電子書籍の厳選無料作品が豊富!

中二です。
学校の教科書に、
「アメリカは、中国との貿易船や
捕鯨船の中継地として、
日本を開国させようと計画しました。」
と言う文があったのですが。

「中国との貿易船」とは、どういう意味でしょうか?
貿易船をどうしたのでしょうか?

そして、捕鯨とありますが、
どのあたりの海で捕鯨をしていたのでしょうか?

A 回答 (4件)

当時のアメリカの灯油はクジラの油でした。


初期の漁場は大西洋でしたが、ミナミセミクジラを狙って南太平洋に進出します。

その後、太平洋全体に漁場を広げます。
アメリカの捕鯨船は最盛期には700隻を超えます。
(世界中の捕鯨船の9割以上。)

ペリー来航した頃にはホッキョククジラやセミクジラを狙って
オホーツク海からベーリング海へ漁場は移っていました。

ロシアを押さえ込みオホーツクの漁場を確保する狙いがあり、
それに伴って日本に圧力をかけてきたとも考えられます。

また、中国貿易と中国進出に対しては諸外国に遅れを取っており、
この両方の面から日本での立場を確保しておきたかった物と推測されます。

日本が植民地にならなかったのは、背後にはアメリカがおり、
諸外国はアメリカの中国への進出を阻止する事の方が急務と認識していたからかもしれません。

中国貿易の失敗は国益を損ねるだけでなく、世界から取り残される恐れもありました。

1859年にはペンシルバニアで石油が採掘され、
捕鯨自体が大きく衰退します。

日本人は自分が一番優秀な人間だと思っているので、
のど元に軍艦を突入させるのが良いだろう。
がペリーの戦法です。

狙い通りに、
後に日本国内は佐幕、勤皇、開国、攘夷と大いに乱れます。
    • good
    • 0

アメリカから中国にわたる途中に日本があります。


ここで補給できるならアメリカで積み込む水と石炭(燃料)を減らせます。
その分積荷を多くできます。

捕鯨船についてもアメリカに帰っていちいち補給するより、日本で補給するほうが近い場合があります。

捕鯨海域は太平洋全域ですが、小笠原諸島近海もその一部です。
    • good
    • 0

下の方が書かれているとおりだと思います。


付け加えれば、当時の船は蒸気帆船がメインです。風だけで走るのは大変なので、効率よく行き先に行き着くためには蒸気も焚きました。ですから、石炭・マキの補給基地が欲しかったのです。

捕鯨はその頃盛んに行われていました。鯨は南氷洋まで行かなくても、日本近海にたくさんいました。アメリカ人は鯨をとって皮をはぎ、皮の下の脂肪だけをとってろうそくなどの原料にしていました。
肉、骨、脂肪のしぼりかすまであますところなく利用した日本とは大違いで、幕末の頃、皮をはがれて腐乱した鯨が流れ着くのを、日本人は気味悪く思っていたそうです。
    • good
    • 0

当時の蒸気船では、補給なしで太平洋を渡りきるのは大変でした。



中国との貿易を成立させるため、また捕鯨船が安全に航海できるためには太平洋の中国よりにある大きな島国日本に有力な寄港地を持つことがのぞまれたのでしょう。
(太平洋のアメリカよりに存在するハワイも同様でしょうね。)
燃料、水、物資の補給がなくては船は航海できませんし、天気などの状態では安全な港に退避しないと危険でもあります。
そのための港が必要であったと言えるでしょう。

捕鯨船は太平洋を広く航海していたようです。小笠原諸島に住むアメリカ系日本人は漂着した捕鯨船乗組員の子孫だともいいますし、日本近海で捕鯨をしていました。日本の古式捕鯨法が衰退したのは、日本近海で大々的に捕鯨をしていた(300隻)アメリカ捕鯨船によって資源が急減したことに加えて、ノルウエー式の捕鯨法が伝来したからだともいいます。
    • good
    • 0

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!