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よく自由という言葉を使いますが、最近の世の中ではいろいろな自由を選択することができると思います。

その自由というものは一体何だと思いますか?
イメージで言うと、圧迫から開放されるとか、自分らしくいられること、マイナスイメージとしては自分勝手とかアウトローとかです。

例えば、喫煙をすることは自由です。好きでタバコを吸う人はそれで自由です。
しかし止めたくても禁煙できない人はタバコに対してかなり不自由な人です。
禁煙を成功した人はタバコに対して自由を勝ち取りました。

好きな人ができました。恋愛は自由です。
でも、その恋愛にのめりこみ過ぎてしまった。それが望みなら自由ですが、恋愛へののめりこみが自分で抑えられなくなったら不自由です。

最近ホームレスのギャルの漫画家がいますが、仕方なく選んだホームレスの道は不自由ですが、自らそれを望んで選びとった彼女はとても自由です。

自由と不自由の境って、人の心によるものが多いと思います。
皆さんは、どう考えるでしょう。

A 回答 (8件)

人の心は、脳の思考に、自我に支配されて、自由はありません。

人の心の本性は、無我です。人は、脳が自我が、自分だという錯覚を起こしています。だから人が、脳を自我を分離した時が、本当の自由です。マヤ暦では2012年に、この世界が終わるそうです。この世界は、仮の世界なので、始めと終わりがあり、世界が終わると、仕切り直しになり、それぞれ元の世界へ帰ります。だから人の心は、自我と無我に解体されて、脳は自我は脳の世界へ、人は、神の子なので神の世界へ帰ります。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
新しい切り口で面白い考えですね。
宗教的な解釈でしょうか。
人の心は自我に支配されている。ということはもともと人の心は不自由なものなのですね。

世界が終わってからやっと人の心が自由を得られるのですか。
人の心は自由なのだと苦しんでるよりも、もともと不自由なものだと受け入れられたら、それはそれで楽なのかもしれませんね。

お礼日時:2009/07/20 21:27

 No.7です。



 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 心の動きはともかく、自由というのは意思決定、行動がともなっているのものなのでしょうか。

 でも、世の中みんなが自由に生きていたら、世の中おかしくなるでしょう。
 社会全体から自由というものを見ていくのも必要なのかなと思います。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《行動》をともなうものを一般に意志決定における自由(その判断と選択)だと言う意味は 言いかえると 
 ○ 社会的な共生
 ☆ になります。また自由な選択判断ということは
 ○ 双方の同意・合意を取りつけること
 ☆ を意味します。

 結論づけるなら
 ○ 合意を取りつけるには 《ゆづり合い》に行き着く
 ☆ と考えて間違いないでしょう。これが
 ★ 社会全体から自由というものを見ていく
 ☆ ことの実践になります。
 ★ 不自由だとか自由のパラドックス
 ☆ というのは敗北主義ですよ。
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この回答へのお礼

再度、ご回答ありがとうございます。

合意を取りつけるには 《ゆづり合い》に行き着く
と考えて間違いないでしょう。これが
社会全体から自由というものを見ていく
ことの実践になります。

その通りだと思います。
日本は自由な国なので、それぞれが自由に生きていくには譲りあいがなくては始まりません。

私自身、自由か不自由かは心の問題としてずっと捉えておりました。
回答者様のような意見があったのは、とても参考になりました。

お礼日時:2009/07/20 22:33

 こんにちは。



 ★ 自由
 ☆ とは ひとにそなわった意志の自由な選択行為を言うと思います。
 ひとを好きになることは勝手気ままなこころの動きです。気持ちあるいは心理と言います。
 この気持ちが 相手のことを知るにつれ もし確かなものになってきたら 意志は交際を申し込もうかどうかを判断します。
 する・しない・見守るのいづれをえらぶのも 自由だというふうに使います。
 仮りに申し込んだとしましょう。相手が 受け容れる・拒む・時間をくださいのいづれかで答えるのも 自由です。
 
 もし仮りに交際が始まったとします。途中で ここは好き そこは嫌いというふうにいろんな心理の動きが起きて来ます。これは きちんとした言い方をすれば 意志の決定としての自由にはかかわっていません。
 そのような気持ちの上がり下がりを経て どちらからにせよ結婚を申し込むとします。これも意志による自由な選択判断の問題になります。
 いづれの選択を採るにしろ そのときの決定は 自由であるなら その実行もともなっているというのが ふつうです。

 このふつうというのは 論証しなくても妥当性があることだと一般に見なされているという意味です。公理と言います。
 公理として 意志決定の自由が認められているということになります。
 そしてこの――相対的な世界において経験的に時間的に生きるところの――人間にとっての自由は いまの公理としての自由を侵す自由(?)をも許容しているものです。
 不自由なことをひとに押しつけるという自由(?)も 人間世界にはゆるされています。むろん 公理にもとづいてその不自由から自由の世界へと解放するという動きも ふつうの思惟とおこないとして 人びとは思っています。

 タバコを吸うのは ひとの自由か。公共の場で吸うのはどうか。喫煙を嫌うことも自由な選択に属するか。
 ホームレスになるのは ひとの自由か。社会全体から見て 就職・起業の余地がないに等しいという情況においては どうか。ホームレスを助ける自由は どうか。あるのか。ないのか。
 具体的なことがらについての選択判断は とくに社会全体にかかわる場合には その地域や時代によってもその決定内容が変わってくることもあるでしょうし 同じ地域と時代にあっても 人びと互いの考えをまとめて判断することになると思います。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 自由と不自由の境って、人の心によるものが多いと思います。
 皆さんは、どう考えるでしょう。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ここでおっしゃるところの《こころ》について 気持ちや心理ではなく そうではなく 意志としての・一般に行為をともなう選択判断だと考えます。自分ひとりだけにかかわる事柄であれば どちらでもいいのでしょうね。 
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
心の動きはともかく、自由というのは意思決定、行動がともなっているのものなのでしょうか。

でも、世の中みんなが自由に生きていたら、世の中おかしくなるでしょう。
社会全体から自由というものを見ていくのも必要なのかなと思います。

お礼日時:2009/07/20 21:44

 ○○への自由。


 ○○からの自由。
 そういう中での歴史的社会的内容を持つ、保障です。
 完璧に思弁と観念では矛盾とパラドックスの様相しか在りません。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

完璧に思弁と観念では矛盾とパラドックスの様相しか在りません。
その通りです。
私も同じような考えにたどり着きました。

お礼日時:2009/07/20 21:04

自由イコール自己責任です。

だから喫煙者のように苦しむのです。未成年のようにタバコ吸っちゃいかんと怒られているほうが楽なのです。自由を与えられた瞬間から苦しみが始まるのです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

自由を与えられた瞬間から苦しみが始まる。確かにその通りですね。
先ほど、下の方の回答には不自由の中にあって自由を感じることができるとありました。

やはり自由はパラドックスですね。

お礼日時:2009/07/20 21:00

たばこをやめたくてもやめられないというのは、たばこに火を付ける


直前はやめたくないあるいは吸いたいと感じているから火を付けるのであって、それは自由なんだと思いますね。

吸った後になって吸わなければよかったと後悔する。

たばこをやめるという正しさから全体として不自由とするか、他から干渉を受けず未だたばこを吸う自由が確保されているとするかは、事態ををみる方向によって変化します。

したがって、観る方向異なるのですから、その方向からはいずれの意見も正しいと言えるわけで、観る方向がハッキリ認識されていれば、その自由を選択する自由の理由を理解しているといえるのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
そうですね。
自由、不自由に無理やり境をつけようとするのもどうだったかなと思います。

自分から見てこの人はこういう理由で不自由だと決め付けるのはやめようと思います。
その人が自由を選ぼうが不自由を選ぼうが、どっちを選択してもやはり本人が決める自由なのですから。

お礼日時:2009/07/20 20:55

おっしゃる通りだと思います。


アインシュタインが残した言葉ですけれど、「人間の価値はその人がどれくらい自分自身から解放されているかによって決まる」ということを言っています。
仏陀も同様の趣旨の言葉をのこしていますね。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
アインシュタインの言葉、知らなかったのですが、参考にさせていただきます。

人間は自由といいながら、自分の意思の自由には行動できないので、そこからどれだけ解放されるかという解釈でよろしいでしょうか?

お礼日時:2009/07/20 20:46

自由はパラドックスです。


自由ではない=不自由の状態にしか発生しない。
管理者がいて、不自由の中に一部与えるのが自由。

不自由な生活の中に余裕ができた時だけ、自由を感じることができます。
完全なる自由は、誰も干渉しない&できない所に発生するので、他人と比較できずに誰も自由と気づけないのです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
全くその通りです。
自由はやはりパラドックスですね。
不自由な中に自由があり、自由の中にも不自由があるのかと思います。

お礼日時:2009/07/20 20:39

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