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私の住んでいる北陸は「真宗王国」といわれるほど真宗門徒が多いのですが、江戸時代に九州でこれを禁止していた藩があったと知って驚きました。
前田利家のように織田家家臣として一向一揆に手を焼いた経験を持つ武将ですら禁止しなかったのに、どのような理由で(教義のどの部分が問題かということも含め)禁教とされたのでしょうか?
なお、本日から出張しますので、お礼は来週になります。

A 回答 (4件)

人間は平等とといたからではありませんでしたか?古い記憶で確かではありません。



士農工商の身分制度とあわなかったのでは??
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この回答へのお礼

確かにそういった一面もあったのでしょうね。どうもありがとうございます。

お礼日時:2003/04/07 13:45

単純ですが「一向一揆を恐れたから」につきるでしょう。


長いですが論文を見つけました。

参考URL:http://niigata.cool.ne.jp/rouichi/seiji.htm
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この回答へのお礼

非常に参考になる論文でした。
どうもありがとうございます。

お礼日時:2003/04/07 13:46

定説のないところですが、あくまで私見として、やはりまず真宗の特異性が根本に挙げられるのではないかと思います。



ひとつは戒律の問題です。「肉食妻帯」の積極的な容認を行ってあからさまに戒律に違犯するばかりか、むしろそれを誇るかの如き真宗の所行は、特に体制の側からはあまり穏やかに見ることのできない存在であったでしょう。

これについては、真宗の教義というかあり方の変質にも触れないといけません。
当初の親鸞から恐らく蓮如の頃までは、真宗の主たる社会的基盤は、猟師など生活のために殺生をせざるを得ない人びと、つまり一種の社会的抑圧下にある人々によって成っていました。歎異抄や蓮如の御文にもあるように、殺生というあさましい罪業に身を沈める「下類」の人々をすらもらさず救う阿弥陀仏の本願をひとえに信じようとする真宗のもともとの辺縁性、異端性は、本質的なアウトサイダーとして、それなりに大きな社会的救済の意義を持っていたわけです。

しかし、この異端性も変質を迎えます。詳説はしませんが、江戸時代の例えば知空「肉食妻帯弁」の中では、肉食は浄肉を食べることであり、妻帯も一人の妻で満足することだ、といったレトリックが弄されるようになります。親鸞が自己犠牲のために凡夫に身をおとして妻をめとった、といった一種の伝説化がなされ始めるのもこの頃でしょう。

結果、他宗から受けていた戒律違犯の非難をむしろ逆手にとって逆転させることで、真宗の独自性とその救済の確かさをアピールするような言辞が続々と生まれてくるのです。ここではむしろ体制の中でのアウトサイダーが気取られているとも言えるわけで、親鸞や蓮如が「猟すなどり」に明け暮れざるを得ない下類の民に及ぼした目線は消えてしまっています。

ただでさえ、周知のように江戸時代前期は色々な意味で体制への順応が進んだ時期でもあります。例えば、「いつでもどこでも死ねる」といった本来の戦びととしての武士たちがもっていたカブキ者的心性が、殉死がご法度とされる中でゆるやかに弾圧され、やがて「武士道」という文化のスタイルに変質を遂げたように、真宗も体制の中で戒律違犯をスタイルに変えてしまったのです。
要は、江戸時代において、真宗の戒律違犯は社会的機能の意味のウェイトを失い、むしろ自己目的化していったと言えるわけで、これを単純に外から見れば仏教とは名ばかりの堕落した不埒な存在と映ったことでしょう。

また、即得往生の信念から追善供養に冷淡であった真宗の独自性も、大きな批判の材料になったことでしょう。
インドの仏教は追善供養を行うものではありません。しかし日本では自然崇拝や先祖崇拝、神仏習合の複合的影響を受けて、死後荒れすさびがちなホトケが長年にわたる子孫の追善供養を受けることでもって穏やかなホトケになり、やがて家や地域に恩寵をもたらす柔和な先祖神、氏神に変質すると信じられました。
柳田國男の言うように、ホトケと神は相即関係にあるのであって、その間の関係を然るべくとりもつのが日本式な正しい仏教だと考えられました。また、この供養は子孫の先祖への孝養として儒教的なイエ観念の中に位置付けられたために、先祖供養をきちんと行うことは家長の責任であり美徳であるという観念が一般化したのです。

このあたりの事情が#2のご回答の参考資料にもある、神・儒・仏の「三教一致」という考え方の根本です。島津氏が他の大名にも増してこの三教一致を重視したとすれば、真宗の姿は孝養をないがしろにし、神を軽んじるもので、仏教徒と呼べないばかりか人にもあらざるような印象すら与えたことでしょう。まさしく「父母を軽んじ神仏に疎ずる者、人間の作法にあらず」ということになります。

よく言われるように、スパイの怨恨だとか、一揆を恐れたことも禁制の遠因になったのでしょう。また後代には、本願寺に資金を吸い上げられることへの危機感もやはりあったのだと思いますが、やはり島津氏の根本には真宗のあり方への違和感が拭いがたく横たわっていて、これが他の原因と複合することで定期的な弾圧に至ったのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

毎回、広い視点からご教示をいただき、本当に助かります。「真宗門徒にあらざれば人にあらず」は大げさとしても、正直言って北陸地方では大多数の人が真宗門徒であるため、他宗派と聞くと少しひいてしまいます。私の疑問もそこから生じたものですが、教義的な問題点がよく分かりました。
どうもありがとうございました。

お礼日時:2003/04/07 14:05

そのものずばりの参考URLです。


九州は浄土真宗が武士階級に浸透していなかったから
禁止できたし、加賀の国では武士階級にまで浸透していなかったから禁止できなかったのでしょう。
特に、三河の国では重臣といわれる要の家臣でも信心していたので、一揆には相当手こずったようです。
百姓でも国の政治に参加できるという思想が武士には
我慢できる人とそうは思わない人がいて、武士階級の領主や国主はそれを危険思想とみたのでしょう。
しかし、百姓は平和な時は農作物をつくり、みんなのためになりますが、武士は平和なときは、ただの無駄飯食いかやくざにしかすぎないことに気づかれたくなかったのでしょう。

参考URL:http://www.kagoshimakenjinkai.ne.jp/motto/chiran …
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
確かに加賀藩前田家の重心たちは、越前などで一向一揆に手を焼いた経験があり、それだけに真宗に帰依することはなかったようです。

お礼日時:2003/04/07 14:50

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