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釈放された菅家利和さん(62)は千葉刑務所を出た後、千葉市内のホテルで記者会見し、「本当にうれしく思います」と語る一方で、「わたしは犯人ではありません」と声を震わせ、刑事司法に重い十字架を突き付けた。

彼らはこの思いを受け止める事は出来るのでしょうかね?

A 回答 (6件)

>彼らはこの思いを受け止める事は出来るのでしょうかね?



未だに警官によるでっち上げの冤罪事件が多発していますので、
とりようもなければ、受け止める気すらさらさらないように思います。

確固とした信念があって、
自分たちの捜査方法に誤りがあったと
考えて腹の一つも切るくらいの人が
いるならば、それはそれで、
しかたがなかったと考えられないでもありませんが。

(もちろん、無実の罪を着せられた人への償いにはなりえないのは
当然の話ですが)
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彼を捕まえた当時の警官は全然自分たちの非を認めていないようです。


警官は一度捕まえた相手が無罪だと判決が出てしまったらメンツがつぶれるし、出世にも影響します。
もう引退してるでしょが、自分の非を認めないのは当然でそうね。
無罪の人間を誤認逮捕したら罪に問われる国なんてあまり聞かないですしね。
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MRIによる嘘発見技術の早期確立だと思うんですけどね。


色々問題はありますが、重要な証拠になるように研究を
煮詰めた方がいい。
これで事実が明確になるということではなくて、
本人が自分は犯人だと思っているのか、
他に真犯人がいると信じているのかは解りますからね。

DNA鑑定の誤検定率との対比等で、裁判員も裁判官も精神的に負担が軽減され、再審の判断の重要な補強材料にもなると思うんですね。

>彼らはこの思いを受け止める事は出来るのでしょうかね?
この思いを受け止めてやるとは、二度と冤罪を起こさないために
具体的に彼らが何を考え今後どの様に対策をするかに尽きます。
司法関係の人って、こういうことに対して往々にして何もせずに放置したりして、創造性に欠けるんですよね。
まぁ、効果がありそうだから、一応やってみるか・・・というノリがないのは仕方ありませんけどね。
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>彼らはこの思いを受け止める事は出来るのでしょうかね?



彼はまだ無実と断定されたわけではありません。高検による無実である事実が高いという評価に基づき釈放された段階なので軽はずみな言動は出来ませんよ。勿論流れから無実の可能性が極めて高いでしょうけど、無実が決まるまでは刑事司法に重い十字架を突き付けたと世論を煽る行動は慎むべきだと思います。検察の努力で無実と思われた人間が凶悪犯だったというケースもあり、刑事司法に不信感を煽ることも同様です。

またこの事件のようなケースはDNA鑑定が発達した現代では起こりうる可能性が低いので、裁判員制度への影響は無いと思います。

そして彼が無実だと司法ではっきり証明された時に、なぜこのような冤罪が起きたのかという原因を追究すべきです。服役17年間は非常に長い期間ですが事件が立証された当時の司法基準では無期懲役という判決が出たことも重視しなければなりません。つまり科学捜査が発展した現在では、他にも冤罪で服役している可能性がある囚人もいて当然です。彼が無実となれば、DNA鑑定が成熟していない1990年初頭以前の囚人で無実を主張しているケースにすべて再鑑定が必要だと思います。そこには多大な時間と労力が必要になりますが、それを理由に消極的な姿勢を刑事司法が採れば、その時には大々的に批判してもらいたいと思います。
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裁判員制度がいよいよ始まるこの時期に、大変に重要な問題を突き付けた格好になってしまいましたね。



これはあくまで私の個人的な考えですが、これからの捜査では本人の自白や供述をあまり参考としない、もっと科学的な証拠を重視するようにするべきであると考えます。
日本の捜査現場では特に本人の自供を重視する傾向があります。
それがためか自白の強要による冤罪は後を絶ちません。
もっとはっきり言わせてもらえば、被告人の自白など必要のない裁判の成立が望ましいと思っております。

まあ、裁判官とて人間です。人間は不完全な生き物であり、完璧に正しい判断が必ず出来るということはありません。
間違っていたでは済まされない、とは言いますが、間違いを完全に無くすことはできません。
間違いを減らす努力を怠ってはいけませんが、裁判員制度で間違いがあってはならないという過度のプレッシャーは必要無いと考えます。
人間だから過ちもあるのです。
裁判員制度は過ちの発生する可能性を少なくする制度であると考えるべきです。

菅家さんの件は本当に気の毒であると思います。
失われた時はもう還ってきません。失った時はもはや金品に換えるしかないのです。
しかし、補償はしっかり行われるとしても、当時の裁判官や検察や警察関係者に責任を求めるのは困難です。というか、責任を求めるべきではないと思います。

例えば、あなたが裁判員に選ばれて、被告を死刑にし、刑が執行されたとします。刑の執行後、真犯人が現れたとしたら、正気でいられるでしょうか?
責任を認めれば精神が崩壊してしまいかねません。
精神の平衡を保つには、裁判の手続きや証拠の認定には何ら問題が無かったと主張するしかありません。

現に今回の足利事件でも、「捜査は妥当だった」と主張している元県警幹部がいます。当時の関係者が菅谷さんの思いを受け止めるのは、あまりにも重すぎます。

しかし、この様な過ちを繰り返さないよう最善を尽くしていくことこそが、彼の無念に応える道ではないかと私は思います。
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人が人を裁く事の難しさを感じます。


限られた証拠の中では、
法の番人である最高裁でも判断を誤るという
実例です。
誰も見ていない犯行現場を推定し
推定無罪か推定有罪か・・・
現行犯以外なら
なんでも無罪でイイという訳でも行かないでしょうし
冤罪を無くすことは無理なのでしょうかねえ・・・
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