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 ある問い語りで得た名言――蚕が繭の中にすっぽりと入っ〔た〕平和な状態――が生まれたのは、恐らくロマン主義の影響ではないかと僕は思っています。まず、僕の理解している史的なあらましを書くと、こんな感じです。

 ――個人という概念は、近代になって発生した。さきがけとなるのは、ジャン・ジャック・ルソーの『社会契約説』で、その主張は「主権があるのは財産を有するなどの特別の資格を持つ国民ではなく、人民(国籍を有するもの全て)にである」というものだった。個人としての内なる世界の誕生、そして個人的感情の尊重と想像性の開放、これがロマン主義の影響だと思います。この思想は18世紀後期からずっと現代まで、途切れることなく続いている――

 これに間違いがあれば、ご指摘ください。また、この影響下にある(であろうと思われる)作家について、著名な作家としては村上春樹についての質問が最近あがったと思います。くだんの言表にある「繭」は、そこでは「卵」であり、僕の表現では「箱」であり、いずれにせよそれは、ひとつの小さな世界であろうと思うのですが、さて、ここからが質問です。

 (1)このような「観念の共同」は忌まわしきものなのでしょうか。
 (2)忌まわしいならば、この共同幻想から独立するためにどうすれば良いのでしょうか。
 (3)この幻想とともに暮らすならば、どう生きれば良いのでしょうか。

A 回答 (26件中1~10件)

 こんにちは。



 核の傘ではありませんが 人びとが共同で天を仰いだりその代理にシャッポを戴いたり同一(もしくは統一)民族という外套を着たりするようになるところの《繭に蚕》なる情況は――つまり《観念の社会心理的なもしくは情感的な共同性》は―― 国家の成立と軌を一にしていると考えます。
 世の中が スサノヲ市民たちだけによって成り立つのではなく そのような地べたの平屋建ての上に アマテラス公民という種族が第二階を築き 社会を全体として二階建ての構造にしたところから 始まるのだと。或る日或る時 その山の向こうはよその国であるぞと 上のほうから御触れが出てからというもの 観念の繭が陰に陽に紡がれて行き わたしたちもその中に入って みなが声を合わせ同じうたをうたうようになったのだと。
 ということは――少し飛躍しますが―― ひとりのスサノヲ市民である卵も繭も箱もその外の殻は あたかもすでにアマテラス公民という着物を着ているとも言えるようです。そのように民主制の成らなかったころは いわば負のアマテラス外套を着ていたのかも知れません。発言の力はなくても 社会公共のために(つまり外套を仕立てるために) すでにまかない銭をすすんで供出していたからです。・・・

 というように歴史を見るのですが この見方と提起されている《ロマン主義》とが どういうふうにからむのか まだよく分かりません。そこでいくつか質問です。
 (1) 《個人》という概念
 ★ 個人という概念は、近代になって発生した。
 ☆ たとえば 旧約聖書の時代は 《民族》でまとまっていました。《うちの民の一人が傷つけられたなら 民族全体で報復する》。それが今度はあらたに
 ▲ 神は アブラハムの神 イサクの神 ヤコブの神である。
 ☆ と表現されるようになりました。《民族》の外套が引き裂かれたかのように破れ 神は 個人一人ひとりの主観の内にありと見なされていくのだと思います。
 こういう自己表現の歴史を見てみると もしそれが《個人》の誕生の淵源であるとするならば 《近代》の位置づけは どうなるか。

 (2) 同じく古代からの《個人》の問題
 ★ 「主権があるのは財産を有するなどの特別の資格を持つ国民ではなく・・・
 ☆ というときこの《特別の資格を持つ国民》――アマテラス公民?―― これらの人間は すでに《個人》であったと見るのか? 言いかえると もしそう見るとすれば 古代には 一部分の人間たちにはすでに《個人》の概念が成り立っていたとするのか?

 (3) スサノヲ市民は 歴史のかまどである!?
 ★ 個人的感情の尊重と想像性の開放、
 ☆ これは 草の根の人間存在スサノヲの解放・開花と言えると思いますが しかもそうだとすれば これは公民アマテラスの合理性・規範化志向・秩序と管理主義に対する抵抗を伴なっていると見られます。
 果たしてそういう傾向をロマン主義に見てよいでしょうか?

 このような点をよく捉え切れていませんので 補足要求です。どうぞよろしく。
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この回答へのお礼

>果たしてそういう傾向をロマン主義に見てよいでしょうか?

 自分の思想をちゃんと述べよ、ということなんでしょうけれど、参ったな。ご回答、ありがとうございます。(1)については、権力の在り処で区別されるのが一般的だと思います。古典古代の時代は、家長であるとか、神(その神が自然、先祖、英雄のどれでも良いですけど)であるとか、そのような偉大な力に権力が在り、その力によって支配される。それが中世になると、その力は実在するのか、あるいは信じるもの(観念)なのかという論争が生じる。前者はやがて自然科学に引き継がれ、後者はシンボルとアナロジーの世界を経て哲学へと引き継がれた。
 近代とは、その力に纏わる支配を成り立たせているのが、実は個々人なのではないかと疑われ始めたところから、始まったのだと思います。

 ですから、(2)でいう個人の概念は、近代以前には成立しない。英雄はずっと昔から存在しましたが、古代の英雄は神であり、中世の英雄にはふたつの身体があった。そのひとつの身体が要求する支配については、その抗いのための戦闘を(日本では明治末期くらいに)もって、完了したと思います。

 ロマン主義は、その後の世界を彩る思想としてここでは扱っていますが、(2)で言われる抵抗が無くなったにもかかわらず、どこか割り切れないところ、何かすっきりしない気持ち、口を開けた虚無のようなものがあり、そういうのが引き金となって、大きな戦争を再び起こし、あるいは村上春樹は小説を書き続ける――こういう現代までの漠然とした流れを、うまくまとめられないままに「ロマン主義」という言葉でくくっているわけです。

 ですからブラジュロンヌさん、僕たちはいったい、どうしたら良いのでしょうか――というのが、ここでの質問なのです。

お礼日時:2009/07/15 09:55

答えになっているかどうかは判りませんが、とりあえず。

。。

「ある概念が共有される」というとき、

(a)「概念A」を構成しうる「複数の」人々が存在するとし、「概念A」を共有する「共同体A」が存在するとする。
(b)「概念B」を構成しうる「複数の」人々が存在するとし、「概念B」を共有する「共同体B」が存在するとする。
(c)「概念C」を構成しうる「複数の」人々が存在するとし、「概念C」を共有する「共同体C」が存在するとする。
...
といった無数のパターンを想定可能です。

これら「概念X」と「共同体X」とは、どちらが先に「ある」と考えるのか?

「個」が先(すなわち概念形成が先)と考えるのか?
「全体」が先(すなわち共同体構成が先)と考えるのか?

おそらく、すでに「個」を中心とした視点に立って述べられておられるので、「共同幻想」「独立する」という言葉が生じているのではないでしょうか?

たとえば、「共同体A」を「人類全体」とし、「概念A」を「意識・記憶」とします。「意識・記憶」の存在を否定可能、ないし「構成概念であって、実在性は不問なのだ」などと言われたら、「共同体A」の構成員は、皆「違う!それは素朴に形成される概念だ」と言い張ることでしょう。
>>>構成概念と素朴概念(アンドロイドはしあわせか scribbling Midwest's ideas and thoughts)
http://midw.cocolog-nifty.com/blog/2005/09/post_ …
<<<

たとえば「概念B(たとえば蚕繭箱概念)」と「概念C」とが(一見)対立しあう概念同士ゆえに、「共同体B」と「共同体C」の構成員同士が争いあっているとします。また「共同体B」と「共同体C」の構成員は皆、「概念A(たとえば意識・記憶概念)」を共有しあっているとします。すなわち「共同体B」と「共同体C」は「共同体A(人類全体)」に含まれているとします。

さて、どこの視点に立てば「どの概念(観念)・共同体」から「独立可能」だと思えるでしょうか?
あるいは、どこの視点に立てば「どの概念(観念)・共同体」が「忌まわしい」と思えるでしょうか?
さらに、どこの視点に立てば「どの概念(観念)・共同体」と「ともに暮らしうる」と思えるでしょうか?

ご質問の答えは、もしかしたら、その辺りに隠されているのかも知れません。

一方で、これら「共同体概念」すら「幻想的な概念」(相互が相互を相互に構成し・構成される概念同士)として捕らえることもできるでしょうし、「ひとつのもの」の「捉え方(認識)が異なっているだけ」だとという考え方もできると思われます。

たとえば
>>>「共同体主義」⇒「個人主義」⇒「決断主義」(⇒「共同体主義」)
http://tenkyoin2.hp.infoseek.co.jp/cid.html
<<<
など。。。
「ロマン主義について」の回答画像2
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この回答へのお礼

 ご回答ありがとうございます。
 おおむね、概念の捉え方についてのおはなしでしたね。そして認識は、対象がどのように構成されているか、あるいはその制度によって影響を受ける。したがって、問題は現象(対象がどのように見えるか)にあるのではなく、認識にある。という感じでしょうか。

 二つほど教えて欲しいことがあります。

 ひとつは、共同幻想(概念の共有)というものに実体はあるのかということ。言葉とかの記号については、以前にもお話したことがありました。発話、すなわち行動こそが実体であり、行動を伴わない概念には実体がない――そういう内容だったと思いますが、では、実体のないものには共同幻想は生まれないのかということ。そしてもうひとつは、「おそらく、すでに『個』を中心とした視点に立って述べられておられるので」とお書きのところ(おっしゃるように、僕はその前提に立って書いている)ですが、この時代に「個」を前提とした視点に立たない生き方は、果たしてできるものでしょうか。
 できるとしたら、どのようにすれば良いか。

 これが、質問です。じねんさんは、どうやって生きますか?

お礼日時:2009/07/15 09:56

ロマン主義という語は、ダダイスムと並んで、数少ない日本語訳を持たない芸術・思想用語ですよね。


それだけに、多義性、多相性、多層性、多面性等々を帯びている、つまり定義しようとすればするほど、定義し得たという充実感よりも、実は何も定義し得ていないのではないかと懐疑せざるを得ない性質を帯びているのではないでしょうか。

>個人という概念は、近代になって発生した。さきがけとなるのは、ジャン・ジャック・ルソーの『社会契約説』で、その主張は「主権があるのは財産を有するなどの特別の資格を持つ国民ではなく、人民(国籍を有するもの全て)にである」というものだった。

もし、ロマン主義という多面体の「個人」という側面に注目するなら、リソーはその「さきがけ」というよりも、当時すでに十分に成熟していた「個人」という観念に注目し、これを市民革命のエネルギーに結びつけることに貢献したと位置づけられるのではないでしょうか。

もちろん、「個人という概念」の「さきがけ」を本気でとことん突き止めようとすればキリのない話になりますが、せめてブルジョワの擡頭、産業革命による経済構造の変化、宗教改革、活版印刷あたりまで遡る必要はあるのではないでしょうか。
その上で、私としては、「個人」意識(観念)の誕生、普及、擡頭に最も重要な契機となったのは、実は活版印刷の発明という大事件ではなかったかと申し上げたいところです。

なぜなら、どう考えても、「個人」が人間の反省(内省)なくしては生まれない意識(観念)だとすれば、印刷術のお陰で印刷物が大量に社会に出回り、人間が文字を黙読することで情報を得たり、思索したりするようになったことが、結果的に人々に「個人」としての筆者(著者)の存在に気付かせ、このことが同時に著者と向き合う「個人」という《自己》の発見を促し、こうして徐々に「個人」という《不思議な存在》に対する興味・関心を掻き立てていったのではないか、と推察せざるを得ないからです。

>(1)このような「観念の共同」は忌まわしきものなのでしょうか。

確かに、大雑把には歴史的必然(or偶然)によって、人間が「このような「観念の共同」」を共有するようになったとは言えても、それをもっぱら「ロマン主義」に帰すことができるかとなると、私には再検討の余地があるような気がしてなりません。

>(2)忌まわしいならば、この共同幻想から独立するためにどうすれば良いのでしょうか。

19世紀において、ブルジョワたちが「個人」という容器があるかのように信じ、そこにめいめいの身の丈に応じた「個人」という観念を棲まわせ、慎ましやかに生きることこそ健全な市民生活だと信じて疑わない時代・社会にあって、一人これを「忌まわしい」自己欺瞞と唾棄した詩人に、自分こそ真正のロマン主義者だと自認してやまなかったボードレールがおります。
『悪の華』の「読者に」、「我ト我ガ身ヲ罰スル者」、「アベルとカイン」等々の詩篇をご参照下さい。
なお、「この共同幻想から独立するため」には、何はさておき、まずは自分の脳裏に棲息している「個人」という観念の恣意性、虚妄性、偶然性を自覚することが大前提だと思います。

>(3)この幻想とともに暮らすならば、どう生きれば良いのでしょうか。

申し上げるまでもなく、(2)と正反対の生き方をするだけで十分です。

この回答への補足

 観念の恣意性、虚妄性、偶然性――巾の広い表現ゆえ、そのまま記述します――は、そもそも幻想なのだと自覚しつつ、けれどもそれらとともに暮らしてゆくためには、それらに目をつぶって盲目のうちに生きるしか道はないのでしょうか。(3)への回答を読みますと、そのように読めますが、いちおう確認しておきたいと思います。

補足日時:2009/07/15 13:22
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この回答へのお礼

>実は活版印刷の発明という大事件ではなかったかと申し上げたいところです。

 これは、思いもつかなかった内容です。ご回答、ありがとうございます。

 写本時代はとても長く、現在、初期近代のテクストに見る印刷物は、当時、滅多なことでは一般人は目にすることができませんでした。自分の経験からしても、90年代の半ばくらいまでは年に数回、図書カードを作り文献の複写をするために、小旅行して数日は異国に滞在しなければならないという習慣が常態化していました。それが今では、pdfとEメールで可能になりました。

 手書き原稿が普通だった時代に学生時代を過ごし、投稿に際しては戦車のように無愛想なワープロを前に、ちょっと清ました顔をして打ったりし、校正刷りの間違いには修正した文章を短冊のように切って貼り付けたり、まるで図画工作のような作業を繰り返しつつ原稿を作成したことを思い返すと、今では書斎がちょっとした印刷工場のような感じです。 
 そのような経験から、文章ではなく、むしろ図像を考えたとき、印刷技術の普及は大きな影響を及ぼしただろうなと思うに至りました。さらに、幾何(絵画)や音楽など自由七科の影響でしょうか。媒体が増え、表現が精緻を極めるようになると、かつての寓意や寓話は、より一層のリアリティを生み、分野を横断して相互に影響を与え合うようになる。
 ルネサンスはブルーノの死をもって終わると言われますが、その後に続く長くて暗い宗教戦争の時代は、無限の宇宙観と同時に、それまでの社会を終わらせるものだったろうと思います。

お礼日時:2009/07/15 13:01

 No.1です。


 補足要求にていねいに答えていただきありがとうございました。
 それにしても きみたちの世界観をおのおの全部吐き出し給えといった質問ですね。世界選手権でも始めるのですか。ツール・ド・OKウェーヴ。

 (1) まづ説明していただいたこの近代以降のロマン主義の流れというものに なるほどとうなづいた後 例によって覆いかぶせる議論です。なお《個人》の誕生にこだわりたい。個人の概念の誕生とはちがって わたしがわたしであることの気づき その一点のみです。

 (1-1) まえおきとして ご説明のわたしの言葉での復唱です。
 世界における力とそのはたらきに気づいて 自然科学と哲学とに分かれて探究が始まったという現代のひとつの出発点。
 《モノはコトである》というときのいわゆる物質の探究も 《もの自体》という究極の精神の現象学も 広く言えば経験科学ですね。量子力学がどういう具合いなのかそれについては丸投げしますが 神話のごとく英雄や偉人たちにカリスマを見れば どこか人びとはこの世界を超えた力のはたらきをも思い描きたいというのでしょうか。量子論も英雄論も どこか《ものの怪》の様相をも帯びていると見てよいのでしょうか?
 これら経験科学のもとにしかもそれらを自由自在にと言うほどに突き抜けて 想像力という力のほうを思いっきり伸ばすのは 文学ですね。
 という全般の景色としての位置関係をたしかめておいて 覆いかぶせねばならないと思うのは 《個人》の誕生のことです。
 (1-2) 単純に行きます。ひとが《ひとは朽ちる》と分かり《自分も死ぬようだ》と自覚したとき このときから《個人》は始まりませんか? 古代ではこの個人たちが 部族だとか民族やらの集団の中に埋没していたとしてもです。
 世界――特に自然環界――に対しては ひとは 死を知ったあとにはもはやそこに《ヨリ(寄り・憑り)》かかることも少なくなり その世界に言わば相対的な存在であることの最大限に主体的に《イリ(入り)》した。憑きものやまじないを繰り返して病いの癒えるのを祈るのではなく たとえば薬草を求めるようになった。
 この点をくどいようですが考え合わせないと 近代人は 社会の行動関係も自由になったし薬はいくらでも自由に得られ寿命も永遠にまで伸びるようになったから 《個人》が成ったと言うのは 浮かれ過ぎだと見られます。
 (1-3) なぜなら 浮かれ過ぎゆえに《幻想の共同》を求めるという傾向も反動として起こると指摘することができるのではないでしょうか?
 個人が誕生したというのではなく わざわざ《〈個人〉の概念》が誕生したというかたちで捉えるようになったとも見られます。

 (2) 処方箋はわたしの側からは すでにつねに
 ○ インタムライスム です。
 ○ つまり 二階建て構造の社会を 一階のスサノヲ市民社会(村ムラ)を基礎として その連合のもとにアマテラス第二階を主導する社会体制 です。
 ○ 国家以前の時代→国家の時代→国家の揚棄の時代
 ☆ これにつきましては みなさんとの対話・討議を――理論的な研究とともに――経ていくことになると考えます。

 (3) 今回ぜひ投稿してみたいと思ったことは (1)の最後に持った問いについてです。個人の《概念》が誕生したと見る視点です。
 (3-1) 個人の自覚が生まれたと言えば分かりますが その概念が生まれたというのは よく分かりません。個人という意識 これは実際なのでしょうか? 実際に事実であっても解せません。
 (3-2) 市民スサノヲの反逆としての革命の断頭台の物語にまでつながるルウソなのでしょうが 必ずしもそうではないつつましいまでの基礎としてのルウソを捉えておきたい思いです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 自然と社会との対立する二項でそのまま考えるなら その《二重の人間》とは ルウソにとって 《自然人と社会人》との二重である。もっと単純にいえば 慣習や法律やらの社会制度が成る以前と以後 あるいは自己自身のくせやら習性やらがかたちを成す以前と以後の二重。つまりは人為的な行為や事柄がつきまとう以前と以後とをあたかも含む状態である。
 この前と後とは かならずしも時間的でなくともよい。同一時点で 考え方として 人為性や社会性の以前と以後との混在である。

 哲学者たちが 《自我》をいうのは とうぜんこれを《理性》といってもいいように 人間の《自然本性》にそなわる能力またはその主体をいうのであるから それは 《自然人》を 社会の中にある人間として人為的な知解によって とらえたものである。
 このとき これらは一つの哲学的な概念であることに間違いないのだが 《自我》とか《理性》という場合には すでにこの哲学的な概念の次元とか世界とかに閉じこもりがちである。
 《社会人》というときには まだ対立する概念として《自然人》が控えており 伴なっているはづなのにだ。

 近代人が 理論上――ルウソやスミスの線で―― 自然人ないし同感人ということばで自己認識し しかも認識だけではなくすでに自己到来して 事実そのように生活上の経験行為をおこなっているというとき 〔そこにデカルトの《我れ》ないし合理思考をおのれの内に包みつつ伴なっても構わないと言えるように〕 その生活基礎をそのまま生活基礎としうる。
 つまり 経済活動を経済活動として 相互に独立した人間が 自然にそして同感しあって 自由で合理必然的な関係をともなって いとなみはじめた。このような独立人が――または 家も土地も何もかもを奪われ《自由》になった人が―― それまでにも築かれていた社会の分業形態を まずは受けとめ 自分たちの生活態度で新たに発展的に継承していく。それぞれの職業を持ち分業の中の位置をかれが担うというそのことは すでに協業を約束している。分業を承認していくかぎりで 自然人がこれに同意し 分業者である互いを 信頼したし信用しあったということである。

 ひとに信用をすぐれて与えうる人びとが同感しあえるそのものは 具体的に徳性である。一般的な徳性は 勤勉――主観真実の限りで約束などおのれの務めを誠実に務めることとその継続――である。

 こうして 再出発した近代人の分業関係のなかで 人びとの労働(経済行為)に二重性や格差が生じてきているという訴えは また別の段階での問題である。そう見うる。信用がもっぱら経済的な内容を持つ用語になって行った段階である。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 (3-3) このような《自然(S)-社会文化(A)》連関構造を内面に持つ《同感人》が 《個人》の基礎だと考えます。
 《ロマン主義》の中にこの基本類型があるのかどうか 残念ながら申し訳ないながらわたしにはよく分かりません。以上の考察がひとつの判断基準になるとは思うのですが?

この回答への補足

 過去の問題は検索したのですが、そのとき意外に思ったのは「ロマン主義」というものが、とても多くの人々によってちゃんと共有されているところでした。すでに説明不要という感じ。だったら、訊いてみようじゃないかと思ったんです。
 考えてもみてください。個人が互いの世界観を認め合い、互いにその前提に立って議論をする――もしもそうなのだとしたら、世の中にはアマテラシストしか居ないんですよ。ブラジュロンヌさん、こんな質問を出して「わかりきったこと」をあれこれ話している僕たちは、どうやらオールド・ファッションなんですね。あるいは、天然記念物か。いずれにせよ、保護されるべき生き物ですよ。

>きみたちの世界観をおのおの全部吐き出し給え

 というのはまさにそうで、選挙に負けた当の自民党員に、その本音のところを伺う――というような、ちょっとリポーター気取りの内容になっています。というのも、揚棄どころか、新しい国家の誕生を垣間見るかのようで、これはどうもインタムライスムとは少し気色が違いそうに見えませんか?

>《概念》が誕生した

 そうですね。尤もな疑問であり、No.2にその点から回答を頂いていますが、意識や自覚そういったものではないと思います。個人はずっと現象として捉えられてきたし、「公」と「個」という二項対立に慣れた時代に生きていると、それがない社会というのはどうも実感が湧かない。「概念」などというあいまい表現ではなく、それとは無関係に現に「個人」は存在しているじゃないか。まったく、ご尤もです。

 それでは、表現を自己とか自分にしましょうか――という言葉の問題じゃないですよね?
 おっしゃる自然人のほうは、現象です。生後一年ほどすれば、自我の芽生えがある。けれども社会人のほうは、そうじゃない。社会人のほかにも法律が規定する人、医療が規定する人(先日、死の瞬間が変わりましたが)などなど、概念としての人に与えられた「個人」というラベルです。
 そしてこの個人は、制度によって生まれる。だから、社会制度が変われば性質が変わる。個人が社会をどう受け止めるかではなく、制度が個人をどう受け止めるか。法制度は、個人がその弁護士をどう思うかではなく、法の規定する社会に(弁護士を用いて)個人を矯正するし、医療制度は、個人がその医者をどう思うかではなく、医療の規定する社会に(医者を用いて)個人を矯正するのです。
 弁護士や医者は英雄ではなく、徳性を持った特別な人でもない。
 彼らの仕事である判決や治療は、本来のかたち、正しいかたち、元からあるかたち、に戻すことを意味するのではなく、社会に適合するかたちに仕上げることにあります。
 このラベルが貼られた「個人」は、自然人とは独立してない。自然人に溶け込み、歩調を合わせ、相互に係わり合っている。医療という社会制度では、自然人としての死と、社会人としての死は同じであるし、法律が規定する基本的人権は、自然人としての生まれと同時に始まる。
 
 ところで、国家という制度を揚棄するように、概念としての個人を成り立たせる社会制度をも揚棄して、個人をもとの現象に返すという意見はあるだろうと思っています。けれども、ルソーの宣言を社会がある程度、成熟するまでの過程として見るほどに、現代の制度に対する認識は高まったものではないと思います。制度は改訂されることがあっても、廃止されることがない。
 制度を捨てるということは、個人を捨てることでもあるからだろうと思います。
 ロマン主義が引き摺っているのは、もはや現象としての個人と区別がつかなくなりつつある、概念としての個人であって、その個人は概念であるゆえに、如何様にも生まれ変わるという怪しい色合いを持っているのでしょう。擬似的な生命をもうひとつ、内に持っているようなものです。

 こんな感じですが、どうでしょうか。

補足日時:2009/07/15 16:04
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この回答へのお礼

 ご回答、ありがとうございます。
 ざっと上に書いてみましたが、どうでしょうねぇ。インタムライスムには、まだ届かない気がするのですが。ずいぶん、時間が経ったような気がするのですけどねぇ。

お礼日時:2009/07/15 16:06

No.3です。



ご丁寧なお礼をいただき、恐縮いたしております。

>観念の恣意性、虚妄性、偶然性――巾の広い表現ゆえ、そのまま記述します――は、そもそも幻想なのだと自覚しつつ、けれどもそれらとともに暮らしてゆくためには、それらに目をつぶって盲目のうちに生きるしか道はないのでしょうか。

こういう問に対しては、ニーチェの「神は死んだ」の延長線上に自分自身によって自身が最終的にが崇拝する偶像(観念)を措定するしかないのではないか、としか私には答えられません。
これ以外に、真の意味での自分自身の人生があるとは考えられませんから。

具体的には、小林秀雄がどこかで書いていました(初期評論中?)が、「誑かされることが生きることではない、生きることが誑かされることなのだ」という生き方もその一典型例に該当すると思います。
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この回答へのお礼

 ご回答、ありがとうございます。
 読ませて頂いた感想は、正直な方ですね、ということです。あるいは「とっておき」があるのかなと思ったりもしました。そして、ともしびのようなものは――と、願いました。
 たぶらかす――確か、こう読むんでしたね?

お礼日時:2009/07/15 18:53

 No.1&4です。


 ri_rong さん 百年に一度かどうか どうでしょうねぇ。五輪のごとく四年に一度ほどのただしずいぶん久しぶりに開かれる哲学オリンピックなる一大行事であるか。それともルネサンス以来かあるいは六七二年(壬申)の乱以来でしょうか 国家が問われたり人間の内面構造が問われたりの国を挙げての催しになりましょうか。どうでしょうか。まぁ へへっとつけ加えておきますが。

 ★☆ 個人の《概念》がとっくに生まれており いまや大手を振って歩いている。
 ☆ 青春を謳歌したあと 脂がのってきているのでしょうか。それともすでに腐りかけては どこからか栄養補給が施されてじゅうぶんに生き延びているというべきなのでしょうか。
 そうだったんですか。それなら 村上春樹にもつながります。
 昔は――たとえば大橋巨泉というタレントがいました―― 個人主義ということを 一部ではよく聞きました。けっきょくいわゆる集団主義(この中身もはっきりしませんが)と対立関係にあって 相互に補完するような思潮なのではないかと考えられました。《個人》はいなかったのです。出る杭は打たれるし 寄らば大樹の陰でした。
 ということは 理論上は この《個人》もしくは《わたし》というおのおのがおのおのにとって大事な存在のことを知っていたということです。
 ですから 《概念》としてこの《個人ないしわたし》に究極において対立するのは はっきり言えば天皇(ないし天皇制)だったと思います。アマテラシテですね。
 アマ・・・まで言えば 回りのひとの顔がこわばりました。身内の者でも黙ってしまいます。いい顔をしません。ところがいまでは 《ひとは誰でも 万世一系として今ある》とか《アマテラスとスサノヲとは実の姉と弟である》という文章を表わすことができるところまで来ているようです。隔世の感があると いまわが人生で初めてこの言葉を使っておきます。

 それでもさいわいなことにと言いましょうか まだなおこのアマテラシテに関しましては 禁忌となっているところがあるのではないでしょうか。だとすれば 蚕にとっての繭は 文学作品においても社会制度としてもさまざまに展開される《〈個人〉の概念》のほうではなく(もしくは それでもあるとともに) やはり個人の社会的に特異な現象としてのアマテラシテのほうにあるかも知れない。
 しかもこれは 的をひとつに特定して言っているわけではありません。あくまで国家という社会形態とそこにおける観念をめぐっての生活共同――この現実についての問題です。現にアマテラシテは このいまの《個人という概念》になって来ている部分もあるということを考え合わせるというふうになって来ている。
 でもたぶん 天皇というアマテラシテなる存在は 自然人でもありますから それが禁忌でありつづけるならその限りで いまの国家という社会形態は 人間にとって自然のふつうの居心地のよいかたちなのではないことを表わすでしょう。《概念としての個人》が人びとにとってのアマテラシテ(象徴)として全面的に居心地のよいものだと共同主観されたのなら ひょっとすると ひょっとするかも知れません。もうそれに代わるアマテラシテはないとなり このアマテラシテを要らないという要求も出て来なくなるかも知れません。
 幻想の共同が 幻想だとは思われなくなるという事態。村上春樹が次々と出て来て 次々とどこまでも繭を紡いで行って 人びとの不安を癒し 相対的なのっぺらぼうの世界にも彩りを添える役目を引き受ける。
 もしアマテラシテとしてのローマ法王は屁でもないということでしたら そちらの世界は絶望的かも知れません。蜘蛛のほうで amaguppa さんから
 ▲ 西洋人の自我にとっては、原罪は屁のようなものか、あるいは何か機能するとしても、 / 日本人の自我というのは自然と未分化ですから、わたしの考えでは、西洋の原罪を適用するわけにはいきません。
 ☆ と言われてしまいました。意味の確定に努力が必要ですが 醒めた見方のようです。そう言えばたしかに国家元首としてのアマテラシテは 多くの国で任期を持った短期的な存在のあり方になっています。

 ★ (1)このような「観念の共同」は忌まわしきものなのでしょうか。
 ☆ 歴史必然的なことだと見ますから 《忌まわしきもの》とは思いません。仮りにそうだとしても 見方でどうせよという問題ではないはづです。
 ★ (3)この幻想とともに暮らすならば、どう生きれば良いのでしょうか。
 ☆ 国家という二階建て構造の社会がつづいているのに すでにアマテラシテはなくなっているか あっても問題にされないとすれば それは世界全面幻想だと認識します。どうすることも出来ません。あきらめるしかありません。
 皇室は ついに苗字を持たないまま 千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔の生すまで永続するでしょう。インタムライスムの時代となって 人間の自由・自由な社会生活をと願うのですが その必要はなくなるということのようです。

この回答への補足

 前々から思っていたのですが、一点のみ、疑問があります。

>ですから 《概念》としてこの《個人ないしわたし》に究極において対立するのは はっきり言えば天皇(ないし天皇制)だったと思います。アマテラシテですね。アマ・・・まで言えば 回りのひとの顔がこわばりました。

 「苔」と「生す」に絡むのですが、天皇は象徴です。リーダーではありません。
 この点について、はっきりさせておきたいと思います。明治憲法が廃止されて無くなったものが二つあります。ひとつは軍隊、そしてもうひとつはリーダーです。前者はさかんに議論されますが、後者はあまり議論にならない。むしろ、無くなっていることに気付いていない(ような気がします)。

 先日の選挙でも、総裁や自民党執行部のリーダーシップなどという言葉が報道されましたが、気付いていないなと書いたのは、まるで彼らが、日本にもリーダーがいると信じているような、そんな感じがしたからです。まさか、代表者のことをリーダーと呼んでいるのでしょうか。
 戦争に負けたあと、天皇はその役割から外されました。代わりに、日本ではリーダー不在でも人々が困らないように、官僚制度が発達しました。役務という役割上の階級によって、滞りなく業務が遂行される制度です。そのため、リーダーを要する制度は整えられなかった。

 リーダーというのは、その人の向くほうへ組織を向ける役割の人です。ですから、能力とか指導力なんてものが無いリーダーは、原理的にあり得ないわけです。そうではなく、リーダーが下位組織を指導し、組織のポテンシャルを決定します。リーダーを肯定するには、そういう階級社会が必要なんです。でも、日本にはそういう制度がありません。
 制度の無いなかでは、絶対にリーダーは生まれないものです。

補足日時:2009/07/16 16:34
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この回答へのお礼

 やってくれましたねぇ。いやはや、ともかくご回答ありがとうございます。
 まさに渾身の筆です。放ってくれました。

 しばらく前の映画で、『マトリックス』という題のものが流行りました。ブラジュロンヌさんと、キアヌ・リーブスの組み合わせは前衛的過ぎるかもしれませんが、あの映画に出てくるモーフィアス(痴愚の意)について、実はこっそり対話を続けています。
 かの映画は、現象と独立した概念の世界を描いたものだと思いますが、その世界はねずみ色に荒廃し、用意された繭のなかで制度が個人を飼っている映像がありました。モーフィアスは制度の目をかいくぐって、船を操る船長の名前ですが、どうもその船長がブラジュロンヌさんにだぶって見えます。
 実に寓意に満ちた映画で、登場人物の名前はもちろんですが、物語の進行もまた、ここでの対話の行方に関係があるのかもしれません。

 案外、littlekissさんが空を飛ぶかもしれません。がんばれ、ネオ!

お礼日時:2009/07/16 10:47

>>> No.1のお礼欄から


ロマン主義は、その後の世界を彩る思想としてここでは扱っていますが、(2)で言われる抵抗が無くなったにもかかわらず、どこか割り切れないところ、何かすっきりしない気持ち、口を開けた虚無のようなものがあり、そういうのが引き金となって、大きな戦争を再び起こし、あるいは村上春樹は小説を書き続ける――こういう現代までの漠然とした流れを、うまくまとめられないままに「ロマン主義」という言葉でくくっているわけです。
<<<

>>>No.2のお礼欄から
実体のないものには共同幻想は生まれないのかということ
(中略)
この時代に「個」を前提とした視点に立たない生き方は、果たしてできるものでしょうか。
 できるとしたら、どのようにすれば良いか。

 これが、質問です。じねんさんは、どうやって生きますか?
<<<

端的に言えば、(いや、「個人的に言えば、かつ、周囲との関係から言えば」)

「生きている【または】生かされている」のどちらか?といった二分法でもって選択して生存しているわけではない!

ですね。

「生きていて【かつ】生かされていて」の両方にて生存していると考えています。

【かつ】といったとき、集合論・論理的にはNo.1の添付図の「概念A」と「概念B」が交わった狭い範囲のごとく誤解するかも知れませんが、そうではなく、強いて言うなら顔マークの書いてあるところの「どこでも」になります。かといって、「実体のないもの」ではなく、「実体のあるもの」の中を移動しつつ、移動されつつ、生存しているといった感覚ですね。

あらゆるものに「反発」するのでもなく、あらゆるものを「迎合」するのでもなく、といったところです。

いや、もっと端的に言えば「しばられずに」でしょうか?

どちらかを無理矢理選択しようとすると「何かすっきりしない気持ち、口を開けた虚無のようなもの」に縛られてしまうように思います。

(幻想的な)共同体が、まさに「幻想的」なのは、「常に変化する境界概念」を共同体が有しているからだと思っています。それは、共同体概念が規定するわけでもなく、個人が規定するわけでもない。両者の相互的な関与で動的に動いている。いわば「境界概念」と「共同体内部」と「外部」とが同時成立的なように、「個」と(微妙に揺れ動き、ぼやけている)「境界概念」と「全体」とが同時成立的なわけです。

私は、私個人でありながら、全体でもある(全体から切り離されては存在し得ない)。。。そんな感覚でしょうか?

。。。と、答えになっていないかもしれませんね(笑)
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この回答へのお礼

>「生きている【または】生かされている」のどちらか?といった二分法でもって選択して生存しているわけではない!

 おお、青年の叫び――ですね。ご回答、ありがとうございます。
 どうやら、あなたもモーフィアスの船に乗る人物のようです。

>いや、もっと端的に言えば「しばられずに」でしょうか?

 No.6のお礼欄に、映画について書きました。どう思われますか。

お礼日時:2009/07/16 10:46

 No.1&4&6です。


 No.6をおぎないます。二点です。

 《ロマン主義》は どうもわたしの感覚では 現代では
 ○ 相対主義および独我論
 ☆ という思潮であるように思うところがあります。
 ○ 相対主義――に関しましては 絶対観として無神論なら無神論をきちんと心得ているなら 大丈夫なのですが そのあとの独我論からの影響でしょうか 何もおかまいなしにまったくメリハリ無しののっぺらぼう史観に立つといった傾向です。
 ○ 独我論――については みづからは送信するという交通を保つけれども 受信は聞き流すというかたちの鎖国政策として捉えています。
 ☆ もしそういう傾向や思潮に焦点を当てているのだとすれば ここで国家の問題を直接に出すのは 議論をむやみに拡張しているきらいがあるように思いました。国家論とは離して ひとつの主題になると思います。
 (それもこれも ロマン主義という用語には まだピンと来るものがないというわたしの情況がわざわいしているようです)。

 ☆☆ (No.6)「観念の共同」は・・・歴史必然的なことだと見ますから 《忌まわしきもの》とは思いません。
 ☆ と述べましたが ひとつに そのような観念の共同が人びとに覆いかぶさってくるというのは 忌まわしきことです。たとえ《和を以って貴しと為す》というように内容が間違いでないものでも 上からつまり目薬を差すわけではないのですから 二階から合唱の指揮を振られてもそれほど気持ちのいいものではありません。(慣れっこになっているとは思います)。
 もうひとつに この共同化されるという観念は もともと《王の徳をあまねく行きわたらせるという感化政策》のもとに出て来たと見ます。つまりやはり二階からのはたらきかけです。一階つまり平屋建ての社会にあっては 徳性はおのづと人びとに伝わります。
 つまりは 或る日或る時どうしても我れは 神のごとくに如何なるものの下にも立つまいと決意した人間がいたわけで かれはそれはそれは人間的になるよう努力します。もうこれ以上は人間的になれないと思って周りを見渡すと 誰もそのような人間性というものに関心がない。
 そこでかれは最初の誓いを保持したまま 人間や社会に《イリ》するのを方向転換して 人びとを《ヨセ(寄せ)》することに専念する。その手段が 《王化の徳・王の徳の感化》であり そのような《観念のあまねわり》(あまねく行きわたらせる)だと見ます。武力は第二の手段だと見ます。
 この観念の繭という核の傘政策は 人間論からすれば 忌まわしき事態です。人間の自由の違反です。――ただし 社会という視点をとれば 《ヨセ》つまり通俗的に言って《依らしむべし 知らしむべからず》の政策は 自然やひとに《ヨリ》つく傾向を持った人びとを導くための短兵急なやり方であって ふつうの歴史知性である《イリ》としても その導き方を時間をかけておこなうはづだと考えれば 五十歩百歩だとも言えます。
 特に 外国が攻めてくるといった非常時には 《ヨセ》の行き方が用いられる場合があります。それでも人殺しはしないという非戦論を採る《イリ》思想の一系譜というのは どうでしょう ありますかね?

 ということで 社会という視点に立てば 人間の自由論からして忌まわしきことでも これをただちに元に戻すということが どうも出来なかったようですということではないでしょうか? 国家は存続しました。観念の共同は 一般にアマテラシテ(象徴であり 権威と言えば分かりやすいでしょうか)のもとに確固たる地盤を築いたのではないでしょうか。
 そこで忘れてならない基本的な歴史事例は のちにアマテラス二階族を形成する人びとに対して かれらが《おれたちに任せてくれ。このくにの人びとを寄せさせてくれ》と拝みに拝んで ふつうのイリ知性たちに話を持ち込んだとき 後者の人間たちは前者の人たちに《くにゆづり》としたということです。根負けしました。一方では《神だなに据えた》のでしょうが 他方では《思う存分好きなように経営能力を発揮したまえ》と言って任せました。
 その後月日は経って いえいえ千五百年経ったのでしょうか 《くにゆづり》した側は――つまり一般スサノヲ市民らは―― 総じておとなしくして来ました。《ゆづった》のですから そうそうは《返せ》とも言えません。そういういきさつで 現在に到っていると見ます。

 その国家の問題とそしてロマン主義の現代版とのふたつの主題は 重なっているはづであるとともに 後者をそれとして主題決めして扱う道もあると考えました。
 その道に従うなら 《蚕にとっての繭》は たしかに《個人という概念》――つまりは 《だれもが互いに相対的な存在であり ひとのことは基本的に言って分からないものだという前提に立って互いに交通する》のっぺらぼうのもやもや史観――が当てはまるように思えます。

 おぎないでした。
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この回答へのお礼

 ご回答ありがとうございます。いつも、ピンと来ることをお書きになりますね。

>それもこれも ロマン主義という用語には まだピンと来るものがないというわたしの情況がわざわいしているようです。

 ふつうはピンと来ないものだと思うんです。amaguappaさんは、ときどき良い事を言うと思いますが、先にお書きになった「日本人の自我というのは自然と未分化ですから、わたしの考えでは、西洋の原罪を適用するわけにはいきません」というのは、まさにその通りだと僕も思います。

 それを自分の意見として書くならば、まず、地理的なものからです。
 核爆弾に限らず、黒船にせよ、元寇にせよ、日本を大きく揺さぶるものは常に箱の外からやってきたわけです。まわりを海に囲まれた日本は、箱の内側から何かを変えようとした経験がない。いつも、選んではいないのです。
 大陸はそうじゃない。大陸には逃げ場がない。外の世界なんてどこにも無いということが、細胞レベルにまで染み込んでいると思うんですね。だから、原罪は認めざるを得ないのです。西洋的なロマン主義は、箱の内を描く世界です。けれど、外があると思っている世界の住人と、外はないと思っている住人では、内に対する心構えが違います。内の世界なんて言ったって、日本人には、建前にしか映らないはずなんですよ。そして、日本と同じような成り立ちを持つ国がアメリカです。彼らの場合は、攻め込まれたことがないものだから、箱の仕切りそのものがわからない。
 内なのか、外なのかという感覚がない。

 僕は「ロマン主義」なんて、その根っこは、日本人にわかりっこないと思っているんです。カンダタのように、いつも外から糸が下りてくるのを見上げている。本気で内から考えたことがない。
 違うか? と思うんですね。

お礼日時:2009/07/16 11:26

 No.1&4&6&8です。



 いくつか課題をもらっていますが No.6補足欄に書き込まれた疑問――《リーダー》論――についてとりあえず反応します。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  リーダーというのは、その人の向くほうへ組織を向ける役割の人です。ですから、能力とか指導力なんてものが無いリーダーは、原理的にあり得ないわけです。そうではなく、リーダーが下位組織を指導し、組織のポテンシャルを決定します。リーダーを肯定するには、そういう階級社会が必要なんです。でも、日本にはそういう制度がありません。
 制度の無いなかでは、絶対にリーダーは生まれないものです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 後鳥羽上皇だったか アマテラシテが権威の上に権力を持とうとしましたね。
 それはお愛嬌としても 明治維新には天皇が草莽の志士というスサノヲ市民たちによってさえかつがれました。つまりただちにここからわたしの言いたいことは 
 ○ 全体として指導体制は機能しているのではないか
 ☆ です。誰の誰べえという特定のひとりの指導者という存在じたいはどうであれ とにかく指導力というものも発揮されているでしょうし 権力体制は分散していてたとえタライ回しのようであっても 互いに支え合ってなのかどうか いづれかの形で出来ているのではないでしょうか。
 天皇にしても 神聖にして不可侵でした。戦争中の要所要所では実際には発言をしていたとも聞いています。統帥権が奪われたにしても 阿吽の呼吸と言うのでしょうか 文人と軍人 あるいは陸軍内部においても大本営と現地部隊その他その他および 天皇といったような布陣において それぞれがうまく支え合い暗黙の了解のもとに行動していたとは考えられませんか?

 戦後は 軍隊を棄てたことを前提として あとは 官僚による指導体制であるのかどうか。そしておそらく報道媒体もとうぜんの如く一枚咬んで 指導力を全体としてみればどうにかこうにか締切りいっぱいには発揮してきたのではないでしょうか。
 天皇は 現在ではまちがいなく純粋権威としてのアマテラシテであるはづです。しかも そのことだけに終わるとも見られません。
 わたしが野次馬根性を出して覗こうとしていることは やはりむしろ当然のごとく上手に利用されているのではないかというものです。《民主的で開かれた皇室》 この一種の制度のあり方は その広報活動が為されることをも含めて 二階建て体制の保守に寄与しているでしょうし まぎれもなく指導力の発揮されたすがたであるように見えます。

 どこからか誰によるのか分かりませんが 指導力はありますし 制度も絶妙につくられており機能しているとしか思えません。
 中央官僚は地方自治体に対して ともかくどうにかしてでも言うことを聞かせて来たのだと考えます。制度があり指導体制ができています。いました。
 集団指導体制という言い方は まちがいでしょうね。
 ★ リーダー不在
 ☆ という名の・あるいはそういう見てくれをしたしかも指導体制なのではないかと憶測します。それは いぢわるく見れば 要するに自分たちの――めづらしく流出入の自由な社会階層のあいだで流動的な――お二階という楽園の保守 この目的のためには一たん緩急あれば互いに結束しておのれを無にして指導し合うのではないですか。
 それで間に合わなければ スサノヲ階からよさそうな人材を釣りあげて来て使うでしょう。そういう動きには敏感だし長けているのでしょう。――もうその手は通用しないようですが。

 そのほかの課題は まだです。
 ところで Morpheus がなぜ
 ★ 痴愚の意
 ☆ になるのか不思議です。《かたち》が原義のようですが?
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この回答へのお礼

 面白いなぁ。打てば響くとはこのことですね。

 明治までの天皇は、間違いなきリーダーだったと思うんですね。錦旗に依らずとも、天皇の向く方向が日本の進路だった。それが現在でもそうだと仰る?

>天皇は 現在ではまちがいなく純粋権威としてのアマテラシテであるはづです

 本当でしょうか。だとしたら、胸を撫で下ろせる気がします。
 自分で答えるのもなんですけど、(2)の回答として、ひとつはリーダーを手に入れる――というふうに思っていたからです。そのリーダーは、戦乱の世界へと誘うかもしれません。けれど、相手が見えるというのは、ひとつの独立の形態だろうと思いました。

===============================
 ところで Morpheus がなぜ
 ★ 痴愚の意
 ☆ になるのか不思議です。《かたち》が原義のようですが?
===============================

 ああ、これはエラスムスが『痴愚神礼賛』の序文に、主人公モリア(Moria)の名前をトーマス・モア(More)から思い付いたと書いているんですが、モアはこの後に『ユートピア』を仕上げますよね。人間本来のかたちを取り戻す役柄だから、モーフィアスを痴愚神だと呼んだのです。

お礼日時:2009/07/16 19:14

 No.1&4&6&8&9です。



 ★ (No.6お礼欄)『マトリックス』・・・実に寓意に満ちた映画で、登場人物の名前はもちろんですが、物語の進行もまた、ここでの対話の行方に関係があるのかもしれません。
 ☆ 何やらこの寓喩が踊り出すかのようですが とにかくまづ映画の筋を追いました。それは
 ▲ NeMe: The Matrix: Morpheus in Exile by Joanne Morra and Marquard Smith
 http://www.neme.org/main/340/the-matrix-morpheus …
 ☆ をふと読み出してみて 途中まで来て これは全部を読まない前にでもひとことお伝えすることがあると考えました。

 たぶん次の文章の内容は 映画の筋と――もしくはモーフィアスが唱えているような世界の捉え方と――どこか違っているのだと考えます。ふるさともしくはシオンの位置づけで違っているように思います。その点をまづ先に諮っておくとよいと考えた結果です。
 ◆ (アウグスティヌス:三位一体論) ~~~~~~~~~~~~
 さて 自分自身によって 神を観想し神に密接に結合されるほど清められると思っている人がいる。そのような人を汚すのは とりわけ〔* 人間の精神を あたかも 神そのものと思いこみ 理性による経験思考を絶対の力とするような〕高ぶりそのものである。
 ・・・
 しかし 不遜な人にとって また このゆえに木(* =十字架)の船に乗るのを恥じる人にとって 遠くから海を越えて存在する故国を〔* 理性による推論によって〕望み見ることが 何の役に立つであろうか。
 逆に あの不遜な人がそれで運ばれるのを軽蔑する木の船に乗って(* =つまりは 信仰によって)祖国に行く謙遜な人にとっては このように遠くから祖国を見ないことがどうして不都合であろうか。
 (第4巻第15章 中沢宣夫訳)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ たしかに《痴愚神礼讃》の様相を帯びています。
 言いかえると 一人ひとりが小文字のキリストです。
 言いかえると 井戸端会議の歩みです。
 水嵩を増していくことが 《共同幻想からの自由を得たその自由を 実現する近道》だと考えます。そのような人びとは すでにそのみづからとしての卵が割れてしまっています。ひそかに再生が始まっています。
 なぜなら 非思考において無根拠は 絶対だからです。そういう意味で逃げ場がなくなっている人間の顔が少しづつ上を向いて来て歩き始めるのだと見ます。

 経験現実としてのアマテラシテは いわば人工の特異点だと捉えられます。因果関係から自由だというふうに作られた特異点であって 容易に崩れるのではないでしょうか。
 その《作られた》ということのしるし・もしくはその人造特異点であることを蔽い守るものが 《蚕にとっての繭》のことだと考えられます。
 人びとに傘を差し出し雨宿りに軒を提供する《あたたかそうなまぼろし》だと考えますが 千五百年もつづくと ほんとうに何かある。これはじんるいにとっての最大の不思議であると唱える向きもあることでしょう。
 ワ゛ーチュアル・リアリティと相性がよくてシンクロするでしょうか?
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この回答へのお礼

>ワ゛ーチュアル・リアリティと相性がよくてシンクロするでしょうか?

 むしろ、これが現代アメリカ人の考える人間の精神世界だと思います。あるいは、救世主物語。内と外の区別がつかないとは、こういう例だというつもりで挙げています。
 あらすじとしては――恵まれた暮らしにうつつを抜かす現代人の精神世界は、いかに制度に囚われ、縛られていることか。その奴隷の世界から魂を救済し、永遠の楽園へと誘うのが救世主ネオである。

 『ユートピア』じゃないか? と思うわけですよ。
 モーフィアスは、そのかたちを提供する役柄です。言ってみれば、痴愚神であるエラスムス、あるいはモアになるのでしょう。西欧ではすでに、『マトリクス』を中世末期に考えているんです。No.11に良い回答をもらっていますが、「二つの世界を繋いだ途端に、そこには一つの世界しか存在しえなくなる」わけです。つまり、表象(言語)と表象されるものとを、常に同一の状態に置こうとする傾向(中世的な言語感覚)があって、それに対して無警戒なんですね。
 たぶん、実際に映画をご覧になると、なんだかずいぶん薄っぺらい感じがするなぁと思われる。
 
 さて、「繭」はいったい何なのでしょうか。

お礼日時:2009/07/17 09:26

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