プロが教えるわが家の防犯対策術!

私はカント、ハンナアレント、サルトルと哲学書を少し読みましたが

良心こそが大切といったり、結局、技術者が世の中的に力をもったり、関係性こそが大事だとか

いろいろ書いてありましたが、結局、人それぞれ違う事を認める和の発想こそが

もっとも、世の中的に優れている気がするのですがどうでしょうか?

A 回答 (25件中1~10件)

大賛成です。



良心だ、技術革新だと言う視点で物事を分析してしまうと、なにか世界を自分の目的に沿って外部から人間を制御しようと言う意思の存在が前提とされてしまう可能性がある。その究極はユートピアの絵空事だったり、世の中なにが正しくなにが間違っているかを俺たち指導者が決めるんだと言う一党独裁国家の出現を許すことになって、人々を絶望に陥れてしまいかねない。

一方、和の精神に任せるとは、本質的には人間集団が擦った揉んだしながら成り行きに任せていれば良いということで、善し悪しも、一党独裁国家のように前持ったシナリオで決めるものではなく、収まる所に収まって出来上がって来るものだ、という認識がないと理解できない高度な概念なのですね。収まる所に収まって出来上がって来たので、そう簡単に壊れるものではなく、人々も安心して暮らせます。
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この回答へのお礼

私も和という物は高度な考えであると思います

有難うございます

お礼日時:2015/11/15 00:18

こんばんは。



 1. 社会が フラットな世界であったら そうも考えられるでしょう。

 2. ところが いかんせん その言わば平屋建てではなく そうでは
 なく国の家は 二階建ての構造になっています。
 
 3. ということは じつにお二階さんの《公民圏》は たとえ市民社
 会としての一階から 優秀な人材を自由に募ってこの《一階 ‐ 二階》の
 関係について風通しをよくしているとしても それでも お上とも呼ば
 れるお二階さんは その統治権とそれにまつわるさまざまな既得権益を 
 ちょっとやそっとでは手放しはしないでしょう。
 
 4. ですから
 ★ 人それぞれ違う事を認める和の発想
 ☆ は 実際には お上の握る主導権に危害を及ぼさない範囲でみとめ
 られる《和》であると見るべきでしょう。

 5. 早い話が 《和を以って貴しと為し さからうこと無きを旨とせ
 よ》というその昔の憲法第一条は その二階にアマアガリした人間たち
 が 崇仏派として 排仏派のレッテルを貼った政敵のやからをころして
 権力をにぎった段階でみことのりされたものです。
  《権力はおれたちが握った。文句あっか》というようにベロを出して
 いる姿が にじみ出ています。そして 抹殺したのですから 《和》で
 も何でもない。

 6. この《和》のシルシを額につけて 手形として見せてのように社
 会のあちこちに設けられているかのような関所を通らなければ 社会で
 一人前としてはみとめられない。こういう仕組みが――じつに クウキ
 というからには 心の目にしか見えないかたちであたかも観念の運河を
 通行せねばならないかの様相を呈して―― 張り巡らされています。

 7. その証拠に 万人が同じコトを再現しうる科学については 強い
 としても 《人それぞれの違いを認める》というときの個性やその表現
 にかかわる文化科学については 貧弱です。つまり 違いを認め合う和
 は 実現されていない――のではないでしょうか?

  取りあえず ここまでとします。
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この回答へのお礼

なるほど自分達に都合のよ良いように和という物を考えたという事ですね

有難うございます

お礼日時:2015/11/15 00:15

よく似た思いを抱きますが、私の考えとは、一つだけ異なるところがあります。


「人それぞれ違うことを認める」ということに「和」を見出そうとするということですが、「通常、認めた途端、和は成立しなくなる」ということになります。幼い頃や共通の敵のような存在がいて「違うことが分からない」あるいは「意識しない」場合には、「和」が成立しています。違いを認識した途端に「仲間」と「仲間以外」という区分が発生し「からかい」や「いじめ」が生まれてきます。
個人的には、「違うことを認識し、認める」の先の一歩(いや、叶わぬ願い)が必要だと思っています。「越えるべき川・堀・壁は歴然として存在し、誰も越えることなどできないという認識」の次です。
そういうことを「知ってしまった・認知してしまった」後に、「たとえ越えることができなくても、越えたいと思い続ける」という「情」(叶わぬ願い)を抱き続けるということです。
このような思いは歌に綴られることが多いでしょう。
たとえば、天安門事件を題材にしたとされる中島みゆきの「EAST ASIA」(編曲:瀬尾一三・David Campbell)の歌詞に「でも心は帰りゆく 心はあの人のもと 山より高い壁が築きあげられても 柔らかな風は 笑って越えてゆく 力だけで 心まで縛れはしない」という一節がありますが、まさにそのような心境を表現していると思います。
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この回答へのお礼

その先の一歩を思い続けれる事が大切という事ですかね

私は人と違う事は認めたとしても緩やかな和はできると思っています

お礼日時:2015/11/15 12:55

"人それぞれ違う事を認める和の発想こそが"


    ↑
西洋哲学というのは、キリスト教に根ざしています。
キリスト教は一神教、という普遍的な宗教で
その対象は全人類です。
ユダヤ教がユダヤ人の為だけの宗教であったのを、
全人類にまで広げたのがキリスト教です。

だから、人それぞれでは、哲学にならないのです。

個々人を超えた普遍的な哲理を求めるのが
西洋哲学です。

例えば正義論です。

日本みたいな多神教社会では、時代や立場によって
正義の内容が変わることは当然です。

しかし、キリスト教に根ざす西洋哲学ではそれでは
困るのです。
個々人や時代を超えた正義概念を打ち立てる必要が
あるのです。

だから、何百年も、延々と正義論を繰り広げている
わけです。

人それぞれでは、議論する価値も、考える意味も
ありません。
普遍的なモノを、真摯に求めるから、そこに苦悩が
あり、考え抜く価値もあるのです。

だから、発狂する哲学者も出現するのです。




”もっとも、世の中的に優れている気がするのですがどうでしょうか?”
    ↑
何を持って、優れているとするかの、基準を示さないと
優劣など判断できません。

争いを防ぐ、という基準なら和が優れているでしょう。
しかし、
人類普遍の哲理、という観点からいえば、人それぞれは
最も劣った考え、ということになると思われます。

劣った、というよりも、そもそも評価にあたいしません。
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この回答へのお礼

人類の普遍的な価値観としても和という発想は優れている気はしています

お礼日時:2015/11/15 13:05

和の発想は素晴らしいですね。

キレイですし。
私は禅の発想も気になっています。
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この回答へのお礼

和の自他ともに共生していく考えは好きです

禅は自分の中にある右宇宙観を知るという事でしょうか?

もしかしたらその宇宙観と人々との共生は近いのかもしれません

お礼日時:2015/11/15 13:08

質問と寄せられた回答には、学ぶことが有りました。


普遍化とか個性化と云った事にまで関連させて考える事が出来ました。

hisasanさんの思う処の《和の精神》は、世の中的に優れているかどうか、と云う処にあると思います。
この「世の中的に優れている」と云う事に付いて別の表現をすれば「人それぞれが適度な自制心をもって、自由に生きることが出来る」と云う事になるでしょう。これは普遍化に対する個性化に当たると思います。

そして、このような「多様な世の中」を実現し《それを共有》するには《和の精神》が必要ではないかと云う問いかと思いました。

今の日本の社会を見て、それなりにこの《和の精神》は活かされているとした場合、この日本の社会の現実の是非を絡めて回答を寄せるのは、注意しなければならないと思います。

《和の精神》は、個性を受け入れると云う「普遍的精神(大地)」からの産物のように思えます。
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この回答へのお礼

そうですね複雑化する世の中にあってシンプルに大きく自分を生かしながらも、人と共生していく

和の精神は重要であると思います。また小さくなる世界にあっも これから

共生という意味で和の発想が大切になるのではないかなと思います

お礼日時:2015/11/15 13:13

№2です。



 8.★(№2お礼欄) なるほど自分達に都合のよ良いように和という物を
 考えたという事ですね
 ☆ 細かくなりますが お答えします。
  聖徳うまやどのみこたら何たらいう人間たち すなわち新興アマアガリし
 たお二階さんらは もともとの人びとの生活世界であった《一階》の市民社
 会に根づいていた《和》をパクッたわけです。
  (それは 二階がなかったときの平屋建ての社会における共生であり共同
 自治であったと考えられます)。

 9. 乱暴なほど簡略に述べますが 稲と鉄がもたらされ生産のチカラが増
 し生活に余剰が持てるようになった。そこで そもそも意識的に意図的にお
 のれの――かんばしくないと分かった上での――意志行為として 《むさぼ
 り》が起きた。

 10. モノの奪い合いが起き たたかいをするようになった。つまり和が
 乱された。
 (それ以前のけんかは 言わばアニミズムなどの原始心性が おれとお前と
 の未分化の状態でやっていた。のではないか。アフリカのブッシュマンのあ
 いだでは 戦争がないとか)。

 11. いわゆる貧富の差は 墓を掘り起こして副葬品の違いで分かるよう
 です。

 12. それでも この単純なケンカから互いのあいだのタタカヒにまで
 《発展》したとしても なおまだ人びとの目線は 互いに同じ水平の高さで
 あった。《二階目線》などはなかった。(シャーマンも 未分化の原始心性
 だったのではないか)。

 13. 集落は 周りに濠をめぐらし《敵》の襲撃にそなえるまでになって
 いたようですが そのムラムラはそれぞれ穫り入れに恵まれると 初穂を神
 々にささげマツリで――どんちゃん騒ぎをやりつつも――祝った。

 14. もうここで端折りますが このムラムラにおける――ケンカをしつ
 つの――《和》をどこか上の方から束ね(=ファッショ)寄せる《大和》へ
 の動きが現われたわけです。
  全国制覇大作戦であり これが社会に統一第二階をつくるアマアガリ現象
 でしょう。
  (アマアガリ現象とは 神のごとく如何なるものの下にも立つまいと堅く
 誓ってその《理念》を実現しようとする人間のあらたな心性でありシンドロ
 ームです)。

 15. 社会としての言わば《神だな》に上がってそこから ムラごとの和
 を統率してやるわいといったところでしょう。

 16. 曰く:和を以って貴しと為し さからふこと無きを旨とせよ。
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この回答へのお礼

そうですか、では私のいう和はその一階部分の日本にもともと根ざすもの

という事になりますね、質問自体をもともと日本古来の発想の和という考えは

普遍性の発想として捉えた場合、優れているのではないかと思う にした

方が良かったかもしれませんね!!

お礼日時:2015/11/15 13:18

№7です。

なお出しゃばります。

 17.★ (№7お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  質問自体をもともと日本古来の発想の和という考えは

  普遍性の発想として捉えた場合、優れているのではないかと思う にした

  方が良かったかもしれませんね!!
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この日本人の社会形成のチカラとかたちについて しるします。

 18. 特徴を二点挙げます。

  (あ) 時間的な存在としてのわれを自覚した《イリ歴史知性》であること

  (い) そのふつうの――自然本性としての――ヒトであることの知性から
    アマアガリ(早い話が 神懸かりです)したスーパー歴史知性が イリ
    歴史知性たちのムラに対して そこはおれたちの固有の領土だ 服属せ
    よと言って来たとき イリびとは 非戦論を採って《くにゆづり》をし
    たという言わば歴史と社会の原点

 19. 前項(あ)の《イリ歴史知性》については 次の図式化にゆだねます。:

  ○ 《知性》のあり方についての分類 

  -1:原始心性=《ヨリ(憑り)》:アニミスム&シャーマニスム
                  世界との未分化にして一体性。
                  寄り憑く状態が つねなるかたち。

  0 :歴史知性=《イリ(入り)》:世界の内への入り。
                 未分化状態を時間(生死)の自覚がやぶった。
                 《世界‐内‐存在》。

  +1:超歴史知性=《ヨセ(寄せ)》:世界の第二階(メタ・イリ)から
                《ヨリ》を束ね(ファッショ) 《イリ》をも 
                社会力学上(政治的に) 寄せる。

 20. (い)の《くにゆづり》についても 解説記事などにゆだねたいと思い
  ます。
  

 21. ただ一点。《和》というのは 神懸かりに近いアマアガリ・シンドロー
 ムに落ち入らず ふつうの歴史知性にとどまりつつ たがいに《ゆづりあひ》を
 生活の基礎とする生活共同であると考えられましょう。

 22. ユヅリアヒによる《互いの違いの認め合い》だと考えられ それはただ
 しそのとき 互いに自由に批評し批判しあうことを排除しない。と考えられるの
 ではないでしょうか。表現の自由として 当たり前のことですが。

 23. (上から張られた観念のクウキは この自由を――すでに人びとのあた
 まの中で それと知ることなく巧みにDNAによってのごとく――抑制するよう
 にはたらいていると見られるゆえです)。
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この回答へのお礼

いろんな知識 有難うございます(^^♪

お礼日時:2015/11/15 14:41

こんにちは hisasannnさん



聖徳太子の「憲法十七条」に始まる、「和を以て貴しとなす」ですね。
これは、孔子の「論語」と同じように、学識があり身分の高い人達に説いたことだと思います。
日本でも諸外国と同じように、争いは第二次世界大戦が終わるまで続いています。
この意味からしても、偉い人の意見には妥協しなさいという意味もあるのだと思います。
世界中の人が聖人になれば可能かもしれません。

そこで、私は戦後の「天皇人間宣言」が優れた思想であると考えます。
全ての人間は同じである。そして、「人の道」を心情として生きていく。
これならば、学識がなく身分が低い人でも自然と人として生きていけます。
誰もが「無知の知」を自覚して、話し合い、そして、考えて行動する。自分のできる範囲で社会に尽くしていく。

まづ、「人の道」を心情として、人間として生きていくという宣言です。
これを簡単な事だという人がいるならば、教えていただきたいです。
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この回答へのお礼

なかな人の道を実践していくのも覚悟がいりますね(^^♪

お礼日時:2015/11/15 17:53

>人それぞれ違う事を認める和の発想



和の文化は、個性や自由を認めない、集団主義第一の考えではないですか?長いものにはまかれろろとか、、、。

集団主義ですから、少しでも違う者を、仲間はずれにし、いじめ、、村八分にすることが、和の文化だと思っていましたが、、、。

違うんですかね?
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この回答へのお礼

小さく見ればそういう風に捉えられるものだと思いますが

もっと、大きく全体の和を考えたのなら、個人個人の違いを認めないと

なりたたない発想だと思います

お礼日時:2015/11/15 17:55

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