理解」して勝ち取る(自分の物にする)、と言う感じですね。

そうですね。。。。
気付きの有無、質の上下等関係無く、全ての「与えられた」ものについて考えてみたいと思ったのだけれど、そもそもがナンセンスだったのかな。。。と思い始めています。

ありがとうございます。

補足日時:2009/05/17 01:17
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>さて、何かと「勝ち取る(獲る)」行為に関しては意識が高く、価値も高いと考えがちな気がします。


片や、「与えられる」行為については何となく軽視しがちに思います。
:「主体的に関わる」という能動性が存在しているか否かの違いがあるのでしょう。
「与えられる」というのは「相手の主体性を受け入れる」ということでもあるでしょうから、そのことに対する思慮なり想像力が必要とされるのではないでしょうか。
しかし、特に必要性の無い場合、「与えられる」という行為において益するのは実は殆んどの場合「与える側」であり、「与えられる側」としては相手の主体性と共に(無意識的な)負い目まで背負わされるという本質的な構造があるでしょう。

このように、与えられるもの(こと)には与える側の主体性、つまり与える側の価値観がワンセットになって付いてきます。
ですから、与えられたもの(こと)を自らが主体的に受け止めて咀嚼し、「獲得すべきものか否か」という判断を経た後はじめて自らにとって価値あるものとなるように思います。

卑近な例で恐縮ですが、
自分で稼いだ(勝ち獲った)一万円と、お年玉でもらった(与えられた)一万円はおそらく同価値とはならないように思います。
しかし、本当に切羽詰っている時に窮状を見かねた他人がくれた一万円は、稼いだ一万円と(性質は異なるでしょうが)ほぼ同等の価値を付与することになるかもしれません。
その一万円を主体的に受け取り主体的に活用する態勢が整っていると思うからです。
この場合でも、(無意識的な)負い目は背負うことになるわけですが、その一万円やそれを与えてくれた人に対して主体的に関わる(向き合う)ことができるような気がします。

すなわち、与える側あるいは与える行為(好意)といった、相手の主体性に対する思慮なり想像力が発揮できる環境が整っているために、紙幣としての一万円以上の価値を持つ可能性がある。
稼いだ一万円は「>自分の意志と意識」が深く関与しているために価値があると前提すれば、この価値とほぼ同等の価値と考えることはできるように思います。

ただ、このようなケースは少ないでしょうね。
「与えられるもの(こと)」
は、大体の場合、他人の自己満足の滓みたいなものでしょう。
「与えられる側」が、それに主体的に関わるときに初めて価値が現れるのだと思います。
余談ですが、
「与える者とは、与えられる(=受け取ってもらえる)者」という気もしますね。
 
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この回答へのお礼

hakobulu様、分かり易く丁寧な回答をありがとうございます。
うーーーん。。。すごく分かり易い文章です。^^
ご自分でも「思ったように書ける」と言う感覚でいらっしゃいますか?

私は雑念が多いのか、自我境界が揺らぎ過ぎるのか、
書けば書く程伝えたいと思う程、言葉が遠離って行ってしまいます。涙

>このように、与えられるもの(こと)には与える側の主体性、
>つまり与える側の価値観がワンセットになって付いてきます。

はい。分かります。
その「与える側の主体性」を切り離して考えてみたい、と考えているのです。
実際には「与える側の主体性」も「受取手の主体性」も関係無しに与えたり受け取ったりしている訳なのですから。

>「与えられるもの(こと)」
>は、大体の場合、他人の自己満足の滓みたいなものでしょう。

其処なのです。何だか卑屈なその「自己満足」と言う言葉が「与えられる」と言う事象には付きまとうのが引っかかってしまうのです。
変ですか?^^

現実として、良い物も悪い物も、与える側/受け取る側の思惑等無視して行き交っているのがこの世界です。
その現状と現象をどう言語化して消化するか?と言う我が侭?な質問なのだとお考え下さい。汗

お礼日時:2009/05/10 01:00

#5です。



>謙虚?傲慢?感謝?ありのままで見つめる?只ありのままを愛する?

「勝ち取る」、「努力して手に入れる」、「実力で手に入れる」等々といろいろな表現が在っても、実際に手に入れた人から見ると、自分の好運さに感謝の念が現れ自ずと謙虚な気持ちになれるのが、どうも本当のようです。

私は理系の学者ですが、この世界では一応は博士号を持っていないと、少なくとも最初の就職をするのが難しい世界です。私の世代は今程沢山の博士が居りませんでしたので、私がそれに挑戦した時には、博士になることがどんなに素晴らしいことだと想像していました。ところが現に博士になってみると、決して自分が変わったわけではなく、今まで通りの何でもない只の人間であることが分かりました。私は、所謂一流ではない大学を出たのですが、幸運にも一流と評価されている研究施設で仕事ができるようになりました。その結果、所謂超一流大学出の方を指導するようになりました。そこでも又、上と似たようなことを経験しました。私から見て、超一流大学出の方は、何か特別な人達のように思っていたのですが、その人達の大半は、自分は巷の普通の人達と何も変わらない只の人間であると認識しているようでした。

今の人から見ると、大学を出ていることはそんなに特別な事とは看做していないと思いますが、70才を過ぎた方に取っては大学に行く人は圧倒的に少数派でしたので、今でも、その方達は今の大学生をまぶしげに見ていると思います。

このような経験を積んで私が理解できるようになったことは、皆から見て羨ましい、好ましい、と言う物を手に入れた方の気持ちと、それをまだ手に入れていない方の気持ちの間に、大きな違いが在ると言うことでした。与えられた物であれ、勝ち取った物であれ、それを手に入れた者は、それで自分が特別な人間になったとは考えておらず、今まで通りの只の普通の人間だと考えているようです。そして、それは正しい認識だと思います。そして、そのような、皆に羨ましいがられるものを手に入れたからと言って、自分が満足したり幸福になれるわけでもないと言うことを経験で分かっているようです。そのような方達が、自分の手に入れた物で、「たまたま」満足できる人生を送れたとき、その方達は、その手に入れた物で満足できたわけではなく、自分が幸運にも、自分に与えられた物だけで満足できるような幸運な性格を持っていたので満足できるようになったと言うことを心から感じられるようになっているようです。結局そのような性格を持っている方は、皆から羨ましがられる物を持っていなくても、自分の人生を「善し」と言えるのだと思います。ですから、他から認められていようが、認められていまいが、満足な人生を送れた方は自分の幸運に謙虚に感謝できるのだと思います。

ですから、
>単に「人生の段階に於いて重要視すべき事柄の違い」なのかしら?

と言う認識は的を射ていると思います。質問者さんが何かの弾みで、人から羨ましがられる物を手に入れて、それが手に入ったからと言って自分が特別な人間になったわけではなく、巷の人達と同じただの人間
だと分かるようになる経験をするか、あるいは、ご自分で直接経験できなくても、大成したと言われている方達の本を幾つか読んで、その方達の追体験が思考実験として出来きて、その方達の言うことに共鳴できるようになれば、自ずと、質問者さんの問いの回答が見付かると思います。

蛇足になりますが、確かヘロドトスの『歴史』のなかに書かれていたとおもうのですが、その逸話を紹介します:
昔、ある小さな王国で、ある日王様が宰相を呼び出して言いました。「わしは隣の国に攻め込んで、その国を取ろうと思う」、宰相曰く「で殿様、その後どう致します」、王「そうしたら、その周りの国を併呑するのじゃや」、宰相「でその後は」、王「その勢いで、全世界を征服するのじゃ」、宰相「でその後は」、王「そしたら、わしは毎日平和で静かな生活をするのじゃ」。その話を聞いて宰相が言いました、「もしその平和で静かな生活がお望みなら、今すぐにでも王はその生活が出来ますよ」

お後が宜しいようで。

この回答への補足

cyototu様、何度もありがとうございます。

頂きましたお話、素直に心で読む事が出来たと感じております。
「理論」と言う人智の先端に挑んでいるような印象の物理学者程、「神」と言う言葉を身を以て感じている、或は言葉を使うと言う話を聞いた事があります。
最高のもの/地点に挑み、一番近く、或は到達している人こそが、一番謙虚に自らを省みる事が出来るのだなあ、と学生の私は考えました。

私はそのような話を見聞きし、その能力と謙虚さに憧れ、そのような人間になりたいと自分の能力を磨きました。
他人に認められようと認められなかろうと、自分が自分を良しと認められるようになろうと努め、結果の副効用として他人からの評価も得られたと感じています。

人から羨ましがられるようなもの。。。手に入れました、一応。^^
まあ、たかだか30年にも満たない人生ですので、とても狭い世界での事なのですが。。。汗

さて、最高の最善の努力の成果として、最高の結果を私は手に入れました。

>それが手に入ったからと言って自分が特別な人間になったわけではなく、巷の人達と同じただの人間

この事については重々承知していますし、運も味方してくれたのだと思っています。
でも、どうしてでしょう。。。どうしても「謙虚」とは程遠い心が自分の中に存在している事を私は自覚しました。

これは単に人生の人間の未熟さなのでしょうか?
cyototu様のおっしゃる大成した方々、自分がそうなりたいと憧れていた人たちの謙虚さには程遠い自分に私はかなりがっかり(笑)した記憶が今も濃厚です。

差し迫った事情により、その素敵な素晴らしい場所を手放さなければならなくなった時、とてもとても悔しかったのと同時にホッとした自分を良く憶えています。

その所為か、未だに私は人も物も「分類」する事が嫌いで苦手です。汗

今迄私自身「勝ち取る(獲る)」事に主眼をおいて、生きてきました。
殊更に人の助けや甘やかしを遠ざけて来たようにも思います。
私自身が「与えられる」と言う行為、その物や事を軽視して生きて来たのかも知れない、と反省もしております。

だからと言って、勝ち取る(獲る)と言う勝負や競争の原理や成果を貶めよう等と考えているのでは有りません。
その二つの相対する(?)事象を、自分の中でどう位置づけるか?と言えば良いのか、或は、どうバランスを取るのがベストか?と言う感じです。


質疑を外れた話になってしまいましたが、頂いたお話の私の心への「反響音」としてお読み頂ければ嬉しいです。
穏やかに、でも挑んで人生を生きて行きたいと考えております。

補足日時:2009/05/10 00:28
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この回答へのお礼

こんばんは。
長くなってしまったので補足欄にて。
よろしくお願いします。

お礼日時:2009/05/10 00:42

 こんにちは。


 またまた 出しゃばります。

 こういうことを言おうとしておられるのでしょうか? 例によって 読みとりがたい文章です。
 ▲ (アウグスティヌス:教師)~~~~~~~~~~~~~~~~~
 われわれが精神によって認識する対象 すなわち 知性や理性によって認識する対象に関して論議するときは われわれは いわゆる《内なる人》が照らされ享受するところの真理のあの内的な光の中でわれわれが直接に見ている対象について語るのである。

 しかし その時 わたしの言葉の聴き手もまたかれの内奥の澄みきった目をもってそれらを見るとすれば かれは わたしが語ったことをかれ自身の観想によって知ったのであって わたしの言葉によって知ったのではないのである。
 
 だから わたしが真理を語り かれが真理を認識するときでさえ おしえるのはわたしではないのである。
 かれは わたしの言葉によっておしえられるのではなく 神によってかれの内奥に啓示されることによって明らかにされるもの(実在・真理)自身から〔直接〕おしえられるのである。
 したがって そのものについて尋ねられるとき かれは答えることができるのである。しかし わたしが語る前にかれがそのものについて説明することができるとき かれがわたしの言葉によっておしえられると考えるほど非合理なことがあるだろうか。
 (§12 内的光・内的真理 〔40〕 茂泉昭男訳)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ その§11は 《言葉によらず 内なる教師によって学ぶ》とあります。わたしたちは 記号としての記号を――つまり言葉を記号としてのみ―― やり取りしているに過ぎないとすら 語っているようです。

 されば わたしたちは 誰からにせよ――あるいは 街やテレビにあふれている広告の片言隻句をつうじてにせよ―― 《言葉を与えられる》とき その結果 何かを得たというならば それは この記号をつうじて みづからが 《勝ち取》ったものだと言わなければならないようです。

この回答への補足

bragelonne様、こんにちは。
覗いてくださり嬉しいです。

例文中の語句の確認をさせてください。
*われわれ。。。人間
*わたし。。。自分、個体としての人間
*かれ。。。「内なる人」 同時に(自分と相対する)他者も?
合っていますでしょうか?
(横道に逸れますが、
 こうして「漠然とした語句」を読み替えて読解しようと言う方法は正しいのですか?或は有効ですか?)

頂いた文を読んでいますと、何となく
「自分の内に他者(謎?)を認めなさい」とか
「自分の内にも自分の力の及ばない者(部分)が存在している事を認めなさい」と言われているような気持ちになるのですが、どうなのでしょう?^^

>わたしたちは 記号としての記号を やり取りしているに過ぎない
>つまり言葉を記号としてのみ
言葉は心を越えない、とても伝えたがるけど、心に勝てない。。。って歌が有りました。汗
考えを出来るだけそのままで言語化しようとすると、余計に言葉の記号としての役割に囚われてしまう気がします。



最後の二文を読み替えてみました。
間違いが有りましたら、ご指摘お願いします
>したがって 
=(私の言葉が彼の「内なる人」に照射し反射し実在や真理が掲示されるので)

>そのものについて尋ねられるとき 
=実在や真理について尋ねられる時

>かれは答えることができるのである。
=彼は(私の言葉に依ってでなく)応える事が出来るのである。

>しかし わたしが語る前に
=しかし、私が(言葉で)語る前に

>かれがそのものについて説明することができるとき 
=彼が実在や真理について(未だ教えていないのに)説明出来る時、

>かれがわたしの言葉によっておしえられると考えるほど非合理なことがあるだろうか。
=私が彼を教え導く事が出来る、等と考えるのは非合理(傲慢?)である。


bragelonne様がしてくださった解釈とはまた違ってしまうのかも知れませんが(違うのかどうか、自分で掴めません。大汗)、
#6の方への補足に
*「勝ち取る(獲る)」と「与えられる」は相互に補完関係にあるのでは無いか?。。。と書きました。
この表現も近いようであり、全然違うようでもあり、で泣きたくなって来ました。

#3の補足欄の内容は、以前の「あなたはすくわれていますか?」への私の投稿です。
あの投稿内容を少し掘り下げてみようか、と考えたのもあります。
人生をより良くする為に「頑張る」のは当然の事で楽しい事ですから。
此処ではその「頑張る」と言う意志の塊の行為を、一度真っ白(無為?)に戻して考えてみようかな、と言う感じでしょうか。。。

自分の言わんとしている事が伝わったでしょうか?等と言う前に、自分で掴めていない間抜けな質問者です。。。申し訳ありません。

何か気付かれた事有りましたらよろしくお願いします。

補足日時:2009/05/08 17:27
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[与えられることと、勝ち取る(獲る)こと]



人生観でしょうか。 
親離れする年齢までは大体「与えられること」ですね。親離れして自立するのが「勝ち取る(獲る)こと」でしょうかね。その後は家庭を持ち「与えること」になり、老いてまた「与えられること」に戻る。
精神的なものですね。
未来も運もは勝ち取るものですね。個人個人の情熱と行動が運を呼び込むということでしょう。青年が「柳の下のどじょう」など必要ないからですね。
求めて勝ち取るという精神は自助努力を含んでいますからいいことですね。「天は自ら助けるものを助ける。」ですから「勝ち取る」ものなのですね。座して与えられるものはそれなりのものしかないことも真理ですね。
若者は「勝ち取る」という立派な自助努力の精神を持つべきでしょうね。
ややもすると仏神の真意を誤解して何をしても与えられているものだから平等知であると取りがちですが、仏神が与えるのは全てのものへの平等な環境だけですからそれをどう自らのものにするかはご本人次第なのですね。つまり差別知も仏神の真意ですね。この差別知を言い換えれば「勝ち取る=自助努力の結果差別」ということですね。

この回答への補足

mmky様、回答お寄せ下さいましてありがとうございます。

>人生観でしょうか。 
。。。うーーーん
。。。私は一体何を構想して質問を立てたんだっけ?と自答している所です。大汗

世界の眺め方?
救われる(=心を満たす)方法?。。。かな。

>親離れする年齢までは大体「与えられること」ですね。
>親離れして自立するのが「勝ち取る(獲る)こと」でしょうかね。
>その後は家庭を持ち「与えること」になり、
>老いてまた「与えられること」に戻る。

おっしゃる事は分かりますし、異論有りません。
無いのですが、何だろう。。。言葉としての表現で引っかかっているのかなあ、とも思っています。

例えば、
>親離れする年齢までは大体「与えられること」
これについては、
与えられる事を勝ち取っている、とも言えるのではないでしょうか?

言葉遊びをするつもりは毛頭無いのです。
無いのですが、言葉遊びのようですね。。。自分で不愉快です。

つまりは
*「勝ち取る(獲る)」と「与えられる」は相互に補完関係にあるのでは無いか?
と言う事になるのか。。。(自分の言葉を探しております)

「え?初めからそう言ったのに」とお思いになられましたら失礼と力不足をお詫び申し上げます。

補足日時:2009/05/08 16:09
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

補足欄に書き込みました。
何だか間抜けな返信になっておりますが、よろしくお願いします。汗

お礼日時:2009/05/08 16:15

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