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私は、キリスト信仰における《三位一体》を、普遍的位相とは認めるものの(キリスト教全会派に共通する教義ではない)、三位のそれぞれの位格が、等質かつ等価であるとの見解を、咀嚼しかねております。

 もちろん、会派ごとの教義は尊重します。しかしながら、私自身がプロテスタント無派閥に所属していた、元不良信者であります。通っていた教会では、三位一体を大変に重視していましたが、私が師に、「《主》とは、すなわち〈父なる神〉ではないのか?なぜ新約では、《主イエス・キリスト》に変わっているのか?〈人の子〉が、なぜ救世主を超越して、《主》と呼ばれるのか?〈御霊〉は、キリストの血によらなければ授けられないのか?」と問い質すと、逆に不信仰を諌められてしまいました。

 そこで、皆さんにお尋ねします。

【Q-1】 〈父、子、聖霊〉、それぞれの、役割とは何でしょうか?

【Q-2】 〈父、子、聖霊〉、それぞれは、等質といえるでしょうか?

【Q-3】 〈父、子、聖霊〉、それぞれは、等価といえるでしょうか?

【Q-4】 〈父、子、聖霊〉、それぞれが、等質でも等価でもないとしたら、どれが最も重要なのでしょうか?

【Q-5】 《三位一体》とは、何でしょうか?

 以上、皆さまの私見でもかまいませんので、よろしくお答え願います。

A 回答 (31件中21~30件)

 No.3&5&6&9&11の bragelonne です。


 人間としては 必然性もしくは必要性に応じて どんどん進めてまいります。

 ★ (No.7 補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 《三位一体》とは、3でなければうまくいかないということなのでしょうか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これを考えます。
 基本的には 次のようだと考えます。

 1.~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 神が 神する。自同律=自己同一性のことである。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 1a. 人間にしてみれば 精神が精神する。

 2.~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 《神した》結果 自身が・つまり同じ神が 生まれた。これを 親(仮りに父)が子を生んだと表現する。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 2a. 人間にとって 《精神が精神する》は 一般的に 《わたしがわたしである》ことである。
 2b. と同時に 自己の生の過程の蓄積から そのいま必要な部分を明るみに出すことでもある。存在過程の全体から 必要な知識ないし情報を引き出すことである。これは 記憶の宝庫から得てくる。
 2c. 記憶は すでにみづからの内に 秩序作用を有し 知識を整序しているのであるが ここから引き出してくる情報は それとして 整合性をもつことが 一般に 要求される。それは 知解という行為能力が担う。総じて 記憶が知解を生むかのようである。

 3.~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 神において 父と子とは 同一である。もしそれでも二者があるとすれば 互いに――同一であることにおいて―― 交わる。
 この交わりとしての神が現われる。同一である二者の交わりにおいて 同一であることが 自同律を持つからである。
 それは 安易ながら 人間の言葉を用いれば 父と子との愛である。
 人間が認識しうる愛ではないので 霊つまり聖霊と言う。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 3a. 人間にとって ここに得た知解(その情報)は さらに 記憶と照合しつつ みづからを精緻なものにかたちづくっていく。それは すでに背後に 何の目的でどのようにそれを用いるかという我が意図があるからだ。
 3b. しかも これらの作業をうながすのは さらに背後の我が意志である。
 3c. さらにしかも この意志は すでに初めに《精神が精神した》とき 《わたしがわたしである》ことの心の伸びのことである。そしてその心は 記憶とその自同律のごとき知解とのもとに おのれを自覚したわたしである。伸びつまり志向性は 意志であり 心を成り立たせているのは 記憶と知解であろう。(三者の全体としての精神のことも 別様に 心と言う)。
 3d. 人間にとって 記憶と知解と意志とは 幸か不幸か 一般に 互いに同一ではない。通俗的に言って うそがある。と同時に 一般に その自然本性においては 三者は 互いに同一でありうると捉えられている。良心と言ったりする。
 3e. この《良心》ゆえに 人間も 《自由》という概念を得ている。もし良心がなければ――三者の一体性が 完全な絵空事であるならば―― 自由という思惟とおこないは 収拾がつかないという意味である。世の中すべて 飲めや歌えやとなる。
 3f. 人間にとってのこれら三行為能力の一体性は 長期的な過程における・かつ 社会的な共生をその内容とする整合性としての一体を 目指している。じんるいの悲願である。

 * わたしたちは 世のうそから救われるには このような大うそを想定し そのもとに 経験科学の真実を有効に使うという道が 問い求められたようである。事実 民主主義の社会では 憲法を初めとし社会の取り決めとして そのようになっている。人びとも おおむね 自由と民主とをとなえている。
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この回答へのお礼

ご回答いただきありがとうございました。

お礼日時:2009/06/07 02:01

 No.3&5&6&9の bragelonne です。



 《イエス・キリストは イエスという名のふつうの――しかも《大食漢で大酒飲み》だとうわさされたところの――人間であると同時に キリストと呼ばれるようになった神の子であり神である》について 次のように 図式化するとよかったでしょうか?

 ○ 父なる神=子なる神(キリスト)――つまり一体性――
  そして 同時に
   父なる神(=子なる神=キリスト)>人の子(=人間)イエス

 ☆ この点を もっと早く述べればよかったと思いました。両方の側面があります。《神の貌》と《しもべの貌》と言って区別したりします。
 ただし 神の貌は けっきょく 十字架上に死を死んだのちに 弟子たちにも やっとその背面のみが 見られるようになったと言われていたわけです。背面はしっかりと見られたのですし なかんづく その現実性として起こったことは 弟子たちが 《岩の上にしっかりと立つことになった》ことです。

 ▲ (ピリピ書2:6-8) ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、
 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。
 人間の姿で現われ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで〔* 神の言葉として 父なる神の言いつけに=つまり み心に〕従順でした。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
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この回答へのお礼

ご回答いただきありがとうございました。

お礼日時:2009/06/07 02:01

三位一体、説明されてもよくわかりませんよね。



梵我一如って考えがあります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%B5%E6%88%91% …

アテン教ってのが古代エジプトにあった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%86% …
敵などいないってことで、比較するものがないため人気がなかった。

イエスキリスト
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%A8% …

十二黄道
http://www.asahi-net.or.jp/~nr8c-ab/ktgr12seiza. …


ほんで、、、

太陽系の星は、もともと太陽だったんじゃないかと。
太陽がぼっかーーんと爆発して、その破片が散らばって太陽系のそれぞれの惑星ができたのかも。

したがって地球ももともと太陽で、今は分裂しているので、今じゃなくて元は太陽の一部だった。

梵我一如を読むと そこらへんが曖昧っぽい。
まるで同一であると言っているかのように聞こえる。
同じとすると誤りが生じると思える。



ほんで、アテン教のページの画像。太陽から伸びている手のようなもので、、、、
ああ、今阿修羅像展示会やってますが、あれ、太陽ですね。
手は太陽光線をあらわしている。
アテン教の壁画のびにょーんって伸びているのも太陽光線。

で、イエスキリストの画像のバック。
12黄道宮をシンプルにしたもの。
縦線と横線で区切ってあるのはなぜか。
なぜ世界が四つってなったのか?

あまり天体について詳しくないのですが、春分点と秋分点、冬至と夏至をそれぞれ線でつなぐと十字になるでしょ?
したがってイエスの像は太陽で、うしろのバックは、冬至(12月25日)が一番日の出の時間が短くなるので、太陽は死んだようになる。

それ以降徐々に日の出の時間が長くなるが、完全に日の出の時間が夜より長くなるのが春分点。この日あたりに復活祭が行われる。
イエスの? いえ キリスト教ができるよりずっとずっとずっと前からあった風習の復活祭の日が春分点あたりの日にち。
ちゃんと 計測されて、この日以降は太陽の出が夜より長くなると観測されていた。
地球と太陽の関係からそうなるから。

んなわけで、三位一体。父=太陽、子=地球、精霊=なんでしょ プラズマ?  なんだったかな? 質量がものすごくなると、電子が分離していく。原子核ってものは原子と電子で構成されていて、すごい質量になると、構成している電子が抜けていく、んでもろくなって耐えられなくなってぼっかーんだったような???

だめだ ちゃんと説明できない。、、、物理赤点だったし。

んで、古代の人はそんなこと知りやしないわけです。
ただ、太陽と自分 つまり地球はすごく親密な間がらで、太陽無しには生存できないと古代の人は気づいていたことには間違いない。


で、太陽を母なるものとも考えたんじゃないかと。
地球が太陽から生まれたとすれば、確かに地球にとって母親は太陽ってことになる。

で、太陽信仰があって、産み 育て 破壊するのが太陽って考えたわけです。
三位一体というより三相一体。
阿修羅像見たことありませんが、多分3面を持ちながら一体化しているんじゃないかと。
産み 育て 破壊する 3つの面を持つ神。

で、三面一体ってのは古代では女神の事だったわけです。
産み 育て 死をもたらす女神。
インドのカーリーってのは三面一体の女神。
死の相が注目されすぎていますが、3面持っているとされる。
だから古代の人は「カーリーから正という報いを受けたのだから、同じ神からの報いである死も受け入れるべき」って考えたが、その思想の派閥はインド方面では弾圧された。
生は喜んで受けるが、同じ神から発せられる死はいらん って同じものからの報いのうち一部だけしかいらん ってしたので苦が生じたわけです。


って理解なので、4つの質問にはうまく答えることができませんが、最後の Q-5なら答えられます。太陽です。

昔の人は精霊を言葉だと考えた時期があったようです。
真言 マントラの思想があり、正しいときに正しい言葉を発すれば、エネルギーが生じると考えた。
びびでばびでぶー もそう。

言葉ではない。
太陽となる球体がぼっかーんと爆発したのは、精霊でも言葉によるものでもない。
原子核から高熱により電子が分離したためだったような。。。爆発することになった原因ってのは、、確か。

確かに人間の目では電子なんてものは見えやしません。が実在していることは機械を使えばわかるでしょう。

原子や電子が見えないけど存在しているのは確かなように、神は見えなくても存在していると言えるか。

姿が見えず、なんでもできちゃう が金だけには常に不自由している神ってのは、この世に存在しているか?
その超ド級金の亡者の正体とは?・
人々の妄想を起こさせいると信じさせている者の正体?


オズの魔法使いって物語がある。
恐ろしい偉大なる魔法使いの正体。
それは人間だった。
しかもただの人間ではなく 人を騙して稼ぐ詐欺師という職業。
トリックを使い さも偉大なる魔法使いがいるかのように人々に信じさせていた。

しかし、騙されたドロシーたちだったが、詐欺師のおかげで弱虫は勇気ってものを得たりもした。
ある意味 詐欺だと知らずに実在すると信じたために、弱虫の意気地なしが、勇気を持てるようになったわけです。

そういう意味では、この詐欺師は存在価値があったてことになります。
残念ながら、そうはいっても 神の正体は人間だったことを知ってしまったドロシー。
本当の神様は別にいるって 神を探すってストーリーだったような。

ってことで、人を騙すことも悪いことじゃない 時には人を騙し 私服を肥やしてもいいだってなりえたりするところが、嘘も方便の宗教が消えない理由でもあるわけです。

この世に悪いものなどない。アテン教の教えです。
そう 人を全能の神がいると信じ込ませ、騙し殺し奪う恐ろしい邪悪な人間も、太陽の一部。 つまり 神の一部。

これが三位一体の一体の意味なわけです。

こう考えると、三位一体ってわかりやすいと思いません?
どうして愛と平和をスローガンに掲げた集団が人類で一番殺人を犯してきたのか 現在もおかし続け 狂喜乱舞しているのか、なぜそれを人々は求めてやまないのかわかっていただけたと思います。
だって本質はそれも含むから。

ところがぼっかーんと爆発すると、パーツに分かれるわけです。
一部と一部をそれぞれ比較すると、同一の材料でできているわけではないとわかる。
でも それぞれはもともと太陽から分裂したわけです。
元は母の肉体であったが、おぎゃーと生まれたら別人です。
別の個性を持った別人格です。
したがって、分離したら、もはや同じではない。 元一体。現在は違う。
で、相違する部分を除外し、元と同一の要素になれば、同等だと古代の人は考えだして、イエスに肉体を捨てさせたって物語を作ったりもしたわけです。

無理! 太陽系の惑星 全部集めて太陽にくっつけないと無理!

この回答への補足

古代人は、3の数を神聖視していたようです。これには、何か特別な意味があるのでしょうか?4の数も同様で、3と4を掛け合わせると、12になります。これも12進法に見られるように、神聖視されています。よろしければお答え願います。

補足日時:2009/06/03 23:10
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この回答へのお礼

着ぐるみさん、ご回答いただきありがとうございます。キリスト以前から、《三位一体》という考え方はありますね。何やら神秘的な趣もありますが、天体を見上げると、〈太陽、地球、月〉が一組に思えてきます。〈恒星、惑星、衛星〉を《三位一体》と捉えたら、少しは理解の助けになるかもしれませんね。古代人は、そこまではわかっていなかったでしょうが。それが判明したのは、コペルニクス以降ですね。それとともに、旧来の考え方が覆されたのは言うまでもありません。アテン教ですか。ちょっと検索してみましたが、着ぐるみさんのお名前を、たくさんお見かけしたところから、もしかしてこの分野の最先端を行かれているのかもしれませんね。さて、さらに時代を追って、《三位一体》の変遷を辿って行きましょう。お手引きをお願いいたします。

お礼日時:2009/06/03 23:24

 No.3&5&6の bragelonne です。



 今回は
 ○ 神を見た
 ☆ について考えます。なぜなら
 ▲ (出エジプト記33:11) 神は人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語った。
 ☆ とあるからです。《顔と顔を合わせ》るなら その《神を見て》います。しかも 《顔》というからには 神も《人型》で現われたことになります。
 ところが そのモーセとの対話をめぐって そのすぐあとに 別の内容も書かれています。
 ▲ (出エジプト記33:20-21)~~~~~~~~~~~~~
 〔主は〕また言われた。《しかし あなたは私の顔を見ることはできない。わたしを見て なお生きている人はいないからである》。・・・《私が私の手を除けたとき あなたは私の背面を見るであろう》
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 神が《表象し得ぬもの》であるなら 《顔と顔を合わせて語る》とは どういうことか? あるいは そのときの神とは 父か子か聖霊か それとも 区別をしないままの神なのか?
 つまりは 三位一体と人間との関係は どうなっているのか?

 ところで 次のような観想があります。これにもとづき その《神の背面を見る》ことが たしかに起こるかも知れない。つまりは神の後ろ姿だけは見ることが あるかも知れない。
 ◆ (アウグスティヌス:三位一体論8・2・3)~~~~~~~~~~~
 真理(* つまり 神)とは何か と問い求めてはならない。というのは そのとき直ちに物体的な似像の雲霧と虚妄の雲が君を遮るからである。
 それらは 私が 神は真理にましますと言った その最初の瞬間 君を照らした清澄の光を曇らしてしまう。
 真理 と語られるとき 君がいわば電光によって捉えられるその最初の瞬間に 出来るなら留まれ。しかし君は留まり得ない。そして君は再びあの習慣的な地的な表象の中へ滑り落ちるであろう。

 私はたづねる。君が再び滑り落ちるのは 情欲の黐(とりもち)や異郷への巡礼の誤謬によって感染された汚辱でないなら いかなる重さによるのであろうか。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ すなわち 神を見るには――もしそれが出来るのなら―― 心が清められなければならなかったのだと推し測っています。
 ▲ (マタイ福音5:8) 心の清い人はさいわいだ。神を見る。
 ☆ というわけです。

 とは言うものの すでに わたしたちは パウロの解説を読んで知っています。
 ▲ (コリント前書15:26-28) ~~~~~~~~~~~~
 〔最後の敵として 死が滅ぼされます〕。・・・神が すべてにおいてすべてとなられる〔ためです〕。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ という最終のときには 《見神 visio 》の起こるであろうことをです。すなわち パウロが解説します。
 ▲ (コリント前書13:11-13) ~~~~~~~~~~~~~~~
 わたしたちは 幼子だったときには、幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていましたが 成人した今は、幼子のことをやめました。

 わたしたちは、今は鏡にぼんやり映ったものを見ていますが そのときには、顔と顔とを合わせて見ることになるでしょう。
 今は部分的にしか知りませんが そのときには わたしが神に知られているように はっきり知ることになるでしょう。
 それで、信仰、希望、愛のこの三つは、最後まで残ります。この中で最もたいせつなのは、愛です。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ 結論を急ぐならば 
 ▲ 今は部分的にしか知りませんが 
 ☆ のことを モーセの場合の《顔合わせ》にも 当てはめることが出来るのではないでしょうか? というのは モーセも このとき 次のように なおその上に 願いを述べているからです。
 ▲ (出エジプト記33:13-18) ~~~~~~~~~~~~~~
 モーセは主に言った。・・・「お願いです。もしあなたがわたしに御好意を示してくださるのでしたら、どうか今、あなたの道をお示しください。そうすれば、わたしはどのようにして、あなたがわたしに御好意を示してくださるか知りうるでしょう。どうか、この国民があなたの民であることも目にお留めください。」
 ・・・
 「どうか、あなたの栄光をお示しください」
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 少々詭弁を用いますが 《顔と顔とを合わせて語る》ときにも その全体を見てはいない。あのアブラハムにも 神は その姿を表わしましたが それも 《人型》でした。
 ▲ (創世記18:1-2) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 主はマムレの樫の木の所でアブラハムに現われた。暑い真昼に、アブラハムは天幕の入り口に座っていた。目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。 ・・・
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《三人》であるので これは 《三位一体》を表わしているのではないかとも言われるところです。
 ところが いまは――つまり イエスの死とキリストの復活のあとでも いま現在の自然本性において生きるわれわれ人間であるいまは―― 《部分的にしか》見ていない。もしくは 《鏡にぼんやり映ったもの》を見ている。
 アブラハムもモーセも そうであったし かれらは そのようにして イエスの日を 心待ちにしていたでしょう。イエスの日のあとも 現在時においては 同じように わたしたちは 《希望において すくわれている》。《かたちあるもの(表象しうるもの)は 希望ではありません》と聞きます。

 イエスの日の前後(つまりは 旧約と新約)をつうじて 総じて とうぜんのごとく 聖霊が送られて来ていたし 来ていると考えられます。イエスは 特別であって 聖霊という位格でないだけではなく 子なる神として その位格が 人間となった存在であると うわさされたという物語です。
 どうして 聖霊なる神という位格ではなかったのか? 聖霊では なぜ いけなかったのか?――これは さらに考察すべき課題です。(《独り子》ということが――そのかれを父は見捨てるわけですから―― 重要であるかも知れません)。

 アブラハムやモーセに現われた神は 子なる神が人となって現われたのではなく また聖霊なる神が そのように現われたのでもなく 聖霊が 経験的な存在や物事をとおして 現われたと考えられます。部分的に知るというかたちです。
 しかも 他方で 子なる神は いちど そしてこの一度のみ ひとと成ったと うわさされることになりました。
 (聖霊も 送られて来ているのだけれど このペルソナは ひとと成ることはなかった。しかも つねに 送られて来ている状態にある)。

 それは 十字架上の死は いったい なぜ 必要だったのかという問いにかかわるものと考えます。
 そして それは No.3に掲げた参照箇所として
 【Q:みづからにとって 《わたし》は 固有名詞ではないか】のNo.52補足欄が とりあえず 説明しています。参考になればと思います。
 さらに 尋究がすすめばよいと考えます。
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この回答へのお礼

ご回答いただきありがとうございました。

お礼日時:2009/06/07 02:03

こんにちは、お耳汚し程度に、、、、



>〈父、子、聖霊〉の《三位一体》は、等質かつ等価であるか?

モーセが見た神も、創世記の神も、人型なのですし、三位一体が不自然であるとする聖句を発見するのは簡単なので、今回はあえて三位一体を肯定とする聖句を紹介します。

子=キリストは兎も角として、父には聖霊と似た部分があるようです。

エレミヤ書23章
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
24)主は言われる、人は、ひそかな所に身を隠して、わたしに見られないようにすることができようか。主は言われる、わたしは天と地とに満ちているではないか。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

これは、創世記の有名な「神にかたどって、人を創った。」の部分と異なり、神様がまるで創世記1章2節「神の霊が水のおもてをおおっていた。 」かの如く、全宇宙を満たしているようなイメージです。

また、ブラフマンをも連想させます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9% …

不思議ですね~!

(ヨハ1:1, 14, 14:12, 16-17、26や、イザヤ9:6等は、、、つまらないので、引用しません。)

また興味深い聖句があったら報告に来ます。

この回答への補足

ズバリ、三位それぞれの位格は、等質かつ等価であるとするに足る、聖句はあるのでしょうか?よろしければお答え願います。

補足日時:2009/06/03 21:56
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この回答へのお礼

座頭山どの、お待ちしておりました。ご回答いただきありがとうございます。ご指摘のブラフマンもそうですし、日本人(特に元首相)も《三位一体》という言葉が好きなことから、これは普遍の原理と呼べるのかもしれませんね。聖書には、《三位一体》に限らず、解釈が食い違う記述が多いので、浅学の身の私には、理解が及ばないことがよくあります。また興味深い聖句や、検討にふさわしい解釈がありましたら、お教え願います。何しろこの問題は、何年も私を悩ませてきましたから、一歩でも奥深く見つめたいものです。

お礼日時:2009/06/03 22:16

追伸の参考程度に


>>「われわれ人類、あるいは信者は、主任や平社員といえるのでしょうか?よろしければお答え願います。」

その通りです。
会社でも係長や主任より平社員の方が多いですよね。
キリスト教団で言えば、イエスが本部長で、部課長クラスが例えばミカエルなどの大天使、課長補佐クラスが、例えばマザーテレサなどの天使ですね。その下に係長や主任・社員がごまんといるという組織ですね。
ちなみに日本神道では本部長が孔子、副本部長が天の御中主。仏教では本部長が釈迦如来という会社組織のようなものですね。本部長はみな役付き役員ですね。
新しい宗教や宗派を起こすには部課長以上の実力がないと取締役会の承認は得られませんね。世界的な宗教を起こすということは取締役会の承認を得たか、あるいは悪魔にそそのかされたかのどちらかしかないんでしょうね。本部長指示のローカル宗派も同じですね。
どの組織でも努力次第で平社員から等級を経て主任、係長、課長と偉くなっていけることは同じですよ。だからただすがるだけではいつまでも平社員ですね。

>>「三位一体とは、さしずめ取締役会のようなものでしょうか?」
そのように考えて差し支えはありません。
霊界では役員の皆さんは仲良しで地球人類の今後のことをいつも話し合ってますからね。
取締役会の意向を受けた神霊が地上に生まれたときに、その権限と権能を行使する際のうたい文句が「三位一体」ということでしょうね。
つまり、役員会の「総意」あるいは「ご上意」であるみたいな。

この回答への補足

大相撲でも三役、自民党でも党三役などといいますね。《三位一体》とは、3でなければうまくいかないということなのでしょうか?よろしければお答え願います。

補足日時:2009/06/04 08:35
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この回答へのお礼

MMでKYさん、ご回答いただきありがとうございます。《三位一体》とは、すなわち役割分担なのではないかと考えていました。役割を二分すると対立が起きやすいので、三つに分けたのではないかと想像したのですが、それぞれ等分されているのかどうかは、今のところわかりません。私は、一生平社員という会社などは辞めたいのですが、「株式会社 地球」は、辞めさせてくれないらしいですよ。

お礼日時:2009/06/04 08:46

 No.3です。

図解をおぎないます。

 光のたとえ・・・・・・・・・・・・・・光源・・・・・・発耀・・・・・明るさ・暖かさ
 三位一体なる神・・・・・・・・・・父なる神・・・子なる神・・・聖霊なる神
 ________________________________
  スサノヲ( S )・・・アマテラス( A )
_________________________________
 身体〔の運動〕・・・・・精神・概念(記憶・・・・・知解・・・・・意志)
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・↓・・・・・・・ (↓・・・・・・・↓・・・・・・・↓)
 [S者/S圏]
 個体・・・・・・・・・・・・家  族 ( 秩序・・・・・労働・・・・・・愛)
 社会主体・・・・・・・・自治態勢(自治組織・・〔生産〕・・共同自治)
 経済主体・・・・・・・・生産態勢(組織・・・・・・生産・・・・・・・経営 )
 政治主体・・・・・・・・・↓ ・・・・・・・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓ 
 [A者/A圏] ・・・・・・・↓・・・・・・ ・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓
 社会科学主体・・・・・社会形態(社会組織・・経済活動・・・政治 )
  〃・・・・・・・・・・・・・(国 家 : 司法・・・・・立法・・・・・・・行政 )

この回答への補足

図形的に捉えた場合、《三位一体》は、水平に横たわる正三角形になるのでしょうか?よろしければお答え願います。

補足日時:2009/06/03 10:30
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この回答へのお礼

閣下、ご回答いただきありがとうございます。以前に私が、野球における投打の等価性をご説明しましたのは、そうでなければならないからです。攻撃と防御を等しいとするとき、投打が等しくないなら、走塁と守備がそれを補う形で等しくないとしなければ、論理的に矛盾しているからです。《三位一体》に、このような関係性が、必要とされるか否かが、争点になると思われます。

お礼日時:2009/06/03 10:36

参考に


【Q-1】 〈父、子、聖霊〉、それぞれの、役割とは何でしょうか?
社長(父:創造主〕、副社長・専務(子:救世主)、部課長(聖霊:天使)が役割ですね。

【Q-2】 〈父、子、聖霊〉、それぞれは、等質といえるでしょうか?
同じ地球霊団の社長、役員、部課長ですから方向は同じですが個性は違いますね。つまり正確に言えば等質ではないですね。
社長は降臨しても救世の仕事を全うせずすぐあの世に帰りたがる役員にはお困りですね。こんなところからも等質ではないことがわかりますね。

【Q-3】 〈父、子、聖霊〉、それぞれは、等価といえるでしょうか?
社長と役員、部課長は違いますからそれと同じように等価ではないですね。

【Q-4】 〈父、子、聖霊〉、それぞれが、等質でも等価でもないとしたら、どれが最も重要なのでしょうか?
そりゃ社長〔父〕が一番偉いのは変わりませんね。だからイエスも父が偉いといってますね。ところが社員はみな所属長が一番偉いですね。だからイエス教はイエスが一番えらいということですね。矛盾はないのですね。社長(父)を知らぬ社員に社長を説いても意味無いからね。

【Q-5】 《三位一体》とは、何でしょうか?
これは、〈父、子、聖霊〉のうちのどの霊が降臨して肉体を持ったとしても、全員の権限と権能を預かると言う意味ですね。会社で言うと出張先で会社の全権代理として働くという意味ですね。全権代理は部課長であろうと役員であろうと同じですね。

キリスト教は霊界の構造や霊界での地位などの教えがあまり無いので、適当な解釈がまかり通っていますが、正確に言えば、イエスの本体は主(父)の右手下玉座に座るほどの霊ですから本人は子といってますが地球霊団の副社長なので主といっても言いすぎじゃないと思いますよ。
ただ他に副社長も専務・常務クラスもいますので、その兼ね合いはありますけどね。モーゼは専務クラスですけど主・モーゼとはあまりいわないですしね。
イエスの軍団で天使(聖霊の上級クラスの名称)と呼ばれるものはたくさんいますが、イエス軍団の天使長はミカエルですね。上級天使が降臨しても社長や役員の全権足りうるということですね。イスラム教開祖のマホメッドは上級天使の1人ですね。こういうとみな個性ありありですね。地球上に60億の人がいて、みな考え方が違うように霊界もおなじですね。だだ違ってもみな地球霊団という会社組織の一員ということですね。そのように見ると三位一体もわかりやすいのでは。

この回答への補足

われわれ人類、あるいは信者は、主任や平社員といえるのでしょうか?よろしければお答え願います。

補足日時:2009/06/03 09:38
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この回答へのお礼

MMでKYさん、ご回答いただきありがとうございます。実は、私も似たような捉え方をしていたのですが、おっしゃるような巧みな例えをするに致らなかったのです。会社組織とはわかりやすいですね。三位一体とは、さしずめ取締役会のようなものでしょうか?子の扱いに関しては、ローマ教会の事情によるところが大きいと考えています。

お礼日時:2009/06/03 09:48

 pokoperopo さん こんばんは。

この図々しいかぎりの bragelonne さまが ちょっと投稿するのに 引けてしまいました。或る種の仕方では 前回のやり取りで ぼろくそな言い方をしてしまったと いま 気づきました。
 
 起き上がるのも早いのが 能天気坊やの特徴です。
 この主題に関しましては 自信がありますので ご回答申し上げます。
 今回は 前提となる留意事項を述べます。なお 本題の回答としましては 次のわたしの文章を参照してください。
 【Q:みづからにとって 《わたし》は 固有名詞ではないか】
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4958074.html
 No.17(《神に性別はない》について)&29&36&52の補足欄・お礼欄です。

 はじめに比喩としてだけですが 全体観を持っていただこうと思えば 神を光にたとえることがあります。
 《光源》が 父なる神であり そこから出る《発耀》が 子なる神であり 両者から発出する《明るさ・暖かさ》が 聖霊です。
 光は 時間的・経験的なものですが 神は この経験世界を超えています。したがって 無時間もしくは永遠の時空間において 光源と発耀と明・暖とが 一体である状態が 父と子と聖霊との・絶対としての一体性です。子も聖霊も源であり 父も聖霊も輝きであり 父も子も明るき暖かき愛であり 父も子も聖霊も それぞれが 三者の一体となった全体に等しいというのが 三位一体の神です。永遠ないし無限を仮りに三等分したとき その三分の一は 無限です。

 留意事項の(1) 《絶対》の問題ですから すべては 表現の問題に行き着きます。
 (2) 絶対とは ひとが表象しえぬものです。ですから 《神》という人間の言葉で言い表わすのは 仮りの表現です。
 (3) つまりは 《神を見た》という表現は 仮りのものとして まったく自由ですが ほんとうには 矛盾しています。
 (4) あたかも指先でほんのちょっぴり触れられるかに感じたという一瞬があるかも知れません。つねに いわばそういった仮りの事態において そしてなぞにおいて 《神を見た》と言いたくなる場合があるのかも知れません。
 (5) ちなみに 旧約聖書では たとえば 神みづからが
 ○ わたしは ねたむ神・怒る神
 ☆ と言ったりしています。これも 表現の問題です。たとえば 《たのしい我が家》と言いますが 我が家が楽しいのではなく そこに暮らすわたしたちが楽しいのであって 《ねたむ神》と言うとき 神が妬むのではなく そのもとに生活しているわたしたちが妬み怒るのでしょう。
 (6) ところが キリスト・イエスの場合は べらぼうなおとぎ話になっています。論証し得ぬドグマです。つまり 光の輝きに喩えられる神の第二のペルソナ(位格) つまり 子なる神は 身体および精神から成る人間に成ったというものです。イエスが ふつうの人間であり キリストが 子なる神を表わします。
 (7) イエス・キリストは 人間であり 同時に 神(つまり 神の子も 神です)であるという想定です。
 (8) ちなみに ゴータマなる人間は ブッダであると言います。これは 人間であると同時に神であるという同じ想定でしょうか? 類型的に同じでしょうか?
 (9) 人間は 精神の秩序作用としての《記憶》という行為能力を持ちます。その宝庫から 《知解》を敢行します。そうして 情報ないし選択肢の中から 《意志》による判断を持ち 結論を実行します。
 社会は 社会の秩序の源として 《司法》権を設定します。ここから 必要に応じて《立法》します。これに応じて 《行政》が行なわれます。
 あたかもこれら三つの行為能力の二組が ちょうど光源なる父と 耀きなる子と 明・暖なる聖霊とから成る神に はなはだ不類似ながら 似ている。これによると 《行政》ないし《政治》ないし《共同自治》は 聖霊の暖かい愛に当たるというものです。
 《神は ひとを みづからのかたちに似せてつくった》というのは このように 《三位一体》なるすがたに いくらかは似せて われわれ人間に 《三つの行為能力の長期的な過程における一体性》を与えたというのが キリスト・イエスの伝えた物語です。

この回答への補足

他のご回答とは、真っ向から対立するご見解になっていますが、他のご回答は間違いなのでしょうか?よろしければお答え願います。

補足日時:2009/06/03 10:12
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この回答へのお礼

ブラジュロンヌ子爵大佐閣下、ご回答いただきありがとうございます。私も、神には性別はないと思っておりますよ。また、三位それぞれの位格は、光のごとき性質を帯びるというお考えにも賛同します。問題は《三権分立》です。このお例えはわかりやすいのですが、政治的にはこれらに優劣をつけていない、つまり特定の権力の暴走の口実を与えていないわけです。しかし、《三位一体》には、それぞれの位格を等しくする必然性がない、さらにいえば、等しくすべきではないと考えております。ここから、確認してまいりましょう。

お礼日時:2009/06/03 10:24

めっちゃ私見ですが、



抽象的な、認識の仕組みでちょっと考えてます。
例 現在夢を見ている人は、起きている、といえるか、寝ている、といえるか、というと、どちらも正しいです。

例 あなたと私は一心同体、という場合、あなたと私は同じなのか違うのか、というと、同じであり、違います。どちらも正しいです。

意識と無意識の違い、感情と認識の違い、などによって、違うと同じは、現実問題、両立してますし。

人の認知能力は、本質的にこういう性質がある、ということを、3位一体は主張してるのかな? と想像してます。

・・とても答えとはいえませんが、失礼します。

この回答への補足

キリストは、「私は、父と一体である」と言っていますね。この相似性と同一性が錯綜したのでしょうか?よろしければお答え願います。

補足日時:2009/06/03 08:59
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この回答へのお礼

羊さん、ご回答いただきありがとうございます。私見は大歓迎です。公の見解など、調べればわかるからです。こうして、皆さんのご考察を拝読するのが、何よりも参考になります。おっしゃるとおり、どちらともとれる曖昧性を内包した議題になります。さらに考えてまいりましょう。よろしくおつきあいください。

お礼日時:2009/06/03 09:07

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