プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

 次の質問で質問者が説明しつつ問うている問題について どう考えるか。これが ここでの質問です。題して
 【Q1: われわれそれぞれの主観内面における・人間関係に関する思惟のあり方は われわれ互いの交通(まじわり)における対話の行方と つながっているか。
 【Q2: つながっていて 全体としての世界観(つまりおのおのの生活態度)において 総合的に捉えることはできるか】
 【Q3: それらのことは われわれ一人ひとりと神との関係にかかわっていると言えるか】
 三つ目の問いにかんしては 次の文章を参考にしてください。
 【Q:現代日本に必要な哲学は?】そのNo.9です。
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4151421.html

 ▲ 【Q:リカちゃんについて】(No.11お礼欄) ~~~~~~~~~~
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4991449.html
  森毅さんの『魔術から数学へ』・・・に倣って説明するとすれば、p.65の「石」と「砂」の比喩が良さそうに思います。
 少しかいつまんで説明すると、古代ギリシャの数学には二種類の系譜があって、著者に依ればそれは「数論」と「幾何」だという事です。
 「石」の数学とは数論のことで、石を並べて1,2,3,4…と数を数える。「砂」の数学とは、砂に絵を描くものです(要するにコンパスと定規が使えるヤツ)。
 前者は粒を基本にしているので、それ以上はわけられない原子からできているのに対し、線のほうは連続して繋がっているので、幾らでも分けることができる。
 前者の考えではそれ以上には分けられない点からできている線が、後者の場合にはどこまでも分けられるという――この食い違いが問題になるケースです。
 遥かむかしに、南イタリアあたりで、この「石」と「砂」の争いがくり返されたわけですが、この違いについてはどうでしょうか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 趣旨説明として 質問者の見解をのべます。
 1. 《石》は 個体であり 《砂》は その内面だ。
 2. 石と石との〔人間〕関係が その基軸として 外面としての交通ないし対話を据えるとよいと思われる数論である。
 3. 砂の幾何は 意志の自由にもとづき みづからの表現として想像し絵を思い描くところの自由を訴える。
 4. 砂の幾何模様を内面に抱いた石は ほかの石とも まじわり話し合いを持つ。
 5. そのとき 固い石どうしとして しかも あたかも互いの交わりにおいて化学反応が起きるであろうか。
 6. その外面における生物化学反応は それぞれの内面に どうかかわるであろうか。
 
 ご見解をお寄せください。

A 回答 (18件中11~18件)

 お礼欄に補足がつきましたね。



> ☆ ですが 定義・想定の問題だという理解しか得られていないのですが

 それで良いのではないでしょうか。

>次の見方はどうなのでしょう?
 ○ 人間という個体の存在は 数として一である。

 意図はわかりますよ。だったら、「人間という個体の存在は一である」――こうお書きになれば、よろしいのです。
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この回答へのお礼

 ri_rong さん ご回答をありがとうございます。

 ★  意図はわかりますよ。だったら、「人間という個体の存在は一である」――こうお書きになれば、よろしいのです。
 ☆ まづ
 ★ 意図はわかりますよ。
 ☆ の意義がわかりかねているのだと思いますが 
 ☆☆ 数として
 ☆ という一節を省くという意図は どこらへんにあるでしょうか?

 ○ 要素や部分を集めた総合としての一つなる存在
 ☆ であるから そのような
 ○ 《個体ないし単位体》を最初に捉えるべきだ。
 ☆ ということでしょうか? 
 ○ そのあと 数論に移るのか。それとも もうその数論とは切り離された命題としてあるということなのか。
 ☆ はどうでしょう?
 何が何だか分かりません。まづは 《定義・想定の問題である》で よろしいのですね?

お礼日時:2009/06/26 17:27

 どうも、ご無沙汰をしまして。


 ところで、お礼欄に詩をいただいていますね。知らないうちに、Sayonara cordialというわけですか? 海の詩なのに、詩というべきかむしろ冒険譚のようで、けれどどういうわけか、ジュミエージュの廃墟が思い浮かびました。

 ・http://architecture.relig.free.fr/jumieges.htm

 野良猫があくびでもしていそうな、滞在中はそんな穏やかな日々と町でした。三日間ほどお客さんに付き合ってパリの工務店や工房を案内し、契約を済ませて、ル・アーブルの港から商品を送る手伝いを済ませてしまうと、あとはもう、何もすることがない。
 名物教授のバーズマンとギラーミン氏という、お目当ての老齢の郷土史家に、あれこれお話を聞かせてもらってました。クララという彼のお孫さんが建築を勉強しているということで、僕はエトルタへ行きたかったのですが、彼女に指揮されて(と言っても、車の運転は僕ですが)廃墟を見に行ったんです。
 
 相手は十九の小娘ですが、僕はリクエストに答えたのだから、オンフルールで晩ご飯に付き合って欲しいと提案しました。彼女はラッキーと言って、無邪気に喜ぶ性格の子ではなく、少し考えてから母親に相談するというふうに、ちゃんと返事できた子です。
 その日の夜、どうやら了解は取ったようで、僕が家まで迎えに行くと、すぐに車に乗ろうとするから、母親を呼んでもらってレストランに予約を入れてもらいました。
 教えてもらったそこは、オンフルールのヨットハーバーから一方通行の路地を一本入ったところにある店で、前に駐車場もありました。小さな店ですが、瀟洒な感じで、おまけに店主はちゃんと出迎えをしてくれます。彼はひょろりと痩せたふうで、はにかむように笑う無口な男でしたが、思いついたように伊勢エビを調理するところを見るか? というので、湯で割ったワインを片手に、僕はクララといっしょに見学することにしました。

 ところで、この回答の主旨はここからです。

 青みがかった大きなエビをさばく為に、店主は大きな鉈を手にしていました。
 二の腕よりも大きな鉈に、少々ふらつき気味の店主はエビのように青ざめて見え、どことなく絶望的な、あるいは救いを求めるような、そういう目で僕らを一瞥し、その弱そうな外見からは想像もできないほど(危うくグラスを落としそうになった)大きな音を立てて、過たずにエビを真っ二つに叩き割ったんです。
 クララは少し紅潮して、となりでブラヴォと小さく呟きましたが、僕はどうも、複雑な心境でした。そんな僕らを、店主は口の端をニヒルに歪め(含み笑いをしているのだろうか)、じっと無言で見つめてました。他にもムール貝やアカザエビ、デュクセルやアーティーチョーク、そういったものを頂きましたが、あの鉈がどうにも忘れられず、たぶん彼は、何かを僕に伝えようとしたのだと思いました。
 そして驚いたことに、あの鉈を持っている姿が、どういうわけかamaguappaさんのような気がしたんです。鉈を持つ女――僕は、怯えているんでしょうか。
 

この回答への補足

 ri_rong さん。お帰りなさい。だいたい一週間でしたね。こちらは特に変わったことはなかったみたいです。【Q:《1》は存在するか】くらいですかね。ちょっと先生の出番は。
 旅は楽しそうな感じがしますが ご回答としてましては――ご回答をありがとうございます―― えらく戸惑ったことを書いて来てますね。

 一つひとつまいります。
 ★ 知らないうちに、Sayonara cordialというわけですか?
 ☆ 生活感覚としては 日本人の社会に足を降ろそうと思ったという意味です。
 その昔 この国に必ずしも迎え入れられない感覚がありましたので 米国・英国または仏国行きを考えたこともあったというわけです。その後 さよならを言ったあとは 概念としての言葉を原語で知るべきだという以外は すべて翻訳で――つまり翻訳という言わば別の作品で――自分の考えを形づくっていこうとさえしました。うんぬんです。

 ★ ジュミエージュの廃墟
 ☆ 《廃墟》はつながるかも知れませんね。ルアンの近くだと分かりました。654年創立は古いですね。地方でもそんなとこですか。
 ○  abbaye: / アベイ / と発音するのですね。
 ★ 名物教授のバーズマンとギラーミン氏という、お目当ての老齢の郷土史家
 ☆ この二人の名前で検索すると 脚本家と映画監督で出てきますよ。でも別なのですね。フランス語らしくない名前ですね。ノルマン?
 ★ エトルタ
 ☆ ヰキぺによると モーリス・ルブラン作のアルセーヌ・ルパン・シリーズの小説『奇巌城』の舞台となっているとのこと。そう言えばこの小説を翻訳したものを この質疑応答をとおして参照サイトに出されて読んだことがありますよ。奇巌城として そそり立った島がその内部(地下)を掘って作られているという。うんぬん。

 ★ オンフルールのヨットハーバーから一方通行の路地を一本入ったところにある店で、前に駐車場もありました。
 ☆ おそらくそこなのでしょうね。でも
 ▲ 上品な店でした。
 ☆ とおっしゃっているぢゃないですか。あぁ もうクララちゃんのことはそのままにして ご回答の件に入りますが。
 ★ 鉈を持つ女――僕は、怯えているんでしょうか。
 ☆ 知らんがな。とまづは出ます。でも
 ★ あの鉈がどうにも忘れられず、たぶん彼は、何かを僕に伝えようとしたのだと思いました。
 ☆ であるのならば その店主の方の問題でしょう。ひとつ容易に推測が成り立ちます。だって 若いマドモワゼル・クララを連れて二人で行ったのでしょう? いかにイケメンだと言っても あなたは中年の東洋人でしょう? そりゃあ いぶかりますよ。そのおっさんは ワ゛イキングの末裔でしょう?
 ★ 二の腕よりも大きな鉈に、少々ふらつき気味の店主はエビのように青ざめて見え、どことなく絶望的な、あるいは救いを求めるような、そういう目で僕らを一瞥し、
 ☆ であります。
 amaguappa さんにあやまりなさいよ。いくら何でもひどすぎます。まぁ amaguappa さんなら これについても精神分析してくれるかも知れないけれど。

 まぁ こちとらは 
 ★ デュクセル
 ☆ も知らないいなか暮らしのぢぢいです。気は若いですよ。
 今回はこのあたりにて。

補足日時:2009/06/24 21:18
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この回答へのお礼

 (6月26日 記します)

 ○ 《一》は存在しているか。
 ☆ ですが 定義・想定の問題だという理解しか得られていないのですが 次の見方はどうなのでしょう?

 ○ 人間という個体の存在は 数として一である。
 ☆ この見方は かかわりませんか?
 個体ないし一ということの根拠は 自由意志の能力に焦点を当てていると考えます。
 また それゆえにこそ 絶対者としての一も 想定しうるのだと考えますし この想定上の絶対的な一にもとづき――循環論法ですが―― 相対的な存在である人間の個体としての一が 基礎づけられる。ここから数論が展開されるように思うのですが?

お礼日時:2009/06/26 13:03

 それほど時間が無いですが、この問い語りは途中でした。



>どちらかと言えば その《仕組み》を捉えておくということになるのでしょうか?

 システムに対する問い語りは進んでいますでしょうか。メカニズムとして機能するものと、おっしゃる《仕組み》は同じかどうかわかりませんが、「設計」すなわちデザインで片付けられる問題ではないように思います。
 コミュニケーションは、いわばアートの域にある。

 ――なぜ、「卵であるわれわれ一人ひとりが 壁をつくり支えているという現実を 見なくてよいのか」

 あの著者の考えがどこにあるのかは知らないですが、

 おそらくそれは、自分たちが拠って立つところのシステムに対峙したとき、自分たちはその被害者であるという――その自分の立ち位置を、無意識のうちに先取りするからだと思います。自分こそが、そのシステムを管理し、コントロールする者である――きっちりとこのようには、(多くの人は)なかなか言い切らない。

 さらにここで、あの「三位一体」を思い描きます。
 無意識のうちに前者の立ち位置を選ぶ者を「子ども」と呼び、後者の立ち位置を選ぶ者を「父親」と呼ぶとき、

 この世界は、紛れもなく父権制のシステムによって動かされていると呼べる。
 
 この「父」という壁について歴史を振り返ってみると、それを誰が支えているかという事ではなく、父殺しという名のもとに、その壁をどこの子どもが壊し、その子どもは如何にして父となったかが、常に語られていた。オイディプス王の昔から、父はいつも殺され続けてきたし、その父を殺してヒエラルキーの頂点に立った子どもは、自らこそが父だと宣言してきたのではないかと思います。

 おそらく、あの作家の読者らは、この神話の繰り返しに物語を通じて気付き、その不条理さにうんざりし、けれども自分は子どもだという名乗りすら――その名乗りが父を生むのだから――挙げられず、したがって、目の前に聳える壁が、いったい何か――せいぜいが、金属バットで殴り殺せる程度のものか――すら、よく見えてはいないのだと思う。
 
 躊躇わずに人を殺すことを、まるで忘れてしまった時代の作品なんだろうと、僕は思います。別な書き方をすれば、愛が無いんですよ。
 ブラジュロンヌさんは、躊躇せずに人を殺すことができますか? できなければきっと、何時までたっても内面と外面は総合できない気がするんですが、どうでしょうか。

この回答への補足

 ri_rong さん こんばんは。一週間くらいですよね P... LeH...は?
 それにしても 今回のご回答を――あっ ご投稿をありがとうございます――見ても 出し惜しみは 日本のためになりません。政権与党のためにはなるかも知れません。建設的批判のための知の普及が遅れますから。

 おもた。おもたああい。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ブラジュロンヌさんは、躊躇せずに人を殺すことができますか? できなければきっと、何時までたっても内面と外面は総合できない気がするんですが、どうでしょうか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ こんなことを訊くかねぇ。こんな訊き方をしますかねぇ。
 その昔 わが親父は――わたしが三十代前半でしたか―― 一時期 わたしに対して全く無視するという態度を示したことがありました。シカトすると言うんでしょうか。顔を合わしても 完全に事務的に挨拶をしたりします。
 わたしは それを受けそれに合わせて 分かったと受け留め いわば父親殺しを内面において敢行しました。晩年 かれは 一方でわたしが世の中の負け組なので しかしながら生きよという心の声をかけていましたが 他方では 突然 おまえの父親はだれや? と言いました。尋ね返すと かれの妻・わたしの母親に対して うたがいを掛けていたそうです。ちょうど戦時中に 一時休暇のとき 婚約したからだと言います。ただし いっさい詮索をせず調査もせずということだったと。
 そのことで その昔 わたしのことを無視したのかと推し測られますが その事件は 表に出さずじまいでした。
 要するに 内面において 父親殺しをわたしは しました。じっさい気持ちとしては 《殺す》という言葉にふさわしい決断としての行為です。だからと言って
 ★ 躊躇せずに人を殺すことができますか?
 ☆ については 分かりません。――ひょっとして 旧い言葉を用いるなら為政者として 躊躇せずに人を殺せるか? といった一般命題を言っておられますか?
 ★ 躊躇わずに人を殺すことを、まるで忘れてしまった時代の作品なんだろうと、僕は思います。別な書き方をすれば、愛が無いんですよ。
 ☆ という問題であるようですか? どうもそういう大大大問題であるようですね。
 アウレリウスくんは 
 ○ われわれは 権力を回避せよという方針ではない。
 ☆ とのたまいます。本意でなくとも 原爆被害者を 拉致被害者を 鳩山邦夫か西川善文かを 等々を 殺せるかという問いでしょうか?

 ところで けっきょく ここは得意のひやく――秘薬? 非役?――飛躍の術です。権力者は 市民の当番制という奥の手を使います。このような《終わり》からことを始めます。
 一人ひとりが 子であり父であり母である。オイディプス伝説にも 生きながらえたという一説があるのぢゃないですか? 

 ★ コミュニケーションは、いわばアートの域にある。
 ☆ 大いなる井戸端会議を持ち出します。その基盤において 首相当番制です。首相と言っても その場合には 学級委員のようなものです。
 父殺しも飲み込んだし だめ親父が繰り出す意識の排泄デンパも飲み込んだし――あたかもごみ処理工場のごとく 上から注がれるまなざしをすべて飲み込み きれいにして廃棄したし―― ただしこの事態は 社会の三分の一の人びとがおこなっており 次の三分の一は 共感しており 残りの三分の一はお呼びでない方々だという情況ですし・・・。
 ま 権限を分担するわけですから その意味でのヒエラルキアはまだ残っているでしょうが そこでは下からの突き上げがきびしいことでしょう。そこでは ムラカミハルキ得意の《壁抜け》が いとも簡単に出来ているはづです。
 《わたしは卵です》という人は いなくなるか それは ただ内面の問題におさまっているかでしょう。
 
 またまた おおいかぶせの議論になってしまいました。これは 問いが重たいからですよ。


 ★ システムに対する問い語りは進んでいますでしょうか。
 ☆ 今回この件にかんしましては 懈怠のさなかでございます。^^

補足日時:2009/06/16 21:31
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この回答へのお礼

 じつは《躊躇せずに人を殺す》の命題(?)について考えたことがあります。詩の中で触れた〔だけの〕かたちです。

     Achille enivre
      au "Cimetiere marin"

 On erre sur mer vers une mere
  D'une terre septentrionale;
  On s'inquiete en quete de Sete,
  Une villette meridionale
  Dont un poete de Zenon traite:
  Comme Achille on flotte a bord
  Entre a butte son Cimetiere
  Et sa mere qui loin soit a la mort.

  Torture, tantalise, point agile,
  Depuis avant-hier peu avant minuit,
  Pauvre Achille au talon fragile,
  La butte comme une tortue devant lui,
  Il faut s'en retourner ...sur sa chemin...
  Chez soi...toute la voie; On se hate
  Sur mer, songeant, ce silencieux matin,
  Tant a sa mourante qu'a son bat.

  O mirroir morne de la Mer romaine,
  Malade a la mort est ma mere!
  Ah! pauvre maman, pantheiste reine!
  Qui t'amene? quel vent mauvais et amer?
  Mechant typhon fruitant des mechantes pluies?
  Que je hais de notre hemisphere
  Bien qu'elle maintes cereales produit
  Cette hemoragique saison fiere!

 O mon pere, a votre mystere
  De la fleche ailee et solaire,
  Je me prete, et je le regrette!
  Je volais, voyageais, et ne volais pas,
  Jusqu'a ce moment, ce triste trepas,
  Comme une planete ou une flechette
  Qui vole immobile a l'envers!
  Inaccessible etiez-vous, mon pere!

     ( a suivre au No.4 )

お礼日時:2009/06/20 19:55

オコリザルです。


今回のお題を集約すると自己の同一性(と、他者とのかかわり)の問題なんですが、この問題は他者からの意見をくみ取る余地はないのではないかと考えます。
賛同する方から思索のとっかかりを援助したもらうのは問題ないでしょうが、交流の問題とからみながらも自己の内面の要素が強いです。
本来は強く内面の問題ではなく、自らを社会性から位置づけして確定しようとする取組と映りますが、海賊みたいなデーモンが跋扈するこのご時世では裏腹に自治権の問題になります。
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この回答へのお礼

 primeape さん ご回答をありがとうございます。

 ★ 交流の問題とからみながらも自己の内面の要素が強いです。
 ☆ これですね。つまり
 ★ 交流の問題とからみながら
 ☆ という側面――ここでは 《外面》と言っています――も やはり 同等に問い求めの対象になっているかたちです。

 ★ 海賊みたいなデーモンが跋扈するこのご時世では裏腹に自治権の問題になります。
 ☆ だけでは 必ずしもないと見ようとはしているのです。
 ★ 海賊みたいなデーモンが跋扈するこのご時世
 ☆ というのは たぶん およそ人間とその社会が始まってから それほど変わっていないと思うのです。ですから
 ★ 裏腹に
 ☆ でもなく
 ○ 自治および共同自治
 ☆ の問題だと考えています。
 ★ 自治権の問題になります。
 ☆ というのと微妙に違うと感じたのですが どうでしょう? つまり 《自治権》は 本来 あるとしなければ おかしいでしょうし あるから 《海賊みたいなデーモンが跋扈する》とも考えられます。

 最も簡単な 《内面と外面との総合の仕方》は 

 ○ ばかになる
 ○ 取引(ギヴアンドテイク)としての人間関係の側面に徹する
 ○ ホンネとタテマエを使い分ける
 ○ 面従腹背する

 などでしょう。これらを超える総合の仕方を 問い求めたいと考えます。
 ★ 自己の同一性(と、他者とのかかわり)の問題
 ☆ の実践編ですね。

お礼日時:2009/06/03 05:48

 こんばんは。


 しばらく仕事をします(GMの破綻が決まり、そろそろ働き頃になってきました)から、後の投稿は遅くなります。

>【質問1】 ちなみにですが コミュニケーションが連続体であるのと 個体が互いに分かれている石であることとは 両立しうるようにも思いますが あきませんか?

 認識の仕方の問題なので、どちらでも良いんですよ。ただ、個物にしておくと後がやっかいだと思うだけです。うまい説明が見つかれば良いですが。

>【質問2】 この《ほほえみ》なる化学反応は 写像の以前のあいさつ段階ですか? 

――それとも すでに元(つまり コミュニケーションにおける話題)が決められた段階でのことですか? 《「にこっ」(と笑えば)》と言うのは まだ 始域が決まっていないように思われるのです。

 始まりと終わりですね。笑みで始まり笑みで終わるなら、中間に如何なる迂回が待っていようとも、終わりの笑みを求めるでしょう。言い方を変えるなら、父と子です。父は始まりであり、終わりとなる子は、つぎの父の始まりである。気紛れなダイモンは、まるで「心」の振る舞いのようです。

 ・http://okwave.jp/qa4989694.html

 No.10の補足欄に引用しました。古代の三位一体論(つまり、対話のこと)です。

>【質問3】 コミュニケーションにおいて 相手の言説を理解することは 果たして 《写像》という作業にひとしいか?

 「写像」は、国語辞典の意味に従ってください。

 (1) 対象物をあるがままに写して描き出すこと。
 (2) 物体から出た光線が鏡やレンズなどによって反射または屈折されたのち、集合して再びつくられる像。
 (3) 数学で、二つの集合A、Bがあって、Aの各要素aにBの一つの要素bを対応させる規則fをAからBへの写像といい、f:a→bと書く。

 意味はどれでも良いですが、どれもに通じる言い方としては、ある入れ物の全体、または一部を、別な入れ物に移す――という感じでしょうか。図像(「砂」のことです)などは1.に当て嵌まり、「比喩の表現で言われているのだ」と評価していただいたものは2.に当て嵌まり、個物(「石」のことです)は3.に当て嵌まり(圏論や関手を駆使する数学でなければ、こう言って良いでしょう)ます。

>【質問4】が何を仰られているのかよく分からないのですが、
>【質問5】=【質問3】が来ます。つけ加えるに 《人格=境地=人間の論理》は 元=要素には成りがたく 写像にはなじまないのではないだろうか?

 だから、個物で考えるのは難しいと前に書いたのです。
 《人格=境地=人間の論理》は、間違いなく1.です。たったひとつの表現、しぐさ、間合い、そういったもののなかに、それこそ無限の要素が織り込まれます。実数で考えるときの0と1の間に、無限の数が含まれているのと同じです。それを幾何では一本の線(画像)で表します。

>【質問6】

 【質問3】の答えでは駄目ですか?

>【質問7】

 《関手》などという無意味な言葉は、これまでの質問の答えを理解しやすくするための道具ですから、僕の言いたい事が伝わっていれば、要らないものです。

>ケチョンケチョンに言ってくださって

 僕は、雉ではないですからね。まあ、気楽に鳴かせてもらいます。

この回答への補足

 No.6お礼欄よりつづきます。
 ( suite de Achille enivre  au "Cimetiere marin"  )

 Il etait, helas, inaccessible,
 O de les eaux massiliennes, arduite,
 Son Port, son Cimetiere paisible,
 Au pied du mont Saint-Clair sa patrie !
 Le desir de meme longtemps j'ai cheri
 De temoigner d'une filialite
 En vain; J'etais tout vain de mon dessein
 Qui trahit fatalement mon destin !

 Ah ! les cotes s'enfuient de mon pendule,
 Comme si je m'etais fait remonter
 De ce matin dans le crepuscule.
 Ah ! lente, si lente, va le bateau
 Chaotiques, blafardes, sont les eaux...
 Mais non ! Non ! A Marseille il faut monter
 En mon avion de retour a ressort;
 A mon cadran maritime la mort !

 Sayonara cordial, Butte marine !
 Comme ton ancien nom, Setius Mons,
 Tu etais toujours ma "hauteur voisine",
 Mon ombre de Tortue enervante
 Et de meme sympathique au fond !
 Tu sais que j'aie cette noire destinee
 Qu'il a trahie, ce voyage sale;
 Je vais voler a l'ancre suivante !

 Je suis presse, mon vaisseau paresseux !
 Hate-toi, coupe le flot orgueilleux!
 Ouvre-toi, ma maree littorale !
 Mes soeurs aussi doivent m'y attendre.
 Vallons et monts de ma contree natale,
 Entendez-moi, veuillez bien m'entendre
 Qui vous ai quittes comme un bohemien
 Pour ce trajet prodigue pas pour rien !

 Ce trajet long et idolatrique,
 Ah ! l'onde humide, mugissante
 De la mousson d'ete effrayante
 De l'ocean indien cyclonique !
 Ah ! l'onde si lasse et sereine,
 Plutot chaude de la mer ionienne,
 Et faible de la mer tyrrhenienne,
 C'est fini; quelle fin il m'amene !

 Ce final de mon itineraire,
 Il m'amene egalement par contre,
 La confrontation des idees plus claire
 Des deux mondes qui l'un l'autre se montrent
 Fort differentes, et sont un, peut-etre:
 Il m'entraine, de ce climat, le miasme,
 Dans des heures blanches qui font naitre
 Un Narcisse pas sans enthousiasme.

 O Mare Nostrum, meme Notre mer,
 Notre nation avez-vous enfantee
 Aussi bien que les vieux ancetres loues
 De sa grandeur, de mon poete fier,
 De pere en fils depuis leurs aieux
 Dont les travaux sont glorieux;
 Memes les commercants semitiques
 Ou bien les saccageurs germaniques !

 Enivre du blanc de la Grande Bleue,
 De l'Azur de toute antiquite,
 Et de moutons que notre avant cree,
 Je vois, sur les horizons ecumeux
 De mes traces laissees loin derriere,
 Un peuple soit navigant soit charge,
 Un seul peuple qui ne se diviserent
 Qu'en deux types de personnalite.

 Vois-je celui qui un meurtre a fait
 Et navigue pur dans un silence
 Tumultueux, tenebreux et immense;
 Et celui qui ne l'a commi jamais
 Et flotte, halete peniblement
 Sur l'ocean du passe compose;
 Cette differentielle a nous posee,
 Eux et nous n'aurons-nous qu'un fondement.

 O personnes mediterraneennes,
 Une mascarade de Navigateurs !
 Meme de notre region paienne
 Etes-vous peut-etre les fondateurs !
 Puisque tous les chemins menent a vous,
 D'abord celui du hibou moderne,
 Puis, du papillon, de la foudre (son coup),
 Tous dans nos republiques internes !

 ( a suivre au No.3 )

補足日時:2009/06/20 20:12
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この回答へのお礼

 ri_rong さん ご回答をありがとうございます。

 ぜんぶ 分かりました。了解しました。

 ★ フィチーノ師の三位一体論
 ☆ これは この世界における人間と人間の織りなす社会模様についての精神的な図形ですね。それとしてなら 通じます。
 神学物語とでも言うべきもので 神論として述べてはいないように思われます。

 そうなりますと この数学によるコミュニケーション論というのは しかるべき《関手》を設けて どちらかと言えば その《仕組み》を捉えておくということになるのでしょうか? 
 《人格=境地=人間の論理》の中身を捉え 表現していくのは 哲学固有のいとなみになるでしょうか? あるいは それらの中身を含めて すべての過程とその機能を 方程式ふうに捉えておくのでしょうか?

 家の設計をして しかも そこに住む人びとの生活の様式についても いわば設計をしておき やがて この学が 人びとの生活そのものを作り上げていくのでしょうか? 
 これでは おかしいような おかしくないような。・・・
 たとえばコミュニケーションは 人と人とが 互いに自己表現をやり取りして繰り広げる格闘であると見た場合 その設計図なり方程式なりを 用意していおくということになるでしょうか?

 勉強課題を前にして こんな思いを持ってしまいました。

お礼日時:2009/06/02 00:17

 こんばんは。



 以前に別な質問で、バルトのデノテーションとコノテーションの回答があったと思いますが、覚えておられるでしょうか。あの記号化の基礎にあるのは、関手だと思いますが、リンクを付しておきます(記述で圏と出てくるのは、カテゴリーのことです)。

 ・関手 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E6%89%8B

 どうもこの質問に関しては、関手みたいなものを説明材料に提出しないとうまく出来そうにありません。

1.2.3.4.について

 個々人の人間関係を「石」と捉えるか「砂」と捉えるかは、ゾンビー問題を抱えている以上、前者だという姿勢を取るのだろうと思いますが、現実のコミュニケーションは、明らかに連続体であって、個物ではない。ゾンビーは嫌いだから、「石」のはなしには触れず、コミュニケーションに話題を徹することにします。

5.について

 「固い石どうしとして しかも あたかも互いの交わりにおいて化学反応が起きるであろうか」――これは、簡単です。「にこっ」(と笑えば)これで、完了です。

6.について

 本題ですね。5.の笑いとともに、内外の総合には、もう少し複雑な手続きが必要だと思います。それが上に掲げた「関手のようなもの」です。あるカテゴリーから、別なカテゴリーへ対象を対応させるためには、射という概念の他に、射を合成し、また反転した射を保存するという、脳内の作業が必要でしょう。
 写像というものを考えるとき、この二次元の位相空間は想像以上にたくさんの情報量を持っている。人間の感覚するそれは、モニタを埋めるデジタルデータの順列集合ではなく、集合の要素どうしの近さや遠さ、繋がり方に関する情報を含んだかたちで与えられており、その関係性の強弱によって、実際の像に比べて強調や捨象が常に加えられるようです。そのため、現物と意識に上った像との間に自ずと違いが生じる。
 これが、バルトの記号の意味です。

 位相空間を、どのようにして別なカテゴリーへと対応させているか。これは専門家のお話を聞かないとわかりませんが、「神の光」もまた、それが眼差しである以上は、同様の仕方で内へと入るのではないでしょうか。
 ひとつの光源から流出した光は、様々な事物に明るさと熱とを与えながら、やがて僕らの元へと届く。僕らは身体一杯にその光を受けて、等身大の影を作るでしょう。
 対峙する者にとって、光を受けた身体はまるで鏡のようであり、その反射を通じてその人を窺い知る。これは――ごく日常的な光景だと思いますが、おそらくコミュニケーションは、太陽に照らされるようなものだろうと思います。

 位相幾何の続きを言いそびれたので、ここで補足します。

この回答への補足

 ri_rong さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。図々しい言い方をすれば 連続講義の始まりになるかとも思われますので 気長にたのしくおつきあいいただければ 至極さいわいに存じます。

 今回は 開発途上なることを省みず ご質問を掲げてまいりたいと思います。
 ★ 1.2.3.4.について・・・現実のコミュニケーションは、明らかに連続体であって、個物ではない。
 ☆ これに留意します。《連続体》を把握せねばなりません。
 【質問1】 ちなみにですが コミュニケーションが連続体であるのと 個体が互いに分かれている石であることとは 両立しうるようにも思いますが あきませんか?

 ★ 5.について――これは、簡単です。「にこっ」(と笑えば)これで、完了です。 
 ☆ 写像で《始域 source と 終域 target 》があるのを習ったのですが 
 【質問2】 この《ほほえみ》なる化学反応は 写像の以前のあいさつ段階ですか? ――それとも すでに元(つまり コミュニケーションにおける話題)が決められた段階でのことですか? 《「にこっ」(と笑えば)》と言うのは まだ 始域が決まっていないように思われるのです。

 ★ 6.について / 本題ですね。
 ☆ まづ基本的に 次のように問わなければならないと考えます。
 【質問3】 コミュニケーションにおいて 相手の言説を理解することは 果たして 《写像》という作業にひとしいか?
 ★  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 写像というものを考えるとき、・・・人間の感覚するそれ(* 位相空間における情報量)は・・・集合の要素どうしの近さや遠さ、繋がり方に関する情報を含んだかたちで与えられており、その関係性の強弱によって、実際の像に比べて強調や捨象が常に加えられるようです。そのため、現物と意識に上った像との間に自ずと違いが生じる。
 これが、バルトの記号の意味です。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  ☆ コミュニケーションにおいて その意思疎通は 具体的には 情報を一定の話題にしたときの元(つまり 《記号》)をめぐって おこなわれる。そこでは 次の三つが いわばやり取りされていると考えられる。
 1. デノテーション=文字通りの意味
 2. コノテーション=相手や情況に応じた言外の意味
 3. 人格の交感=人間の論理=境地としての呼応
 すなわち 【質問4】 (3)のことが
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 対峙する者にとって、光を受けた身体はまるで鏡のようであり、その反射を通じてその人を窺い知る。これは――ごく日常的な光景だと思いますが、おそらくコミュニケーションは、太陽に照らされるようなものだろうと思います。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ と比喩の表現で言われているのだと思うのですが よろしいですか?
 では そのとき 【質問5】=【質問3】が来ます。つけ加えるに 《人格=境地=人間の論理》は 元=要素には成りがたく 写像にはなじまないのではないだろうか?

 【質問6】 ★ 《ひとつの光源から流出した光は、様々な事物に明るさと熱とを与えながら、やがて僕らの元へと届く。僕らは身体一杯にその光を受けて、等身大の影を作るでしょう。》という比喩表現が 絶対として想定された《神の光》を どれだけ 言い当てているか。――そのときには 逆にかえって 写像による説明が成り立つのでしょうか?

 【質問7】 《関手》は そうなると むしろ 感性に絞られて来ませんか?

 * ケチョンケチョンに言ってくださっていいのですよ。

補足日時:2009/06/01 21:46
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この回答へのお礼

 (No.4補足欄よりつづきます)。

 Que Minerve aux deux yeux d'amphore
 Au cimetiere profond frejussien,
 A notre ere apres des siecles d'or,
 A la suite d'un Poeme italien
 Et des Oeuvres humaines absolues,
 Dans une Conscience solennele,
 Une grande offrrande a-t-elle vue;
 Une Comedie intellectuelle !

 Que, mon severe poete de Sete,
 Observe-t-il, reposant, la destinee
 De sa symphonique vanesse nette;
 Elle papillone, comme Psyche,
 Ses ecailles contre le vent propose,
 Et s'unit a l'amour divin enfin !
 Qu'ils repetent cette metamorphose
 Les architectes mortels, plus ou moin !

 Ah ! Toulon au coin de l'amphitheatre
 Ou se distingua un Capitaine !
 Une fois qu'un Jupiter opiniatre
 Se leve dans l'ame republicaine,
 Les ides de Mars se representront !
 Ah ! chers acteurs, n'osez pas vous noyer,
 Mais voguez, naviguez ! soit en dromon,
 Soit en batiment valericain voilier !

 Eh bien, ce "vento del sud" se leve,
 S'avance le bateau, s'approche-t-il
 De ce port phoceen; et j'acheve
 Mon reve microcosmique et subtil !...
 Vois-je le chateau d'If theatral, pareil
 Aux pathetiques sillages humaines !
 Tout est fini, et tout commence au soleil:
 Changerai-je, et changera la scene !


 * 感情をぶつけるようにして言葉に表わしたり ヨーロッパに媚を売るような姿勢が見られます。また お分かりのように 思想も決して 固まったものではありません。

お礼日時:2009/06/20 20:27

オコリザルです。


同一の課題に対しても取り組み方が違うので、見解の表明には慎重にさせていただきますが、今回のbragelonneさんの取り組みからの発展は「正解」でしょう。
賛同できます。
私は自己の同一性という言葉でこの取り組みを表現していましたが、勝算がある故、気楽に取り組んでいます。
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この回答へのお礼

 primeape さん ご回答をありがとうございます。

 ★ 賛同できます。
 ☆ ありがとうございます。じつは 苦肉の策です。質問趣旨に掲げた方のご質問における質疑応答を primeape さんはご存じなので 事情はおわかりかと思います。
 
 ただ このように掲げた結果 わかったことがあります。
 かんばしくない方としては 焦点が いまひとつきちんと結べていないことです。《内と外とを総合しうるか》で終わってしまっていますし もうひとつは 《石(数論)と砂(幾何)》を わたしが勝手に 《個体・特にその外交面とそして主観内面》とにそれぞれ喩えてしまったことです。

 悪くなかったと思うことは このひとつの質問で いまの《おそわる問題》も《わたし問題》も《説得問題》も 一堂に会するかたちになるのではないかと思われるからです。

 それには 《総合》の方向を もう少し きちんと具体的に目鼻をつけられるようにならなければと思っています。あらためて進めていってください。ともにそうして行きましょう。

お礼日時:2009/06/01 09:27

物理で言う超ひも理論のことでしょうか?

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この回答へのお礼

 ESN さん ご回答をありがとうございます。

 ★ 超ひも理論
 ☆ は 重力などの四つの力を 統一したかたちで 説明するというものですよね?
 ★ 重力
 ☆ を人間の意志――なぜなら 意志は 心ないしその表現行為としての重さだと考えられます――にたとえた時には 交通関係ないし対話において 自分の内面と外面とが 総合されるか(また どのようにされるか)に 大いにかかわっているように思います。
 ただし これは そういった比喩と憶測によるものです。

 この質問にしても その趣旨において 《数論と幾何》とを すでに比喩的な用法として見立ててしまっています。ですが そのあたりから出発して ご見解を寄せていただけばよいと考えます。この出発点の設定じたいについて 触れていただいてもよいと考えます。
 社会における人間関係 これが 基礎にあります。
 そこで ひとは 主観内面の世界と その外化=表現をおこなう外面とを持ちます。外面とは ひととの交通であり対話です。
 片や 主観内面と 片や 主観どうしの交通としての外面 これらは とうぜん 動態であります。その過程において ひとは 両側面を総合的に捉えていくことができるでしょうか?
 あとは 趣旨説明としての質問者の見解表明を――それも 途中までのものですが(つまり 途中までしか 考えがまとまっていませんが)―― 参照して お考えになるところを明らかになさってください。

お礼日時:2009/06/01 00:02

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